持久戦化した日中戦争と2つの国民政府の誕生
1937年(昭和12)7月に勃発した日中戦争は、1938年秋の武漢(ぶかん)作戦をもって短期決戦体制から長期持久戦体制という第二段階に突入する。戦線は膠着し、蔣介石(しょうかいせき)率いる重慶(じゅうけい)国民政府は、中国内陸部に閉じこもり長期抗戦体制構築に全力をあげ始める。他方、日本軍も集中配備を解いて分散警備体制へと移行し、占領地行政に力を注ぎ始めた。
38年初頭、「蔣介石政権対手にせず」と声明し、自ら和平の道を閉じた近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相も、戦線膠着下で外相を広田弘毅(ひろた・こうき)から宇垣一成(うがき・かずしげ)に代え、水面下での和平工作を模索し始めた。そして、日本軍が蔣介石に代わる和平相手として照準を定めたのは、対日和平派で蔣介石に次ぐ国民政府ナンバー2の汪兆銘(おうちょうめい。1883-1944)だった。
日本側は、特務機関員の影佐禎昭(かげさ・さだあき。1893-1948)大佐と今井武夫(いまい・たけお)中佐を密かに接近させた。汪兆銘の意を体して交渉にあたった中国側代表は、国民党亜州司長の高宗武(こうそうぶ)と、香港駐在の中央宣伝部員・中央政治委員会委員で、在香港国際問題研究所を主宰していた梅思平(ばいしへい)だった。
38年11月に4名による和平合意が取り交わされるが、合意実現のため蔣介石と決別し重慶からハノイに脱出した汪兆銘らを待っていたのは、その合意とはまったく別の日本軍占領地に傀儡(かいらい)政権を樹立するという日本側の最終決定案だった。
蔣介石の刺客がハノイ滞在中の汪の自宅を襲い、腹心の部下が射殺されるという事件が起きてもなお汪は、日本からの相対的自立の道を模索するが果たせず、結局はすでに傀儡政権として成立していた華北占領地の中華民国臨時政府(1937年12月成立。行政院長王克敏(おうこくびん))、華中占領地の中華民国維新政府(1938年3月成立。行政院長梁鴻志(りょうこうし))の2つを統合し、40年3月、南京に中華民国政府が樹立され、主席代理に就任することとなる。
こうして、日中戦争は重慶と南京に拠点を持つ二つの国民党政権が誕生するという、さらなる泥沼に入っていくことになる。
日本外交の犠牲者 汪兆銘
汪兆銘は、1883年(明治17)、広東省に生まれた。1903年、広東省政府官費留学生として東京の地を踏み、1905に中国革命を指導していた孫文が東京で中国革命同盟会を結成すると、これに参加し活動を開始した。革命派の日本での動きに神経をとがらせた清朝政府は孫文の国外退去を日本に要求、07年に孫文が日本を離れ東南アジアへ活動拠点を移すと、汪も彼と行動をともにした。
1909年に東京に戻り、同士と溥儀(ふぎ)の実父である醇親王戴灃(じゅんしんのうさいほう)の暗殺を計画し北京に向かうが、計画が発覚し終身禁固刑を受けるも、1911年の辛亥革命で釈放された。その後、北洋軍閥の袁世凱(えんせいがい)と対抗し、1925年(大正14)に孫文が病死すると、その遺志を継いで樹立された広州国民政府主席に選出された。
だが、国民政府は、軍事部門を担当した蔣介石がしだいに力を強め、党内右派勢力を結集し共産党員を逮捕した26年3月の「中山艦事件」以降、党の指導権を確立する。そして全国統一を目指し北伐を開始し、張作霖(ちょうさくりん)を北京から東北へと追いやり(その途中で張作霖は爆殺される)、後を継いだ張学良(ちょうがくりょう)の東北易幟(東北地域を国民党の指導下にいれる)宣言によって、蔣介石は全国統一を完成させる。この間、汪兆銘は、蔣の左派弾圧に抗議し、27年4月まで病気療養と称してフランスに向かった。
蔣が党内で実権を握ったとはいえ、内部は蔣派と反蔣派の内部抗争が激しく、その間隙をぬって31年9月関東軍は満洲事変を仕掛け、一挙に東北地域を占領し張学良を駆逐した。
