それまで戦争とか紛争とかは、どこか遠い国のお話……と思って生きてきたのに、気付いたらすぐ隣に歴史的な危機が迫っていた。
せめて、この「恐怖」を奇貨として、クライシスの背後にある直近の現代史と、日本と米国の関係を基本から理解しておこうではないか。外交・インテリジェンスの第一人者、手嶋龍一に、ジャーナリスト、清野由美が入門して、いろいろ聞いていきます。
清野:戦後の長い時間の中でも、2017年は北朝鮮クライシスが一気に具現化した年でした。日本でも危機感が高まり、メディアにはさまざまな情報や見立てが入り乱れています。しかもここにきて、米朝トップ会談の可能性が浮上するなど、情勢は刻々と動いて、予断を許さない。もう、どうなってしまうんだろう、と心配でたまりません。
手嶋:確かに「クライシス」ではあるのですが、各地の「戦争」と日常的に付き合ってきた者から見れば、日本でも危機はずっと以前から身近にあったはずです。ですから、清野さんのいう「北朝鮮クライシス」は、かなり主観的なものなのです。
清野:え、これって主観なんですか? のっけから引いてしまいました。
手嶋:「そもそも北朝鮮危機って何?」と問われた時に、清野さんならどう答えますか?
清野:さあ……ただ真っ白な地平が前に広がっていて……。
手嶋:正直なのはよろしいのですが、その地域に暮らす者として、ごく基本的な土地勘、歴史勘を持っていない、ということですね。
清野:はい、その通りです。しかし、その白く、漠然とした脳内状況は、私のような高度経済成長期に育った世代、つまり、「日経ビジネスオンライン」の読者の多くの方々にも共通しているものだと思うのです。
そりゃないよ、米国の「北朝鮮核容認論」
清野:私たち世代、というか、年齢でいうともっと幅広く、60代から今の若い人たちまでの大半は、戦後の民主主義教育の中で、太平洋戦争をはじめ戦争とは何か、という教育をきっちりと受けないまま、今に至っています。その事実に今更ながら愕然として、こうして教えをいただく機会を設けました。
手嶋:私だって偉そうなことは言えません。1980年代後半にワシントンに特派員として赴任するまでは、戦争の取材など、まったくしたことがありませんでしたから。
清野:冷戦末期ですね。
手嶋:戦後の日本は、大国による「力の行使」に真っ向から向き合った経験がなかったのです。超大国はいとも簡単に伝家の宝刀を抜く――ワシントンに行って初めて、その事実に大きな衝撃を受けました。
清野:一連の北朝鮮クライシス報道の中で、私が最もドン引いたのは、米国の政権中枢に、北朝鮮の核を認めてもいいという「核容認論」があるということでした。
手嶋:米国の政権は、トランプ大統領にいたるまで、北朝鮮の核武装は絶対禁止という立場を取り続けています。が、ここにきてそういう論議が浮上しています。それも、共和党ではなく、民主党のオバマ政権で安全保障に携わった人たちから。
清野:だって、そうはいっても日本は米国の同盟国なんだから、米国はとことん守ってくれるんじゃね? と単純に信じていました。だから、北のあの国の核を容認するなど、もう信じられないのですが、そういう論もアリなのですか。
手嶋:存外と、かの国の本音が覗いているのではないでしょうか。トランプ大統領の政権も「米国・ファースト」ですから、北朝鮮がICBMの発射実験を凍結すれば、核保有自体は認める可能性をなしとしません。
清野:ICBMが米国に届かない限りは、取りあえず金正恩体制保持といきましょう、ということは、そりゃあ米国はいいかもしれませんが、日本にしてみたら、冗談じゃない。困ります。
手嶋:その通りです。その点で東アジアの安全保障には、究極のジレンマがあるのです。
日本は米国の恋人……のつもりでいたけれど
清野:こっちは恋人だと思っていたけど、相手にとってはただの友だち? というか、それ以下だった? いったい日本って、国際社会、そして東アジアの中で、米国にとってどういう位置付けなのでしょうか。
手嶋:そのご質問に私がお答えする前に、よくある手ですが、大西洋を真ん中に置いた世界地図で、世界をご覧になることをおススメします。
