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先のエントリー「そんなら、客でいたまえよ」は、自分でも公開をかなりためらった記事でもあり(過激すぎてお蔵入りにしたままの記事もいくつかある)、案の定いろいろな方からのコメントをいただいた。傾聴に値する意見ももちろんあったのだが、その一方で「ネット一言居士」に類するようなコメントもまたあった。何も反対意見だから「一言居士」と切り捨てるというわけではなく、「建設的な内容がない」「まじめに返事しても不毛なケンカになりかねない」という意味でこう呼んでいるだけである。 本来ならこの種のコメントは無視してすませたいところだが、「アルファブロガー大賞」にリンクされるという大変困った事態になってしまったので、放置しておくと勘違い君がさらに群がってくる恐れがある。そこで気が進まないながらも一応まじめに返事しておくことにしたい。 ■幼稚な比喩 では手始めに、別のエントリー「水に芸術はわからない」についた「たむ
大学院生向けの論文指南の名著・酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版、 2002年)に、こんな一節がある。 ではなぜ(自費出版やHP上の論文は)研究成果として認められないのか。それは、 価値の無い論文が氾濫することを防ぐためである。誰でも好き勝手に論文を発表できるのならば、 中身のない論文や独りよがりの論文が世界中にあふれてしまう。これでは、価値のある論文を見つけ出すのが大変である。時間は有限、 貴重な時間を費やして、ゴミの山を調べる暇など無いのだ。 学術雑誌に掲載されていること。それは、その学術雑誌の編集部が、 その論文の価値を保証しているということであり、研究成果として認めているということである。 私たちは、編集部のお墨付きを信用して、限られた読書時間の一部をその論文を読むことにあてる。もちろん、 学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。真
海外ツアーの添乗員にとって一番厄介な客は、西も東もわからない初めての客ではなく、ある程度海外旅行の経験がある客だという。なぜなら彼らはもうその国をわかったつもりになっているので、添乗員の言うことを聞かずに勝手な行動を取り、結果とんでもない事故を起こして大迷惑をもたらすからである。初めての客の方が、勝手がわからないだけにかえって素直に言うことを聞いてくれるのである。 たとえばこんな例がある。香港ツアーに参加した客の中に、香港が初めてではない数人のグループがいて、彼らは「自分たちはもう勝手がわかっている。今日はマカオに日帰りしてくるぞ」と言って、添乗員が止めるのも聞かずに勝手に出かけてしまった。ところが待てど暮らせど帰ってこない。翌日やっと連絡が入って言うには、「澳門(マカオ)」と間違えて、30時間かかる中国行き(恐らく福建省の「厦門(アモイ)」行きであろう)の船に乗ってしまい、中国のビザがな
最近の日中関係が日中国交回復以来最悪の状態になりつつあることはもはや誰しも異論のないところであろう。そのこと自体についての論評は既に議論百出しているから、ここで屋上屋を架す必要はなかろう。ただ小泉首相にはどうも「聞く耳を持たない」ことが男の美学だと勘違いしている節があるということだけは言っておきたい。彼は気に入らない意見に対してはすぐに「わからんねえ」と切り捨てるが、乱暴狼藉を非難されるとすぐに「カンケーねーよ」とうそぶくヤンキー(yankeeではない)の姿がそれにダブって見えてくるのは私だけであろうか。 この一連の騒動で小泉首相の放った迷言といえば「『罪を憎んで人を憎まず』とは孔子の言葉でしょう?」だが、これについても中国古典文学の大家・一海知義氏がさっそく朝日新聞5月31日朝刊「私の視点」で批判を展開してくれている。マスコミで最初に批判する中国文学研究者は誰だろうかと思っていたら、飄々
