2009'05.09 (Sat) 04:02
![]() | 耳鳴坂妖異日誌 手のひらに物の怪 (角川スニーカー文庫) (2009/05/01) 湖山真 商品詳細を見る |
新人さん。最初の方は超面白いかったのですが、進むにつれてだれてきてしまった感があり、ちょっと残念でしたが、今後に期待したい感じでもありました。
てゆうかですね、シークエンス、その選択と分量がとってもいい感じでした。特に前半。細かいことは、もうちょっと読み込まないと言えないんですけど、とりあえず。
妖異に関する説明で語られてた、彼らの性質。生まれたときから、その「本来」というものが既に定まっている。そこに存在意義を見い出していて、たとえばグレムリンに間違われたところで怒ったように、彼らはそれをとても重要なものとして見ているのですが、ひるがえれば。アイデンティティは、完全に個人で獲得するものでも、完全に個人で背負うものでも、完全に個人に責任が行き着くものでもなく。
生まれながらの所与である。
それは、さらに言うと、「交換可能である」ということでもあります。
彼・彼女たちは、個性もあり、個人個人でもあるけれど、存在意義は、アイデンティティは、完全には個人個人に没しきれていない。
なぜ彼女は携帯電話なのか? いままで主人(主人というか、持ち主?)を乗り換えてきたのか?
彼女の存在意義が全体に基づいた交換可能性に立脚しているということは、同時に、彼女にとって(その存在意義にとって)関わる者は性質さえ同じならば誰であろうと交換可能である、ということでもあります。
交換可能性。
しかし、交換不可能性。
そうです、描かれるのは、重要なところは殆ど全て、交換不可能性。いまどきの、個性的な妖異はそれとして認められ、死は、当然交換不可能なものとして悲しまれる。存在意義からは交換可能なのに、交換は不可能な「存在」である。それがここに示されている。
つまり、存在は存在意義に立脚していない。
むしろ、邪魔なくらい――というか、枷なくらい。
草太には太刀が合ってる。でも、だからこそ使わない方がいい気がするの。
合いすぎるそれは、かえって良くない。それに支配されてしまうから。存在意義を、大文字の「存在意義」に立脚してしまっては、しすぎてしまっては、それしかできないし、それをやることになるし、それに縛られるし、それに支配される。
だからこそ、使わない方がいい。だからこそ、遠く離れた方がいい。
存在意義に立脚しない存在――大文字の存在意義に頼らないで「存在」する、自分で存在意義を手に入れるために。
そしてだからこそ、妖異である。そこに絡む必要があるし、その集団にコミットする必要がある。社会的な担保から離れた、非日常的な不可思議にこそ、大文字ではない自分の「存在意義」を見つけられる。
……そして。そこから排除されても、「存在」は続く。「存在」が続くかぎり、存在意義を手に入れる戦いも続けられる。
そういう、おはなし。
2009'05.07 (Thu) 00:28
![]() | 星図詠のリーナ (一迅社文庫) (2009/04/20) 川口 士 商品詳細を見る |
正統派ファンタジー……? いや、僕はファンタジーってのがよく分からないので、何ともいえないところなんですが。
聡明でお優しく芯の強い美丈夫的な王女様が地図を作るぜ~超作るぜ~とはりきる物語。決してつまらなくはないけど(てゆうか僕は、つまらなかったものの感想は書きません(そもそも読了に至りません))、うーん、世間の評判がいくらなんでも高すぎる気がする。
世界観の説明を語句(説明台詞)だけで済ませるのではなく、さりげなく普通にあたかも当り前のように「犬の魔物」とか出して「そういうのがいる世界なんですよここは」と説明している点は秀逸な丁寧さですね。「ここは魔物がいる世界」などと書かないで、ただ作中にぽんと魔物が存在する。「ここは魔物がいる世界」なんて書くと、”ここ”以外――つまり読者たるわたしたちの世界が、それと相対化され、顕在化し、つまり意識されてしまいますが、そういうのを、説明ではなく「当然」として書くことによって回避しています。乖離的な世界ではなく、少なくとも本の中には実存的な世界が、そうすることによってここに出来上がっているわけです。
この丁寧さは素晴らしいです。全編通してこう丁寧なんですが、これが「地図を描く」という目的(欲望)と相克している。作り手の恣意性が排除された、実存的世界像が示されているからこそ、「地図を描く」という行為が、”意義のあるもの”としてわたしたちに受け止められるわけです。
2009'05.06 (Wed) 01:44
![]() | タイム・スコップ! (一迅社文庫 す 2-1) (2009/03/19) 菅沼誠也 商品詳細を見る |
ある日突然空から降ってきた少女にぶつかってヒトラーが死ぬところからはじまる歴史改変。
いやもう、どー考えても。本年度のあらすじ大賞、つかみはおっけー大賞は確定でしょう。
以上。感想は行間を読んでくれ(ぉ
2009'05.05 (Tue) 00:30
![]() | 青年のための読書クラブ (2007/06) 桜庭一樹 商品詳細を見る |
【★★】
恋は、人の容姿にするものか? それとも、詩情にするものなのか?