清野:「きほんのき」ですが、大西洋を真ん中にすると、米国とヨーロッパこそが世界の中心となり、日本がたちまち「極東」そのものになりますね。
手嶋:日本は米国にとって、東アジアでは最重要の同盟のパートナーです。ただ、だからといって、超大国米国が、日本の国益に常に寄り添うとは限りません。北朝鮮の核・ミサイル問題でも、米国の脅威にならないなら、それでいいと手を打つ可能性は常にあるのです。
清野:我ながら、ばかみたいですが、ええー、ショック。
手嶋:ですから、日本外交はそういう事態を招かないよう常に米国に毅然とした姿勢で臨む必要があるのです。
清野:で、私たちは渡り合っていけるのでしょうか。
手嶋:残念ながら、日米の間では圧倒的な「貿易不均衡」があります。たとえば私の専門のインテリジェンス分野では、「インテリジェンスに同盟なし」という言葉があります。
手嶋:米国は世界各地にネットワークを張り巡らして電波・通信のインテリジェンスを集めています。日本政府も「象の檻」と呼ばれた三沢基地の巨大な傍受施設を米軍に提供していました。
「象の檻」は解体されましたが、米軍はいまも日本の米軍基地を拠点に電波・通信情報の収集にあたっています。ところが、日本は米国の「目と耳」となる施設を提供する一方で、米国がこうして入手した貴重なインテリジェンスは与えられていません。日本は米国にとって東アジアの重要な同盟国でありながら、貴重な情報にはあずかっていないのが現実なのです。
清野:なんと。
手嶋:米国のインテリジェンス活動は、当然ながら自国のためのものであって、日本のためにしているわけではない。さらに、一種の日米不平等体制が、そのインバランスに拍車をかけています。
典型例が「ファイブ・アイズ」と呼ばれる英、米、豪、カナダ、ニュージーランドの5か国によるインテリジェンス体制です。米国は傍受した情報を、ファイブ・アイズとしか交換していないのです。実は、フランスもドイツも仲間に入れてもらっていません。
清野:米国はイギリスのかつての植民地。その他の国はいずれも英連邦の国家で、五か国とも母語が英語。第二次大戦の戦勝国と、それに連なる諸国ですね。
手嶋:今年で第二次世界大戦が終わって73年。でも、「戦後」はずっと続いているのです。
ニッポンの敗戦をまだ振り返れていない
清野:そういう歴史的な継続が、私の意識には希薄で、高度経済成長期とバブル時代が今でも一種の基準になってしまっています。
手嶋:歴史というものは、それほど簡単に認識できるものではありません。我々が「ニッポンの敗戦」を冷静に振り返るには、気の遠くなるような時間が必要でした。
ただ、それにしても、インテリジェンス分野でも、政治・外交の分野でも、戦後の日本は、敗戦の教訓を出発点にして、自分たちの課題に真正面から取り組もうとしなかったのだと思います。その結果、国際社会のスタンダードから遥かに後れを取ってしまった。一種のユーフォリア、幸せな幻想の中を漂っていた側面は否めません。
清野:今、ネットを含めて様々なメディアで、北朝鮮がこう行動したのは、こう解釈できるとか、記念日にはこんな行動に出るぞとか、細切れのニュースはあふれていますが、私のような者は情報の海で溺れそうで、事態の本質は何かが一向に分からないでいます。
手嶋:少し過去の射程を広げてみましょう。第二次大戦を経て、世界の盟主の座はイギリスから米国に移り、そこから「パクス・アメリカーナ」と呼ばれる世界体制が続きました。ただし、21世紀になってロシアと中国が再び大国として台頭する中で、その体制は揺らいでいます。アジアでは中国のほかにインドの存在感も強まっていますし、もちろんアラビア半島の情勢も予断を許しません。
手嶋:自国が危機にさらされている、というのなら、そのような世界地図を頭にイメージし、外からの視点を持つことが重要です。しかし、今の日本では、そういった国際的な文脈からの自国理解が脆弱なのです。
清野:耳が痛いです。
手嶋:個人だけではありません。役所や企業をはじめ、大きな組織も、中小の組織も、そのような文脈の上で、彫琢されたインテリジェンスを身に付けることにおいては、世界に後れを取ってしまっています。
