世継ぎに悩む鳥取藩
鳥取藩三十二万石――その藩祖・池田光仲は、織田信長の乳母兄弟である池田恒興を先祖とするが、光仲の実父・忠雄が徳川家康の孫であったことから、池田家は外様というより親藩意識が強く、じっさい江戸幕府においても一門に近い扱いを受けていた。
しかし十九世紀初め、鳥取藩池田家は、立て続けに藩主や後嗣を失うという不幸に見舞われる。
七代藩主斉邦が二十一歳の若さで亡くなったので、弟の斉稷が八代藩主を継いだが、その後嗣には将軍家斉の子・乙五郎を迎えた。ところが藩主になる前に乙五郎は病のために十五歳で亡くなってしまう。そこで斉邦の次男・斉訓が九代藩主となるも、彼もまた二十二歳で男児をつくらぬまま死去したのである。そこで池田家の分家から入った慶行が十代藩主を継承したが、これまた十七歳で早世する。
そこで鳥取藩では、慶行の弟・祐之進を慶行の仮養子にしたいと幕府に申請したところ、「加賀藩主前田斉泰の子(喬松丸)を養子とするように」と通達されたのである。
この話は、どうやら池田家の江戸家老など江戸の重臣たちが幕府と勝手に話を進めた結果だったようだ。そのため正式な決定が出て初めてこの事実を知った藩士たちは、大いに驚き、反発の声もあがった。
喬松丸は元服して慶栄と名を改め、十一代藩主として嘉永三年(一八五〇)に初めてお国入りすることになった。ところが京都の伏見にまでやって来たところ、にわかに頓死したのである。まだ十七歳だった。亡骸は、そのまま国元の鳥取へと運ばれた。初めての国入りが死体となって、というのも前代未聞のことであろう。
「毒殺ではないか…、」
加賀の前田家では、その急死を強く疑った。死因は脚気衝心とされたが、もともと慶栄の就封を国元の藩士たちは快く思っていなかったからだ。
こうしたこともあり、鳥取藩ではその疑いを解くためにも、次の藩主は幕府に全面的に依願して決めてもらおうということになった。結果、水戸藩(徳川御三家の一)主・徳川斉昭の五男を十二代藩主に迎えることになったのである。
名を五郎丸といったが、これが後の池田慶徳(よしのり)であり、鳥取藩最後の藩主であった。
実父斉昭の志を継ぐザ・名君
十六歳の嘉永五年(一八五二)、慶徳は初めて国元に入った。まだ若かったが、藩政改革を断行しようという強い決意に燃えて鳥取に入ってきたのである。
他の藩と同様、当時の鳥取藩も毎年三万両の赤字が増え続けるという非常に苦しい財政状況におかれていた。この体質をなんとしても解消しようとしたのである。
が、領民にはこれ以上、負担をかけるつもりはなかった。むしろ逆に、できるだけその負担を軽くしようと考えていた。
それは実父の斉昭の影響であった。
水戸の民芸品に、農人形という奇妙な置物が存在する。大きな米俵の横に、年老いた農夫が蓑笠を手に座しているものだ。なんとも不思議な構図だが、そもそもこの人形は、徳川斉昭がつくらせたものである。
斉昭は、この人形を毎日食卓に置いてご飯を供え、領内の農民に感謝しながら食事をとったという。なんとも奇妙な習慣だが、こうした行動は儒教の仁政思想から発していた。
「君主として民を慈しみ、領民が安心して暮らせる善政をほどこす」
それが、人の上に立つ者の天命である。そういう考え方を、儒教はする。斉昭は藩主就任の翌日、重臣たちに書簡で所信表明をしているが、そのなかに「愛民専一」という言葉が出てくる。そして実際、その四文字に従った藩政改革を断行したのである。
そんな斉昭は、慶徳が池田家を継ぐ際この農人形を贈り、藩主としての心得を懇々と説いてきかせたという。そこで慶徳も、この人形を座右に置き、食事のさいは先に人形に飯を備えたという。
慶徳は家中に対し、「農民が喜ぶような政治をせよ。下が富むようにせよ」と述べ、領民への負担を軽くしたのだった。さらに、藩校の尚徳館を拡充し、武道を伝習する「武揚」、下士の教育機関である「小文場」を設け、徒士以下にも通学を許すことにした。もともと鳥取藩には学者を軽視する風があったので、藩校責任者(学館御用懸、学校総督)にも着座家(家老クラス)の者をあて、学校役人の数も大幅に増やしたという。こうした教育の拡充によって、慶徳は藩政改革をになう有為な人材を育てようとしたのだ。
