イラスト

 最初に前回の「婚活」について少し。

 オダジマは誤解をしておりました。

 「婚活」という言葉は、てっきり女性の結婚準備に関するあれこれを描写した営業用語であると、そう思っていた。申し訳ない。言葉について連載をしようという人間が、こんな初歩的な間違いをやらかすとは。

 勘違い、思いこみは、誰にでもある。宰相にさえ。もちろんわれら凡人においておや。

 問題は、その勘違いや思いこみを、放置していたことだ。
 原稿を書き始める前に、せめて確認すれば、こんなくだらないミスを犯さずに済んだはずだ。

 が、私は確認しなかった。
 油断。
 あるいは、「汎ウィキペディア環境下にあるライターに生じた気の緩み」と、大げさに分析すればそういうことになる。

「なーにググればオッケーなわけだろ?」

 という安易な心構えが、最低限の裏取りを怠らしめる――おそろしい成り行きである。くわばらくわばら。

 それにしても、どうしてかような思いこみが生じたのだろう。
 いかなる状況が、オダジマをして「婚活」を女性限定のアクションであると思わしめるに至ったのであろうか。

 一因は「広告」にある。より具体的には、自分のブログに毎日多量に送られてくる宣伝用のトラックバックに対する苛立ちが、私の目を曇らせていたのである。

 自分のブログに、たとえば「減量」「体重」「加齢」といったあたりの概念に多少ともかかわりのある記事を書いたとする。あるいは、その種の言葉を使ったテキストをアップする。
 と、すかさず、数百通のスパム広告が押し寄せる。
 さよう。インターネットの世界は、いまやバーチャル訪問販売業者の巣窟なのである。

 「ウェブ」の語源は「蜘蛛の巣」から来ているのだそうだが、なるほど、この世界のプレデターは飛んで来る虫を絡め取ることばかり考えている。だから、ウェブの定置網の中では、営業に結びつきそうな言葉をピックアップする検索ロボットプログラムが、今日もカモを探して巡回しているわけだ。コンプレックスの草刈り場。出会い系と恫喝系の結託によるハイパーデジタル美人局オペレーティングシステム。うむ。イヤな世相だ。

 ロボットは、ターゲットの言葉を発見すると、その言葉が使われているブログに向けてスパム広告を送りつける。そういうふうにプログラミングされているのだ。

「驚き! 3カ月で20キロ減を達成する奇跡のダイエットレシピ」
「婚活エステ」
「サイズで悩んでいませんか?」
「毛根に青春を」

 ……うっせえ! と、だから、昨年の夏、たまりかねた私は、トラックバックを閉鎖した。
 と、今度はコメントを装った疑似広告が届くようになった。

「いつも楽しく拝見しています。健康に気をつけて頑張ってくださいね」

 おお。うれしいコメント。温かい言葉。無遠慮なコメントに傷ついたブログ運営者の心に蜜のように染みこむ営業トーク。

 が、このURL付きの猫なで声で送られてくる女名前のコメントをうっかり踏むと、面倒くさい営業が始まるのだな。猛烈にいまいましいことに。

「私を奴隷にしてください」

 とかなんとか。
 冗談じゃないぞ。オレのどこが奴隷に金を絞り取られたいと念願している男なんだ? そういう決めつけに弱い顧客が500人に1人いれば、それでキミたちのビジネスモデルは成立すると、そういうわけなのか?

 ほかにも、スパムは、芸能人の名前、エロ単語、コンプレックス産業用語(髪の毛、ニキビ、背丈その他色々)といったあらゆるエサに食いついてくる。

 で、私は、「婚活エステ」「婚活の第一歩はダイエットから」「婚活メイクアップ術」みたいな、物欲しげな広告のヤマをかき分けるうちに、「婚活」についての偏見を定着させたのである。おそらく。

「婚プレックス産業ってわけだ」

 と。

 かように、新語は、産業化される過程で、様々なバイアスにさらされる。オヤジの癇癪や、嫁入り前の娘の苛立ちや、閉経恐怖や、ビューティー妄想産業の伏線敷設活動みたいな、諸々の醜悪極まりない短絡に、だ。

