町奉行所与力の美味しすぎる役得

 

 今回のテーマは、幕府の役人の役得と賄賂。ひと口に幕府の役人と云っても、寺社奉行・町奉行・勘定奉行といった三奉行から、各種小役人までさまざまだが(さすがに老中や若年寄のような大名は役人とは呼べない)、今回は町奉行所与力の役得(役職に就いていることによって得られる俸給以外の収入)と賄賂(ずばり収賄)に注目してみたい。

 資料は、『江戸町奉行事蹟問答』。江戸町奉行組与力を務める家に生まれ、12歳で与力見習を務め、維新後も東京裁判所などで勤務した佐久間長敬(18391923)の昔語りをまとめた興味深い文献だ。

 まずは役得から。佐久間は「御用頼」(ごようたのみ)によって、与力が江戸の諸藩邸等からすくなからぬ金品を贈られたと語っている。たとえば訴訟をどのように処理すべきか判断に窮した某藩邸から留守居役(藩邸の渉外担当)が与力のもとを相談に訪れ、質問を受けた与力は、さっそく判例を調べて回答する(「忽ちに例証を調べてこれを教ふ」)。これを「御用頼」と言い(質問を受ける与力のことも「御用頼」と称した)、急に質問を受けて即座に回答できる与力は、「御用弁の者」(職務に通暁した者)とされ、おのずと依頼される回数も多かったという。

 佐久間自身も、278歳になると「御用頼」が殺到するようになり、諸藩邸等から朝夕10人(日に20人)、多いときは2030人(日に40から60人?)にのぼった。それぞれが謝礼の金品を差し出したのは言うまでもない(「到来の目録物品は積て山を為す事あり」)。それでも不正に関わるわけではないから(先例を調査して的確な指示を与えるだけ)、うしろめたい行為ではなく、他から非難されることもなかったという。

 藩によっては、「御用頼」の与力を招いて、藩主みずから裁判や刑罰の仕方、民政について尋ねる場合も。このようなときは謝礼の金額は最低でも2000疋(金5両)だったとか。

 町奉行所の与力のなかでも役得が多かったのは、「年番方」(奉行の顧問を務める重役)・「吟味方」(裁判を掌る)・市中取締諸色懸り(諸問屋ほか商業全般を扱う)の三役で、いずれも経験豊かな与力が務めた。佐久間によれば、徳川御三家や諸大名のほか上野寛永寺・芝増上寺(あるいは書院番頭・小性組番頭や浅草の浅草寺)などが、「御用頼」に対して年始・暑寒・盆暮の贈り物を欠かさず、おりおりに「国産物」(領内の特産物)を届けた。老中や若年寄など幕府の重役も例外ではなかったという。

(三役を務める)老練の与力は「御用頼」(コンサルタント)としてひっぱりだこ。それにしても、どうしてこれほどまで。佐久間はその理由を「幕政の頃は如何なる妙説弁理なる事にても先例なきことは難被行故(おこなわれがたきゆえ)に、旧記を諳記せしたものは則御用弁のものにて、人々の信を受るなり」と述べている。

先例主義が徹底していた旧幕時代には、代々与力を務める家に生まれたうえ実務経験に富んだ与力は、先例(判例)を熟知しているというだけで、優秀なコンサルタントと見なされ、尊重されたというのである。

 

不正の役得

 

 佐久間は、正当な(不正と見なされない)コンサルタント報酬としての役得のほかに、「不正の役得」の例も挙げている。

 

【その「老年与力に進み廉々役儀兼勤の者」(さまざまな職掌を務めた老年の与力という意味か)は、御三家や諸大名から、いろいろな名目で扶持米を受け取っていた。その額最大20人扶持。

 

1人扶持は、年に1石8斗(米5俵)の支給。20人扶持なら米100俵となる。なぜ不正かと言えば、御用頼のコンサルタント料が謝礼であるのと違い、幕府以外から俸給として得ていたためだろう。とはいえ同僚から咎められることはなかった(「仲間にて彼是と云ものなし」)と佐久間は語っている。

 

【その②】諸大名の「勝手方」(勘定方)からの依頼で金銀貸借の周旋をして、貸し手と借り手(藩)の双方から謝礼を貰う。

 

佐久間はこんな例を挙げている。

 

――ある藩が町人から借りた金を返済できず、与力某に相談。某は富裕家を23人呼び、藩への融資を取り持った。あわせて貸し手の町人を呼び、返済を減額させたうえ、新しい貸し手たちに返済させた。どちらも不利益とならず、某は双方から「相当の礼金」を得た――。

 

【その③】藩の特産物が安く入札されぬよう相談を受けた商業担当の与力が、藩のため特別に対策を講じる。

 