さらに、上書箱(目安箱)を設けたことも画期的だった。藩士たちから自由に政治上の意見を募ったのだ。現在、一九〇通以上の封書が現存するが、そのほとんどに慶徳自身の朱筆が入っている。すべての意見にきちんと目を通し、良いものは取り入れていったことが想像される。まさに慶徳は名君といえるだろう。
しかしながら、時は容赦なく激動の幕末期に入っていく。
倒幕派の圧力の中で
三十二万石の大藩であり、異母弟が一橋慶喜であるゆえ、慶徳もこの動きとは無縁ではいられなかった。
鳥取藩では、なるべく慶徳がそうした政争に関与しない方針をとった。文久二年(一八六二)五月に江戸から国元へ戻るさい、朝廷の公家たちが慶徳に上洛を要請したが、これに応じず帰国してしまっている。
しかし、こうした対応を慶徳の近臣で中老の堀庄次郎らが批判、慶徳に勤王を説いたこともあり、同年八月に慶徳は上洛し、幕朝間の融和・斡旋につとめるようになった。
ただ、慶徳自身は過激な攘夷運動を好まず、異母弟で将軍後見職にあった一橋慶喜同様、公武合体の立場をとっていた。だから文久三年八月十二日、天皇が軍勢を率いて大和行幸をおこない、そのまま攘夷の親征をおこなう計画を知ると、急いで参内して強く反対したのである。
すると、八月十六日に洛内の複数箇所に以下のような張り紙がなされた。
「松平慶徳 此者ひそかに二条家及び幕吏に通じ、恐れ多くも今般の御盛事を妨げ奉り、ひたすら幕威の挽回をあい謀り、段々奸計相い働き候条、神人共に許さざる大罪である。速に天誅を加う可き処、烈侯(父徳川斉昭)の神霊に対し、暫時死一等を減じ其首を預け置くといへ共、逆賊の悪名を千歳不朽に伝るもの也」(山根幸恵著『鳥取藩幕末秘史 因幡二十士をめぐる』毎日新聞社より)
なんと慶徳は、尊攘派から「逆賊」呼ばわりされたのである。
これに衝撃を覚えたのが、鳥取藩の尊攘派の面々であった。
「こうなったのも、慶徳公の側近たちが、公をそそのかした結果である」
そう信じた河田左久馬ら二十二名が、八月十七日夜、鳥取藩の京都における居所であった本圀寺に押しかけ、藩主の側役である黒部権之介、高沢省巳、早川卓之丞を次々と殺害し、加藤十次郎を自殺に追い込んだのである。
二十二名のうち一名は行方知れず、一人は切腹したが、あとは良正院に入っておとなしく罪を待った。
翌日、八月十八日の政変が起こった。過激な攘夷を嫌う孝明天皇の了承をえて、朝議が開かれ、結果、急進的な七人の公卿が追放され、尊攘派の中心であった長州藩が宮門の警備を解かれたのである。これにより尊攘活動は一気にしぼみ、政変後、朝廷では一橋慶喜、会津藩主松平容保ら公武合体派が力を握った。
この政変は、諸藩に大きな影響をあたえた。
たとえば土佐藩では、土佐勤王党の弾圧を一気に強めている。
しかしなぜか慶徳は、本圀寺事件を起こした尊攘派に死を賜うことなく、そのまま国元の僻地・黒坂(伯耆国日野郡)に幽居させただけで済ませている。
『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取博物館県立博物館)には、「かの河田左久馬等二十人の如き、其処置の遷延せるは、全く公が一同の誠心を思はれしに基けるものとす」とあり、おそらく尊攘派の思いも理解していたためかもしれない。
ただ、その後、河田ら二十士の多くは脱走して長州へと走り、倒幕活動に邁進していくことになった。
新政府成立と隠居勧告
いっぽうの慶徳は、これを機に京都での政治活動から足を洗い、病を理由にほとんど逼塞して藩政に専念するようになった。嫌気が差したのかもしれない。
ただ、元治元年(一八六四)と慶応二年(一八六六)に幕府が長州征討をおこなうが、このとき慶徳は、藩内尊攘派や慎重派を処罰してまでも征討軍に参加している(両方とも長州軍と鉾を交えることはなかったが…)。
ここから、幕府や京都を支配下する一橋慶喜と歩調を合わせていたことがよくわかる。
