2009'07.12 (Sun) 02:07
き・ま・し・た・ね!!
いやーもうこれなぁ。リアルタイムで見ていた方がお騒ぎになられた理由がよく分かる。
これは素晴らしいとしか言えない。これは素晴らしいとしか、言えない。
まあこの先も「このまま」続いていくことに色んな不和が生じてるらしいですけど、少なくともこの#2(15498回)は素晴らしい。
長門への注目が、画面上でも、お話上でも顕著になりました。
……んー、でもこのお話(感想)、#3見てからにするわ。
あとね、新OPなんですが、凄い方向性変わりすぎててちょっと戸惑います。
一言で云うと、「演技的」になった。
まるでキャラクターが演技しているかのよう。全てにおいてそうとしか取れませんね(ハルヒ(と長門)だけはある意味「素」といえるけれど)。
いやなんというかさ……「みんな同じ歩幅(速度)で走る」とか、ありえないんですよ、という感じ。そういう違和感を覚えます。平野綾の声も、「ハルヒの声」じゃないですしね。それがより、違和感を加速させます。つまり作中の「何か(キャラクター・人物・人間)」では無い、的な。
これは「ハレ晴れ」の時とも違います。あっちは、物語の中のキャラクターが演技している……なんかあまり気乗りしない感じとか、メンドクサイ感じとか、頑張ってる感じとか(前者キョン、後者みくるとかで)あったけれど、今回のOPは、そういう鬱屈や葛藤が感じられない。
つまりキャラクターから性格が零れ落ちている上での、振る舞い。
……零れ落ちてるっていうと、言い過ぎかもしんないですけど。
「ハレ晴れ」は、たとえば、「作中で何らかの経緯で歌って踊る機会があってそれを撮りました」みたいに述べることも解釈することもできるけれど、このOPは、そのキャラクターの鬱屈の無さには、さすがにそう述べることが不可能である。
とか。
そんな感じ。
それじゃ、また次、15499回目の感想に、続く。
いやーもうこれなぁ。リアルタイムで見ていた方がお騒ぎになられた理由がよく分かる。
これは素晴らしいとしか言えない。これは素晴らしいとしか、言えない。
まあこの先も「このまま」続いていくことに色んな不和が生じてるらしいですけど、少なくともこの#2(15498回)は素晴らしい。
長門への注目が、画面上でも、お話上でも顕著になりました。
……んー、でもこのお話(感想)、#3見てからにするわ。
あとね、新OPなんですが、凄い方向性変わりすぎててちょっと戸惑います。
一言で云うと、「演技的」になった。
まるでキャラクターが演技しているかのよう。全てにおいてそうとしか取れませんね(ハルヒ(と長門)だけはある意味「素」といえるけれど)。
いやなんというかさ……「みんな同じ歩幅(速度)で走る」とか、ありえないんですよ、という感じ。そういう違和感を覚えます。平野綾の声も、「ハルヒの声」じゃないですしね。それがより、違和感を加速させます。つまり作中の「何か(キャラクター・人物・人間)」では無い、的な。
これは「ハレ晴れ」の時とも違います。あっちは、物語の中のキャラクターが演技している……なんかあまり気乗りしない感じとか、メンドクサイ感じとか、頑張ってる感じとか(前者キョン、後者みくるとかで)あったけれど、今回のOPは、そういう鬱屈や葛藤が感じられない。
つまりキャラクターから性格が零れ落ちている上での、振る舞い。
……零れ落ちてるっていうと、言い過ぎかもしんないですけど。
「ハレ晴れ」は、たとえば、「作中で何らかの経緯で歌って踊る機会があってそれを撮りました」みたいに述べることも解釈することもできるけれど、このOPは、そのキャラクターの鬱屈の無さには、さすがにそう述べることが不可能である。
とか。
そんな感じ。
それじゃ、また次、15499回目の感想に、続く。
2009'07.11 (Sat) 23:59
ようやく見ました。
いや、その、4週遅れ=4周遅れですみません……。
原作は未見です。でもなんか「エンドレスエイト」って繰り返しもので、原作ではその繰り返しの「最後の一回」だかしか描かれてなくて、んでアニメはなんかここんとこずっとこれやってるらしい……というのは知っています。
知っています。
知っているから、ちょっと違うのかもしれない。
今回見てて一番目に付いたのは、微妙な長門のズレ、長門の奇行でした。
元々普通じゃない子ではあるし、マイペースではあるんだけど、なんかボケ担当みたいなズレがありますよね、文脈的に。
不要なお面などわざわざ買うか?=「不要なものに手を出す人だったか?」
ヘビ花火にご執心なされるか?=「(たとえ花火の種類が何であろうと)興味的・主体的・率先的に取り組む人か?」
セミ採りの場面で、カブトムシを採るか?=「この、無駄な行動」
これと繰り返しが、なんか関係するのでしょうか。この後すぐに、次の話を見るつもりなので、まああんま意味ない(書いても)なんですけど。