こうした事態のなか蔣派と反蔣派は和解し、32年3月、蔣介石と汪兆銘の2枚看板による蔣汪合作の南京国民政府が発足した。しかし、日本軍の中国侵略は止まることなく熱河(ねっか)省占領から河北(かほく)省、内蒙古(うちもうこ)のチャハル省へと手が伸びる。
しかし、満洲事変以降、日本に対し譲歩的な立場を取っていた蔣介石と汪兆銘への不満が、35年暮れの汪兆銘狙撃事件や36年暮れの張学良による蔣介石監禁事件(「西安事件」)を生み出す。汪はふたたび36年から37年初めにかけてヨーロッパに渡り、狙撃事件で受けた傷の治療をドイツでおこなった(37年1月帰国)。
日中戦争に対し、彼は対日戦勝利の見通しが立たぬなか、和平の道を求めて重慶を脱出、40年3月には南京に国民政府を樹立するが、日本の敗戦を前に狙撃事件で悪化した傷の治療のため訪れていた名古屋で、44年客死することとなる。享年61。
日本陸軍きっての「支那通」 影佐禎昭
他方、影佐は、1893年に広島に生まれた。中学卒業後の1914年に陸軍士官学校、23年に陸軍大学校を卒業し、参謀本部付となる。25年から28年までは東京帝国大学で政治学を学ぶなど見識を深め、その後、中国と深くかかわり陸軍内で「支那通」としてその名を知られることとなる。1937年に参謀本部第7課(支那課長)として対中国政策を立案、推進し、日中戦争が勃発すると参謀本部第8課(宣伝謀略課)の課長として対中政治工作を担当する。
そして、日中戦争の和平実現のために汪政権樹立を目的とした影佐を長とする「梅機関」(影佐機関)が設立され、汪兆銘側の高宗武、梅思平と接触、38年11月に「日華協議記録」と「日華諒解事項」を取り交わし、和平合意をおこなった。その内容は、「日華防共協定の締結」「満洲国の承認」「日本人の中国での活動の自由と日本側の在華治外法権の撤廃」「日華経済提携」「戦時賠償の放棄」「治安回復後2年以内の日本軍の撤兵」であった。
しかし、その一ヵ月後にハノイに脱出した汪兆銘に示された、密約成立10日後の御前会議で決定された「日支新関係調整方針」は、前出の内容とまったく違い、日本軍の駐屯と日本企業の対中国進出を大幅に認めさせ、日本人顧問に政治をゆだねて中国人による中央政府を認めない一方で、いつ日本軍が撤兵するかも明示しないという、中国側にとって屈辱的な内容だった。
しかも38年11月には占領地域の経済建設を目的に、日本の国策会社として華北に北支那開発株式会社、華中に中支那振興会社が設立され、日本からの資金が占領地区に流入し、財閥、中層企業あげての武器売買や阿片・麻薬取引といった闇商売が横行し、戦時利権あさりの日本企業による中国進出が始まった。
さらにこの年の12月、日本政府の中国占領地を統括する機関として興亜院が発足、影佐も設立に深くかかわった。40年3月、汪兆銘による南京国民政府が樹立されると影佐は同政権の軍事最高顧問として、重慶国民政府への和平工作を継続することとなる。
しかし、41年に東條内閣が成立すると、対中和平を忌避する東條との意見の相違から、42年には北満国境に配備された第7砲兵司令官、43年にはラバウル第38師団長に転出した。戦後、復員後に戦犯容疑を受けるが、裁判前の48年に肺結核で死去した。
汪兆銘政権樹立にいたる攻防
1940年3月、南京の汪兆銘政権はスタートしたが、華やかであるはずの新政権出発の式典は、沈みきった雰囲気に終始した。汪兆銘をはじめ主だった面々が集まるなかで、汪兆銘が孫文の遺嘱を朗読、各院長、部長の就任式が行われた後、汪がふたたび立って、中華民国の正統な後継者による政権が樹立されたことを内外に宣言し、式典は終了した。
式典に参加した汪の側近の一人だった金雄白(きんゆうはく)は、悄然とした会場の雰囲気を寒々とした風景にたとえて「石頭城(*注:南京のこと)畔一片凄涼の景」(『同生共死の実体』)と評し、汪兆銘の盟友だった満鉄上海事務所南京支所の西義顕(にし・よしあき)も「祝賀式典参列の招待があったが、私は、式服の準備がないからとの惜辞で謝絶した」(『悲劇の証人』)と、歓迎できない意思表示を表明した。