ある藩が特産物を江戸に運び、問屋たちに入札させたが、問屋たちは談合して入札の値を下げようとした。相談を受けた「諸色懸り」与力某は、商人を指名して特産物を売り渡す方法を講じ、願書の案文を作成し、藩の担当者に出願の手続きを伝授。願書は老中に提出されたのち、町奉行に下げられ、町奉行は担当の与力(すなわち某)に判断をゆだねた。某は即許可。その結果、特産物は問屋仲間を通さず指名商人に売り渡され、某は藩と指名商人の双方から謝礼を受け取った。問屋たちは老中に願い出て許可されたことなのでなにも言えなかった。

  特定の藩の利益のために画策し、謝礼を得た点が不正と見なされたのである。

 

【その④】御三家や宮門跡が町人や武家に貸した金の返済が滞ったとき、頼まれて取り立てを行う。

 

借り手を「説諭」して返済させ、貸し手の御三家や宮門跡から取り立て額の約1割を、時候見舞として公然と受け取る。これまた誰からも非難されない。

 

 

賄賂の手口

 

 「不正の役得」はたしかに「不正」かもしれないが、いまひとつ毒々しさに欠ける。いけないことだけど、身体を張って糾弾すべきほどの悪事ではない。では佐久間が「賄賂」として挙げている例はどうだろうか。

 佐久間は言う。与力には十分な役得があるので危険をおかしてまで賄賂を受け取る者はまれだった。とはいえ「手腕の利きたる裁判役」(すご腕の吟味方与力)のなかには、次のような方法でこっそり賄賂をむさぼり取る者がいたという。

さて、それはどのような方法か。

 

【その勝訴側から賄賂を受け取る手口。

 

  勝訴すると思われる者(「直者」)をきびしく尋問すると、動揺して賄賂を差し出す。一方、相手側(「曲者」)は油断してしまう。十分賄賂を受け取ってから、いよいよ判決という段になって、証拠を並べてにわかに「曲者」を詰問する。裁判の結果は「直者」の勝訴。(賄賂を贈らなくても勝訴するはずだった)「直者」は、このような展開ならば、賄賂を贈ったことを後悔せず(口外もせず)、満足して事済みとなる。

 

【その②】原告と被告の双方から賄賂を受け取る手口。

 

原告と被告いずれが勝訴するかわからないケースで、双方の非をきびしく指

して双方から賄賂を受け取り、その後双方を和解させる(金銭にまつわる訴訟

は、双方とも丸損になるよりはましと和解を承諾する)。

 

 相手が被告であれ原告であれ、裁判中の不安な心理につけこんで金をむさぼり取る。許すべからざる手口ではないか。

 さらに興味深いのは、贈賄の金品の巧妙な受け取り方である。

 

【その金千両の価値がある土地を、名前を変えて500両で買い取る。

500両の賄賂に相当。名前を変えているので収賄の罪が発覚しにくい。

 

【その②】贈賄や贈り物の受け取りを謝絶しながら、仲介者を通じて多額の借金を申し込み、結局のところ返済しない。

 

 佐久間によれば、100両ほどの賄賂を謝絶し、200両、300両の借金を要求したケースがあったとか。贈賄側は、断ると敗訴にされるかもしれないので、しぶしぶ貸した。しかし「無利足永年賦」(無利子かつ返済期間20年以上)という条件で、賄賂同然。なかには借金証文を謝礼として贈る場合もあったという(これは賄賂そのものだ)。

 

【その③】(贈賄側が)刀剣や書画骨董を持参し、与力(収賄側)に好みの品を選ばせ、代金受け取りの証文を添えて渡す。

実は贈賄なのに売却したことにする手口である。証文を渡すのが偽装の手段であるのは言うまでもない。

 

 旗本御家人に関する刑事判例集『以上武家扶持人例書』には、「吟味之節、頼を受、過分之賄賂金貰受、無跡形名前を認、為替にて金子差下候もの」は「引廻し之上 獄門」とある。正確に訳せる自信はないが、刑事事件の審理に際して、人に頼まれて多額の賄賂を受け取ったり、架空の名義で金子を為替で送ったりした場合(これは贈賄側についてか)は、引廻しのうえ獄門の極刑に処せられるという意味だろう。

贈収賄は法令できびしく罰せられていた。幕府や藩の役人たちも、役職拝命に際して提出する誓詞(誓約書)では、賄賂を受け取らないとかたく誓っていた。

 ところが現実は…。古今東西いつの世も見られる役人の悪習。タテマエとホンネの乖離と言ってしまえばそれまでだが、役得と賄賂そして謝礼は、役人の世界のみならず、江戸時代の社会の多彩な人間関係を照らし出す光源のひとつなのかもしれない。そんな気がして、たまたま手にした『江戸町奉行事蹟問答』から与力の例を拾ってみた。

<了>

 

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