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猿が木から落ちる狂った夏 2024年08月01日 小説 コメント:0

猿が木から落ちる狂った夏

 日曜の昼下がり車内は閑散としてるが、その静寂を壊そうとしている者がいた。
「いいオッパイしてんじゃねーか」
 そう言う六十代の伸び放題の髭面は赤ら顔で酔ってて、女性に縁がない男を象徴した感じだ。そんなのが両手で吊り輪を掴んで腰を引き気味にしながら、薄着の女の胸元を覗き込んでた。
 男の顔が間近で吐く息は酒臭く、我慢できない女が立ち上がろうとしたが肩を押し戻された。
「やめてよね」
「いいだろう、見るぐらい」
 男は吊り輪にだらしなくぶら下がり操り人形のように体を前後左右に揺らしてた。
 
 友人と昼食を兼ねたビールを飲み、いい気分の梶山三郎が電車に乗り込むと悲鳴のような声がした。
 その声の方に目をやると、男が女のブラウスのボタンをはずそうとしているのに、梶山が躊躇うことなく隣の車両にいる男に駆け寄った。
「いい齢して、変なことするんじゃないよ」
「ふん」
 酔っ払いが梶山に鼻を鳴らし、なおもブラウスをつかんでる。
「やめろってんだ」
 梶山が男の手を捻り上げた。
「何しやがる」
 そういう男を後ろ手にしホームに引っ張り出した梶山は、彼を蹴っ飛ばしてやろうかと思うがこれ以上手荒なことはよしたほうがいいと思ったのは、自分も酒を飲んでて酔っ払い同士の喧嘩と思われるかも知れないからだった。
「いい格好するな。おまえだって、オッパイ見たいんだろう。男好きするあの女と、やりたいくせに」
 尻餅をついたまま悔し紛れに言い唾を吐くが、梶山は発車ベルが鳴ったので急いで車内に戻った。
 飛び込んで乗った車内の椅子に座り込んだその彼の向かい側で、女が何事もなかったかのように澄ましている。
 有難うの一言もなしかと思う梶山だが、礼を言って欲しいために男を車内から連れ出した訳ではない。
 世の中こんなもんなんだと呆れるとともに、少しばかり興奮してた彼が前屈みになって肩で息をした。床に目を落としてた彼がゆっくり顔を上げていくと女の股間が見えたが、そのまま窓まで上体を起こしてもたれたが、それでも白いパンツが視界に入ってくる。
 梶山が助けた女は普通に座ってても脚が長いうえ高いヒールを履き膝が座面から浮いてるので、膝にバッグなどを置かなければパンツが見えてしまうのに膝上三十センチほどのミニスカートだ。それに白いブラウスは青いブラージャーを透かしてた。
 助けけてやったのに、礼も言わないで、どうしてそんな目で見るんだ。
 そう思っているうち、梶山は眠くなり目を閉じた。
 