が、その慶喜が慶応三年十月十四日に政権を投げ出したのである。そう、大政奉還だ。
これにより幕府は消滅し、朝廷を中心とした新政府が誕生することがほぼ確実になった。 ところが十二月九日、薩長倒幕派が中心となって王政復古の大号令を発して新政府の樹立を明治天皇に宣言させ、その夜の小御所会議で、慶喜の辞官納地(慶喜の内大臣免職と徳川家の領地返上)を強引に決定したのである。これは倒幕派によるクーデターであり、辞官納地には徳川家を暴発させて武力で倒してしまおうとする意図があった。
この間、池田慶徳はたびたび朝廷や徳川家から上洛を求められたが、病気を理由に国元から動こうとしなかった。へたな政争に巻き込まれないようにしたのだろう。
しかし、翌明治元年正月早々、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
佐幕派が江戸の薩摩藩邸を焼き打ちにしたと知った大坂城の旧幕府軍が、ついに薩摩勢力の排除をかかげ、大挙武装して京都へ入り込もうとしたのである。そして、その入口にあたる鳥羽と伏見において、ついに新政府(薩長)軍と旧幕府軍が武力衝突したのだ。
このとき鳥取藩は、まことに機敏な動きを見せた。主導したのは、京都にいた家老の荒尾成章であった。戦いの勃発を知ると、ただちに藩兵を新政府方に合流させたのである。さらに数日後、旧幕府軍が敗れて慶喜が大坂城から逃亡すると、朝廷は慶喜を朝敵と認定した。すると荒尾は、藩主慶徳が慶喜の異母兄であることをもって、謹慎待罪願を朝廷に提出したのである。
それに対して新政府は、「それにおよばず」との回答をあたえたものの、なぜかその後、荒尾は新政府の総裁である有栖川宮熾仁親王から呼び出しを受け、
「慶徳公は、朝敵慶喜とは骨肉の間柄。まことに申しにくいことではあるが、万一のことがあっては池田家の傷になる。これを機に引隠されたほうがよろしいのではないか」
と引退を打診してきたのである。
すでに国元で謹慎していた慶徳だが、この話を聞いて引退の決意をかため、すぐに家老の和田壱岐を朝廷に遣わしてその旨を伝え、その後、家中にも公表したのである。
ところがである。なんと新政府は二月になって、「次の鳥取藩主には、慶徳の子・輝知が就くのが順当だろうが、この国難を幼君で乗りきるのは難しい。ゆえに池田家の分家のうち、適当な年長の者に当主を継がせ、輝知はその養子にしたらどうか」と家督相続に介入してきたのである。
これには藩士たちの多くが驚き、輝知が次期藩主になれるよう誓願運動が開始された。
ちょうど二月の末に山陰道鎮撫総督である西園寺公望が米子にきたので、鳥取藩士たちは西園寺に取りなしを依頼した。西園寺はそれを快諾し、新政府に働きかけた結果、同年四月、慶徳の引退と分家への当主譲渡の話はなくなったのである。
知藩事となり東京へ
ただ、同時並行で、藩内にはもう一つ別の難問が降りかかっていた。
かつて慶徳の側近を殺害し長州へ逃亡していた河田左久馬ら尊攘派を、新政府が「赦免して帰藩させろ」と鳥取藩に要求してきたのである。
だが、そんなことをすれば、本圀寺事件の遺族をはじめ、多くの藩士が反発し、藩内が分裂してしまう危険がある。
だが、長州藩士の宇多朔太郎と静間彦太郎がやって来て、盛んに鳥取藩に圧力を加えたため、ついに一月二十七日、慶徳は彼らを赦免し、帰参を許したのである。
ただ、これによって藩内の動揺を心配した慶徳は、本圀寺事件の被害者遺族に対し、「朝廷御一新のとき、これは止むを得ない措置なので、どうか理解して堪忍してほしい」と諭しの書をあたえて暴発をおさえようとした。
結局、河田ら尊攘派は、戊辰戦争に参加してすぐに帰参することはなく、騒動は起こらずに済んだ。
ちなみに河田は、東山道征討軍総督の参謀として抜群の働きを見せた。また、鳥取藩軍も最初から鳥羽・伏見の戦いに新政府方として参加し、その後も新政府軍に多数の兵力を提供、大きな働きを見せたため、慶徳は戦後、三万石という破格の賞典禄をあたえられることになったのである。
