2009'04.29 (Wed) 00:04
曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫) (ガガガ文庫) (2009/03/19) 中村九郎 商品詳細を見る |
【★★】
小説の文章というのは、そこにあるもの(世界や人物や出来事)を描くというものであり、それこそ「描写」という言葉が示すように、「文章」として描かれたものは「文章」として描かれる前の世界や人物や出来事を描いているのである――という「描き方」への一つの考えは、たとえば「リアリティ」なんかを客観的に評する場合に用いられることもありますが、九郎先生の文章はそれとは全く異なります。それが、それこそが、この人のよく言われる「クセ」――独特さとか、ある種の読みづらさとか――だったりするでしょう。『ロクメンダイス、』はライトノベル奇書として名高いですが(笑)、いやいや、他の書もなかなかに奇書だと思いますよ。この描き方。
九郎先生の文章は、ある世界や人物や出来事を描写してるんじゃなくて、描写が世界や人物や出来事を作り出している。ような感じ。
言葉を換えると、所謂「指示対象」というものが無いのです。記号の先の、元となる指示対象が”そこには無い”。
無いものが描かれているのではなくて、描かれた結果「無いもの」が仮構される。ここ大事ですよ。記号における指示対象というのは極端な話全て仮構(超越論的仮構)なのですが、それが九郎先生の場合恐ろしいほど顕在化している。もはや「無い」というのがバレバレなほどに。それは、この書き方によって生じるものですね。その結果、たとえば『アリフレロ』における圧倒的なまでの喚喩的効果などが生じるわけです。凄いですよ、あの作品の喚喩的な繋がり性。対象がないから、それは意味体系に驚異的に繋がるわけです(少し作品に踏み込んでいうと、つまりそれは「喚喩的にアリフレテる」ということです。そして喚喩的だからこそ、「本当」がまったく「アリフレテいない」。そこにタイトル――『アリフレ”ロ”』がかかるわけです。本物、本当の、がありふれていない。喚喩的なつながりはこんなにありふれているのに)。
で、『エア彼氏』。
九郎先生のその文体、文章、運び方は、上に記した理由から、「見えないもの」を描かせたら天下一品だと思うのですよ。そして実際に天下一品でした。そもそも描くことによって「無いもの」を生み出す文章なのだから、「無いもの」を描かせたら当然冴まくるに決まってるわけで。つうかこれ、途中までは今年ナンバーワンラノベ確定だなって感想でした。話自体も当然というか素晴らしいことにというか、それにマッチしていて、仮構(超越論的仮構)を否定するという、もうなんつうのこれ、九郎先生が遂に(大ブレイクしそうだな)……!と思わず震えちゃったほど。さすがに戦闘シーンなんかは、「無い」からこそ読みづらかったりもしたのですが……。
まあそんなわけで。中村九郎の真骨頂にして新天地、そして真髄。「見えないもの」と「無いもの」を綴る物語。ガツンときます。
2009'04.28 (Tue) 00:03
HURTLESS/HURTFUL (MF文庫J し 2-7) (2009/02) 清水マリコ 商品詳細を見る |
【★★】
傑作。
というかですね、僕はこのオチが好き好き大好き超愛してますよ。まさか、このオチとは。まさか、こういう真実だとは! そりゃ「秘密」で「罪」になりますし、当然「箱」に仕舞われます――そしてだからこそ、「脱獄」も執り行われるのでしょう。
筋や整合性の綺麗さ、流麗さなど通り越した「威力」を感じざるをえません(もちろん筋とかが悪いわけじゃないっす)。だからそれは、秘密なのに罪で、閉ざされてるのに脱走するのです。んー、てゆうかなんだろ。マジ好き、超好き。としか言いようがありませんね、ぶっちゃけ。質感がファンタジー”でも”あること(脱子の存在とか、精神分析で隠喩的にも解けないでしょ)が、本作にいい色を付けています。挿絵、特に冒頭の漫画的なものとかもそうですね。現実的な風景に混じる脱現実の色合いは・現実的な絵柄を描出する脱現実の形式は、これがそれでもなお”現実的な”位置に足を付けている作品だからこそ、半歩だけ「非現実」へと脱臼している――否、非現実の夢を見ている。これが非現実ならば、そもそも罪にもならないけれど、なってしまう。脱獄できてしまう。そして――