 電車の揺れるリズム感は気持ちいいもので、梶山は中学時代の夢を見ている。
 友人達が塾に行く時間だとか、遅くなるからと三々五々帰って行くが、これといってすることがない梶山が一人駅に行くと、教育実習に来ている有馬佐智子という女性と出くわした。
「さっきも教室で言ったけど、時間あったら遊びに来てね」
「行って、いいんですか?」
「いいわよ。うちのそばに米軍キャンプがあって外人がいるの。三溪園近いし、いい写真撮れると思うから」
 そう言われた写真好きな梶山は、夏休みに有馬佐智子と三溪園に行った。
 佐智子は体育短大生で、バレーボールで鍛えた身体は日焼けしてた。その彼女と梶山が喫茶店で向かい合った時、ミニスカートから白いパンツが見えたが、彼はすぐに目を背けた。
「明日から軽井沢でアルバイトなの。絵葉書送るから、住所教えて」
 梶山が佐智子の手帳に住所を書き込んだ。
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 肩を叩かれた梶山が目を覚ました。
「痴漢みたいな目で、見てたでしょう」
 何のことだとばかり、梶山がしょぼついた目をこすると、さっき助けた女がぼやけた視界に浮かんでる。
「降りてよ」
「どうして?」
「さっき、ずっと屈んで、スカートの奥見てたじゃない」
「いい加減にしろよ」
 電車が停まると、意外な力で腕をつかまれて立ち上がらされた梶山を、女に同調するかのように梶山の隣に座っていた男が彼女と一緒になってホームに引っ張り出した。
 駅長室に連れて行かれた梶山は身元確認を求められるが応えようとしない。
「あんた、おかしいよ。人がせっかく助けたのに礼を言うどころか、俺を痴漢扱いにしてるんだから」
 何ら悪いことをしてないと言う梶山が込み上げてる怒りを抑えながら言った。
「そっちこそおかしいじゃない。あたしはさっきの痴漢のことを言ってるんじゃないの。あんたはあの痴漢を追っ払ってくれたからいい人だと思ったのに、あたしのスカートの中覗いてたのよ。そのこと言ってるの」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
「どっちが馬鹿なのよ」
 梶山と女の押し問答が延々と続いてるのに、一人の女性が駅長室に入って来た。
「私、この女性のそばに座ってましたけど、男の人はその女性のスカートの中、覗いてるようなことなかったです」
「何言ってんの。ヤラシイ目で見てたの、あたしちゃんと見てたんだから」
「この男性はあの酔っぱらいを連れ出したのに興奮してて、それで苦しかったから俯いてただけでしょう。それで顔を上げる時あなた見る形になったけど、それはスカートの中を見るとかじゃなくて、自然の成り行きで目に入っただけだわ。それに、そんなスカートじゃ、下着見てって言うようなものでしょう」
 確かにそうで、梶山は労務者風の男をホームに引きずり出し車内に戻ると、酒を飲んでたのと興奮したのとで動悸が激しくなってた。それで腰を曲げた状態で鼓動が静かになるのを待ち、背もたれまで上体を起こし窓硝子に頭をつけて居眠りしたのだった。
「それに、この女性の言い分は、どう考えてもおかしいわ」
 梶山を痴漢扱いしてる若い女は顔を赤くしながら、彼を援護している中年女性に冗談じゃないと言った。
「百歩譲って、この男性が仮にあなたのスカートの中を見ていたとしても、あなたはこの人に助けてもらったのよ。この人があの酔っ払い追い払わなかったら、あなたはブラウスを引きちぎられてたかも知れない。そういう人を痴漢扱いするのが、私には信じられないのよ」
「まったくだ。おまえは狂ってる。あれが電車じゃなく人通りないところだったら、間違いなくおまえはレイプされてたんだからな」
 梶山がペットボトルのウーロン茶を飲んで言った。
「そんな奴から助けてやったのに、なんでこんなところにいなきゃなんないんだ。ふざけんのもいい加減にしろってんだ」
「助けた助けたって言うけど、誰が頼んだ?あたしあんたに、助けてなんて言ってないからね」
 梶山は悪い夢を見ているんだと思いたかった。
 駆けつけた警察官が腕組みしたまま聞いていたが、これでは埒が明かないと判断し、被害者と思われる女と痴漢扱いされてる男とそれを擁護している女性の三人に、警察署で事情聴取するために同行を求めたが梶山が固辞した。
「どうしても連れて行くなら、こっちは名誉毀損で裁判起こす。それはこの女だけじゃなく、あんたに対してもね」
 梶山が定年間近と思われる警察官に言った。
「公務執行妨害でも何でもいい。手錠掛けたきゃ掛ければいい」
「そちらのお嬢さん。あんたはどうする?こちらの男性は名誉毀損で訴えるって言ってるけど」
「勝手にすれば。これから仕事だから、あたしは行くからね」
 立ち上がった女が出て行こうとするのを無理やり振り向かせた梶山が、彼女の頬におもいっきりピンタを喰らわせた。
「痛っ」
「お前のために、こっちはいい気分害された挙句、痴漢扱いされてんのがわかんないのか!ばっか野郎」
「何すんのよ!」
「それはこっちの台詞だ」
「見たでしょ。この男、あたしのこと殴ったのよ」
「あんたにも落ち度があるようだね」
「何でよ?」
 その短いスカートとブラジャーが透けて見えるそのブラウス。誰だって、男ならおかしくなりそうな格好じゃないか。ストリッパーなら別だけど」
「あたしがストリッパー?」
「いや、物の例えでね」
「酷い。もういい。帰る」
「冗談じゃない。こっちはいい恥かかされたんだ。このまま帰して堪るか」
「女性がもういいって言ってることだし、あんたもこのまま帰った方がいいんじゃないのかい」
「冗談もいい加減にしてくれ。痴漢扱いされたのにもういいからって言うのに、黙って引き下がる訳いかない」
 梶山がやたらに乾く喉にウーロン茶を流し込んだ。
「名誉毀損。侮辱罪で、この女訴える」
 
