遠いかすかなリーチ

 ⇒黒崎夜話: 道具とその弟子

例えば新聞の社説を並べ、やや引いた立場からコメントをつける。
それによって、ある種の知の形が網羅できるとする手法もあるが、畢竟これは高等床屋談義であるのだと、ご本人も自覚されているかのようである。
批評する人生。
それによってナニをしたいかというと、それもすぐには見えてはこない。
何がしたい訳でもない。俺はここにいる。
ということを、今の技術を使って日々確認しているだけかも知れない。

 このfinalventの日記がまさに「例えば新聞の社説を並べ、やや引いた立場からコメントをつける」なわけで、そして、「畢竟これは高等床屋談義であるのだと、ご本人も自覚されている」も同。
 で、「俺はここにいる」を私は言うがためにしているかといと、まあ、そう見られるにどうぞどうぞ。
 私としては、遠いかすかなリーチを信じている。
 小さく声をあげよう。
 大きく声を上げるのではなく。もうちょっと言うと、「正しいこと」を大声で言うのをやめたいなと思っている、と、このあたりはうまく言ってないかもだが。
 遠い人に届く声は小さい声ではないかと思う。
 以前も書いたけど、愛の本質は隠れることだ。人の思いはなぜか隠れる。隠れたところに届く言葉は小さい。
追記
 ⇒黒崎夜話: 傍観者たち

黒崎@傍観者たち
 
遠くから小さな声を出し続けることが大事だとおもいます。
人間らしくいたいから。
隠れることが愛ダカラ。
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美しいっす。大人の含羞っす。
ひとごとっす。

 ま。
 私は、たとえばダルフールで人が虐殺(ジェノサイド)されていくのを人ごとだと思わない。
 ただ、私は自分が小さいと思う。
 自分の小ささに見合うことしかできないと思う。
 そして私は自分を愚かだと思う。
 愚かさに大きく掬われない程度のことしかできないと思う。