リフレ政策とトリクルダウン理論について

「トリクルダウン理論」はそれなりに名前を知られている理論ではあるが、意外と内容は知られていないもののようでもある。 その簡単な説明をwikipediaから引用すると

トリクルダウン理論(トリクルダウンりろん、trickle-down theory)とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する」とする政治思想である。トリクルダウン仮説ともいう。現状では、マクロレベルでのパイの拡大が、貧困層の経済状況を改善につながることを裏付ける有力な研究は存在しないとされている。

「トリクルダウン(trickle down)」という表現は「徐々に流れ落ちる」という意味で、大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる」とする仮説である。主に小さな政府政策の推進、新自由主義政策などの中で主張される。また「金持ちを儲けさせれば貧乏人もおこぼれに与れる」と主張することから、「おこぼれ経済」とも揶揄される。

所得税や法人税の最高税率引き下げなど、主に大企業や富裕層が己の既得権益の擁護・増大を求める理論武装として持ち出されている。

ということになる。 


先日のエントリーでは「黒田日銀の異次元緩和の波及ルートはいよいよトリクルダウンルートに絞られてきた」と述べたが、現時点においてリフレ政策の実施で直接的に「富」を得ているのは所有資産の価格が上昇した資産家か円安によって収益増を果たした輸出企業であり、主要な波及ルートがこの二つを経由したものである以上、リフレ政策が「国民全体の利益となる」ルートは「トリクルダウン」ルートだという事にならざる得ない。

ただ、「トリクルダウン」ルートも簡単に達成できるわけではなく、国民全体の利益にまで繋げる為には資産家が所得効果で消費を増やしたり輸出企業が設備投資をしたりして景気が活性化し、その結果として労働市場がタイトになって失業者が減り賃金が上昇し、更にその結果として消費が増えて更に企業が儲かるようになるというようなサイクルが回り出す必要がある。


ちなみに先日のエントリーに対して、「堅調な1-3月の個人消費もトリクルダウンなわけかw どこからのトリクルなんだろ」というようなコメントを頂いたが、恐らくは「富の流れ」と「キャッシュの流れ」を混同している。

そもそも消費が堅調なのと「トリクルダウン」とは直接的には関係ない。 
敢えて言えば消費を増やした人が所有資産の価格上昇に気を良くした富裕層であったのなら、「トリクルダウン」ルートがワンステップ進んだと言えなくはないが、その場合でも富裕層から企業へとキャッシュが動いただけで「トリクルダウン」したとは言えない。 もし消費を増やしたのが、単に景況感がよくなって浮かれた人だったり、或いはインフレが上昇する前に耐久消費財を買おうとした人だったりしてもそれは同じであり、消費が増えれば企業は収益増となる(=「富」を得る)だろうが、その事は「富」が国民全体に浸透していくかどうかとは別問題である。

同じコメント欄で上記の「どこからのトリクルなんだろ」に対して「将来の自分の所得からのトリクル」とコメントされている方がいたが、脳内ではともかく現実には賃金が増えていない中での消費増は「将来の自分の所得からの前借り」でしかない。 つまり資産価格上昇で「富」を得た人と将来の自分から前借りしただけの人が消費を増やして企業(=株主)が「富」を得ているという構図に過ぎない訳である。


もっと意味が分からないのが「既に設備投資が増え始めている」というような批判?であり、それは「トリクルダウン」理論が主張するルートそのものとしか言いようがない。 wikipediaよりもう少し引用すると

トリクルダウン理論に対しては、次のような批判がしばしばなされている。すなわち、トリクルダウン理論の考え方によれば、「投資の活性化により、経済全体のパイが拡大すれば、低所得層に対する配分も改善する」となるはずである。しかし、現実にはパイの拡大が見られても、それは配分の改善を伴わず、国民全体の利益としては実現されない。つまりは「富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる」はずであったものが、一部の富裕層の所得の改善を持って「経済は回復した」ということにすりかえられているに過ぎない、というものである。

という事であり、「投資の活性化」はリフレ政策が「トリクルダウン」ルートを通じて国民全体の利益となる為の必要条件の一つではあるかもしれないがそれだけでは全く十分ではない。


当たり前のことであるが富裕層や企業に集まった「富」は基本的には消費やら投資やらではなく実質賃金の上昇によってしか広く国民に行きわたることはない。 仮に日本経済が5%の名目成長を達成するとして、インフレ率が3%、実質成長が2%だとすると、もし殆どの労働者の平均賃金の伸びが3%以下であったなら、実質成長の恩恵は殆ど企業(=株主)に持って行かれたことになってしまう。 そのような状態では到底「富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益と」なったとは言えないだろう。


又、「トリクルダウン」の問題は「格差」の問題として議論されることが多いが、政策の実効性という観点からみれば本当に重要な点は、富裕層と企業だけに「富」が集まりかつ十分にトリクルダウンしないような政策は自律的な景気回復には繋がらないということだと筆者は考えている。


たとえば経済が不況の時にピラミッド建設でも地球防衛軍設立でもなんでもいいが、とにかく政府が景気対策目的である企業に100億円の発注をしたとする。 その企業が雇用を増やして労働市場をタイトにすることによって賃金が上昇し、更にその結果として消費も増えて、このプロジェクトが無くなった後も景気が自律的に回復していく軌道にのり、更に税収まで増えて元もとれる、というようになれば理想的であるが、企業がその殆どを利益として配当してしまい、それを受け取った株主が単に資産をその分だけ上積みしていくと、景気の自律回復には殆ど貢献せず、単に国の借金と富裕層の資産が増え続けるだけとなる。