 簡易裁判所を出た梶山の隣に、彼の証人として出廷した中年女性が立ってる。
「有難うございました。お忙しいところ、申し訳ありません」
「いいえ。私が酔っ払ったあの男性を止めてれば、あなたもこんなことになってなかったでしょうに」
「あの酔っ払い止めるの、女性には無理でしょう」
「見て知らん顔してる私達乗客にも責任あったし……いちばんいけないのは酔ってるとはいえ、女性に乱暴しようとしたあの男性なのに。あなた、とんだ迷惑被ってしまったわね」
「困ってる者見たら、放っておけない性質なんで」
「それにしても、助けてもらってお礼を言うどころか、冤罪押し被せるああいう女性って、何考えてるんだか……これに懲りず、これからも悪い人懲らしめて欲しいけど、こんなことになるんではおいそれと人助けできなくなるわね」
 女性がそれではと会釈したのに、梶山が深々と腰を曲げて見送った後、空を見上げたら眩暈を覚えてしまった。
 それはかんかん照りで暑いこともあったが、彼を痴漢扱いした女の言い分に愕然となってることのが大きかった。
 
 労務者風の男に乱暴されそうになって怖かった。それで助けてくれた男にほっとしてたら、自分のパンツを覗き込んでるのに気付いた。労務者なら分かるが、きちんとした格好の男までが自分をそんな目で見るのかと思うと、腹が立って駅長室に連れて行った。できれば、痴漢に仕上げて示談金欲しかった。
 そんな女だけでなく身勝手なのが多くなってるのに、いやな世の中になったものだと梶山が肩を落とした。
 
 少女三人がコンビニ前の路上に座り込んでる。
 彼女達はそろいもそろってローライズのホットパンツやミニスカートで、パンツだけでなくヒップの割れ目まで透けてた。
「すいません。ちょっとごみの整理するんで、他へ行ってもらいたんですけど」
「ちぇっ。うっぜーな」
「どけ!道端に座り込んでたら邪魔だろ」
 裁判に勝ったもののすっきりしない梶山だった。
 痴漢呼ばわりした女と同様、やりきれない気持ちを関係ない人間に向けてた。
「通れんじゃん。こんなに道あいてんだから」
「道は座り込むためにあるんじゃない。店の人困ってんだから、さっさとどけ!」
「オッサンの道じゃないくせに」
「行こう。変なオッサンでキモイよ」
「何がキモイんだ。蹴っ飛ばすぞ」
 四十過ぎの店員が苦笑しながら梶山にお辞儀をした。
「今の子供達は、自分中心に地球がまわってると思ってるのが多くて」
「若い子だけじゃなく、皆、狂ってる」
 梶山がぎらつく太陽を背にして歩き始めた。
 
 無差別殺人が起きたり、警察や裁判官に教師までが盗撮で捕まってる。
 各地で連日猛暑が続き、東京でも四十度に迫ろうかという厳しい暑さで、木から落ちて怪我した動物園の猿がニュースになってた。
 平和に見える日本だが、勧善懲悪主義の梶山さえ、痴漢という冤罪を被らされそうになってた。
 激署の夏が人間だけでなく猿も狂わせてた。

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