 さて、今回は、「閣下」について考える。あるいは敬称一般や、敬語周辺の諸事情についても、思うところを述べてみたい。

           *       *       *

 平成21年大相撲初場所の中日八日目、私はNHKの大相撲中継を見ていた。ナマで相撲を見る人生。余生と呼んでも良い。巌窟ライターに与えられた恩寵としての娯楽。終わらない午後。引退老人とニートの天国。永遠の昼下がり。幸いなるかな汝働かざる者、天は汝らに相撲取りを遣わされたればなり。

 「おお」

 と、私は思わず声を出しそうになりましたよ。

 だって、デーモン小暮閣下が出ていたからね。それも、わが青春の不良横綱・黄金の左腕・伝説のアドリブ力士・輪島とともに。肩を並べるカタチで。なんという素晴らしい人選。悪魔ブラザーズ。出張ミサとしての大相撲観戦。小悪魔メイクならぬフル悪魔メイク。

 しかも、この大相撲を愛してやまない2人の無頼派観戦者を紹介するに当たって、NHKはなんとも素敵なシナリオを用意していた。

「デーモン小暮閣下さん」

 と、NHK総合の画面は、デーモン小暮を、「閣下」付きで紹介し、さらにその敬称に「さん」をカブせていたのである。なんという斬新な処理。

 当然、当日の実況を担当していた岩佐アナウンサーも、「本日、解説におこしいただいたデーモン小暮閣下さんです」と、デーモンを「閣下さん」呼称で紹介していた。

 素晴らしい。
 NHKぐっじょぶ。私は感動していた。

 背景を説明せねばならない。

 デーモン小暮氏が大相撲中継の解説に登場したのは、実は、今回が初めてではない。
 2006年の初場所で、同じ中日の解説者として招かれたことがあった。
 その時も、実況は岩佐アナだった。

 閣下の解説は好評だった。

 なにしろ知識の量がすごい。技術的な視点も確かだし、伝統文化としての相撲を語る見識も高い。それになにより大相撲に対する愛情の深さがそこいらへんの漫画家や脚本家とはまるで違っている。相撲取りに対するリスペクトという最も大切なポイントに関しても、文句のつけどころは皆無。まったく百点満点の解説者だった。




(小田嶋隆氏が高校時代の同級生にして最強の広告クリエイティブディレクター、岡康道氏ともろもろ対談するコラム「人生の諸問題」もお見逃しなく。顔写真も大きく載っています。最新回は→こちら

 が、苦情もあったらしい。中継スタッフが「デーモン小暮閣下」というテロップを使用した件について、「悪ふざけだ」という声が寄せられたというのだ。本当かどうかは知らない。ただ、「苦情が来た」という噂を私が漏れ聞いただけで、その噂されている苦情にしても、どこまでマジな苦情であるのかははっきりしていない。苦情を寄せたのが協会側なのか、ファンの一部なのか、あるいは横審とかの関係者なのか、それもわからない。あるいは苦情なんかなかったのかもしれない。ただ、NHKの上の方の人たちがちょっと眉間にシワを刻んでみせただけかもしれない。

 でもまあ、2006年の初場所中日の国技館で、デーモン目当てにおびただしい量のフラッシュが焚かれ、ファンが群がったのは事実で、その時の騒ぎについて、翌日のスポーツ新聞が揶揄する調子の記事を書いたこともまた事実ではある。

 まあ、どこにでも話のわからない人間はいる。そういうことだ。

 で、今回、再びデーモン閣下を召還するに当たって、大相撲中継のスタッフは、より慎重かつ周到に対応した。具体的に申し上げると、彼らはデーモン小暮の呼称について、「閣下さん」という二重敬称処理を採用したのである。

 卓抜な判断だと思う。

 前回のデーモン解説について、批判のポイントはおおよそ以下の通り。

1. 天下の公器たるNHKが、よりにもよって、色物音楽家が自称している「悪魔」だとかいう悪ふざけの設定に丸乗りして、「閣下」などと持ち上げるのはいかがなものか。不謹慎の誹りを免れるのは困難なのでは?