さらに言えば、企業がちゃんと雇用を増やしたとしてもそれが自律的な景気回復に繋がるという保証はどこにもない。 その場合、政府が毎年ピラミッドを発注し続けている限りは一定の雇用が生み出され続けるしある程度は景気の下支えになるだろうがそれをもって政策が成功したとは全く言えない。 そのような一時的な底上げ効果は政策をやめればすぐに途切れてしまう。 現実問題として、景気対策を打ち切っても自律回復を続けられるような状態にまで持っていけないなら対策費用がどんどんかさみ続けることになるわけで、やがて破綻してもっとひどい状態に陥りかねない。 

つまり政策の実効性という観点から見て本当に問題なのはその政策を打ち切っても自律的な景気回復軌道に乗れるだけの波及効果が起こるかどうかだという事になる。 それがきちんと起こるのなら、「トリクルダウン」頼みで、格差の拡大が伴っていたとしても直ちにその政策が間違いとは言えないだろう。


ただ、ここでもう一つ問題なのは自律的な景気回復ルートに乗る前に、スパイラル的な資産価格の上昇ルートに乗ってしまう=バブルに踏み出してしまう可能性があることである。 こちらのルートに乗った場合、トリクルダウンが十分でなくても資産価格が上昇し続けるという原動力が働きつづける限り、表面上は自律的な景気回復ルートに乗ったかのように見える。 失業者だって減るし、内需だって増える。 しかしバブルを原動力とした景気回復はいつか破綻し、膨大な負の遺産を残すことになる。


ちなみに筆者が以前からリフレ政策の行く末の一例と考えている米国におけるITバブル崩壊から住宅バブル崩壊までの経緯はこのパターンに嵌っている。

ITバブル崩壊後、グリーンスパン議長は果敢な金融緩和で経済を速やかに立て直したとされているが、この景気拡張期に所得を増やしたのはごくごく一部だけで上位から5%相当の人の所得ですらほとんど増えていなかった(参照)。 ではどうやって曲がりなりにも失業率の低下や内需の拡大と言った景気回復が成し遂げられたのかと言えば、資産価格上昇による資産効果もあるだろうが、より大きいのは政府部門と民間部門が莫大に負債を増やしながら経済を支えたからだろう。特にホームエクイティローンのような仕組みは「将来の自分の所得からの前借り」を容易にし、結果として低所得者層に大きな負債を負わせることになった。そして同期間、企業(=株主)は逆に「資産(富)」を増やしまくったわけである。  

それでもバブルの最中は住宅価格が上昇し続けていた為、低所得者層もその恩恵を受けていると感じていたのだろうが、その幻想は住宅バブル崩壊で消し飛び、多額の借金が残って多くの人がその住宅すら失うことになった。 こちらの記事(参照)によれば住宅バブル崩壊後、白人世帯の資産は黒人世帯の22倍に達し、人種間の格差がリーマン・ショックに伴う経済危機前の倍近くに拡大したらしい。 目先の経済環境の改善をあまりに志向し過ぎると、長期的に見れば大惨事を引き起こすという一例であろう。

当時、理事としてグリーンスパン体制を支えていたバーナンキがFRB議長としてまたまた金融緩和による景気回復を主導し、グリーンスパンプットに引き続きバーナンキプットまで繰り出している現状は運転手が事故歴有の大型バスに乗らされているようなもので筆者としては不安を感じざる得ない。


リフレ政策を含むアベノミクスを推進している安倍総理や麻生財務大臣がいわゆる「トリクルダウン理論」を完全に信じているかといえば、恐らくはそうではない。 もし単純に信じきっているとすればわざわざ「賃金の引き上げ」を要請して回ったりする必要はないわけであり、ああいった要請をしてまわっていること自体、「トリクルダウン理論」を完全に信じてはいないが、「トリクルダウン」無しでは本格的な景気回復は難しいと考えている証拠なのではないだろうか。 


[追記]
少し前に「リフレはトリクルダウンではありません。」という記事がはてなのhotentryに載っていたが、正直ロジックがよく分からない。


例えば「クルーグマンがトリクルダウンを否定しており、日本のリフレ派はクルーグマンに同調しているからリフレはトリクルダウンではない」みたいな話が書いてあるわけだが、クルーグマンの記事からの引用文中にある「過去二年間、企業の利益は空高く舞い上がったが、依然として失業率は悲惨なまでに高いままである(Over the last two years profits have soared while unemployment has remained disastrously high.) 」という状況こそがクルーグマンに並んでリフレ派が信望しているバーナンキ議長の金融緩和で引き起こされた現実であり、むしろトリクルダウンがうまく機能していないという事を示しているに過ぎない(そしてクルーグマンはその状況下で更に企業優遇を加速させるような共和党の政策案を攻撃している)。


では、そもそもトリクルダウンではないルートとして何を想定しているのかと言えば

マイルドインフレになるということは私たちの勤める企業の利益が上がるということであり、大金を寝かせている金持ちに不利になるということであり、不利になるからこそお金持ちたちが株式や不動産への投資をしたり、企業が生産を高めて利益を確保するための設備投資をしたり、あるいは新事業を起こしたりということを通じて経済を活性化をさせるのです。

ということらしい。要は「リフレ政策はトリクルダウンではなく、企業が利益を上げて更に設備投資したり、お金持ちが株式や不動産への投資をしたりして経済を活性化させる事を促す政策だ」というもので、別に悪いわけではないけどこれって企業とお金持ちが富を増やす過程を通じて経済を活性化させるところまでしかフォローされておらず、

すなわち、トリクルダウン理論の考え方によれば、「投資の活性化により、経済全体のパイが拡大すれば、低所得層に対する配分も改善する」となるはずである。

ということが前提としてあるようにしか見えないのだが、、、