ハルヒの火星人に対する思いが「友好的なもの」だった――正しくは、「ハルヒが想像する火星人とは自分に対して友好的なものであった」というのは、かなり深い意味を持つのではないでしょうか。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者。それらは、一般的には、異質な「他者」であり――故に、自身に害を為す(火星人は地球侵略を狙っている)存在であるのだけれど、ハルヒの場合、その異質であるはずの「他者」は、彼女に対し友好的な存在である。
異質な他者が友好的な存在である。そしてそれを追い求める、ハルヒ。
なのに――いや、だからこそ、異質でない者は必要としていない。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者は「わたしのところに来なさい」であるけれど、そうではない、異質ではない、普通の他者は? ――私のところに来なさい、では無い。別にどうでもいい。むしろいらない。SOS団のメンツだって、そもそもその存在自体だって、「異質な他者」に逢うためのもので、今の現状に満足していない。
つまりですね、これを纏めると、こう言えるわけです。
「「異質な他者」は自分に優しい(=友好的)」であり、それを求めていて、それ以外はどうでもいいということは。
裏返せば。
異質な他者ではないもの=普通のもの(ただの人間)は、ハルヒに友好的ではない、優しくない存在なんじゃないだろうか。彼女にとっては。彼女から見れば。
ハルヒの奇行、変な言動は目立ちますが、それを受け入れてくれるもの――つまり、そのままの自分を受け入れてくれるものは……異質な他者にしか居ない。
正しくは、「居ない」ではなくて(いるかもしれない、てゆうか現時にキョンとか居る)、ハルヒにはそれしか見い出せない、彼女はそうとしか思っていない。
とかまあ、えーと。
わかんないですけど。
いや、その、4週遅れ=4周遅れですみません……。
原作は未見です。でもなんか「エンドレスエイト」って繰り返しもので、原作ではその繰り返しの「最後の一回」だかしか描かれてなくて、んでアニメはなんかここんとこずっとこれやってるらしい……というのは知っています。
知っています。
知っているから、ちょっと違うのかもしれない。
今回見てて一番目に付いたのは、微妙な長門のズレ、長門の奇行でした。
元々普通じゃない子ではあるし、マイペースではあるんだけど、なんかボケ担当みたいなズレがありますよね、文脈的に。
不要なお面などわざわざ買うか?=「不要なものに手を出す人だったか?」
ヘビ花火にご執心なされるか?=「(たとえ花火の種類が何であろうと)興味的・主体的・率先的に取り組む人か?」
セミ採りの場面で、カブトムシを採るか?=「この、無駄な行動」
これと繰り返しが、なんか関係するのでしょうか。この後すぐに、次の話を見るつもりなので、まああんま意味ない(書いても)なんですけど。
ハルヒの火星人に対する思いが「友好的なもの」だった――正しくは、「ハルヒが想像する火星人とは自分に対して友好的なものであった」というのは、かなり深い意味を持つのではないでしょうか。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者。それらは、一般的には、異質な「他者」であり――故に、自身に害を為す(火星人は地球侵略を狙っている)存在であるのだけれど、ハルヒの場合、その異質であるはずの「他者」は、彼女に対し友好的な存在である。
異質な他者が友好的な存在である。そしてそれを追い求める、ハルヒ。
なのに――いや、だからこそ、異質でない者は必要としていない。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者は「わたしのところに来なさい」であるけれど、そうではない、異質ではない、普通の他者は? ――私のところに来なさい、では無い。別にどうでもいい。むしろいらない。SOS団のメンツだって、そもそもその存在自体だって、「異質な他者」に逢うためのもので、今の現状に満足していない。
つまりですね、これを纏めると、こう言えるわけです。
「「異質な他者」は自分に優しい(=友好的)」であり、それを求めていて、それ以外はどうでもいいということは。
裏返せば。
異質な他者ではないもの=普通のもの(ただの人間)は、ハルヒに友好的ではない、優しくない存在なんじゃないだろうか。彼女にとっては。彼女から見れば。
ハルヒの奇行、変な言動は目立ちますが、それを受け入れてくれるもの――つまり、そのままの自分を受け入れてくれるものは……異質な他者にしか居ない。
正しくは、「居ない」ではなくて(いるかもしれない、てゆうか現時にキョンとか居る)、ハルヒにはそれしか見い出せない、彼女はそうとしか思っていない。
とかまあ、えーと。
わかんないですけど。
2009'06.26 (Fri) 03:05
言うことありません!!
