人に向かって自意識過剰だなと思ったことはあるが言ったことはないように思う

 単純に言うと、他者に向かって、おまえは自意識過剰だと、言えるほどの自意識をもってないというか。
 というか、書かれた自意識というのは、言うまでもないことだが、読まれうる視線のなかの総合として出てくる。だから、書かれたものがそのまま自意識であるということは前提としてありえないのだが、そのあたりをふつうに理解している人は少ないかと思う←こういう感想が自意識過剰に見えるのでしょうけど。
 いわゆる作家というのは、社会システムを介して、読まれうる視線を了解し、その了解を社会責務とし、さらに労働の対価としている存在。
 それでも、職業作家でもどう読まれるかでその自意識には大きなプレッシャーがあり、簡単にいえば、ふつうの人はそこで潰れるようにできている。そこで生き残る職業作家の自意識というのはもう運命というか不幸としかいいえないものであり、その必然性だけが社会的に是認されるものだろう。作家に必要なのは才能ではなく不幸。
 例でひいては失礼かもだが、noon75さんは、私もよく出会ったけど、ふつうに帰国子女というか外人の自意識ですよ。その関心分野が文学とか女(性)だったりするので、ちょっとアレげなトーンを持つし、ご本人も遊びのご自覚があるでしょうし。なので、自意識の表出というのはちょっと違うでしょう。
 話をちと戻すと、ブログというのは、やっているとわかるけど、どれだけ読まれているかわかる。で、この読まれうる数で、単純にいうと、きちんと書き手の自意識はつぶれるようにできている仕組みだ。いかに書き手の自意識をつぶすかという点では、よくできたシステムがブログだと言っていい。(もうちょっというとネット自体がそうだと思うので、オーマイニュースは自然に自滅すると思う。)
 潰れないためには、自意識の確立よりも妥協とかが必要になる。強固に自意識側に引きつければそれだけ潰れやすくなるし、そういうのをうまくつぶす才能の持ち主みたいな人というかプロだね、プロがいるものだ。ある程度のビューがでれば潰し屋のプロみたいのに向き合うことになるし、またそういう扇動に従属する勢力も磁場みたいに発生する。これはそういう仕組みなんだからしかたがない。
 あるビュー以上で潰れてないブログとかがあれば、その自意識とやらはすでに読み手の側との統合というか妥協なんですよ。どのように妥協したかというという妥協をいわゆる自意識のなかにフィードバックさせるかどうかで、潰し屋を浮かせるように自意識はずしみたいにしていくしかないというか、結果そうなる。
 人気ブログを書く法みたいのがいろいろでるけど、人気が出たブログは大半は潰れる運命にあるし、そういうもの。でなければ、潰れない支えがあるわけで、それはそれというだけのことなのでブログである必要はない。