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2008年3月28日 (金)

どちらが不寛容か

 自称「研究家」や、その説を支持する人がよく言うセリフに、「学者は新説に対して不寛容だ」 というのがある。自分の「既得権益」を侵されたくないから、スクラムを組んで「新規参入」を妨げているのだと、最近はやりの「規制緩和」派の言い分をそのまま学界にも適用しようとするわけである。

 研究者の書く論文を全く読んだことがない人なら、こう言われるときっと納得して同情を感じることであろう。「そうだ、ちょっとくらい話を聞いてあげてもいいじゃないか、新しい試みを認めてあげてもいいじゃないか」と。

 そう思っている人がもし

研究者の行う研究は、他者に対しても寛容である。

と聞いたら、「え? 何かの間違いじゃないの?」と声を上げるに違いない。

 文学研究の場合を中心に話を進めるが、学術論文では通常、最初にそれまでの先行研究を挙げて、その問題点を指摘してから、自分の考えへと移るスタイルを採る。しかしそこをよく読むと、問題の指摘はするけれども、全面否定はせず、「どの説も一理あるが、また100パーセント同意できるものでもない」というスタンスで書かれているのが普通である。最後まで読んでみても、 「この説以外にはあり得ない、他の説は全部間違い」などという叙述にはまずお目にかからないであろう。

 つまり新説を発表する際には、自分と見解を異にする説に対しても、それが長い年月の淘汰を経て確乎たるものになった基礎的知識に立脚している限り(ここが大事)、 全面否定して排撃するという態度はとらない。 文学研究の場合なら「そのようにも読めるけれども、こういう読み方もできるのではないか、こちらの読み方の方がよりすっきりするのではないか」という風に、 他説の存在も認めた上で、ケルンの上に新たな石を一つ積むように、自分の説をそっと積み上げるのである。

 そしてすべての人が自説を受け入れてくれるよう要求するようなこともしない。おとなしく読者の判断にゆだね、それで反応が思わしくなければ、自分の至らなさを認めて、次に向かってさらに研鑽を積めばよい。もし論争になっても、決着がつくまで相手を徹底的に論破しようとは考えず、言うべきことを言ったらいい加減なところで打ち切って、評価はやはり読者の判断にゆだねる。学界での渡世とはそういうものである。

 対して自称「研究家」の「研究」はどうだろうか。彼らの「研究」の多くは、基礎的知識を知らないか、無視しているか、敵視している。 そうしない限り成り立たない説だからである。故に基礎的知識を否定し、それに立脚しているすべての研究を否定し、それらを支持する学界を否定し……という具合に、自説以外のすべてを否定することに懸命になる。 他説の存在を寛容に認めている限り、最後は自己否定にしか行き着かないからである。

 しかも彼らは自説が思うように支持されないと、途端に所かまわず出没しては、支持を訴えて騒ぎ出すから始末に負えない。某巨大掲示板の学問板をのぞいてみれば、支持しない人を片っ端からやっつけようと暴れている人が必ず見つかるものである。恬淡と百年後に知己を待てばいいものを、どうしてこうもせっかちなのだろうか。

 いかに寛容な学者といえども、最初から他者を否定しておいて、その他者に「受け入れてくれ」と迫るような虫のいい人にまで寛容になれるはずがないのは、あまりにも当然の道理である。「お前の母ちゃんデーベーソ、でも仲良くしてね」などと言う人にわざわざ仲良くしようと思う聖人君子もしくはお人好しが、この世にいるとは思えないのだが。

 「寛容だと言うなら、文句言わず好きなようにやらせておけばいいじゃないか」と言う人もいることであろう。 全くもってその通りである。大半の学者は自称「研究家」に対しては、やめろとも何とも言わない。 ただ相手にしていないだけのことである。研究者の発表する研究であっても、つまらなければ誰も何も言ってくれない。労力をかけて批判するに値する研究でなければ、批判さえしてもらえないのである。

 新しい研究を発表する自由は誰にもある。しかし発表しさえすれば 「注目される権利」「称賛される権利」が当然についてくるわけではない。 この当たり前のことがわかっていないと、鼻つまみ者への道をまっしぐらになってしまうのであろう。

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