てゆうかですね、もう『けいおん!』がやるって時点で、なんだってアリなんですよ。前回のアンコール=「もっと」に合わせて映された部室の風景。二回目の「ふわふわタイム」、これはムギから、自発的に・突発的にはじまります。打ち合わせもなく、示し合わせもなく。それが意味するものは「もっと」でしょう。もっと続けたいから、もっとここに居たいから、演奏し出す。そしてみんなも、そのムギの気持ちに続く。
ムギの「もっと(=演奏)」に、律の「もっと」が続いて、さらに澪の「もっと」、梓の「もっと」、唯の「もっと」と来て、さらには観客の「もっと(=手拍子)」まで入ってくる。
この演奏箇所には、誰もいない軽音部室――部室に続く階段、ティーセット、仲良くくっつく5人のかばん、いつもみんなで座っていた席――が映し出されますが、その非人称な映像を、視聴者の「もっと」として捉えることはできるでしょう。もっと『けいおん!』が見たい、続いてほしい、この部室にいたい。この映像にそれを読み取るまなざしは、視聴者の「もっと」である。
だからねー、この「番外編」が、特別に答えてくれたアンコールじゃなくて、最初から決まっていた予定調和のアンコールなのは分かってますけど、もうね、それでもね、「もっと」見れただけで、僕は幸せ。
今回は「なんでもないありふれた一日」を映したような回でしたが、これがもし、第1話、第2話くらいでやってたら、確実に全然つまんない印象を受けたと思うんですよ。それが、この最後の最後にやったからこそ、まあつまんないかどうかは人によりけりなんですけど、僕としては、つまんなくはなかった。
今回に関しては、その差異でしょう。
ここまで見てきたから「視える」ものが、この回には「在る」。
「唯のメール」が、今回のハイライトのひとつでしょうけど、あれの価値・意味――つまり、あれを受け取った彼女たちのあれに向けられたまなざしなんかは、ここまで見てきた人間じゃないと決して分からない。
そういうものが在る。
しかしこれでけいおん!終わっちゃうとか、もうマジで勘弁してほしいなー。
もっと、もっと。アンコールをもう一回、いやそれ以上、願う。
てゆうかですね、もう『けいおん!』がやるって時点で、なんだってアリなんですよ。前回のアンコール=「もっと」に合わせて映された部室の風景。二回目の「ふわふわタイム」、これはムギから、自発的に・突発的にはじまります。打ち合わせもなく、示し合わせもなく。それが意味するものは「もっと」でしょう。もっと続けたいから、もっとここに居たいから、演奏し出す。そしてみんなも、そのムギの気持ちに続く。
ムギの「もっと(=演奏)」に、律の「もっと」が続いて、さらに澪の「もっと」、梓の「もっと」、唯の「もっと」と来て、さらには観客の「もっと(=手拍子)」まで入ってくる。
この演奏箇所には、誰もいない軽音部室――部室に続く階段、ティーセット、仲良くくっつく5人のかばん、いつもみんなで座っていた席――が映し出されますが、その非人称な映像を、視聴者の「もっと」として捉えることはできるでしょう。もっと『けいおん!』が見たい、続いてほしい、この部室にいたい。この映像にそれを読み取るまなざしは、視聴者の「もっと」である。
だからねー、この「番外編」が、特別に答えてくれたアンコールじゃなくて、最初から決まっていた予定調和のアンコールなのは分かってますけど、もうね、それでもね、「もっと」見れただけで、僕は幸せ。
今回は「なんでもないありふれた一日」を映したような回でしたが、これがもし、第1話、第2話くらいでやってたら、確実に全然つまんない印象を受けたと思うんですよ。それが、この最後の最後にやったからこそ、まあつまんないかどうかは人によりけりなんですけど、僕としては、つまんなくはなかった。
今回に関しては、その差異でしょう。
ここまで見てきたから「視える」ものが、この回には「在る」。
「唯のメール」が、今回のハイライトのひとつでしょうけど、あれの価値・意味――つまり、あれを受け取った彼女たちのあれに向けられたまなざしなんかは、ここまで見てきた人間じゃないと決して分からない。
そういうものが在る。
しかしこれでけいおん!終わっちゃうとか、もうマジで勘弁してほしいなー。
もっと、もっと。アンコールをもう一回、いやそれ以上、願う。
2009'06.19 (Fri) 03:14