■アナログな時間を取り戻すために 最初にも述べたように、私がカードシステムを復活させたいと思った動機の一つは、パソコンの前で漫然と空費する時間を減らしたいということであった。実際にカードを使ってみて20日ほどになるが、携帯メモでアイデアを捕まえてカードに定着させる作業が楽しくなってくると、作業を快適にするために道具を調えて、机周りをきれいにしようという意欲も出てくる。梅棹式の知的生産術を几帳面にやっていた頃の感覚が戻ってくるような感じといったところだろうか。そうすると仕事自体への意欲も出てきて、仕事や生活の密度が濃くなってきたように思う。テクノ依存症に悩む方には、ぜひ今一度「紙」に戻ってみることをお勧めしたい。 パソコンを離れてカードに向かうための、ちょっとした工夫をここで紹介したい。 その1 パソコンを立ち上げる前にカードに向かう 仕事場に着いたら、パソコンを立ち上げる前にカードに向かい
自称「研究家」や、その説を支持する人がよく言うセリフに、「学者は新説に対して不寛容だ」 というのがある。自分の「既得権益」を侵されたくないから、スクラムを組んで「新規参入」を妨げているのだと、最近はやりの「規制緩和」派の言い分をそのまま学界にも適用しようとするわけである。 研究者の書く論文を全く読んだことがない人なら、こう言われるときっと納得して同情を感じることであろう。「そうだ、ちょっとくらい話を聞いてあげてもいいじゃないか、新しい試みを認めてあげてもいいじゃないか」と。 そう思っている人がもし 研究者の行う研究は、他者に対しても寛容である。 と聞いたら、「え? 何かの間違いじゃないの?」と声を上げるに違いない。 文学研究の場合を中心に話を進めるが、学術論文では通常、最初にそれまでの先行研究を挙げて、その問題点を指摘してから、自分の考えへと移るスタイルを採る。しかしそこをよく読むと、問題
学界に身を置く研究者は、論文を送りつけてくる自称「研究家」には、多くの場合無視するか、よくても儀礼的な挨拶、あるいは皮肉やほめ殺しで体よくあしらうことが多い。これに対して不平不満を抱き、学界への怨み言をたらたら吐き続ける自称「研究家」も数多くいる。 しかし学界と一般の人の関係は、実はオーケストラの団員と客の関係に似ている。 オーケストラの演奏会では、舞台と客席とは完全に分離されている。演奏するのは舞台の上の団員だけで、客はせいぜい拍手を送るか、曲によっては手拍子をするくらいである。お座敷や盆踊りのように、客も歌い手も一緒になって騒ぐということはまずない。 たとえどんなにすばらしい演奏の腕前を持っていたとしても、客でいる限り、勝手に舞台に上がって演奏することは許されない。 そんなことをすれば演奏会は台無しになる。そもそもオーケストラとはそれぞれの楽器が個性を発揮しながらも、 全体としての調和
■PoIC―― 情報カードの最先端 パソコン全盛の今日にあって、もはや過去の遺物になったかと思われた情報カード。今でも使いこなしている人はいるのだろうか。そう思って調べてみると、何とより洗練された形に進化した情報カードシステムがあった。それがPoIC(Pile of Index Cards)である。 PoICシステムの詳細はこちらを御覧いただきたいが、その要点は次の通りである。 ・5×3判(図書目録カードの大きさ)の方眼カードを用い、京大型カードと同様に1枚1項目で情報やアイデア、記録や行動予定を書き込む。 ・カードは「記録」「発見」「GTD (これから行うべき事柄)」「参照」 に分け、それぞれ簡単なアイコンを表題に書き込み、さらに方眼の上端の決まったマス目を塗りつぶしてタグにする。こうすると上からカードの束を見たとき、タグが縞模様になって現れ、検索の目安になる。 ・書き上がったカードは分
