日満の指導者による対決
 

 日本国民が戦前・戦中の政治や軍事についてその真相を知ったのは、敗戦・連合国軍による日本占領開始の翌年から開廷された極東国際軍事裁判(東京裁判)でだった。

占領政策を統括するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、1945年(昭和209月に早くも東條英機(とうじょう・ひでき。1884-1948)らに対し第一次戦犯容疑者逮捕令を発令、翌年1月に最高司令官マッカーサーにより極東国際軍事裁判所設置・裁判所憲章が公布され、4月にはA級戦犯28名が起訴され、53日、東京市ヶ谷の旧陸軍省大講堂で開廷された。

なお、日本側の最大の懸念事項であった「昭和天皇の訴追問題」については、6月からはじまった検察側の立証冒頭でキーナン首席検事が「天皇は追訴せず」と声明し、天皇の戦争責任は問わないこととした。

裁判は4811月まで続けられ、大川周明(おおかわ・しゅうめい)は精神障害を起こしたため免訴され、松岡洋右(まつおか・ようすけ)と永野修身(ながの・おさみ)は病死したため、最終的に東條英機以下7名に絞首刑、16名に終身禁固刑、2名に有期刑と、全員が有罪判決を受けた。

この裁判では表向きは日本によるアジア支配のための違法な侵略戦争の計画から遂行が問われたわけだが、天皇の訴追や、A級戦犯容疑で逮捕された東條内閣の商工大臣岸信介(きし・のぶすけ)が検察官ではなくGHQCIC(対敵諜報部隊)の将校が取り調べるなど、アメリカによる戦後政治を意識した取引が行われるなど、問題を残した。

法廷には元満洲国皇帝だった愛親覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ。1906-67)もソ連側の証人として出廷した。彼は裁判の席上で、己の生い立ちから辛亥革命による清朝崩壊と退位後の生活状況、満洲事変後の執政から皇帝になるにいたり関東軍の言いなりに行動せざるを得なかった自身の立場を証言した。

他方、同じ極東国際軍事裁判で被告人として告訴されたのが東條英機であった。東條は、捕虜処刑問題や開戦時の経緯と昭和天皇の関わり、今次大戦は自衛の戦争だったか否か、満洲国の実権は皇帝である溥儀にあったのか、それとも東條も参謀長を務めた関東軍にあるのか、など厳しい論争がキーナン首席検事との間で展開された。

裁判の場において、東條と溥儀は、明治以降の日中関係を総括するともいえる満洲問題をめぐり、満洲の支配の実態をめぐり鋭く対立したのである。

 

政治の頂点に上り詰めた東條英機
 

 被告人の代表者ともいえる経歴を持つ東條は、1884年(明治17)に陸軍中将だった東條英教(ひでのり)の子として東京に生まれている。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校を経て陸軍大学を卒業。1929年には永田鉄山らと一夕会を結成して統制派の革新中堅将校として頭角を現した。

満蒙の支配を主張して、満州事変後の1935年に関東憲兵隊司令官に就任したが、翌362月に起きた二・二六事件では、満洲での皇道派軍人の取締りを迅速に行うなどして統制派内での評価を高めた。1937年関東軍参謀長のとき、盧溝橋事件が勃発するが、参謀本部の石原莞爾(いしはら・かんじ)らと対立し国民政府との妥協に反対し、自らチャハル省侵攻作戦を展開して事変の拡大に積極的役割を演じた。

1938年の第一次近衛内閣では陸軍次官に、40年の第二次近衛内閣では陸軍大臣に就任し、アメリカが要求する中国派遣軍の撤兵に反対し、対米開戦もやむなしとして近衛内閣の崩壊を導いた。4110月に近衛を次いで内閣を組織し陸相、内相を兼任し、4112月に対米戦争へと突入した。しかし緒戦の勝利も束の間、英米の本格的反撃を前に43年以降は守勢に回るなかで、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を兼任して権限を強化し、翌44年には参謀総長のポストも独占して東條専制体制を確立した。

しかし、米軍の反撃の前に戦略拠点のサイパン島を失い、アジア太平洋地域が英米軍の手で奪還され、対日包囲網が強化されるなか、東條の軍事独裁への反発が強まるなかで447月に総辞職を余儀なくされた。敗戦後は極東国際軍事裁判で起訴され4811月死刑判決が下され絞首刑に処せられた。享年64

 

2度の訪日を味わった満洲国皇帝・溥儀
 

 他方の溥儀は1906年に清朝皇帝光緒帝(こうしょてい)の弟醇親王載澧(じゅんしんのうさいほう)の長男として生まれた。3歳で即位し宣統帝(せんとうてい)となるが、1911年に辛亥革命が勃発、12年に清朝が倒されると溥儀は退位したが、中華民国政府との取り決めにより、引き続き紫禁城(しきんじょう)に居住することが許された。22年には婉容(えんよう)と結婚するが、1924年に北京の支配権を握った軍閥の玉祥(ふうぎょくしょう)により紫禁城を追放された。