……どうしようか。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
ものすごくよかった。
もうなんというか、言葉もないです。
「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」
これ。
……なんかもう、なんもいう必要はないわなー。言語化するだけ野暮というもの。
「わたしにとっての」なんですよね。唯にとっての、律にとっての、ムギにとっての、澪にとっての、あずにゃんにとっての。それは”この中身だから”いまいるここがそれになったんだし、”いまいるここがそう”だからこの中身がその内実になった。講堂=武道館だけじゃなくて、全部そうなんですよ。彼女にとっての軽音部、部室、ギー太、軽音部の誰か、あるいは全体、……もう、もろもろの何か。
たとえば梓は今回「このまま唯先輩抜きで演奏しても意味ないです」とまで云ってましたが、これは当初の梓から考えるととても大きな変化です。「意味がない」とまで云っちゃってる。梓にとっての(学祭での)演奏に、唯がいなくては意味すらない。梓がそんなふうに思えるようになった、つまり「梓にとっての」がそのような形になったのは、それまでの言動・出来事・中身によるでしょうし、ということは逆に、その「梓にとっての」の内実は、それまでの言動・出来事・中身そのものである。
そんな風にね……、彼女たちは練習ばっかやってたわけじゃなく、部室でお茶飲んでだべってることが多く、合宿も半分以上遊んでて、でもさ、だから、だからこそ、ここで、「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」になれたんだと思う。もちろん、違う道でもここに辿り着けたかもしれない。けど。この道が辿り着いた場所は、そこだった。その価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて少しも目劣りするようなものじゃないでしょう。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味である。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。
自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。
これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。
もう言葉いらないです。完璧な肯定を見せられた。僕もこれを完璧に肯定せざるを得ない。いや、そんなん抜きにしても素晴らしいんだけど。本当に素晴らしい。
「何かしなくちゃと思うんだけど、いったい何をしたらいいんだろう?」(第一話)から、辿り着いたところ。もちろん、「わたしにとっての」は、ここで終わりじゃなくて、永遠にどこにでも何処まででも辿り着き続けるんだけど。それが、他人から見てどんなに中身のないようなものでも、どんなに価値の低いようなものでも、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いものなんでしょう。『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、正直、もう全く違いすぎると言わざるを得ません。むしろ逆です。描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしんないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない中身に溢れている。成長も変化も、成功も栄光も、ドラマも物語も、それとは別次元。ここにあるのは、唯の、ムギの、律の、澪の、梓の、または憂の、和の、さわちゃんの、その他もろもろの、みんなの、「彼女(たち)にとっての」であった。
2009'06.12 (Fri) 03:07
今回はまったくさっぱり憂が出てこないけど、けどまあいいんじゃないかな~面白いんじゃないかな~楽しいんじゃないかな~と見てたんだけど、次回予告に……
憂が出た!!
いやーもうなんというか、わたくし、そこで感動の涙を流してしまいましたってゆうか頭おかしいね自分!
この、……憂!
次回予告の、……憂!
夕日を浴びておねえちゃんと囁く、……憂!