このタイトルが何のもじりかは、ある程度以上の年代の方ならすぐにおわかりのことと思うが、別にブログやHPをやめる宣言をしようというわけではない。前のエントリーで京大型カードに蓄積された院生時代の講義の記録を再発掘した話をしたが、せっかくの「財産」を10年以上埋もれたままにしていたのは何とももったいないことで、これを死蔵させずに活用できていたら、少しは偉くなれていたかも知れないと、悔やまれてならなかった。それ以後情報カードシステムのことが改めて気になりだしたのである。 ■情報カードシステムとは 情報カードシステムについてご存じない方のために簡単に説明しておくと、B6判のカードに1枚につき1項目で情報やアイデアを書きためていき、後でカードを繰って一つのテーマに関連のあるものを抜き出し、それらをもとに論文を書いたり、一見無関係なカードの組み合わせから思わぬ新たな発想を得たりすることを目的としたシス
■知っているようで知らない漢和辞典の使い方 加えて辞書の引き方そのものについても、誤解している人が多いことにも触れなければならない。特に漢和辞典は、なじみのある辞書でありながら、使い方が十分理解されているとは言い難い面がある。 例えば子供に名前をつける際に、漢和辞典を引く人は多い。しかし使い方を間違えるととんだ失敗につながることがある。例えば「央」 という字は昔から人名に普通に使われているし、今でも米大リーグで松井稼頭央選手が活躍しているから、あやかって「央」を名前に入れたいという人もいることであろう。 では漢和辞典で「央」を引いてみよう。今手元にある角川『新字源』を見ると、「なりたち」の項に もと、大(人が両手を広げた形=筆者注)に首かせをはめたさまにより、わざわい、 ひいて、つきる意を表す。殃の原字。借りて「なかば」の意に用いる。 と出ている。これだけを読むと、「ええっ、『央』ってそん
■国語教科書にかみついた中学生 外山滋比古『「読み」の整理学』(ちくま文庫)という本を、 たまたま書店で見かけて手に取ってみた。以前に外山氏の『古典論』を読んで、 その平易にして斬新な文にすっかり引きつけられてしまったことがあるので、今度はどんな内容かと期待して開いてみたら、 初っぱなからとんでもない話が目に飛び込んできた。 その話というのはこうである。中学校3年用の国語教科書に載っていた外山氏の文章の、 「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」 というくだりに対して、「3年2組クラス一同」から 「この文章、間違っています。直してください」 という苦情の手紙が届いた。もともと中学生には少し難しいかと思われる文であったが、教科書会社からのたっての要望で、 できるだけわかりやすく手を入れた上で掲載を承諾した文である。かりにも検定を通った教科書で、 中学生にもわかる誤り
■まずはまじめな紹介 既にいろいろなところで紹介されているが、言語学を専門とする方からの「水からの伝言」批判が現れた。「思索の海」というブログの記事 「水からの伝言」に言語学の立場から反論する である。 詳細は当該記事を御覧いただきたいが、著者は 音声や文字で表現される「言語の形」と、その「意味内容」は、 恣意的に結びついている (たとえば「ワンワンと鳴く獣」という実体=意味内容には、「イヌ」「ドッグ」「コウ」「ケ」などの音声や「犬」「dog」「狗」 「개」などの文字を好きなように結びつけることができるのであり、 どれが結びつくのかは何の必然性もないことである。) という言語学の知見に基づいて、 ある言語表現の、その物理的性質(形)のみと特定の評価を結びつけることは原理的に不可能 なのであり、 「意味」を受け取るためにはそれがどのレベルのものであれ、 受け手側が実に様々な情報、知識を持って
■「角の三等分屋」とは 幾何学における「ギリシャの三大難問」はご存じの方も多いと思う。定規とコンパスのみを使って、次のような作図を行えというものである。 与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図せよ。 与えられた任意の角を三等分せよ。 与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ。 なお定規は直線を引くためだけに用いるもので、目盛りを使ったり、三角定規で角を使ったりしてはならないし、コンパスも円や円弧を描くためだけに用い、作図は有限回数の操作で行わなければならないという条件がつく。 問題の意図は誰にもわかりやすいが、では実際に作図するにはどうすればよいのか。この問題は2000年以上にわたって数学者を悩まし続けたが、解析幾何学や微積分学の進歩に伴って、代数的な方法によってすべて「不可能」であることが証明された。 ところがわかりやすい問題であるだけに、「不可能」が証明されてからもなおこの問題に挑
