そして、時計の針は進んだ―。
まだ夏の気配が残る秋口。
高級ホストクラブに、一人の女性客が現れた。クリーム色のごく普通のスーツ姿で、店にはおよそ似つかわしくない清楚な空気を抱く若い女性だった。
「どなたのご紹介で?」
入り口でそう聞かれた彼女は、常連客の名を静かに答えた。
「うかがっております、どうぞ。…ご指名はございますか?」
「はい」彼女は、店の入り口に提示されてある一人のホストを指さした。
「この人を―」
席に案内され、やがて現れた男は、彼女の顔を見て僅かに表情を強張らせた。
「…由美、ちゃん?」
「基兄さん」
由美はゆっくりと彼を見上げた。
「どうして―ここが」自嘲的な笑みを浮かべて彼女の隣に腰を下ろした男に、まるで抑揚のない声で由美は告げた。
「姉さんは、死んだわ」
え、と基はゆっくりと目を見開いた。
「葵が…?」
「死んだわ」
「いつ」
「一月前よ」
「ど…どうして」
動揺のあまり基はテーブルの上に並べてあった花瓶を倒し、あたふたとそれを片付ける彼を見つめて、由美はそのまま静かに席を立とうとする。
「ま―待って、由美ちゃん」
慌てて基は彼女の腕を掴んで妹を引き止める。
「それだけ、言いに来たの」
「待って」
まるで呼吸を整えるように大きく息を吸って、基の瞳は一瞬空(くう)を泳いだ。
「さよなら、兄さん」由美の声は冷たかった。そこに密やかな憎悪を感じる。
「待てよ。いったいどういうことだよ、なんで葵が」
最後に葵の姿を見たとき、彼女は間違いなく元気そうだった。最後まで葵は基を真っ直ぐに見つめ、彼を心配していた。そして、あの瞳に浮かんでいた熱い炎に彼は怯えたのだ。
彼には、応え方が分からなかった。
愛の意味を、愛することの意味を、彼は知らなかった。
それまで彼を必死に諭していた葵が、不意に彼を弟としてだけではなく、もっと違った深い色の愛で包み込もうとしてくれた。
本当は、それこそが彼が望んでいたことだとどこかで分かっていたのに、逃げ出すことしか出来なかったのだ。
「兄さんのせいよ」
「俺の?」
由美は追いすがる基の目を一瞥し、肩に置かれた手を振り払った。
「もう二度と会うことはないと思う」
「由美ちゃん!」
清算をして入り口に向かう彼女の後を追って、基は店の外へ出る。
「待って、由美ちゃん。教えてくれ、いったいどういうことなんだ!」
店の外に出てコートを羽織った由美は、僅かに躊躇った後、ポケットから一通の手紙を取り出して基を振り返った。
「姉さんからよ」
呆然とそれを受け取った基は慌てて封を切る。葵の匂いが微かに漂っている。震える手で中の紙を取り出して貪るように文字を追う。
「兄さん」その様子を黙って見ていた由美は一枚のメモ紙を彼に差し出した。
「ここへ行って。兄さんを待ってるから」
基は涙を零していた。
「待ってるから」
由美はそれだけを言ってその紙を基の手に握らせ、そのまま夜の町へ消えていった。
「どうして…っ」
由美が去ったことにはもう構わずに、そして、周囲から浴びせられる冷たい視線もまるでお構いなしに、葵の手紙を抱きしめて、基はその場に崩れるように座り込む。
「どうして、葵…」
『基。ごめんね。
ずっと大好きだよ。
今度生まれ変わったら、別の形で会おうね。
ううん、でも、また双子でも良いかなぁ』
力のない字で、まるで死に逝く者の息遣いのような弱々しい筆跡だった。文字通り、最後の力を振り絞って、彼女はその言葉を遺したのだろう。
まだ夏の気配が残る秋口。
高級ホストクラブに、一人の女性客が現れた。クリーム色のごく普通のスーツ姿で、店にはおよそ似つかわしくない清楚な空気を抱く若い女性だった。
「どなたのご紹介で?」
入り口でそう聞かれた彼女は、常連客の名を静かに答えた。
「うかがっております、どうぞ。…ご指名はございますか?」
「はい」彼女は、店の入り口に提示されてある一人のホストを指さした。
「この人を―」
席に案内され、やがて現れた男は、彼女の顔を見て僅かに表情を強張らせた。
