「捕虜とゴボウ」続報

ちょっといま現在アクチュアルな問題からは離れてしまうが、昨年取り上げて多くの方からコメントや情報提供をいただいた(特にid:bat99さんが日本軍による捕虜虐待と戦後の戦犯裁判についていくつもエントリを書いておられます)、旧日本軍の捕虜となった連合国軍兵士の食事の問題、特にシンボルとしてのゴボウの問題について。
『季刊 戦争責任研究』の第22号、23号、26号に中尾知代氏(オーラルヒストリー)が「戦争捕虜問題の比較文化的考察(上)(中)(下)」を投稿しておられる。この問題に関心のある方はぜひご参照いただきたいのだが*1、その(上)にゴボウについての言及が。

 一方、日本において「食」問題は、戦争の虐待問題を全て異文化摩擦と誤解の問題に還元して考えさせる役割を担った。例えば、『朝日新聞』の「地球食材の旅」では、「救いの食物木の根と誤解も」というタイトルで、長野県下伊那郡天竜村の満島俘虜収容所で、監視員が努力して与えた牛蒡が、BC級戦犯において、木の根を食べさせたと語られた例を調べ、食材への意識の差異を考察している。しかし同時に捕虜虐待の事象の全てが、異文化観の齟齬に基づく悲しい誤解であったかのような印象をもたらしている。(…)
(第22巻、29ページ。原文にある注番号を省略。)

注によれば問題の記事は1996年11月10日に掲載されたとのこと。というわけで久しぶりに朝日新聞のデータベースサービスを活用。検索する際には「地球・食材の旅」をキーワードにするのがよいようだ。記事はフィリピンでゴボウが栽培されているのはなぜか? という疑問から出発している。日本人の父とフィリピン人の母のあいだに生まれたタツさん(当時67才)が「父の形見」としてゴボウを栽培し続けたことを紹介。

 バギオで、タツさんたちが隠れるように暮らし始めた四五年十二月、日本では、BC級戦犯を裁く横浜裁判が始まっていた。
 その第一号被告は、長野県下伊那郡天竜村にあった満島俘虜(みつしまふりょ)収容所の警備員だった。捕虜を虐待したとして起訴された。その裁判に、ゴボウが登場する。こんなやりとりがあったという。
 「あなたは、捕虜に木の根を食べさせたそうではないか」
 「いえ、あれはゴボウです」
 なぜ、ゴボウが「虐待」になるのだろう。
 野菜の歴史を研究している元千葉大教授の青葉高さん(八〇)は「工夫して料理にするのがうまい日本人は、昔からゴボウを食べてきたが、外国人は、形や色で先入観をもち、食べ物ではないというイメージを持っている」という。
 それで、虐待に?
 ゴボウを食べさせられた元捕虜に話を聞けたら——。そう思って、裁判の記録をあたってみたが、ゴボウについて証言した元捕虜を見つけることはできなかった。
 では、被告とされた元警備員は、虐待するつもりでゴボウを食べさせたのだろうか。
 元警備員と話すことができた。無期懲役の判決を受けたものの、間もなく釈放され、八十歳近くになるいまも、長野県内で元気に暮らしていた。しかし、何度尋ねても、元警備員はゴボウや「虐待」には触れず、「私は国のために精いっぱい働いただけ。何も話したくありません」と静かに繰り返すだけだった。

俘虜収容所の名前が分かったのは収穫だが、判決(および量刑)にどう影響したのか、弁護側の主張はどの程度受けいれられ、また斥けられたのか…といった核心は相変わらず不明。このエントリで紹介した国会議事録では「五年の刑」とされていたが、ここでは「無期懲役の判決を受けたものの、間もなく釈放され」となっているのが目につく。戦後の日本人にとってのBC級戦犯裁判のイメージを大きく規定した逸話と思われるだけに、「たかがゴボウ」ではすまされない問題だろう。

*1:例えば栄養失調が戦後にも後遺症を残し、そのため元捕虜たちの戦後の生活を困難にした事例なども紹介されている。