箱館五稜郭が陥落した明治二年、政府は版籍奉還を命じた。大名に土地と領民を朝廷に返還させたのである。だが、これはあくまで形式的なもので、その後も大名は知藩事という政府の役職に任じられ、そのまま藩政をとった。
新政府は、各藩に近代的な改革を求めたが、慶徳もその意を奉じて「改正ノ大旨決テ新法ヲ好ムニ非ス、旧習ヲ破リ理ト情トヲ斟酌シ、弊政ヲ変ジ良法トナス」と改革の強い決意を家中に示した。しかし明治三年十一月、慶徳は東京への政庁移転を決意する。
新政府の政策が日々変わるなかで、鳥取を拠点にしていたのでは時勢にうとくなり、藩政改革の実をあげることができないと考えたからだ。領民に対しては「知藩事である自分をはじめ、藩の役人を東京へ移すつもりである。どうか藩領をないがしろにして東京に移住しようとしているという心得違いをしてはならぬ」という論告をしている。
ただ、これを知って家老の田村貞彦は「君には私共を御見限りになるのか」(本多肇編『因伯藩主池田公史略』鳥取史蹟刊行会)と泣いたといわれ、かなりの動揺があったようだ。
いずれにせよ、こうして藩政改革の成果は徐々に上がりつつあった明治四年七月十四日、新政府はまるでクーデターのごとき廃藩置県を断行したのである。
全国の知藩事(大名)を東京に集め、薩長土三藩の御親兵(八千)を軍事力として、藩を廃絶して中央政府から県令をおくって地方を統治するとした。
東京にいた池田慶徳は、二日後の十六日に筑波小次郎を鳥取へ派遣してこの事実を報じ、同時に筑波に藩士と領民宛の次のような訓示を託した。
「このたび、新政府が万国と並び立つために陋習を去り、因襲の弊風を改め、郡県制の基礎をたてられた。私は免官となり、大いに喜んでいる。将軍慶喜は政権を朝廷に返したが、幕府の役人は大勢を察せず、大義を知らず、ついに方向を誤った。だから朝廷に征伐された。このとき私は病に伏していたが、おまえたち藩士と領民に大いに助けられた。深く感謝する。その後、版籍奉還によって世襲の大名は、知藩事という新政府の役人になったのに、それを理解できず旧習を残し、新政府と異なる政策がなされることも少なくなかった。だから新政府が藩を廃して世襲の知藩事を免じ、広く人材を求めるのは正しいことである。だからおまえたちも、新政府の政策を理解し、大義を守り私心を去り、決して動揺せず、ますます鳥取県の役人は県政を助け、兵士は朝廷を守護し、元藩士たちは領民に諭して県令に従わせてほしい。それが私の望みである。どうか理解してほしい。もしこれを不満に思って反発すれば、私の身の置き所がなくなってしまう。どうか私のため、落ち着いて新政府の命令にしたがってほしい」
こうした措置もあり、鳥取藩には動揺はみられなかた。
翌明治五年六月、慶徳はまだ三十六歳の若さで隠居した。
息子の輝知と佐賀藩主鍋島直正の娘・幸子との婚姻が決まったからである。
東京における慶徳の生活だが、明治二年七月には兄弟たちを誘って久しぶりに故郷水戸へ戻り感慨に浸っている。また、実父斉昭の正妻である貞芳院や祖母の瑛想院が江戸の水戸藩小梅邸におり、慶徳が住む寺島邸と近かったこともあり、たびたび慶徳は小梅邸に立ち寄っては彼女たちのご機嫌を伺い、時には連れ出して所々を遊覧し、孝行に尽くしている。
慶徳の趣味は、和歌をつくることだった。父の斉昭が昔「歌は本朝尊ぶところなれば、詠出づるがよし、文字を知るは詩がよけれど、人を感じせしむるは歌ならでは叶はず」(『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取博物館県立博物館))と言ったこともあり、いつのまにか趣味になり、数千という膨大な自製の歌が残っている。とくに明治時代になってからは、あちこちの歌会に参加し、「読師」などもつとめる名人になった。
酒の席で興が乗ると、催馬楽や小謡なども歌った。家臣の屋敷にも、気軽に出かけていった。晩年はことに劇場で観劇を楽しんだという。上野の博覧会や横浜のガス灯など、欧米の先進的なものにも興味をもち見物に出かけている。
明治五年四月、台所から火が出て本宅が燃えてしまう不幸に見舞われたが、その後は寺島別邸に遷り、悠々自適の生活をおくり、華族の親睦団体である華族会館(のちの霞会館)の設立・運営にもたずさわるようになった。