2. 悪魔を解説者に招くのは、国技たる相撲を冒涜する態度だ。

3. っていうか、舞台メイクのまま、カブリモノも脱がずに解説ってどうよ?

 ……で、以上の批判的な見解を踏まえて、今回、NHKは「閣下」に「さん」をつけるという、意想外の挙に出たわけだ。忖度するに彼らの意図はこんなところ。

1. わたくしども皆様のNHKといたしましては、当該のテレビタレントについて、「デーモン小暮閣下」までを芸名であると解釈いたしました。

2.であるので、芸名に「さん」を付加する形式で呼びかけることにします。

3. 文句は無いですよね?

 さすがは話し言葉について日々熟考を重ねている日本一の電波組織のスタッフだけのことはある。水際立った処置である。

 思うに、争点は「呼称」それ自体にあったわけではない。

 誰かが誰かを呼ぶ時に、「閣下」で呼ぼうが「さん」で呼ぼうが、本当はそんなことはたいした問題ではない。

 このテの修飾語尾が重視する人々が問題にしてるのは、「礼儀」ではない。「品格」でも「伝統」でもない。「体面」と「権力」。どうせそんなところだ。「序列」「権力」あるいは「上下関係」「身分秩序」といった、いずれにしても硬直化したシステムを絶対化したい人たちが、呼称にかこつけて鯱張った儀礼を強要しにかかっているだけの話なのだ。

 その意味で、「閣下さん」テロップは、日本語の秩序感覚を笑い飛ばす、画期的なディレクティングだった。なんとなれば、この二重敬称は、二重化することによって、「敬称」という存在自体を相対化しているからだ。

 構造としては、敬称に敬称をつけることで、敬称が持っている奴隷根性の尻尾みたいなものを顕在化させている。というよりも、「閣下」という重々しい敬称で呼ばれる存在に対して、「さん」という軽めの敬称をカブせることで、敬称それ自体が備えている滑稽さを明らかにしているわけだ。いずれにしても面白い発明ではないか。

 「閣下さん」は、「ベッカム様」「エリカ様」など、アタマの悪いメディアが頻発する「褒め殺し用法」の「様」よりも、よりエレガントで批評的だ。

 「エリカ様」という呼びかけ方は、どうにも陰険で底意地が悪い。聞いて愉快になる呼びかけ方ではない。この言葉を使っている人々は、自らのマッチポンプぶりを告白している。私にはそう聞こえる。

 発明といえば、「島田紳助司会者」や「稲垣メンバー」も、それはそれで画期的な発明ではあった。でも、響きは新しくても、動機がいけない。要するに逃避だったわけだから。

 つまり、「島田紳助司会者」にしても「稲垣メンバー」にしても、放送現場が、巨大事務所のタレントを「容疑者」と呼びたくなかったがために発明したゴマカシだったということだ。あるいは、放送原稿を書く人間が、大物芸人を呼び捨てで処理する度胸を持っていなかったがゆえに、採用した苦肉の肩書きだ。

 とすれば、これらの「発明」も、「閣下さん」には到底及ばない。

「どうして人と人との関係に、いちいち権力関係を持ち込もうとするかなあ」

 と、「閣下さん」は、その力の抜けた語感全体で主張している。

「別にどう呼んだっていいだろ? 呼ぶ側が呼びたいように呼んで、その呼び名を呼ばれた側が許容しているわけなんだから、第三者がグダグダ口を挟む余地なんかひとっかけらもありゃしないんじゃないの?」

 と。素晴らしい。  

 とはいうものの、日本の社会では、「敬称」が決まらないと、人間関係が形成できない。そういうことになっている。

 勘違いしてはいけない。相手と自分の間にある関係性や、その間に介在する感情や敬意が敬称を決定しているのではない。

この記事は会員登録(無料)で続きをご覧いただけます
残り6466文字 / 全文文字

【初割・2カ月無料】お申し込みで…

  • 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
  • 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
  • 日経ビジネス最新号12年分のバックナンバーが読み放題