はじめに
あっという間に12月に突入です。月日が流れるのは早いものです。12月3日(土)は十六世紀史研究学会の現地見学会「高城氏の故地を歩く」を開催し、3時間ほどかけて国府台(千葉県市川市)ほかの高城氏のゆかりの地を歩きました。歴史の話に花が咲き、とても楽しかったです。
大河ドラマが放映されますと、ゆかりの地を歩くべく、大勢の人がやってきます。交通の便の悪いところは、行政が主導して、バスなどの臨時定期便が運航されるようです。また、ボランティア・ガイドの人々がいろいろと案内をしてくれます。ありがたいことです。
ただ、大河ドラマが終わってしまうと、そうした各種サービスは終わってしまい、元の姿に戻ってしまいます。賑わいもすっかりなくなってしまいます。毎度申し上げているとおり、大河ドラマによる様々な効果は1年限りですので、持続性を持ってほしいものですね。
さて、今回の「真田丸」はどうだったのでしょうか。
敵の裏をかく
相変わらず和睦のことで、ぐだぐだ揉めております。家康(役・内野聖陽)は和睦を結んで、大坂城から牢人たちを退去させ、一斉に大坂城を攻めて、豊臣家を滅亡させようと思っております。逆に、幸村(信繫。役・堺雅人)もそうした家康の意図を読んでいるようですね。互いに腹の探り合いです。
ここで、幸村は家康を討とうとして、敢えて徳川方に通じている織田有楽斎(役・井上順)の前で作戦を披露します。それは、翌日に家康が出立したとき、暗殺しようとする計画です。ここからが少し面倒くさいのですが、幸村は有楽斎が家康にこの作戦を通報すると睨んでいたのでした。
有楽斎が通報したならば、家康は翌日を待たずに即座に出発するでしょうから、その裏をかいて当日の夜に刺客の佐助(役・藤井隆)を差し向けようとしたのです。まあ要するに、さらに家康の裏をかいたということになりましょう。テレビを見ている人は、有楽斎はスパイじゃないのと気付いているはずですが、豊臣家の人々は気付いていなかったのですかね。バレバレの雰囲気はありましたが。
佐助はいよいよ出発というときに、「きり」(役・長澤まさみ)の前に姿をあらわし、家康の暗殺に成功した暁には「結婚してほしい」と申します。すると、即座に「きり」は、「ごめんなさい!」と断ります。佐助は一言も発せず、忍術を使って姿を消します。
これは、昔、とんねるずが司会をしていた「ねるとん紅鯨団」のパロディと申しますか、オマージュと申しますか、この期に及んで、なんでこんな演出が必要なのかと、非常に理解に苦しみます。こういう演出があるからこそ、三谷幸喜さんらしいのでしょう。
ともあれ、佐助は家康の部屋に侵入して、ついに刺し殺すことに成功します。むろん、テレビを見ている人は家康が殺されるはずがないので、「きっと嘘だろう」と感じたはずです。案の定、佐助が殺したのは影武者でした。ちゃんちゃん!
