背伸びした三角関係ドラマ
今回は明治4年(1871)3月、前の長州藩主毛利敬親の病死(享年53)から、廃藩置県、毛利元徳の東京移住などを経て、楫取素彦が二条窪(現在の山口県長門市)で帰農するあたりまでが描かれる。
このドラマでは、すでに楫取と義妹の美和は“相思相愛”ということになっている。今回もふたりで、楽しそうに農作業に出掛けたりする。楫取が、
「気恥ずかしゅうてな、お前には誰にも見せんような姿を見せてしもうたような気がしてな」
と照れながら言えば、美和が、
「私も兄上の前では本音をぶちまけてしまいました」
などと返答し、見つめ合い、お互い支え合って生きてゆこうなどと誓う。
ならば楫取の妻である寿は、どうかと言うと、この二人の関係に気づいているのか否かすら描かれていない。楫取も美和も、寿の存在をどのように思っているのかも、描かれていない。
だから、さっぱり面白くない。
僕は、義妹が義兄を想うことの善悪を問う気など、微塵も無い。そんなことは人間社会の中では掃いて棄てる程ある話だろう(史実の楫取たちが、そうだったと言っているのではない)。むしろ、ドラマにするなら格好の題材とも言えよう。
「めし」(昭和26年)という日本映画がある。原作は林芙美子、監督は成瀬巳喜男。結婚7年目の大阪に住む夫婦(上原謙・原節子)のもとに、東京から家出して来た若い姪(島崎雪子)が転がり込んで来る。夫がこの姪と、なんとなく怪しい雰囲気になってゆき、妻があれこれ怪しんで、苦悩するといった内容だったと記憶する。
そんな名作映画にヒントを得たのか否かは知らないが、このドラマも似たような設定になっている。しかし、残念ながら「めし」の足元にも及ばないことは、ご覧のとおりだ。
失礼を承知で言えば、登場人物たちのキャラクター、俳優たち、ひいては作り手側全体が、人間としてあまりにも成熟していない。たとえば楫取が時折見せる、新時代に対する苦悩の表情など、ただ辛気臭いだけだ。万事がこのレベルであり、外から見たら単純でも、本人たちにとっては至極複雑な三角関係の人情の機微など、到底描けそうにない。
断っておくが、成熟していないことが、悪いのではない。背伸びした中学生が、渡辺淳一の小説を劇化して、文化祭で演じようとしているような、無理な感じを受けてしまうのだ。分相応のドラマが、あるはずである。
奇兵隊士の息子
二条窪にやって来た楫取を、遠くから見つめているのが「元奇兵隊士 中原復亮」だ。中原は前回の「脱隊騒動」のことがあり、楫取に憎悪の念を抱いている。しかし、中原は楫取が荒れ地を開墾する姿を見て心打たれ、手伝うようになる(このあたりのエピソードはフィクション)。
のち、中原は群馬県に職を得、県令の楫取を助けて活躍した。晩年は故郷である大津郡三隅(現在の長門市)で過ごし、昭和2年(1927)9月、85歳で没している。
僕は平成3年、中原の三男に会い、話を聞かせてもらった。奇兵隊士の「子供」に会ったのは、後にも先にもこの時だけである。その方はまず、誇らしげに、
「奇兵隊士の息子で、いまも生きているのは自分だけ。父の年がいってから出来た子供だったから…」
と言われた。それから、父の中原から聞いた話として、
「小倉城を落としたさい、父は敵から分捕った甲冑を身につけて下関に凱旋して来た。後日山県(有朋)公が怒って、兵士たちに小倉から分捕って来た戦利品を出させて、陣営の庭に集めて焼かせた。父はその時隊を留守にしていた。仲が良かった三浦五郎(梧楼)が、中原が気の毒だからと、甲(かぶと)をこっそり残しておいてくれた。だからいまも、甲はウチにある」
などと話してくれた。その方は翌4年、98歳で亡くなられた。自分の父の上司であった楫取と、長年文通をしていたのだと、後年その方の娘さんにうかがった。本人も言われていたとおり、「最後の」奇兵隊士の息子だったであろう。ただ、もし、あの世からこのドラマをご覧になられたら、何と言われたかは分からないと、僕は思った。
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