日本軍が作成した「新政権樹立に関する民衆の動向に関する件」(防衛省防衛研究所図書館『陸支密大日記』)を見ると、随所に「無関心」「冷淡」といった中国人の反応を示す言葉が見られ、しらけムードだったことをうかがわせる。
では、汪兆銘の重慶脱出から政権樹立までの1年3ヵ月間、汪の周辺ではなにがあったのか。重慶脱出後にハノイで蔣介石の刺客に襲われた汪兆銘は、影佐らの先導で上海へと移転する。上海には国民党内の対日和平派だった周仏海(しゅうふつかい)、梅思平、高宗武らが汪を待っていた。さらに汪を待っていたのは、対日和平派だけでなく、「芸文研究会」に集まっていた国民党反共派の淘希聖(とうきせい)、羅君強(らくんきょう)ら、そして国民党内の諜報活動機関CC団の流れをくむ丁黙邨(ていもくとん)、李士群(りしぐん)らであった。
39年3月汪兆銘は、周仏海らの幹部を伴って新政権樹立をはかるべく訪日する。汪が重慶を脱出するまで政権を担当し、第二次、第三次近衛声明を出した近衛文麿は、日独軍事同盟問題や経済的危機の克服策をめぐる閣内の対立で難局にぶつかるや、39年1月、政権を投げ出し、引き継いだ平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)も39年8月には独ソ不可侵条約を前に政権を投げ出し、阿部信行(あべ・のぶゆき)が政権を握る目まぐるしさだった。
汪ならずとも約束履行の再確認を新担当者に求めるのは当然であろう。しかし日本の新政権側の反応は冷たかった。汪が主張した青天白日旗を国旗に、という要請は蔣介石の中国軍と間違われるからという理由で却下された。それでも、汪たちは国旗の先端に汪政権のスローガンである反共、和平、建国のいずれか2文字を記した黄色い三角布巾を付けることで妥協が成り立った。
汪にとって衝撃的だったのは平沼内閣の陸相板垣征四郎(いただき・せいしろう)との会談だった。会談の席上で板垣は、日本の意図は、華北を日本の国防上、経済上の提携地域とし、蒙彊(もうきょう。内モンゴルの旧綏遠・チャハル両省)を防共特殊地域とし、揚子江(ようすこう)流域を日本の経済的提携地域にしたいと述べたからである(外務省外交史料館『支那事変に際し支那新政権樹立問題一件 支那中央政権樹立問題』6)。
つまり、汪政権を「第二満洲国」とするという構想だった。しかし汪は粘った。39年6月、「内政干渉の疑惑を避けるため日本人顧問は置かない」などを盛り込んだ、「内政」「軍事」「経済」に関する19項目の要望をまとめて日本側に提出し、その回答を迫った。いずれも政権の自主性をぎりぎりのところで確保する条件提示だった。日本側から「政治顧問を除く経済軍事顧問の採用」といった回答が来たのは、要望提出から4ヵ月が経った同年10月末のことだった。
日本側の回答がないまま、39年6月に汪は離日し、中国の天津へと向かった。もう一つの課題、既存の傀儡政権である、華北の中華民国臨時政府、華中の中華民国維新政府をどう新政権に取り込むか、という問題を解決するためである。
既存の傀儡政権との協議も難航を極めた。新政権でのポストをめぐる折衝では、汪が臨時・維新両政府併せて3分の1を主張したのに対し、臨時、維新がそれぞれ3分の1を主張して紛糾し妥協しなかったからである。他方、新政権樹立をめぐる汪と日本側の協議は、6月以降開始された。日本側は影佐ら、中国側は周仏海らがあたった。
影佐らと周仏海たちの新政権樹立をめぐる交渉が決着したのは39年11月の「日支新関係調整に関する協議書類」においてだった。「日支新関係調整要領」「秘密諒解事項」「機密諒解事項」の三本の柱から構成された多岐にわたる内容だったが、最終的には日本の「内面指導」、政治分野を含む日本人顧問の採用、日本の駐兵権の承認など「徹頭徹尾不平等の条約」(『同生共死の実体』)だった。
その後、この交渉に不満だった高宗武らは、1940年1月、香港メディアに交渉の真相を暴露するという一幕もみられた。40年3月の式典が精彩を欠いたのもむべなるかな、の感が強い。
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