人間関係は心の内側に定めた彼と私の位置によって決まる。「自分のことを王だと信じている王は、自分のことを王だと信じている乞食と同じくらい狂っている」。元は誰の言葉だっけ、結構有名なフレーズですよね。ある者が王である理由は、彼が生まれつき王であるからではなく――彼の本質に「王」というものが、資格が、理由が宿っているからでなく――、彼が単純に王という地位についているからである。つまり、周りの人間が彼を王として扱っているからはじめて彼は王たりえる。血も権力も付随物・副産物でしかない。それがあるから彼は王なのではなく、王という地位が社会的に存在し、人間関係の中で存続しているから彼は王になりえるのだ。
世界はまだ空っぽかい?
人々は関係のなかで関係を作り出しているのではない。結果論的にはそうだが、因果論的には、ひとつその前がある。人は、自身の象徴的位置を定めて、はじめて社会関係の中に参与できる。わたしたちの繋がりというのは象徴的な位置の連なりだ。あの人はわたしの中でこうであり、この人はわたしの中でそうである、その理由は、彼の社会的地位や、彼と私のとあるエピソードや、彼の性格や、彼の容姿や、彼の詩情により構築される。わたしの中に、人々が<いる>。象徴的な地位、象徴的な位置というのは、そのこと。
わたしは世界自体を見ているのではない。誰も世界自体など見られない。わたしが、わたしたちが見れる世界は、<わたし(たち)が見た世界>、のみだ。そこはありとあらゆるものが、見える要素と見えない要素、見える関係と見えない関係を保持し繋ぎ合せ構築する象徴的な世界だ。象徴的。わたしのなかにしかない世界。
それは、空っぽかい?
その、わたし(たち)のなかにだけあるそれは、そうだからこそ、中身のない空っぽと同じじゃないかい? 存在論的な根拠に乏しく、空想や妄想との差異はどこまでも恣意的なんじゃないかい? しかもその中には、「わたし自身」も参入しているのだ。
精神のもつある種の自由
しかしそれは、本当に空っぽなのか? 象徴的なもの、想像的なもの。シンボリックなもの、イマジネールなもの。それは、言葉を換えれば、主体を変えれば、支配・利用したと錯覚すれば、「精神のもつある種の自由」なのではないか?
格好の良い女性を男としてみてキャーキャー騒ぐ。
男から女に(あるいは、女から男に)わたし自身を変貌させる。
象徴的行為になり下げ果てた扇子ふるいをやめる。
「あいつはとても難しいやつだ」の、その内実、己の多義性を乗りこなし一番星を輝かす。
だから。
彼女は男性化する必要があったし、彼は女装する必要があったし、彼女は扇子を振るい続け彼女は扇子を捨てる必要があったし、一番星は歌を唄う必要があったし、ブーゲンビリアは永遠に失われる必要があった。空っぽの世界では、その象徴的行為の形式性を「意味性」に高めるイマジネールが彼と彼女には必要で、それが逆に、世界の空っぽを埋めた。
埋めれられた。
世界はまだ空っぽかい?
