改革に邁進する英明な藩主
九鬼隆義は、九鬼の宗家としては十四代にあたる。九鬼といえば、戦国時代に織田水軍の主将として活躍した九鬼嘉隆がよく知られている。関ヶ原合戦で嘉隆は西軍につき、東軍に荷担した息子の守隆と争うが、西軍の敗北を知って逃亡後に自刃した。家康はその後、守隆に鳥羽城と志摩領(五万六千石)を安堵したが、その息子の隆季と久隆が家督争いをはじめた。そこで幕府は、家督を継いだ久隆を摂津国三田(三万六千石)へ移し、不満を持ったその兄・隆季に丹波国綾部(二万石)を与えて騒動を決着させたのである。こうして九鬼氏は、二つに分裂してしまったのだ。
隆義は、そんな摂津三田(さんだ)藩の第十三代藩主である。もともとは綾部藩主・隆都の三男として生まれたが、十二代三田藩主精隆が急逝したため、隆義がにわかに藩主となって三田へ入ったのだ。
文久二年(一八六二)六月十二日、隆義は家臣を全員集めて藩政改革を宣言、広く家中に意見を求めるとともに、藩校「造士館」の教授だった白洲退蔵(白洲次郎の祖父)を側用人改革掛に登用して改革を進めていった。
まずは倹約令を発して家臣や領民に衣類や食事など生活全般の節制を徹底させたが、興味ぶかいのは火葬を厳禁したことだろう。その理由として、火葬は犯罪者を火刑に処すのと同じあり、父母に対する不孝にあたるとしたのだ。
また、不道徳な僧侶を厳しく取り締まり、領内各所に存在する寺院や神社の合併・統合を進め、農地にある寺社林については、これを容赦なく伐採させ、跡地を田畑にせよと命じたのである。
さらに領内の長寿者や孝行者を積極的に表彰していった。こうした儒教的な政策は、白洲退蔵が儒者であったことが大きく関係しているといわれている。
地方制度の刷新にも手を入れ、長年、郡奉行として実権を握っていた隆屋甚平を除き、新たに武藤緝次郎や大原辰五郎などを郡奉行に抜擢して効率的な地方支配を実現していった。
くわえて教育制度にも力を入れた。「これからは知識を獲得することが重要だ」という隆義や退蔵の信念のもと、郷校を領内各所に設置し、七歳から十二歳の領民(男女共)を入学させ、藩士を教師として彼らに初等教育を受けさせた。校舎には廃絶した寺社の堂をあて、その経費は先述した寺社林の跡地につくった田畑(学田)などからの収入をあてた。しかし、それだけではとてもまかなうことができず、領民たちにも学校経費を負担させたのだった。陣屋のある三田町においても「市学校」が設立され、町中の子供たちをこの学校で学ばせたが、やはりその経費は町費から捻出させた。
足軽制度も改め、その呼称を「下卒」として明確に武士階級に組み入れ、禄については一律化を進めていった。いっぽうで彼らの中から有能な者を積極的に登用していった。慶応年間には軍制改革も進め、大量の鉄砲と弾薬を購入して洋式歩兵軍を創設している。この頃になると、隆義や退蔵は、西洋文明の積極的な導入をはかり、安価な外国製品を大量に購入する方針を決め、藩士の服装についても筒袖にズボンとすることに決め、幕府にその許可を求めた。残念ながら幕府はそれを認めなかったものの、隆義自身は髷をやめて総髪にして後ろを結び、洋装するようになったとされる。
親徳川派として迎えた明治維新
だが、慶応二年に幕府の征討軍が長州藩に敗れると、三田領内でも治安が悪化し、「ええじゃないか」の乱舞が伝搬し、放火騒ぎがおこるなど人心は不安定になっていった。
慶応三年十月、大政奉還によって幕府は消滅するが、隆義は徳川家に忠誠を誓う誓詞を差し出し、家中に対しても「徳川のために領地を返上し、身をささげる覚悟である」と述べている。かなりの親徳川であったことがわかる。
ただ、その思想は開明的で、王政復古の大号令が出され、新政府が樹立されると、「今後は議会を開いて共和政治をおこなう必要がある」と主張している。ただし、政権の中心はあくまで徳川家であり続けるべきだという信念から、十二月一日に隆義は、徳川家に対して「朝廷から徳川家が再び政権の再返上を受けた上で、諸大名と諸士による公議政体を実現してほしい」と上書を提出し、徳川主導の連合政権をとなえたのである。