同年六月にはついにチョンマゲを落としている。翌明治六年三月には久しぶりに鳥取県へ戻り、先祖の墓参りをはじめ、各所をめぐった。鎌倉や熱海などに遊ぶこともあった。
そんな穏やかな生活が明治八年十一月二十四日に一変する。
なんと、分家の池田徳澄が慶徳を東京上等裁判所に告訴したのである。
これを知ってさすがの慶徳も驚いたろう。
じつは、これには複雑な訳がある。
困った親類
池田徳澄は、鳥取藩の支藩(分家)にあたる因幡鹿奴藩の最後の藩主(十代目)である。もともと九代藩主の池田仲建の従弟だったが、仲建が自殺を遂げたことで急遽、翌慶応元年(一八六五)に藩主となったのである。まだ十二歳の少年であった。
しかし三年後の戊辰戦争で活躍し、さらに陸軍に入って少尉試補となり、佐賀の乱の平定に大いに活躍した。軍人としての才能があったようだ。
そんな徳澄と本藩の慶徳との確執は、徳澄の実母・木村松野が原因だった。
松野は、因幡鹿奴藩池田家の一族・仲諟との間に徳澄を生んだが、何か失態を犯したらしく離縁されてしまった。彼女はやがて商人と結婚し、さらにその後、別の男性と所帯を持った。
ところが、息子の徳澄が藩主になると、同家の老女・浪瀬に取り入り、「夫と別れて尼になるから、徳澄の側にいたい」と哀願したのである。これを哀れんだ浪瀬は、重臣や徳澄の養母楽山に伝え、その同意を得たので徳澄と対面させた。同家では、松野に養子をとらせ、その養子を鳥取藩の士籍に入れ、松野の暮らしが立つようにしてやったのである。
しかし松野はその後、藩主の実母であり徳澄の信頼もあつかったので、次第に台所一切の事務を統括するようになり、さらに政務にも口をはさみはじめた。驚いた楽山は、密かに本藩の慶徳に相談、そこで慶徳は徳澄に忠告をあたえた。
しかし徳澄は言うことを聞かず、ために楽山と正子(徳澄の正室)の女中たちは、松野と対立するようになった。こうした状況を心配した家令の大塩弥は、徳澄に諌言した。
さすがに徳澄は、松野を屋敷から出して長屋へ移し、今後は家政にはタッチさせないと約束した。だが、それからまもなくの明治六年十一月、徳澄の正室・正子が頓死してしまった。医師の検死でも、病気の形跡が見つからない。そこで家中はその死を疑ったという。
しかもこれ以後、再び徳澄は松野と会うようになり、大塩がこれを諫めても言うことを聞かず、池田家の家財を徳澄が手元に集中するようになった。あきれた大塩は、職を辞して鳥取へ帰ってしまった。以後、松野が家政をにぎり、徳澄も浪費をくり返し、鹿奴池田家の財政は傾いていった。
明治七年に陸軍少将試補になって佐賀の乱の平定に赴いたのも、事前に慶徳ら親族には相談がなかった。さらに翌年、勝手に軍人を辞めてしまっている。このように徳澄は、「初志ヲ失ハス、勉励従事スヘキ旨、毎々慶徳ヨリ説諭スレトモ用イス」、「懈怠奮発ノ気ナク、家事亦益調和セサルヲ以テ、恕己、屡諫ムレトモ聴カス」(『前掲書』)という態度をとり続けた。
明治八年六月二十七日、徳澄の養母・楽山が自刃してしまったのだ。徳澄の言動に絶望して自殺したのだ。ところが徳澄はその死を知ると、すぐに遺体の衣装を改め白衣を着せ、血の着いた畳をぬぐうなど、自刃した状況を消し去ってから、ようやく親族に知らせたのである。じつは徳澄と松野は当日、美濃屋金七の屋敷に招かれ、深夜までどんちゃん騒ぎをしており、楽山が自殺したことをずっと知らなかったのだ。検死の報告書には、徳澄は当日邸内にいたことになっていた。遊びほうけていたのがばれるのが嫌だったのだろう。
その後も重臣や親族がいくら諫めても徳澄が改心する風もなく、ついには短刀を常に手元に所持するなど、行動も不審になってきたので、慶徳は親族と相談のうえ、ついに大きな決断に出た。徳澄から実印を取り上げ、隠居を迫ったのである。
徳澄はおとなしく言うことを聞き実印を渡したが、やがて屋敷から姿をくらまし、明治八年十一月、にわかに裁判所に慶徳ら親族を訴えたのである。
