余震が続いている。
 特に、今週に入ってから、大きめの揺れが頻発していて、苦手な人はかなり参っているようだ。
 私は平気だ。地震の揺れには、なぜなのか耐性がある。たぶん「高いところが怖くない」という生まれつきの性質と関係があるのだと思う。

 大学に入ったばかりの頃、シャンデリア清掃のアルバイトをしたことがある。
 場所は、新橋にあったシティーホテルで、吹き抜けの天井に据え付けられた巨大な照明器具を分解して掃除する仕事だった。

 清掃作業は、上下二つのチームに分かれて展開された。
 上のチームは、まず、シャンデリアの部品(主にガラスの飾り)を外す。この作業は、ロビーの中央に組んだ足場の上でおこなう。足場は、パイプを組み合わせた骨組みに板を渡した簡単なもので、それなりに頑丈ではあったものの、いかんせん狭い。作業スペースは、地上からざっと7~8メートルの高さで、横幅は80センチほどしかない。作業員は、その80センチ幅の板の上に立って、ひとつずつネジ止めされたガラスを取り外して、足元のバケツに入れる。バケツがガラス部品で一杯になると、下で待ち構えているチームに合図を送る。と、下の組のアルバイトが、そのバケツをロープと滑車を使って地面に下ろして、順次洗浄する。

 洗浄・乾燥が済むと、今度はきれいになったガラス部品をバケツに入れて足場の頂上に上げ、上のチームの作業員がそれらを元通りに取り付ける。以上。作業が完了すると、シャンデリアは見違えるようにピカピカになっている。めでたしめでたし。

 労働量を比べてみると、キツいのは、むしろ地上組の作業だ。彼等は重いバケツを上げ下げし、ガラス部品をひとつひとつ洗剤で洗わなければならない。洗剤のニオイはキツいし、水も冷たい。

 上の作業は、面倒ではあるが、さして力を使うことはない。
 でも、上のチームを志願するアルバイトはほとんどいない。3階の天井近くの、狭い足場を歩き回らなければならないからだ。この作業は慣れていない人間にはやっぱりコワい。

 私は、生まれつきそういうのが平気なので、上を志願した。
「ホントか?」
 と、清掃会社の担当者は最初のうち疑っていたが、私がするすると足場を登ると、素質を認めたようで、特別に足場の上のチームに混ぜてくれた。

 作業が終わった後、私は担当の社員に呼ばれた。
「就職に困ったらウチに来いよ」
 と、彼は、名刺を渡しながら、そう言って私の仕事ぶりを評価してくれた。
 その会社は、ビルの窓拭きをはじめとする高所作業に特化した専門職の集まりで、社員は、特殊技能者として、それなりに高い報酬を得ているらしかった。

 この時に貰った名刺は、それからしばらくの間、私の心の支えになった。
「なあに、いざとなったら高所作業がある」
 と、20代丸ごとの失業時代を通じて、私が余裕をカマしていられたのは、この名刺があったからだ。

 まあ、信仰みたいなものだ。
 実際のところ、学生時代に貰った一枚の名刺が、人生のピンチを打開する切り札になってくれたのかどうかはわからない。
 あの夢みたいな会社は、あるいは、3年ほどでツブれていたのかもしれない。
 会社が残っていたのだとしても、名刺をくれた社員(1年のうちの何カ月かを山の上で過ごしている登山家だった)が在籍していたのかどうかは怪しい。もしかして、生きていたのかどうかさえ。

 でも、問題は名刺の有効性ではない。信じる力だ。信じる者にとって、神は実在する。ということはつまり、疑う者だけが裏切られるのであって、転落を信じない者にとって、足場の高さはまったく脅威にはならない。そういうものなのだ。

 今回は、信じる力の話をしようと思っている。
 信仰や信念の話ではない。
 むしろ、デマの話になると思う。
 人はなぜデマを信じるのか。どうしてわれわれはありもしない情報に惹かれるのか、といったあたりの事情について考えてみたい。

 震災から1カ月が経過して、巷にはデマが飛び交っている。デマと陰謀論と憶測とプロパガンダ。悪意あるジョーク。善意の勘違い。藁をもつかむ信念。そういうものが、ツイッターや掲示板を通じて大量にばらまかれている。

 で、今週のはじめ、政府がコンピュータ監視法案を閣議決定したという記事が週刊誌に載って、これがちょっとした騒ぎになった。

「震災のドサクサにまぎれて、ネット規制か?」
 と、匿名巨大掲示板の連中が各所に引用してばらまいたからだ。
 が、騒ぎは、2日ほどで沈静化する。
 というのも、件の閣議決定は、1カ月前(3月11日。地震の当日。つまり、法案は、地震とは無縁なところで、以前から準備されていたものだった)に発表されたもので、記事自体が「デマ」ではないものの、「飛ばし」に近い内容だったからだ。

 ことほどさように、人々はデマに対して神経質になっている。
 硬軟織りまぜた各種のデマが広がっている一方で、デマに対する警戒心も強まっており、他方、デマを規制する動きへの敵意が燃え上がっている。結果、情報は錯綜し、世情は疑心暗鬼に満ち、人々は疲れている。やっかいな事態だ。

 デマについて語る文脈は、「リテラシー」という常套句とセットになっている。リテラシーは、「情報を読み解く力」の由で、つまり、このお約束の前振りは「デマをデマと見破る判断力が大切だ」という結論に落着することに決まっているのである。

 あまりにも当たり前な話だ。
「山に登る時には滑落しないことが大切です」
 そんなことはわかっている。当然、聞かされる側はうんざりする。
 しかしながら、「どういうふうに歩けば滑落せずに済むのか」を具体策として提示してくれる講師は、滅多にいない。
 というよりも、登山の素人に滑落を回避するための具体策を伝授することは、原理的に不可能な仕事であるのかもしれない。

 それゆえ、専門家は、単に
「くれぐれも用心しなさい」
 という。いかにも最高の秘儀を伝授するみたいな口調で。
 素人は、
「わかってるようっせえな」
 と思いながらそのアドバイスを聞く。
 そして、何人かは滑落する。
 悲劇だ。

 私自身の話をすれば、この1カ月の間、原子力関連の情報をつぶさにチェックし、見比べ、考察していながら、結局のところ、どの話がデマで、どの数字が信頼に足る情報であるのかについて、確信が持てなくなりつつある。
 いや、まるでわからないのではない。複数のソースを当たって、単位や原理について自分なりに勉強して、ひとつひとつの情報を慎重に吟味すれば、おおよそのところは見当がつく。

 でも、間に合わない。
 毎日のようにやってくる新しい情報を、その都度クロスチェックしているうちに、アタマが混乱してくる。というよりも、情報確認の作業が物理的に間に合わないのだ。
 私は、まるっきりのおバカさんではない。その気になってアタマを使えば、ひと通りの理解力は備えているつもりだ。

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