しかし、それからわずか数日後、薩長倒幕派によるクーデターで王政復古の大号令が出され、慶喜に対して辞官納地(官職の辞任と領地の返上)が命じられてしまった。こうして成立した新政府は、諸大名に上洛を要請したが、このとき隆義は、江戸に滞在したまま動こうとしなかった。いっぽうで三田藩士たちの大半は、こうなってしまった上は朝廷の新政府にすみやかに従うべきだと主張、国元にいた家老の九鬼主水などは、「もし主君の隆義が帰国しようとせぬなら、家中一同で江戸へ押しかけてお帰りいただこう」と言い始めたのである。こうした状況を知った隆義は、しぶしぶ十二月末に江戸を発って海路三田へ向かった。
が、その途中、政情が一変する。鳥羽・伏見の戦いがはじまり、あっけなく旧幕府軍が薩長を中心とする新政府軍に敗れ、徳川慶喜は部下を見捨てて大坂城から江戸へ逃げ戻ってしまったのである。
本来なら、兵庫の港に着いた隆義は朝廷のある京都へ入るべきだったが、病を理由にそのまま三田へ戻ってしまったのだった。そして家臣の星崎佐左衛門を京都へ遣わして新政府に対し、「病気が癒えたらただちに上洛いたします」と連絡し、その後は有馬温泉に湯治に出かけるなど、なかなか新政府へ出仕しようとしなかった。ようやく隆義が京都へ入ったのは、すでに江戸無血開城も終わり、徳川が静岡の一大名に転落した慶応四年七月のことであった。
一揆勢に囲まれ暴行される!
翌明治二年、二年にわたる凶作や重税に対し、領民たちは三田藩庁に年貢の減免を願い出るようになった。しかし藩庁は願いを許さず、厳しく税を取り立てようとしたため、同年十一月に農民一揆が発生、多くの農村を巻き込みつつ一揆勢は増大し、三田町の三田藩庁を目指しはじめた。
驚いた隆義は家中に総登城を命じ、会議の結果、みずから白洲退蔵らとともに農民たちの説得にあたることにしたのである。こうして馬に乗って一揆勢が集まるところへ乗り込み、「おまえたちに願いがあれば、必ず話を聞いてやるからすぐに解散せよ」と大音声で群衆に呼びかけた。これによって、藩主自らがやって来たことを知った農民たちは、ぞろぞろと隆義のところへ集まりだし、彼を取り囲んだうえで石や木を投げつけたのだ。この騒ぎに馬が驚き隆義は落馬してしまうが、すると、農民たちは藩主に手をかけ、着ていた陣羽織を引き裂かれ、もみくちゃにされた。白洲の乗っていた駕籠などは破壊されたうえ、溝に捨てられたという。
このとき隆義は、東上野村で庄屋をつとめる喜兵衛に背負われ、ほうほうの体で藩庁に帰りついた。これを見た藩士たちは鉄砲や刀で一揆に対応しようと叫んだが、結局、武力鎮圧は実施されず、翌日になると、多数の農民たちが陣屋の門外に集結し、藩庁に対し「改革派の白洲退蔵や小寺泰次郎の免職や追放。代官の差し替え。九鬼兵庫の家老就任。かつての地方制度の復活。年貢の六割引き。伝統的葬式方法の復活。学校の廃止。食用として牛を殺害することの禁止。寺社林の伐採禁止」などを要求してきたのである。同時に一揆勢の一部が、町の豪商の屋敷をいくつか襲撃して破壊する過激な行動に出たのだった。
福沢諭吉の助力で、一揆の黒幕に対峙
これまで隆義が藩や領民によかれと思って進めてきた藩政改革による近代化・効率化が全否定されたわけだ。しかも領民から直接暴行をうけのだから、隆義は、おそらく相当なショックを受けたことだろう。
それでも隆義は、首謀者を処罰しないことを約束し、一揆の要求を人事刷新以外は基本的に受け入れる態度をみせた。このため農民たちは帰村し、一揆は終息した。
が、翌月になると、隆義は態度を豹変させる。各郷の代表者を集め、徹底的に取り調べて首謀者を処分すると宣言、自らも積極的に関係者の事情聴取をはじめたのである。
というのは、この一揆の裏に僧侶や新政府の弾正台が関与していることが明らかになったからだ。寺社林を伐採したり、寺院を統合する隆義の改革に反発し、領内の僧侶たちが密かに一揆を先導していたようなのだ。
また、弾正台は新政府の監察機関だが、政府の主流派から外された攘夷主義者の拠点になっており、洋化主義をかかげて改革を進める三田藩が気に入らなかったらしい。じっさい、一揆が起こる数ヶ月前、弾正台は三田藩の公議人(重臣)である九鬼求馬を京都に呼びつけ、三田藩が神社を破壊し、鎮守の森を伐採した事実、藩士に廃刀を命じ、洋服を着用させていることなどを厳しく糺している。どうやら、この弾正台が一揆の首謀者であった惣左衛門、市右衛門らと気脈を通じ、三田藩に混乱を引き起こしたようなのだ。