溥儀は北京の日本公使館に避難し日本政府の庇護を受け、25年からは天津の日本租界で生活する。そして、1931年に満洲事変が勃発すると奉天特務機関長だった土肥原賢二(どいはら・けんじ)らに誘い出されて天津を脱出し、土肥原のもとで謀略工作に携わっていた甘粕正彦(あまかす・まさひこ)が待つ営口(えいこう)へと到着、323月に満洲国の執政に就任、343月には満洲国皇帝に即位して康徳帝(こうとくてい)と称した。

1935年に彼は日本訪問の旅に出る。護衛艦4隻に囲まれての御召艦戦艦比叡(ひえい)による日本行きと、訪日中の陸海軍挙げての歓迎パレードと宮中の接待に溥儀は満足し、帰国後の「回覧訓民詔書」(君子が帰国後に民に伝える書)のなかで、「朕、日本天皇陛下と精神一体の如し」と述べてその気持ちを表現した。

皇室と強い関係を持つことで、関東軍の重圧をはねのけることができると確信したのかもしれない。

こうした日満一体化の動きは、さらに19374月の溥儀の弟、溥傑(ふけつ)と華族である嵯峨実勝(さが・さねとう)侯爵の娘・浩(ひろ)の結婚によって一層強められることとなる。溥儀は、紀元2600年式典への祝賀の一環として19406月に再度訪日をしている。

2度目の訪日時は前回と異なり、歓迎儀式は控えめで簡素なものであったが、前回以上に一歩踏み込んで、満洲国帝宮内に建国神廟の建設を約束し、そのために天皇から剣を賜り神宝としたのである。

しかし4112月のアジア太平洋戦争勃発後、溥儀が知らぬうちに戦局は日本の敗戦へと傾き、ソ連に対峙して強大な軍備を誇っていた関東軍は、その精鋭を南方戦線に引き抜かれて補充ができないままに貧弱な軍団へと変貌していった。そして19458月、突如としてソ蒙軍が国境から侵攻を開始するなかで、溥儀らは首都の新京(現・長春)を離れて朝鮮との国境に近い大栗子溝へと避難したが、8月15日の敗戦を受けて17日退位し、満洲国は消滅した。

退位後、日本への亡命を計画するが、空路で瀋陽に立ち寄った際にソ連軍先遣隊の手で捕虜となり、シベリアに抑留され、46年8月にソ連側の証人として東京裁判に出廷、日本の満州支配の実態に関する批判を述べた。その後、中国に引き渡されて収監されるが、59年に特赦となり、一般市民として67年に死去した。

 

法廷での論争
 

 東條と溥儀は、東京裁判の法廷で、日本の満州支配をめぐり鋭く対立した。東條は、溥儀との関連でいえば、1935年から37年までの関東憲兵隊司令官時代と37年から38年までの関東軍参謀長時代の約3年間、満洲の地で深く交わったことになる。その時代の溥儀はといえば、ちょうど最初の日本訪問の旅を経験し、熱烈な歓迎のなかで、帰国後「回覧訓民詔書」を書して皇室との一体感を表明した時期でもある。

つまり、溥儀が日本への依存を深めていた時期であり、東條にとっても大変好ましいと感じたに相違ない時期であったはずである。その後、東條自身は、満洲の地を去って日本国内で陸軍次官、陸軍大臣、首相と政治の中枢にかかわっていくことから、直接には溥儀と関わることはなかった。

では、その2人はこの3年間を含む満州支配の実態をいかに述べたのか。

 まず溥儀だが、彼が法廷に出廷したのは46816日から27日までだった。検察側の質問に答えて、満洲での関東軍の支配の実態を、政治、経済、宗教、移民、勤労奉仕、阿片政策、辛亥革命から満州事変、執政に就任するまでの過程、ソ連軍が侵攻するなかでの通化省への逃避、2度の訪日などについて証言し、関東軍の支配下で自分はまったく無力で、彼らの言われるがままに行動する以外に方法はなったという基調で終始した。

重要な事項への発言は、関東軍参謀で溥儀の側近でもあった吉岡安直(よしおか・やすなお)中将の指示による、と主張し、自らの妻は吉岡によって暗殺されたと法廷で主張したのである。  

また、2度の訪日についても、関東軍の強い意志のもと、心ならずも訪日の旅に出たと証言した。しかし、前述したように溥儀が帰国後に発表した「回覧訓民詔書」などを見ると、日本での熱烈歓迎に乗って、親日の方向に傾いていた、と判断するほうが実態に近いと思われるし、彼の妻の暗殺犯が吉岡だったというのは、確たる証拠もなく、法廷でも説得力のある説明はなされていない。