清野:一時は世界第二の経済大国に上り詰めたNIPPONが、なぜ、そうなっているのでしょうか。
手嶋:私の専門からお話しますと、戦後の日本は、インテリジェンスを武器に、苛烈な国際政局を生き抜く必要が、あまりなかったからでしょう。まずは、その一言に尽きると思います。
求められなかったから、育たなかった
清野:俗に、インテリジェンスには「諜報」という言葉があてられていますよね。でも、それだと「スパイ大作戦」のイメージですね。
手嶋:諜報ですと「スパイ活動」、つまり「非合法な情報活動」といったニュアンスになります。しかし「インテリジェンス」という語感は、もっと奥深く、幅広い。有能なスパイがくわえてきた生の情報を、別の情報と突き合わせて、その背後に埋もれている本質に迫っていく業です。
たとえば明治という時代を振り返ってみましょう。明治は、森鴎外や福澤諭吉といった偉大な知識人を生みました。彼らの世代は、西洋の言葉にあった概念を「自由」「経済」といった新しい漢語にしてみせました。その多くが後に中国に"輸出"されて、現代中国語として使われています。
清野:え、そうなんですか?
手嶋:はい、そうなんですよ。軍人でもあった森鴎外は、「インテリジェンス」の字義を正確に理解していたそうですから、人々と社会の側に切実な求めがあれば、適切な翻訳を考えていたかもしれませんね。
清野:なぜ、「インテリジェンス」に的確な訳語が生まれなかったのでしょうか。
手嶋:巨視的にいえば、戦後の日本が冷戦の温室に入っていたからです。
清野:「冷戦の温室」?
手嶋:日本は米ソ冷戦の寒風にさらされるプレーヤーではなかった。米国という超大国の核の傘の下に、ひっそりと身をすくめていたのですから。
清野:そこですね。「米国の核の傘」という言葉は、うっすらとは感じていましたが、あまり正面切って向き合いたくなかったのでした……。
手嶋:その点で、自国の安全保障の現実を知ることは、やはりとても大事なのです。1950年代から70年代にかけては、日本が「冷戦の温室」に身を置いていたのをいいことに、日米同盟に反対し、非武装中立を唱える知識人が、論壇の中心にいました。メディアに登場する知識人も「反米的なスタイル」をとれば知的に思われますからね。
清野:なるほど。
手嶋:ただし、そんな状況は、あくまで日本の側からの話です。
清野:米国側からいうと、どうなるのですか。
「平和主義の楽園」を出られるか
手嶋:西側の盟主である米国は、日本の知識人の言説などにはかかわりなく、極東の要石たる日本の防衛を担っていました。こと安全保障の分野では、日本は決定権がないのですから、「日本は軍事的能力も、情報能力も、持たなくて結構です」というのが、米国の本音でした。
さらには、「国際政局を動かす志? 持たなくて結構です。戦後の日本は、どうぞパシフィズム(平和主義)の楽園に安住していてください。だから、CIAのような対外情報機関もいりません。すべては、日米同盟のシニアなパートナーである米国にお任せください」……と、これが米国の変わらぬ姿勢だったのです。
清野:自分が生まれてから当たり前に享受していた平和というものは、その基礎の部分に、「米国の核の傘」があり、その上で日米間にある種の「ウィン‐ウィン」関係が成立していたから、ということなんですね。
手嶋:戦後の日本が平和を享受したという点では「ウィン‐ウィン」でしたが、国際政局に主体的に取り組むという志をどんどん摩滅させていったのですから、戦後の日本が失ったものも、また大きかったと思います。その果てに、今、朝鮮半島での核・ミサイル危機に直面して、うろたえているのです。
清野:どうしたらいいのでしょうか。
手嶋:僕に聞かれても困ります(笑)。これは、日本人一人ひとりの問題なのです。
でも、この対談を機に、私の見聞から少しずつヒントをお出しできればと思います。そうでないと、清野さんのような人は引き下がってくれないでしょうから。
(第2回に続きます。)
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。