これを知ったからこそ隆義は、にわかに態度を改めたのである。
隆義は首謀者として惣左衛門を処刑し、被害を与えた商家に対し一揆側に五百両を弁済させたのだった。
すると案の定、弾正台が動き出した。今回の一揆について取り調べるとして、弾正台が京都に白洲退蔵を喚問したのである。これに対抗するため、隆義は懇意にしていた福沢諭吉を通じて政府の実力者・岩倉具視に働きかけた。このため隆義は新政府のお咎めを免れ、翌年、新政府は保守的な弾正台の権限を大幅に削ってしまい、三田藩の危機は去ったのである。
じつは隆義は、福沢諭吉と非常に親しい関係になっていた。三田藩の藩医出身の川本幸民が二人を取り持ったのではないかと考えられている。川本は江戸で蘭学を修得し、マッチやビールの試作、写真術などで名を高め、幕府の蕃書調所の教授となり、同じく幕臣に取り立てられた福沢と懇意になったのだった。
隆義が学校を重視したのも、やはり諭吉の影響であろう。明治二年四月に隆義が東京へおもむいたときは、親しく諭吉と語らい、諭吉の著した『世界国尽し』を教科書として購入したり、そのアドバイスを受けて本格的な洋学校の建設を計画するようになっている。
際立つ先見の明
さらに隆義は明治三年十一月に白洲をともなって有馬温泉へ行き、そこで諭吉と話し合いをおこなった。隆義は、他藩に先んじて廃藩を断行するつもりでいた。そのさい、藩士たちを集団で八幡屋新田(大坂の天保山近く)に帰農させ、同地に慶應義塾と提携して洋学校を設置しようという構想をもっており、諭吉に岩倉具視と三条実美への根回しを依願していたのである。
諭吉は隆義の先見性に感服し、全面的にこの計画に協力する予定であった。
隆義は、四民平等の観点から藩士たちに武士の身分を捨てさせるつもりでいた。すなわち、士族の籍を抜かせて平民とし、創設した洋学校に彼らを入学させ、新しい世に対応できる学芸を身につけさせ、独立自尊の精神をもって自活できるようにしようと考えていた。その費用を藩庫から拠出する許可を得ようと、明治四年五月、隆義は政府に願書を提出したのである。
その月のうちに隆義の申請は許可されたが、その構想が実現することはなかった。
なぜなら、それからわずか二ヶ月後、薩長土肥による廃藩置県というクーデターがおこり、瞬時に藩が消滅してしまったからである。
こうして八幡屋新田への土着構想はうまくいかなかったが、他藩のように領内に土着する三田藩士は少なかった。明治三年の農民一揆によって領民と藩士の関係は悪化していたからだろう。領民に裏切られたかたちとなった隆義も、三田には戻るつもりはなかった。
隆義と重臣たちは、諭吉が「必ず将来有望な土地になる」と断言していた開港場を持つ神戸に多くの土地を買い、明治五年、志摩三商会と称する会社を立ち上げたのである。 この会社は、土地の売買、西欧の薬や医療器具の輸入販売、銀行的な業務などを展開、莫大な利益をあげていった。さら同社はその後、元町や三宮の開発、神戸女学院の設立に関与するなど、神戸の発展に大きな影響を与えることになったのである。
明治十五年になると、隆義は宮内省に入り、その後、貴族院議員をつとめた。
すでに明治初年からキリスト教に関心を持ち、明治六年に娘が亡くなったさい、キリスト教式の葬儀をおこなっている。同年、キリスト教が政府に黙認されると、妻子とともに神戸の教会に通い、ついに明治二十年に洗礼を受けてクリスチャンとなった。
しかしながら旧臣や三田領内の寺院が強く反発したこともあり、棄教を余儀なくされた。 そして明治二十四年、五十五歳で生涯を閉じたのだった。
明治の世になって商社を経営し、クリスチャンになった殿様というのも何とも珍しい。
<参考文献>
『三田市史 第1巻 通史編Ⅰ』(三田市)
『三田市史 第2巻 通史編Ⅱ』(三田市)
>洋泉社歴史総合サイト
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