このように、溥儀の法廷での証言は、満洲国自体は関東軍支配下の傀儡であったという面は間違いない事実だとしても、自己弁護的発言が目立った。

 東條に対する審理は、19471226日の午後から開始された。最初に弁護人の清瀬一郎(きよせ・いちろう)の冒頭陳述があり、続いて東條英機の口述書が読み上げられた。

開戦の経緯から敗戦までの詳細な経緯を記述したもので、1230日まで5日間を要するものだった。その後、審理に入り、自らの経歴、アジア太平洋戦争に至る経緯、戦争準備、東條内閣の成立と開戦準備、捕虜問題とソ連、コミンテルン問題まで多岐にわたる問題が含まれていたが、対米英戦争は、連合軍側の圧迫から起きた日本の自衛戦争であること、したがってアジア地域への侵略ではなく、欧米からの開放戦争だったこと、開戦決定には天皇の政治責任はないこと、国際法に違反してはいないこと、を基調としていた。

溥儀との関連でいえば、満洲国の実権はだれが握っていたかという点が一つの争点だったが、東條は一貫して、溥儀を満洲の住民の意思として皇帝となったもの、と主張してその傀儡性を否定した。この点では、溥儀とは真正面から対立したことになる。

キーナン検事は、4812日の法廷で、満洲国の実権者はだれかという点と関連して、「満洲における日本の重要な5人の人物」として「二キ三スケ」という表現があるが、知っているか、と問われ、東條は「うわさは知っている」という答えに止まっている。彼らが実権を握っていたことは確かだったわけだから、東條としては、「うわさ」と答える以外には対応の仕方はなかったであろう。 

また、溥儀の訪日に関しては194817日の法廷で、東條は、溥儀の訪日を「心から盛大に歓迎しました。心の底から。しかしながら彼は裏切りました。この法廷において」と述べた。

 

歴史の審判
 

 裁判での東條と溥儀の対決は、以上述べたように満洲国支配をめぐる関東軍と溥儀の役割と位置づけをめぐる論争だったといえよう。

東條は、満洲国を在満住民の意思に基づく独立国家であり、その頂点に満洲住民の意志に基づいて皇帝溥儀が誕生したと主張するのだろうが、満洲事変から満洲国の誕生、溥儀の執政就任、皇帝への道を歴史的にたどってみても正しくはない。

周知のように、満洲事変は関東軍が仕掛けた戦争だし、満洲国の建国は関東軍が主導して建国されたものだし、溥儀の執政就任は、形式的には満洲住民代表の要請を受けて就任したという形はとっているが、その背後で計画を立て、筋書きを指導したのは、ほかならぬ関東軍そのものだった。したがって、溥儀は、形式的には頂点に立っても、実質的にはお飾りに過ぎなかった。

当時、関東軍第三課(のちに第四課)は、「内面指導」という言葉の下で、満洲国政府の背後にあって実質的に満洲国の内政を指揮監督し、彼らの意図は、行政機関である国務院に設置された総務庁を通じて政策化され、それが皇帝の名で発布されてはいたが、皇帝は通過点に過ぎなかった。「総務庁中心主義」と称されたように、国務院総理は中国人でも、実権はその下の総務庁にあり、ここには日本から派遣された高級官僚が席を占めて、満洲国をコントロールした。その意味では、法廷での溥儀の発言は、大筋で当時の満洲国の実情を正確に反映していたといえるであろう。

しかし、溥儀が、訪日は日本の一方的要求に基づくもので、彼は心ならずもそれに従わざるを得なかったというのは、正確な表現ではなかろう。なぜなら、当時の記録を紐解くかぎり、たとえ関東軍に強要されて訪日したにしろ、4隻の護衛艦付きで御召艦で大連から横浜へと航行し、途中東シナ海で戦艦山城以下、主力艦70隻が4万メートルの単縦陣で比叡と2千メートルの距離で逆走、洋上艦閲をしている。溥儀の胸中はいかなるものであったか。

さらに横浜に着くと海軍航空機98機が飛来し供覧飛行、模擬爆撃飛行を実施し、溥儀を驚嘆させた。陸軍も負けじと日本での公式行事の一環として代々木練兵場で1万余名の閲兵式と航空機89機による分列飛行が実施された。

こうした26日に及ぶ公式行事をこなした溥儀は、神戸から戦艦比叡に乗船して厳重な警護の下、大連へ帰路についたのである。

溥儀が発表した「回覧訓民詔書」には、原文にわざわざ「朕、日本天皇陛下と精神一体の如し」という文面を挿入したという。荘厳な文体に溥儀の挿入文はそぐわぬため、すっかり文調がくるってしまったと、原案作成で国務院総務庁嘱託の佐藤丹斎は嘆いたという。佐藤は、満洲国建国宣言、皇帝即位詔書などを起案した中国古典文学の大家である(『私と満洲国』)。

たしかに溥儀はこの時期、親日の色彩を濃厚にしたことは事実だろう。しかし、このことは、溥儀が関東軍の傀儡だったという事実を消し去るものではなかった。

 

≪参考文献≫

太田尚樹『東條英機』角川学芸出版 2010

小林英夫『<満洲>の歴史』講談社 2009

新田満夫『極東国際軍事裁判速記録』(全10巻)雄松堂書店 1968

日暮吉延『東京裁判』講談社 2008

武藤富雄『私と満洲国』文芸春秋 1988


※本連載は今号で終了となります。ご愛読ありがとうございました。


 

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