理化学研究所と富士通が共同で開発しているスーパーコンピューター「京」の計算能力が、このほど、世界1位に認定された。日本製のスパコンが世界一の座に就いたのは、実に7年ぶりだという。まことにめでたい。暗い事件が続く中、久々に心から祝福できるグッドニュースだ。
祝福ついでに、記者クラブの面々は、蓮舫行政刷新相のコメントを求めるべく永田町に押し寄せた。余計なお世話といえば余計なお世話ではある。が、取材陣の殺到は、一方において、仕方のない流れでもあった。というのも、大臣とスパコンの間には浅からぬ因縁が介在していたからだ。
彼女は、2009年11月の事業仕分けで、10年度分の次世代スパコン開発予算(約268億円)を、事実上の予算凍結と判定した際の、仕分け担当者であり、スパコンの計算速度について、「2位じゃだめなんでしょうか」という、技術発達史上名高い問いを投げかけた当事者でもある。
なるほど。一言あってしかるべきところだ。
取材に対して、蓮舫大臣は、「極めて明るいニュース。関係者のご努力に心から敬意を表したい」と、述べた。
穏当なコメントだ。これだけ述べてにっこり笑っていれば、一件落着、誰もそれ以上は突っ込まなかったと思う。
が、大臣は負けん気が強い。お約束のコメントを言わされて、そのまま引き下がるようなタマではなかった。
20日付けの読売新聞によれば、蓮舫大臣は上記のコメントに続けて、次のように述べている。《自らの発言については「メディアが勝手に短い部分を流した」と反論。「ナンバーワンになることだけを自己目的化するのではなく、国民の皆様の税金を活用させていただいているので、オンリーワンを目指す努力を期待したい」と注文をつけた。》
ははは。
記者は、メモをとりながら、内心で手を叩いたはずだ。
ほほほ、記事に「イロ」がついたぞ、と。
蓮舫大臣は、記事の行間に「顔」をもたらすことのできる稀有な政治家だ。
極めて高い映像喚起力を備えた彼女の表情は、読者の側から見て、顔を思い浮かべやすい。得難いタレントだ。
今回の場合、わたくしども新聞読者の脳裏には、記事の行間を通じて、蓮舫大臣の「ぐぬぬ顔」が供給された。記号化された屈辱。その高らかな歯ぎしりの響き。いや、痛快だった。
「どや顔」は、「ぐぬぬ顔」によって浄化されなければならない。「顔」による事態の精算を何よりも重視する大衆文芸の文法では、ストーリーの結末は、ふさわしいキャラクターのビビッドな表情によって埋められなければならない。でないと、カタルシスが発生しないからだ。
かくして、スパコンとその仕分人をめぐる不条理の物語は、2年間におよぶ伏線敷設期間を経て、無事、落着したわけだ。あらまほしきハッピーエンドの真上に。ぐぬぬぐぬぬ。素晴らしいではないか。
ちなみに言えば、蓮舫大臣の言った「オンリーワン」は、この際、何の意味も持っていない。少なくとも計算機開発の技術者が目指すべきゴールではない。なぜならテクノロジー開発のステージは、「個性」がモノを言うミスコンテストのオーディションとは違って、シンプルな競争原理が支配する、公明正大な競争の世界だからだ。
1秒間に数千兆回という演算処理(「京」の処理速度は、「8.16ペタFLOPS」だ)の回数を追求するスーパーコンピューターの分野で、競争参加者の死命を決するのは「速さ」だけだ。陸上競技の100メートル走において、意味を持っているのが、「タイム」のみであるのと同じことだ。オンリーワンの走り方や個性的なユニフォームは、いかなる文脈においても、決して評価されない。ごく稀に女性アスリートのネイルの奇抜さが話題になるケースがないわけではないが、その際も、記事が配信されるのは、ネイルの本体であるアスリートが、世界記録を更新した場合に限られている。要は、数字だ。
競争のレーンの中では「ユニークさ」は、ノイズでしかない。というよりも、競争のフィールドに、順位と無縁な「個性」を持ち込むことは、その人間がレースから降りたことを意味している。それは敗北よりもさらに惨めな結果をもたらす。なぜなら、敵前逃亡した者には、敗北から学ぶ機会さえ与えられないからだ。
……という、以上の話が、かなりの度合いで揚げ足取りだと思う。私自身、自覚している。
蓮舫大臣のコメントは、たしかに失言といえば失言だが、上記の数十行で私が展開してみせたみたいに詳細な形で突っ込まなければならないほどの失策ではない。
言葉が足りなかったというだけだ。
というよりも、大臣は、「ナンバーワン」という言葉に対して、なんとなく「オンリーワン」という言葉をぶつけてみただけで、深い考えはなかったのだと思う。売り言葉に買い言葉。脊髄反射だ。
脊髄反射のコメントを発したことをもって大臣の資質を問うことはできない。実際のところ、われわれが発する言葉の半分以上は、推敲や吟味の過程を経ていない反射的な捨て台詞に過ぎない。大臣の職にある者が、自身の発言について、一般人より慎重に構えるべき立場にあることは明白だが、だとしても、完璧は望めない。大臣とて、時には舌も噛むしジョークも言う。仕方のないことだ。公的な場所で致命的な失言を繰り返したのでない限り、われわれは政治家の言葉に対してもっと寛容であるべきだ。そう考えれば、今回の「オンリーワン」発言程度のものは、片頬で笑って受け流すぐらいが妥当な扱いだったはずだ。
であるからして、ご理解いただきたいのは、以下、私がさらに「オンリーワン」について深く掘り下げるつもりでいる理由は、蓮舫大臣を揶揄したいからではないということだ。
彼女が「オンリーワン」という言葉を使った背景には、「ナンバーワン」に対して「オンリーワン」と言ってみたくなる回路が、多くの日本人の間で共有されているということがあるはずなのだ。
問題は、この「回路」だ。
どうしてわれわれは、競争と個性を並列展示したがるのか。どうして、それらをぶつけることによって、双方を曖昧にしてしまいたがるのか。
これは、じっくり考えてみるべき問題だ。
さて、そもそも私が、蓮舫大臣の「オンリーワン」発言に反応したのは、大臣がこのコメントを述べた同じ時期に、『タイガー・マザー』という本を読んでいたからでもある。
なかなか刺激的な本だった。
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