「…由美、ちゃん?」
「基兄さん」
由美はゆっくりと彼を見上げた。
「どうして―ここが」自嘲的な笑みを浮かべて彼女の隣に腰を下ろした男に、まるで抑揚のない声で由美は告げた。
「姉さんは、死んだわ」
え、と基はゆっくりと目を見開いた。
「葵が…?」
「死んだわ」
「いつ」
「一月前よ」
「ど…どうして」
動揺のあまり基はテーブルの上に並べてあった花瓶を倒し、あたふたとそれを片付ける彼を見つめて、由美はそのまま静かに席を立とうとする。
「ま―待って、由美ちゃん」
慌てて基は彼女の腕を掴んで妹を引き止める。
「それだけ、言いに来たの」
「待って」
まるで呼吸を整えるように大きく息を吸って、基の瞳は一瞬空(くう)を泳いだ。
「さよなら、兄さん」由美の声は冷たかった。そこに密やかな憎悪を感じる。
「待てよ。いったいどういうことだよ、なんで葵が」
最後に葵の姿を見たとき、彼女は間違いなく元気そうだった。最後まで葵は基を真っ直ぐに見つめ、彼を心配していた。そして、あの瞳に浮かんでいた熱い炎に彼は怯えたのだ。
彼には、応え方が分からなかった。
愛の意味を、愛することの意味を、彼は知らなかった。
それまで彼を必死に諭していた葵が、不意に彼を弟としてだけではなく、もっと違った深い色の愛で包み込もうとしてくれた。
本当は、それこそが彼が望んでいたことだとどこかで分かっていたのに、逃げ出すことしか出来なかったのだ。
「兄さんのせいよ」
「俺の?」
由美は追いすがる基の目を一瞥し、肩に置かれた手を振り払った。
「もう二度と会うことはないと思う」
「由美ちゃん!」
清算をして入り口に向かう彼女の後を追って、基は店の外へ出る。
「待って、由美ちゃん。教えてくれ、いったいどういうことなんだ!」
店の外に出てコートを羽織った由美は、僅かに躊躇った後、ポケットから一通の手紙を取り出して基を振り返った。
「姉さんからよ」
呆然とそれを受け取った基は慌てて封を切る。葵の匂いが微かに漂っている。震える手で中の紙を取り出して貪るように文字を追う。
「兄さん」その様子を黙って見ていた由美は一枚のメモ紙を彼に差し出した。
「ここへ行って。兄さんを待ってるから」
基は涙を零していた。
「待ってるから」
由美はそれだけを言ってその紙を基の手に握らせ、そのまま夜の町へ消えていった。
「どうして…っ」
由美が去ったことにはもう構わずに、そして、周囲から浴びせられる冷たい視線もまるでお構いなしに、葵の手紙を抱きしめて、基はその場に崩れるように座り込む。
「どうして、葵…」
『基。ごめんね。
ずっと大好きだよ。
今度生まれ変わったら、別の形で会おうね。
ううん、でも、また双子でも良いかなぁ』
力のない字で、まるで死に逝く者の息遣いのような弱々しい筆跡だった。文字通り、最後の力を振り絞って、彼女はその言葉を遺したのだろう。
- 関連記事
-
- 業火 あおいそら 50
- 業火 あおいそら 49
- 業火 あおいそら 48
もくじ 紺碧の蒼
もくじ 真紅の闇
もくじ 黄泉の肖像
もくじ 『花籠』シリーズ・総まとめ編
もくじ 花籠
もくじ 花籠 2
もくじ 花籠 3
もくじ 花籠 4
もくじ 花籠 外伝集
もくじ 儘 (『花籠』外伝)
もくじ ラートリ~夜の女神~
もくじ 光と闇の巣窟(R-18)
もくじ 蒼い月
もくじ 永遠の刹那
もくじ Sunset syndrome
もくじ 陰影 1(R-18)
もくじ 陰影 2
もくじ 虚空の果ての青 第一部
もくじ 虚空の果ての青 第二部
もくじ 虚空の果ての青 第三部
もくじ 虚空の果ての青(R-18)
もくじ アダムの息子たち(R-18)
もくじ Horizon(R-18)
もくじ スムリティ(R-18)
もくじ 月の軌跡(R-18)
もくじ ローズガーデン(R-18)
もくじ Sacrifice(R-18)
もくじ 下化衆生 (R-18)
もくじ 閑話休題
もくじ 未分類