血判を見ることの意味
今回は吉田松陰(寅次郎)が安政6年(1859)の元旦を、野山獄中で迎えるところから始まる。
獄に入ってもなお、老中暗殺計画を諦め切れない松陰は、江戸にいる久坂玄瑞に計画に賛同するよう手紙を書く。ところが玄瑞と高杉晋作からは反対する旨を述べた、血判つきの返信が来る。松陰は激怒し、絶交を宣言。
この返信のモデルになった現物は、桂小五郎(木戸孝允)が江戸から帰萩するにさいし玄瑞らから預かり、松陰に届けたようだ。現在は巻物になり、宮内庁書陵部(木戸家文書)が所蔵している。
僕は平成2年夏に書陵部で史料調査をさせていただいたさい、この手紙を初めて手に取ってじっくりと見た。手紙の内容は『東行先生遺文』などに全文活字で掲載されているから知っていたが、図版はそれまで書籍などにほとんど掲載されていなかった(特に戦後の書籍は皆無だろう)。
予備知識の無いまま何げなく巻物を開いたら、高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮の署名、花押、そして血判が眼前に現れて、驚いた覚えがある。ほとんど公開されたことが無いためか、血の色はやや黒ずんでいるものの生々しいほど鮮やかで、とても百年以上経っているとは思えなかった。決意が籠もった「血液」を見る時の衝撃、血判の意味が少し分かった気がした。
まだ二十代前半だった僕は、他に誰もいない書陵部の閲覧室で、1時間近くも放心したように眺めていた。以後、膨大な数の古文書を見て来たが、血判付きには10通もお目にかかっていないと思う。
松陰がこの返信を開封し、思いもかけず門下生たちの血判を目にした時、おそらくは凍りつくような思いに駆られたのではないか。言葉で反対されたのとは、衝撃の度合いが違う。だからこそ、この後の松陰のクレージー度は急激にアップするのだ。
しかし、ドラマの中の松陰は血判を特に気にする風もなく手紙を放り出し、ただ反対されたことに対してプンスカ怒っていた。作り手側が、血判の意味を理解していたとは思えないような、ちゃちな演出だった。
黒澤明監督が俳優に真剣を持たせ、その重さを身を以て覚えさせて役作りをさせたという話は有名だ。しょせん、江戸時代を体験した者など、現代では皆無なのである。だからこそ、ちょっとした本物志向の積み重ねが、時代劇にリアリティを与えてゆくと思うのだが…。
弟杉敏三郎のこと
つづいて松陰は、獄中から「伏見要駕策」を塾生たちに示す。参勤途中の長州藩主の駕籠を伏見で待ち受けて京に向かわせ、朝廷と結び付いて大変革の狼煙を揚げようというのだ。ところが在萩の塾生たちは、失敗したら死罪になると、みな逡巡して脱落。松陰は獄中で孤立してしまう。
ドラマではここでなんと、松陰の弟・杉敏三郎が出て来る。そして、自分が「伏見要駕策」を実行すると伝えるが、獄中の松陰は猛反対。肉親を犠牲にする可能性が見えて初めて、松陰は自分がこれまで塾生たちに発して来た指示が、どれほど苛酷なものだったかを理解する。湾岸戦争でアメリカの連邦議員の息子は、誰ひとり戦死しなかったといった話などを思い出す。この敏三郎の部分などは、もちろんフィクションだ。
ただ、じっさいの松陰も、自分は病床にあった父への孝行を理由に投獄延期を願い出たものの、塾生たちが親のことを言って、自分の思いどおりに動かなければ、親よりも国のことを考えろと、手紙で激しく罵倒したりする。そういう意味では、松陰の身勝手な一面を描こうとする意図があったのかも知れない。
敏三郎は生まれながらの聾唖だった。これまでのドラマや小説では、ほとんど登場しなかったと思う。しかし今回のドラマは、なかなか出番が多いようだ。
ドラマでは危険な活動に身を投じようとする敏三郎が、獄中の松陰に自分自身を重ね合わせて訴える。
「一番悲しいのは声が届かんこと。一番悔しいのは伝えようとしても、受け取ってもらえんこと」
しかし、これはドラマとしても理解し難い。敏三郎のそれは、生まれながらの障害である。一方、松陰の意が通じないのは、暗殺計画などが過激に過ぎた結果であることは、誰の目にも明らかだ。それを同等の苦しみのごとく扱い、落としどころにするというのは、とても「変」である。果たしてこれが現代劇なら、通用するだろうか。わざわざ、こんな逸話を創作する必要があったのか。
それにドラマの敏三郎は、何回か前には高杉晋作に連れられて妓楼の酒の味を覚えさせられたり、酔っ払って帰宅したりと、いかがかと思う描かれ方をしていた。
江戸時代や明治初年の社会、家庭の中で、聾唖者がどのように扱われていたか、もう少し慎重な理解が必要な気がしてならない。『吉田松陰全集』に収められた敏三郎の略伝に、次のようにあるのを見ても分かるであろう。
「自ら聾唖常人にあらざることを悟りてより以来は他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊の業をなし、祖霊祭奠(それいさいてん)の事をなす。明治九年二月一日、卒然疾んで没す、享年三十二」
>洋泉社歴史総合サイト
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