昨年11月に「水からの伝言」に言及しながら 「人文系の「ニセ科学」対策」について書いたところ、当ブログのアクセス数が一時100倍近くにまでふくれ上がる大反響?になってしまった。「水伝」への関心の高さのあらわれなのだろうが、果たして素直に喜んでいいのかどうか……と思っていたら、今度は朝日新聞文化欄(昨年12月11日付夕刊)の稲葉振一郎「ブログ解読」に、「水伝」とのからみで少しだけ紹介されてしまった。「水伝」はダシに使っただけなのに、このような扱いをされたことには正直困惑したが、幸い仕事に支障を来すほどの大騒ぎにはならずにすんだ。 それでも行きがかり上、「水伝」に科学としてではなく道徳的な「お話」としての価値はあるのかという問題については一言しておかなければなるまい。この問題についても既にあちこちで言われているので、今さらという感もあるが、先日書いた 「神話伝説やオカルトは事実でなくてもお話と
科学が世の中をバラ色にしてくれると誰もが信じていた時代はとうに過ぎ去った。そこで科学以外のものに救いを求めようとする人々も当然出てくる。救いや拠り所を求める相手として一番手っ取り早いのはやはり「神」である。既成宗教にいう神仏の場合もあろうし、新興宗教の教祖の場合もあろう。また魔術や占いのようなオカルトの場合もあろうし、それらをよりソフトに言い換えた「スピリチュアル」に傾倒する人もいる。 彼らの中には神や霊魂の実在を認め、自然現象や社会現象を神が操っていると本気で信じたり、霊能者と称する人が「…… という現象は霊魂のせいだ。自分にはそれが見える」と言うのに対して何の疑いもはさまず熱狂する人も少なくない。 しかし自然科学の研究者はいわゆる「霊能者による霊視」を本当のこととは認めないし、それ以前に自然科学の研究対象にはしない。なぜなら霊能者本人が「見える、見える」と言っているだけでは、霊の存在は
『武蔵野文学』53号が手元に届いた。この雑誌は国文学の研究書を多く手がける武蔵野書院が発行しているもので、一応論文も載っているが新刊書の広告雑誌のようなものであるし、普段はざっと目を通しただけで捨ててしまうのだが(何せタダだから)、今号の論文には目を引かれたタイトルが一つあった。 それは福嶋健伸氏の「『狂言のことば』と現代韓国語の意外な類似点」。トンデモウォッチングが半ば趣味になってしまっている私は、「こんなところにまでトンデモ論文?」と色めき立ってしまった。単に語感が似ているというだけで「○○語のルーツは××語」と決めつける「研究」は、いわゆるトンデモ「研究」(私は「研究ごっこ」と呼んでいる)の定番テーマだからである。しかも福嶋氏の肩書きを見ると「実践女子大学専任講師」とあって、立派なプロである。本当にそんな人がトンデモなことをやるのだろうか……と、半信半疑でこの論文を読んでみた。 私は
日本人は古来中国の古典を訓読によって読んできた。訓読を用いれば、中国語の発音を知らなくても、元の中国語の文そのままで、日本語によって読むことができるのであり、世界でも類を見ないすばらしい翻訳方法であるといえる。(もっとも最近の研究では、訓読の発祥は朝鮮半島であることが明らかになってきているが、朝鮮ではその後訓読は廃れ、漢字を朝鮮語音で上から順に読む音読が主流になった。日本では逆に訓読が音読を圧倒し去り、さまざまな改良が加えられて生き延びたのである。) しかし現代の日本人にとって、訓読による漢文は「チンプン漢文」と揶揄されるほど難しい代物になってしまっている。特に国語の中の必修科目として学ばされる中高校生には、「何でこんなものをやらなければならないのか」と釈然としない思いを抱えている人も多いことであろう。そもそも漢文はセンター試験で出題されるから、高校でもしぶしぶ時間を割いて教えているという