さらに驚くべきは、判決の出る前(明治九年十二月十三)、徳澄が病にかかってあっけなく死んでしまったことであろう。二十三歳であった。
その十数日後の三十一日、判決が下った。なんと裁判所は、慶徳らが「其処置穏カナラサルヨリ、紛々ヲ生シ、却テ、卑幼タル徳澄ノ告訴スルニ至ラシ」(『前掲書』)めたのだと決を下したのである。
慶徳にとっては、長い間、おかしな親族に引きずり回されたうえ、後味の悪い決着となった。
西南戦争の渦中に急逝
明けて明治十年、周知のように西南戦争が勃発する。
池田慶徳は、明治天皇の大和行幸の先発として一月に京都へ赴き、そこで車駕を迎えたが、戦争が発生すると、旧領に対して「動揺せず、西郷軍に参加してはならない」と諫め、大阪で負傷兵を慰問した。
また、政府の苦戦を知るや、四月、志願兵の徴募に応じるよう旧領に書を送り、六月にはみずから現地へ赴いて、「いまだ戦争が終結する様子がない。陸軍省は一万人の兵を募集している。我が鳥取士族もぜひ加わってほしい」と演説したのである。
この結果、陸軍から千人の兵を集めて欲しいと依頼されていたところ、なんと二千余名が応募してきたのである。きっと慶徳も鼻が高かったろう。
さらにこのとき、士族授産のために銀行の創立を計画した。また、旧領の学校や神社・仏閣、先祖の墓なども巡り、親しく旧領民とまじわり、七月二十日に京都をへて大阪から列車で東京へ戻った。
その後、天皇が東京に戻ってくるというので神戸まで出迎えに行き、そのまま供奉して京都に滞在していた。八月に入り、数日間、慶徳は軽い風邪を引いていたが、八月二日夜もふつうに来客と談笑していた。
ところが、なぜかその日は、数十年書き続けている日記を書こうとしなかった。
そして同夜、容体が急変したのである。分家との裁判沙汰、西南戦争での募兵、銀行の設立、華族会館の業務、とにかくここ二年間は多忙と気苦労の多い毎日だった。
伝記にも「多年の御心労の発しけるにや、暴かに御病起りて」とある。
「医師両名も来りて」、「介抱医療に手をつくしたれど、急性の御病とて其効なかりき」、「是暁午後三時、遂に薨去せらる」、「御病名急性肺加答爾炎」(『前掲書』)であった。まだ四十一歳であった。
臨終の場に駆けつけた数少ない家臣の中に河田景与がいた。この男は以前、河田左久馬と名乗っていた本圀寺事件の主犯格である。
戊辰戦争で活躍して新政府に登用され、兵部大丞、京都府大参事、弾正大忠、民部大丞兼福岡藩大参事、鳥取県権令などを歴任、このときは政府高官に成り上がっていたのだ。
もし慶徳が寛大な処置をしなければ、河田のいまはなかったはず。おそらく臨終に立ち会って、河田の心にさまざまな思いがこみ上げてきたことだろう。
水戸家という縁もゆかりもないところから鳥取に来た池田慶徳は、十四歳で藩主となり、その誠実さと勤勉さでよく藩をまとめ、維新後も領民を気にかけ、国家のために大いに尽くし、飄然と此の世から去っていったのである。
<参考文献>
山根幸恵著『鳥取藩幕末秘史 因幡二十士をめぐる』毎日新聞社
『贈従一位池田慶徳公御伝記四』(鳥取博物館県立博物館)
『贈従一位池田慶徳公御伝記五』(鳥取博物館県立博物館)
本多肇編『因伯藩主池田公史略』(鳥取史蹟刊行会)
児玉幸多監修『新編物語藩士 第七巻』(新人物往来社)
『鳥取県史 近代 第二巻政治篇』(鳥取県)
河手龍海著『鳥取池田家 光と影』(富士書店)
笹部昌利著「幕末政治と鳥取藩」(『企画展 「鳥取藩二十二士と明治維新」図録』
(鳥取県立博物館)より)
藤澤匡樹著「慶応4年前半の因州藩における内紛とその処理について」(『アジア地
域文化研究.第10号』東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究
会より)
<編集部より>
河合先生の連載「お殿様は明治をどう生きたのか」は、
今回をもちまして終了となります。
ご愛読ありがとうございました。
>洋泉社歴史総合サイト
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