マーベラス。
我々は今、マーベラスな次回予告を目にした。
夕日の美しさ。色合いの美しさ。憂の美しさ。憂という存在の美しさ。圧倒的、衝撃的。
素晴らしく衝撃的な、この次回予告の憂。
マーベラス。
えっと、てゆうか、次回予告の憂の衝撃だけで今回の内容全てが記憶の彼方に消え去ってしまいました。やっべー、今回どんな内容だったかなー。いい話だったと思うんだけどなー(ひどい)。
やはり「視線」なんじゃないですかねー。
とか思うんですね。『けいおん!』。
「○○が見る××」というのは、当然みんな異なっていて、たとえば憂が見る唯、律が見る唯、梓が見る唯、和が見る唯なんてのは、みんなそれぞれ異なっている。物理的には同じ「唯」っていう人間なんだけど、そこにかかるフィルターがそれぞれにあって。前回の唯がごろごろしてるの見た時の憂・律・梓の反応なんかが、それの象徴的な一枚の絵ですね。
視覚的に「見えている」ものはそれぞれ同じだけど、感情的に「見えている」ものはそれぞれ違う。
そういう意味の「視線」。
これはもちろん唯に対してだけじゃなくて、「○○が見る××」というのは、彼女らの人の数だけ存在します。唯が見る律と澪が見る律との違い、律が見るムギと梓が見るムギの違い、和が見る澪とさわちゃんが見る澪の違い、憂が見る梓と澪が見る梓の違い。ここでいう「違い」というのは、すなわち個々の視線のこと、その差異。
それは目立たないほど小っちゃいものから大っきなものまで、様々あるけど、たしかに違う。何か違う。
個々人じゃなくて集団でもそう。たとえば、軽音部に入らないことを決めた憂のクラスメイトが見る軽音部と、軽音部に入部した梓が見る軽音部の、違い。
それぞれが異なる。
視聴者はここにおいて、単数にしろ複数にしろ、どれかになることも、ひとつに繋ぎ合せることもできる。大昔に「不可視の五人目」とか書いたけど、そういう点では確かにそうでしてね、ここにおいて、(描かれることなく)描かれてる「視線」を、ひとつに纏め上げたり、あるいは単数に自分の視線を見たりといったことができる――いずれにせよ、そこで描かれている「視線」をほぼ全て認識する(支配する)ことができるわけです。切り返しショットを纏め上げる不可視の仲介者のように、切り返し描かれる複数の視線を纏め上げる不可視の五人目として、そこに存在できる。
あー、これ「視線」って言葉使うと齟齬りそうですね。先にも書いたけど、視覚的な意味ではなく、○○にとっての××、的な意味で。
映像面でも、例えばパンがあんまりない、(部室では特に)切り返しショット的というか、うーんあとで考える、とにかく、カメラの配置の仕方が、なんか「飛ぶように」動く、あと誰の主観でもないのだけれど誰かの主観かのようなアングルとか結構目立つ、とか、なんとか。
以前「律のたんこぶ」ってなんなんだろーと思ったのですが、つまりはそういうものですね。あれは誰かの視線には存在しうるものである。ええと、ここで注意なのは「存在しているもの」ではないという点です。存在しうる。実際にあるのかどうかは分からない。ただし、誰かの――たとえば叩いた澪の、あるいは叩かれた律の、もしくはそれを見ていた誰かの――視線には、それが存在しうる。その叩きの衝撃が、本当は存在しないたんこぶとして表象されている。ええ、何度も言いますが、本当に「見えているもの」としての視線ではありません。てゆうか、もしそうだったら、「たんこぶ」は存在していていいわけがない。たんこぶが存在できるのは、本当は見えないものがその誰かには(イメージとして)見えているからです。
この「だんこぶ」は、その残滓です。誰かの視線の残滓としての「たんこぶ」。それは誰かの視線を決定付けるものでも特定させるものでもないけれども、視線の存在を、その映像の中に繋ぎ止めて、それを見る私たちが、その視線自体を繋ぎ止められる(あるいは纏め上げられる)ようにするもの。
これでも「視点」じゃないんですよ。視座としての機能ではない。たんこぶが残滓として存在しているように、存在していないような、すぐに消えてしまうような、――残滓としてしか存在できないような、そういった「視線」、見えないし描かれてないけどそれが見えるし描かれている(だからこそ不可視の五人目なんですけど)、そのような感じです。
あとでなんかもちっとまともに書くかも。書かないかも。
あー、あとね! 次回予告見て驚いた!
次で最終回!
まじですか……。はえーよーぉー!
憂が出た!!
いやーもうなんというか、わたくし、そこで感動の涙を流してしまいましたってゆうか頭おかしいね自分!
この、……憂!
次回予告の、……憂!
夕日を浴びておねえちゃんと囁く、……憂!