現実だからこそ、生まれる非現実と、現実だからこそ、梯子が外される非現実。そんな色合いのお話。
2009'04.27 (Mon) 00:01
ダンタリアンの書架1 (角川スニーカー文庫) (2008/11/01) 三雲岳斗 商品詳細を見る |
【★★★】
物語の面白さはどこに担保されるか? それは『幻想』。ではないかと、僕は考えます。
ここでいう『幻想』とは、勝手な思い込みとか、空想・妄想とは、少しだけ異なっていて。「いま現在見えるもの・知ってることの【奥側】にある何か」に抱く想いのことです。Aという事象・設定などが今現在分かってる。しかし、Aという事象・設定などが起きるには、その【裏側】に何か、さらに違うものが無くてはならない。このAがこれだけのモノなのだから、その【裏側】にあるものは、一体どれほどのものなのだろうか――
ここでいう『幻想』とは、そういったものです。【裏側】というのは【未来】に置き換えてもよいでしょう。
今がこれなんだから、さらにこの後記される【未来(裏側)】は、どれだけ素晴らしいのだろう――。
いま現出しているものから、それが現出するに足る【裏】を想い描く。それこそが『幻想』です。もちろん幻想というのは、現実じゃなくて幻想ですから、裏切られることもあります。たとえば精神分析的に云う「アガルマ」とかいうのは、そういう話ですね。【奥】を妄想し夢想する段階は、対象を色艶やかに染め上げるけれど、しかし本当の【奥】は、そんなたいしたものじゃない、しょぼいもの、あるいは汚いものだったりするかもしれない。その時に生じるのは、一般的にもよく言われる言葉でしょう。幻想が滅びると書く、「幻滅」です。
しかしながら、とはいえ、『幻想』が抱けない”モノ”に魅力が持てるだろうか。想像的なものと象徴的なものを幻想を介し彷徨っている。それができないモノに、いかな魅力が”残されて”いるだろうか。丸見えなものに、いかなる魅力が残っていようか。ましてや、それが、その対象が、『物語』であるとするならば。
本作は、その『幻想』を上手い具合に喚起する。いわゆるオムニバス形式ですから、しかも時間軸と記述順が一定ではありませんから、嫌が応にもです。こういう「形式」は、具体的に「隠し」ますから(原作を知らないで観た場合の「アニメ版ハルヒ」の半ばぐらいを思い描いて頂くと分かりやすいでしょう)、その時点で効果的です。さらにキャラクター達も魅力的でありながら、いくらでも「見えない部分」――つまり【奥】【裏】が残っている。具体的なことは殆ど、直裁に語らずに「行動・言動」を介して語られるという形式から、よりです。各々のエピソードと断章は、各キャラクターの行動・言動は、それだけでも当然面白いですが、綴られる毎にさらに、【奥】【裏】への幻想を増していく――もちろん、幻想を殺しもするけれど。
読姫と「彼」との物語が綴られて、ひとつの『幻想』を紡ぐ書となる。次刊以降をこれから読むのが非常に楽しみです。
2009'04.26 (Sun) 00:00
放課後トゥーランドット (一迅社文庫) (2009/04/20) みかづき紅月 |
【★★】
非常に上手いです。転校してきたツンデレつうか蛮勇暴虐系女子(でもツンデレ系)が、蛮勇的に生徒会長の座を奪い取り、そこにおいて暴虐的な力を振るいまくる。でも、ホントは、ただ蛮勇で暴虐な女の子なんじゃないんです、それほどのエネルギーが内から沸き立つには、それなりの理由があって……というのを、「トゥーランドット」に絡めつつ、ゲームネタ満載の美少女部長(男)や演劇部部長の渚(非だんご)と「そんなことより青春しようぜ!」という勢いで、つまりエネルギーでもって、突っ走ったり立ち止まったりぐるぐるしたりするお話し。
エネルギーですね、エネルギー。「原動力」と「動力」(それぞれ別物です)。それらをスパッと纏めていく、特にラストなんかは、感服モノでした。
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