科学のようで実は科学ではない「擬似科学」で今最も注目されているのは「水からの伝言」であろう。学習院大学の田崎晴明氏が最近 「水からの伝言」を信じないでくださいというわかりやすい啓蒙サイトを発表されたので、どのようなものか知りたい方はこちらを見ていただきたい。 擬似科学(「ニセ科学」と呼ぶ人も多い)は相手にしないというのがこれまでの研究者の態度であったが、「水伝」は小学校で道徳の教材として使われるなど、自然科学の枠を越えた悪影響が目立つようになったため、さすがに無視を決め込み続けるわけにはいかなくなり、多くの学者が批判や啓蒙の活動を始めている。 私もトンデモ「研究」の見分け方・古代研究編というサイトをやっている関係上、この問題はずっと注視してきたが、啓蒙活動をする研究者と一般の人々とのネット上でのやり取りを見ていると、いろいろと考えさせられるところがあった。以下に何点か記しておきたい。 その
白髮三千丈 白髪 三千丈、 縁愁似箇長 愁いに縁(よ)って箇(かく)の似(ごと)く長し。 不知明鏡裏 知らず 明鏡の裏(うち)、 何處得秋霜 何れの処よりか秋霜を得たる。 ――私の白髪は何と三千丈、愁いのためにこんなに長くなったのだ。光る鏡の中の我が姿は、いったいどこから秋の霜のような白髪を得たのであろうか。 唐代のみならず中国を代表する詩人李白の「秋浦歌」である。詩の題は知らなくても、最初の一句は知らないという人の方が少ないであろう。自由奔放で奇抜な表現が持ち味の李白の詩の中でも、この詩は奇抜さの白眉として愛唱された名詩である。 三千丈といえばおよそ9キロメートル、そんな長い髪を持った人が現実にあろうはずはない。この数字は言うまでもなく誇張である。しかし次の句を読めば、それが単なる誇張ではなく、積もり積もった愁いの比喩として用いられた表現であることがわかるのである。それは月並みな
毎年この時期になるとしなければならない作業は、初級中国語のクラスの学生に自分の名前を中国語でどう発音するか調べさせて、それを名簿にまとめる作業である。中国語の授業では最初の1~2箇月で発音を集中して学ぶので、それが一通り終わったところで、自分の名前の発音を調べさせるのである。この作業は何年もやっていれば、日本人の人名に普通に使われる漢字の発音はほとんど覚えてしまうし、時には意外な発見もあったり(「夏」はxià(シア)だが、「榎」はxiàではなくjiă(チア)と読むなど)するので、なかなか楽しい作業である。 中国語の中では、日本の人名や地名は漢字を中国語の音で読む。東京はDōngjīng(トンチン)、大阪はDàbăn(ターパン)と読まれ、小泉純一郎はXiăoquán Chúnyīláng(シャオチュエン・チュンイーラン)と読まれる。靖国神社もJìngguó Shénshè(チンクオ・シェンシ
今年度から科研費による研究プロジェクトを2つ抱えることになり、ブログを研究活動の広報用とその他とに分離する必要が出てきました。そのため当ブログを分割の上移転することといたします。 現在のブログは当面存置しますが、コメント・トラックバックの書き込み機能は停止いたします。 大学院生向けの論文指南の名著・酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版、 2002年)に、こんな一節がある。 ではなぜ(自費出版やHP上の論文は)研究成果として認められないのか。それは、 価値の無い論文が氾濫することを防ぐためである。誰でも好き勝手に論文を発表できるのならば、 中身のない論文や独りよがりの論文が世界中にあふれてしまう。これでは、価値のある論文を見つけ出すのが大変である。時間は有限、 貴重な時間を費やして、ゴミの山を調べる暇など無いのだ。 学術雑誌に掲載されていること。それは、その学術雑誌の編集部が
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