ぶくまで見かけて、そして全体象は皆目わからないのだけど。

 ⇒宮台真司/東浩紀@シカゴ 2009-03-31 - 日記&ノート(転叫院)
 最初にお断りすると、宮台真司・東浩紀には私はもう関心ないです、単純に。
 でちょっと気になったというか、別に反論とかではないけど。

アメリカで過ごしていて、アメリカ人や他のナショナリティに属する人の話を聞くたびに、僕は現代日本の人々ほど、いわばサルトルが言ったような「自由の刑に処せられて」いる人たち、選択の自由と自己決定の義務に晒されている人たちはいないんじゃないかという感覚に捉われる。何も根拠はないけれど文化様式を選択しなくてはならないのだ。

 そういう感覚もあるだろうし、そういう視点もあるのだろうと思う。
 ただ、私というか、結果的にこの年こいてしまったその日本の安逸な時代を生きてみて思うのは、たぶん、オウム事件のころに転機があったのだろうと思うけど、なんというか、リアリティというのが喪失した状態じゃないかなと。
 ドブのない町並みで、ドブ板を巡らない松下塾出の政治屋みたいな。
 あるいは昨日の⇒ぶくまで見かけたのだけど - finalventの日記
 ではないけど、昭和の普通の光景、というか、感覚的に言えば、臭い世界というか。
 あるいは70年代エロ映画の、肉体への乾きのような感覚というか。
 もちろん、それらがリアリティではないのだろうけど、なんというか、人間が体臭を放ちながら押し込められて欲望していた世界のようなものがあった。し、メディアの幻影というのはそれに見合ったまさに幻影だった。
 ボードリヤールがハイパーシミレーションはリアリティであると言ったあたりから、リアリティはハイパーシミレーションになってしまったというか。
 たとえば、偽科学でも、陰謀論でも、いちおう形の上ではまるで歌舞伎のように真実と言説の虚構があって、そして真実へ自分が加担することで実際には他者を排除するコミュというか、まさに元リンクにあるような所属がゲーム化される。
 しかし、この例でいうなら、おそらく偽科学も陰謀論もただのハイパーシミレーションであり、ゆえにただのリアリティでしかない。これは相対主義というのではなく、実際には、所属コミュないし、信奉するイデオロギーあるいは美感、といった、そういう仮託された自己のラベルがまさに自己でしかありえないようなリアリティの世界なんだろうと思う。
 その意味で、そこには、自由なってものはなにもないんじゃないかと思う。というか、そおらく、この幻影には自由はないよと、団塊世代より上の人々は感じているし、そういう世界を生きていた。もちろん、それもまた、知的に、言語的に構成されるし、日本のコンテクストでいえば敗戦と冷戦が生み出した被支配の物語だった。

cover
もう頬づえはつかない [DVD]: 東陽一, 桃井かおり, 奥田瑛二, 森本レオ: DVD
 「もう頬づえはつかない」の映画のほうだが、奥田瑛二扮する男が女に捨てられて泣き崩れるシーンがある。あのどうしようもない屈辱感のようなものを、あの時代の男たち、つまりは私の世代だが、は、どうしても抱えていかなくてはならなかった。非モテとかいうような言葉も文脈もなかった。ただ、屈辱は体臭のするリアリティでもあったが、そこにそれが映像化するなかでなにかがすでに失われようとしていたし、全共闘世代が終わった私の世代ではすでにそれらの虚構化は始まっていた。
cover
純 [DVD]: 横山博人, 江藤潤, 朝加真由美, 江波杏子, 花柳幻舟: DVD
 その虚構化と、おそらく現代の若い世代が「自由の刑に処せられて」とあたかも見えるような、欲望とメディアの幻影の乖離の、まさにその乖離の瞬間を捉えたのが、「純」だと思う。
 ここで江藤潤扮する純という青年(まさに「純」という命名がシンボリックだが)、朝加真由美扮する女を恋しながらその肉体に関わることができず、痴漢になっていく。この痴漢だが、映像を見るとわかるのだが、痴漢という肉体的なものではなく、まさに映像そのものの幻影が描かれ、そしてその映像の向こうにあるのは、花柳幻舟に比喩される70年代的なエロとそしてあえて言えば身体的な政治の陶酔からの隔離の感覚だった。朝加真由美扮する女はすでに欲情して純に迫り、そして純はそれに打ち砕かれていく。泣き崩れていくといってもいいかもしれない。あそこから逃れたいという希求が、おそらく、その後のフィギュアだの二次元を生み出していくだろうし、そこにメディアは逃亡地を与えた。
 「自由の刑に処せられて」と見えるのは、比喩的にいうなら、子をはらむかもしれない生理の臭いを漂わせた女という肉体のリアリティからの逃亡の成功であり、逃亡し終えた、肉体というリアリティを失った世界だろう。
 おそらく女もそこで同じように肉体と欲情を失い、それはたぶん、やはりオウム事件が暗喩していると思う。あの事件は、女の事件だったのだと私は思う。
 そこから女たちは、男に逃げるか、あるいは、男と同様にメディアに逃げるか、オカルトに逃げるしかなかった。
 生は過酷で、血と糞にまみれている。いやスカトロではないというか、あのお変態の天国はそれはまた違ったものだろうが、もっといえば、赤ん坊の泣き声に満ちたどろどろとした世界だ。その中に、もういちど入って生き返るのだというのが、案外、「真夜中の弥次さん喜多さん」のテーマだっただろう。こちらは映画ではなく。
cover
合本 真夜中の弥次さん喜多さん: しりあがり 寿
 ぎりぎりのところで、しりあがりは、わかりやすい神話的な構図を描き、それゆえに批評家たちに絶賛されるという不幸に陥った。
 しかし、本当はそこで問われていたのは、あのどろりとした、血と糞と赤ん坊の泣き声に満ちたリアリティだっただろうし、泣き崩れた男が、どうリアルに立ち上がるかというテーマだったのだろうと思う。
 そして、そうした課題のすべてがたぶん、この数年で、本当に消えた。