マーベラス。
我々は今、マーベラスな次回予告を目にした。
夕日の美しさ。色合いの美しさ。憂の美しさ。憂という存在の美しさ。圧倒的、衝撃的。
素晴らしく衝撃的な、この次回予告の憂。
マーベラス。
えっと、てゆうか、次回予告の憂の衝撃だけで今回の内容全てが記憶の彼方に消え去ってしまいました。やっべー、今回どんな内容だったかなー。いい話だったと思うんだけどなー(ひどい)。
やはり「視線」なんじゃないですかねー。
とか思うんですね。『けいおん!』。
「○○が見る××」というのは、当然みんな異なっていて、たとえば憂が見る唯、律が見る唯、梓が見る唯、和が見る唯なんてのは、みんなそれぞれ異なっている。物理的には同じ「唯」っていう人間なんだけど、そこにかかるフィルターがそれぞれにあって。前回の唯がごろごろしてるの見た時の憂・律・梓の反応なんかが、それの象徴的な一枚の絵ですね。
視覚的に「見えている」ものはそれぞれ同じだけど、感情的に「見えている」ものはそれぞれ違う。
そういう意味の「視線」。
これはもちろん唯に対してだけじゃなくて、「○○が見る××」というのは、彼女らの人の数だけ存在します。唯が見る律と澪が見る律との違い、律が見るムギと梓が見るムギの違い、和が見る澪とさわちゃんが見る澪の違い、憂が見る梓と澪が見る梓の違い。ここでいう「違い」というのは、すなわち個々の視線のこと、その差異。
それは目立たないほど小っちゃいものから大っきなものまで、様々あるけど、たしかに違う。何か違う。
個々人じゃなくて集団でもそう。たとえば、軽音部に入らないことを決めた憂のクラスメイトが見る軽音部と、軽音部に入部した梓が見る軽音部の、違い。
それぞれが異なる。
視聴者はここにおいて、単数にしろ複数にしろ、どれかになることも、ひとつに繋ぎ合せることもできる。大昔に「不可視の五人目」とか書いたけど、そういう点では確かにそうでしてね、ここにおいて、(描かれることなく)描かれてる「視線」を、ひとつに纏め上げたり、あるいは単数に自分の視線を見たりといったことができる――いずれにせよ、そこで描かれている「視線」をほぼ全て認識する(支配する)ことができるわけです。切り返しショットを纏め上げる不可視の仲介者のように、切り返し描かれる複数の視線を纏め上げる不可視の五人目として、そこに存在できる。
あー、これ「視線」って言葉使うと齟齬りそうですね。先にも書いたけど、視覚的な意味ではなく、○○にとっての××、的な意味で。
映像面でも、例えばパンがあんまりない、(部室では特に)切り返しショット的というか、うーんあとで考える、とにかく、カメラの配置の仕方が、なんか「飛ぶように」動く、あと誰の主観でもないのだけれど誰かの主観かのようなアングルとか結構目立つ、とか、なんとか。
以前「律のたんこぶ」ってなんなんだろーと思ったのですが、つまりはそういうものですね。あれは誰かの視線には存在しうるものである。ええと、ここで注意なのは「存在しているもの」ではないという点です。存在しうる。実際にあるのかどうかは分からない。ただし、誰かの――たとえば叩いた澪の、あるいは叩かれた律の、もしくはそれを見ていた誰かの――視線には、それが存在しうる。その叩きの衝撃が、本当は存在しないたんこぶとして表象されている。ええ、何度も言いますが、本当に「見えているもの」としての視線ではありません。てゆうか、もしそうだったら、「たんこぶ」は存在していていいわけがない。たんこぶが存在できるのは、本当は見えないものがその誰かには(イメージとして)見えているからです。
この「だんこぶ」は、その残滓です。誰かの視線の残滓としての「たんこぶ」。それは誰かの視線を決定付けるものでも特定させるものでもないけれども、視線の存在を、その映像の中に繋ぎ止めて、それを見る私たちが、その視線自体を繋ぎ止められる(あるいは纏め上げられる)ようにするもの。
これでも「視点」じゃないんですよ。視座としての機能ではない。たんこぶが残滓として存在しているように、存在していないような、すぐに消えてしまうような、――残滓としてしか存在できないような、そういった「視線」、見えないし描かれてないけどそれが見えるし描かれている(だからこそ不可視の五人目なんですけど)、そのような感じです。
あとでなんかもちっとまともに書くかも。書かないかも。
あー、あとね! 次回予告見て驚いた!
次で最終回!
まじですか……。はえーよーぉー!