家康に影武者がいたということは、昔からまことしやかに語られてきました。この点については確かな証拠がないので、証明するのは極めて難しいといえましょう。これは家康だけではなく、武田信玄などにも言えることです。居たか居なかったかで揉めるのは生産的ではありません。
ところで、ずっと以前ですが、徳川家康の講演会を拝聴したとき、聴講者が質問の際に「家康には影武者がいた」と長い時間にわたって自説を展開し、講師の方も主催者もお困りでございました。こういう質問はほどほどにして、執拗に食い下がるのはお止めいただきたいものです。
有楽斎、大坂城を去る
こうして作戦は失敗に終わるのですが、幸村も有楽斎も次の手段を考えていたようですね。しかし、ついに有楽斎の悪事は露見し、幸村に問い詰められることになります。幸村は薄々と感じていたようですが、だったらもっと早く対処したらと思ったのですが・・・。
詰問された有楽斎は、「わしは命乞いなどせぬ!」とかっこいいことを言いますが、殺されそうになると「待て」と言います。やはり、命が惜しかったんだ、と。幸村は有楽斎に大坂城からの退城を命じ、ついに有楽斎は豊臣家を去りました。対応が遅かったね、と思いました。
ドラマのように、幸村と対立して(あるいは命じられて)、有楽斎は大坂城を退城したのではありません、以下、その概要を確認することにしましょう。
有楽斎が大坂城を去ろうとしたのは、埋め立て完了後から約1ヶ月が経過した、慶長20年(1615)2月26日にさかのぼれます(『駿府記』)。有楽斎は使者の村田吉蔵を駿府に派遣し、大坂城を出て京都か堺あたりに引き籠りたいと申し出ました。
別に徳川方の庇護を求めたわけでもなく、理由もよくわかりません。さらに3月28日、有楽斎は後藤光次に宛てて、「私は上意に任せて未だ大坂城におりましたが、ここにおりましても私の献策は取り入れられません。早々に大坂城から退くことを執り成しいただきますよう、本多正純様に申し入れました」と書状を送っています(『譜牒余録』)。
この史料にある「上意」とは、家康あるいは秀忠の意向でございましょう。つまり、有楽斎は幕府の意によって、大坂城にあったのですが、どうも豊臣方からすれば、スパイのように思われていた節があります。疑惑の目を向けられたようですね。
豊臣方に尽くしたという点は、これまでの有楽斎の和睦に取り組む姿を見ると、これまた疑いないところでございましょう。そうなると、先の「上意」とは、徳川方と豊臣方の友好関係を築くために、家康あるいは秀忠の意向ではなく、豊臣方にあったと見るのが自然ではないでしょうか。
牢人衆の扱いなどをめぐって、さまざまな問題が発生していましたが、有楽斎はそうした家中のさまざまな意見の相違に苦しめられていたようです。
4月13日、有楽斎とその子息・尚長は、名古屋の家康の前で豊臣方の情勢について、「大坂方の情勢は、諸浪人とあわせて三つに分かれております。つまり、①大野治長、後藤基次、②木村重成、渡邊糺、真田信繁、明石掃部、③大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永、仙石秀範の三つということである」と語っています(『駿府記』)。
徳川方との融和を図ろうとする有楽斎にとっては、自分の意見がまったく通らないとなると、その存在意義が失われたといえましょう。つまり、有楽斎が退去した理由は、大坂方の派閥抗争に巻き込まれ、徳川方と豊臣方の友好関係を築くという所期の目的が達せられなかったため、図らずして城を出ざるを得なかったというのが事実と考えられます。
ぐだぐだの豊臣方
このあと秀頼(役・中川大志)は、なぜか四国に移っても構わないといい、幸村も大いに賛同します。理由は気候が穏やかで暖かいから。リゾートかよ! 幸村は、四国が大坂や京都に近い、とそっとフォローしますが・・・。ここで、四国領有をめぐって、長宗我部盛親がごちゃごちゃ言いますが、淡路でいいと。取らぬ狸の何とかというやつですな・・・。
実際、豊臣方が時を経て、別の場所に移っても構わないと考えたかどうかは不明です。おそらく、和睦の時に大坂城にかなり固執していたのですから、将来的にも出ていく気持ちはなかったように思います。まあ、幸村らは移ることを最後の手段に取っておきたかったようですが。
おまけにせっかく和睦を結んだのに、大野治房が無断で金銀を持ち出し、牢人たちにばらまく始末。牢人たちはもらった金で武器を買い、次の戦いに備えます。これでは徳川方から疑われること間違いなしで、幸村と大野治長は大いに困り果てます。
この頃、大坂城から牢人たちが退去することなく、逆に大勢押し寄せていました。しかも、兵粮や武器が次々と運ばれてきて、もはや和睦状態は破綻していたようですね。こうして、両者は再び大坂夏の陣で戦うことになるのですが、次が楽しみです。
おわりに
大坂の陣は結構時間を割いているのですが、もっと見どころが欲しいなというのが正直な感想です。幸村はドラマの主人公なので、どうしても活躍させねばならず、いろいろと苦労もございましょう。もう少しなので頑張ってください(というか、撮影自体は終わったか)。
今回の視聴率は16.1%と少し上がりました。BSのほうは前回より少し下がり、5.1%の視聴率となりました。上がったり下がったりで難しいですね。
>洋泉社歴史総合サイト
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