「三ない消費」という言葉が、3月27日付けの日本経済新聞朝刊で紹介されている。「いまどきの売れ筋」という一面右の一番目立つ場所にある特集コラムの中で、だ。なので、既にご存知の方もあるだろう。

 「三ない消費」は「買わない」「持たない」「捨てない」という、3つのキーワードから語尾を借りてきた用語で、そう言われてみると、なるほど、この言葉は不況下の消費傾向をうまくすくい取っている。あざやかな要約だと思う。

 記事の中では、修理チェーン店、修理サービスの売り上げアップ、カーシェアリングの拡大、ブランド品買い取りサービスの成功物語など、「三ない」時代のニーズに合った多様なビジネスを紹介している。なるほど。
 
 でも、待てよ……と、納得した後で、ふと、別の考えが浮かぶ。いつもそうだ。私は納得ということがきらいなのかもしれない。いるよね、そういうヤツって。返事の第一声が常に「でも」で始まる面倒くさい下っ端社員みたいなのが。ええ、私はそれでした。しかも、齢五十を過ぎてなお、その性癖が改まっていない。もっと若かった頃に、一から叩き直されるべきだったのでしょうね。きちんとした先輩に。

 なのに、私は、まっとうな矯正教育を受ける前に会社をフケてしまった。で、何も身につけず、何も学ばず、キックオフ直後のパスミス一つでぶちキレて退場したカタチだ。無益な会社生活だった。

 でもまあ、30年を経過した時点から振り返ってみれば、会社にとっても私自身にとっても、お互いにこの方が(つまり、電撃退社という決断が)正解だったのだと思う。

 陣内君と紀香嬢にしても、この度、早めのタイミングで次のステップへの結論を得たことは、双方の今後にとって、よりベターな展開になるはずだ。いずれにせよ、できないことはできないのだから。英語で言えば “There's nothing you can do that can't be done.” ビートルズの「愛こそはすべて」(All you need is Love)の中にそういう歌詞がある。あえて愚直に直訳すれば、「ほかの誰かによって為し得なかったことで、キミに出来ることはない」ぐらい。含蓄のある章句だ。一見、後ろ向きのあきらめの言葉であるようにも聞こえる。が、違う。失意のうちにある人間は、励ましの言葉よりも、むしろ諦観のうちにより深いなぐさめを見出す。そういうものなのだ。別の言い方をすれば、再出発をはかる人間は、何かを目指すより、まず何かを断念することからはじめるべきだ、ということになる。素晴らしいフレーズではないか。ジョン・レノンが撃たれた翌日、ファンに向けた新聞広告の中で、オノ・ヨーコが引用していたのをおぼえている。素晴らしい追悼文だった。彼女がJASRACに著作権使用料を支払ったのかどうかは知らない。

 ちなみに、私が当連載で時々歌詞のブリーフィング(←引用じゃないぜ。ジャス)を試みているのは、JASRACを釣りたいからだ。なのに、なぜなのか、彼らは引っかかってこない。素人のブログはツブしに来るくせに(「著作権」「JASRAC」「ブログ閉鎖」ぐらいで検索をかけてみてください。あるいは「ビートルズ」「著作権」「演奏」でも良い。面白い記事がたくさん読めますよ)、新聞社系のウェブはスルー、と、そういうことなのだろうか。
 
 話を元に戻す。
 私が「待てよ」と思ったポイントは以下の通り。
 つまり私は、「買わない」「持たない」「捨てない」は、消費の傾向である以前に、消費それ自体の否定なんではなかろうかと、かように考えたのである。

 というのも、消費とは、「買う」「持つ」「捨てる」を繰り返す(ないしは拡大する)サイクルの由で、それらをやめることは、当然、消費そのものを消滅させることになるはずだからだ。

 似た言葉を思い出した。
 
 捨てさせろ、流行遅れにさせろ、みたいな、その種のキーワードを羅列した「ナントカ十則」みたいな話だったはず。いや、似ている、というより、意味合いとしては、むしろ正反対の標語だ。

 ……と思って、ググってみると、簡単に出てくる。うむ。便利な世の中になったものだ。

 「捨てさせろ」「流行遅れにさせろ」を、キーワードにして検索すると、サクっと第一候補に挙がってくるのが「電通」についてのウィキペディア項目で、その中の「戦略十訓」が、私の記憶の隅っこにひっかかっていた標語だった。リンクはこちら

 引用してみる。

 もっと使わせろ
 捨てさせろ
 無駄使いさせろ
 季節を忘れさせろ
 贈り物をさせろ
 組み合わせで買わせろ
 きっかけを投じろ
 流行遅れにさせろ
 気安く買わせろ
 混乱をつくり出せ

 1970年代に電通PRセンターが提唱していた「戦略十訓」というものらしい。
 ネタ元はヴァンス・パッカード著『浪費をつくり出す人々』(1960年)といわれている(Wikipediaより)。
 興味のある人は著書を探して読んでみると良いかもしれない。

 私がこの戦略十訓を覚えていたのは、たぶん、新卒で就職した時に新入社員研修か何かで聞かされたからだと思う。あるいは営業部の朝礼だったかもしれない。とにかく、この一群のフレーズは、当時、上昇志向のビジネスマンにとって、常識に属する話題だった。私が覚えていたくらいなのだから。

 当時の私の感想は

「あくどいなあ」

 ということに尽きる。
 あくどい、えげつない、せちがらい。20世紀広告における3i原則。いや、思いつきだが。

 私が新入社員だった1980年代当時、「エコ」という言葉はまだ発明されていなかった。が、それでも、「無駄」という言葉はあった。「商道徳」という概念だって存在していた。であるからして、学校を出たばかりの新米営業マンの無垢な目には、電通発の戦略十訓は、売り逃げ十則、押し売り十箇条みたいな、およそあつかましい進軍ラッパに見えた。当然。いくらなんでもあんまりだ。

 現在、電通は、この十訓をどういう位置づけで扱っているのであろうか。
 いまだに、前面に押し出しているのだろうか?
 まさか。
 無理だと思う。このエコ全能の時代に。あまりにも地球に対して過酷だし。

 あるいは、「三ない消費」は、消費形態の変化以上に、広告の敗北を象徴する言葉であるのかもしれない。

 昭和の時代、消費は美徳と言われた。
 おそらく、それは戦前の「欲しがりません勝つまでは」へのアンチテーゼであり、戦後10年を特徴づけていた物資窮乏の暮らしに対する反動でもあった。

 ここまではわかる。

 産業が勃興し、物資が溢れ、景気が右肩上がりで上昇し、経済規模が天井知らずに拡大しつつあったあの時代、消費は、美徳だとか悪徳だとかいった事情を超えて、大前提だったはずなのだ。
 であるからして、広告は時代をドライブするアジテーターとして最前線に立っていた。

 無論、「Oh! モーレツ」が高度成長のスターティングガンだったという陳述や、「モーレツからビューティフルへ」が日本のシフトチェンジを促したとかいった調子のお話は、広告業界の人間が広告を広告するために発明した我田引水の駄法螺に過ぎない。

 彼らが時代を作ったわけではないし、主導したわけでもない。広告は、単に時代の欲望を代弁し、商売人の思惑を扇動していただけだ。

 が、そうであっても、広告が代弁していたところの時代精神に、昭和の庶民の真摯な希望が宿っていたのは事実で、その意味で、戦略十訓は、広告屋の悪だくみである以上に、われら昭和の日本人すべてのコンセンサスだった。と、そう考えることも不可能ではない。

 とすると、「三ない消費」は、もしかして、戦後という時代の終焉を象徴する、激ヤバな運動であるのかもしれない。

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