ここにはいくらでもできる、何でも見れる。
イデアは現存しない。幻のブーゲンビリアが票を集め、永遠の青年像を完遂させたように、それは「幻」だからこそ可能であって、現存するものには不可能である。しかしだからこそ、だからこそ、何でも見れる。何でも見れる。精神のある種の自由(想像界)が、内的世界(象徴界)のある種の空っぽを、圧倒的に凌駕出来る――ただし、しかし、ここが最も重要なところですが。ただし、しかし、それは、この学園の最中のみ。この通り過ぎる僅かな「季節」にだけ、それは存在できて、存在している。モラトリアムでもなく、隙間でもない。幻想を孕ませ、現実を凌駕できる「季節」が、その学園という空間と、学生というこの時期に、ただただ存在している。
2009'05.04 (Mon) 00:29
![]() | 零崎軋識の人間ノック (講談社ノベルス) (2006/11/08) 西尾維新 商品詳細を見る |
【★★★】
やはり、西尾維新は最高だーー!!
僕は常々言ってますが、物語の面白さというのは「幻想」です。幻想が作り出します。幻想が担保します。もちろんそれ以外も多々ありますが、「幻想」が面白さを創出する部分は、非常に重要なのではないかと思っています。いや、まじで。
「幻想」。ここでいう幻想とは、”見えてる・知ってる・分かってることの「奥」”のこと。未来も含めますし、設定や世界観や過去も含めます。
わたしたちが見えてる限りの描写から想像できる幻想、わたしたちが知ってる限りの情報から想像できる幻想、わたしたちが分かっている事柄から想像できる幻想。
たとえば、この人物の底の知れなさとか。たとえば、この人物とあの人物の戦いや共闘に抱くわくわく感。たとえば、世界観の奥深さ。まだ見ぬもの。まだ知らぬもの。そこに馳せる想像の量。
描かれていることが全てではないのです。描かれていることの奥に想像できる、「描かれていること以上のもの」こそが、面白さを作り出す「幻想」として機能するのです。
いや、まじで。
見えてるものや知ってるものや描かれてるものから想像される、その奥、”それ以上のもの”――そこにこそ、面白さは宿る。知ってることや分かってることが大事なのではない、知ってることや分かっていることが何故そうなのか、それ以上はその奥にあるのではないか――つまり、知ってることや分かっていることは「深層」から描写により表に滲み出た「表層」ではないか。
その「幻想」こそが、面白さを作り出す。
まじで。
西尾維新さんはそのへん上手いんですよ。激うま。いつもそうですけど、今回もそうですよね。正面から全てが全ての面で十全な全力を出し切ることはありえない。その時、その状況下でのベストというのはあっても、十全なベストはありえない。戦闘シーンなどまさにそうでしょう、軋識は実力の全てを出せず、双識は正面から戦わず底を見せず、人識はそもそも手負いじゃん、と。お互いがベストで十全の戦闘能力発揮状態なら、人識VS出夢とか少年漫画顔負けの凄さじゃん。でもやらない。そうはならない(そして「そうなった」後日談はダイジェストでしか見せてくれないし、しかも戦闘として不完全(心理的にノンベスト))。正面衝突ではない、目的の為の自制された戦闘でしかない、制約された全力でしかない。そこは十全ではないのですディアフレンド。
だからこそ、そこには「幻想」が宿りうるのです。
もっと。もっと。もっと。
もっと凄いのではないか。もっと強いのではないか。もっと激しいのではないか。もっと格好良いのではないか。もっと底が知れないのではないか。もっと何かあるのではないか。もっと何か出来るのではないか。もっと凄いのではないか。描かれていることより、もっとが、彼らの中に内在しているのではないか。もっと。もっと。もっと。
だからもう、楽しくって仕方ない。戯言シリーズはやはり神だなと(笑)。幻想を自由自在に作り出す。幻想にわれわれは導かれ続ける。
しかーし、一人だけ、幻想ではない、全力十全完全少女がここにいます。そう、この時点では少女……いや、「少」でいいのか? まあいいや。請負人。人類最強。赤き征伐。
この人だけは全く持って十全。いえ、十全に見える。たとえ真実は十全でなくとも、わたしたちが見る・知る・分かる限りでは、十全に見える。
そう、哀川潤さんには幻想などいらないのです。なぜなら既にして最強だからー。「奥」など必要なく、その行動原理に「奥」など組み込まれていない。
「嫌なことは嫌々やれ。好きなことは好きにやれ」
「好きなことは好きにやればいいのさ。好きな道を選べばいい。好きな色を選べばいいんだよ」
最高です、赤い人。幻想を軽々とノック・アウトして、全てを喰らい尽くす。