その日の夕食に、釣ってきた魚を調理しながら、母はキッチンのテーブルでぼんやりテレビを観ている俺に、ぽつりと言った。
「真珠ちゃん、いつもあんたが町に出かけているとき、寂しそうにあんたの帰りを待ってたんだよ。」
彼女が普通に家にいる間だったら、あ、そう、と聞き流していた筈のその言葉が、不意にちくりと俺の胸に突き刺さった。
「今回、ようやく一緒に出かけられるってんで、あの子、本当にはしゃいでたよ。」
「…ふうん。」
心臓がずきずきした。テレビの賑やかなバラエティ番組は、もうただの雑音と化し、目の前をちらちらと流れ去っていく。
「覚えてる?」
不意に、母は振り返って俺をにこっと見つめた。
「お前がまだ小学生・・・入学してた?入学前?いずれ、そんなちっちゃいとき、みんなで海水浴に行って、一日泳ぎまくった日のこと。」
「海水浴?」
俺は、テレビから視線を外さず、どうでも良さそうにぼんやり聞き返した。
「そう。あの日、ものすごい綺麗に晴れた夏の日だったでしょう?」
「…それが?」
「思い出さない?」
尚も、母はそう言い続ける。それで、俺はようやく母の顔を見た。そして、その晴れやかな笑顔の向こうに、青い空を見た気がした。
そうだ、そんな日が確かにあった。
俺はごく幼い頃から兄としょっちゅう海に行っていたから、海の光景なんて特に珍しいものでも印象深いものでもない。特に一人で海釣りに出るようになってからは、海は日常の延長線上の光景でしかない。
だけど、あの日は、家族全員で何故か海水浴に出かけたのだった。
ものすごい夏の太陽が鮮やかに照り付けて、岩場のしぶきも光を受けてキラキラしてて、なんだか分からないか俺は異様にはしゃいでいた。きっと、家族で海を訪れるってことがあんまりなかったからかも知れない。
海水浴客もあんまりいなくて、その日は、海はとても広々していた。
父も、兄も、その日は海水パンツを穿いて、海に潜ったり岩場まで競争したりと楽しそうだった。母は浜辺で白い帽子をかぶり、Tシャツ姿になって時々波打ち際で波と戯れていた。その光景は、皆、今より若くて、活気に満ちていて、きらきらしていた。
その日、俺は覚えたばかりの素もぐりを何度も何度も、それこそ狂ったみたいに繰り返していた。息をつめてすとん、と海の中に潜り込み、ぐいぐい深海へと進んでいく。と言っても海水浴海岸の浅い海だったのだが、俺は何度も潜っては底に辿り着こうと夢中になっていた。
そして、何度目かに潜ったとき、ずっと沖の方から、ものすごく綺麗な丸いものがふわふわ近づいてくるのを見たのだ。
海の中にある宝石は‘しんじゅ’と言うんだぞ、と父が教えてくれた。兄が、貝殻の中に入っているんだ、とにこにこと言った。
俺は、そのきらきら綺麗な丸いものをじっと目で追った。それはふらふらしながら水面へ向かっていて、俺は一旦海面に浮かぶとその方向へ夢中になって泳ぎだし、そして、再度海に潜ってみた。
その丸いものは、まだ、あった。
「しんじゅ?」
俺は思った。やった!宝石を見つけた!と俺は意気込んだ。それは、ふうわりと波間に浮かんできた。
ふらふらしながら海面を漂うその丸いもの俺は必死に近づき、手の中にやっと収まりそうなシャボン玉みたいなそれを、俺はそっと両手で包み込んだ。顔を近づけて中を覗いてみた。そのとき、鼻と口が、その玉に触れ、触れた途端、それは弾けとんだ。
「あっ…!」
と声をあげて、俺は驚いて固まった。
次の瞬間、そこには小さな女の子がいたのだ。
初め、目を閉じて膝を抱えるように丸くなっていたその子は、くるくる海面を回りながら次第にゆっくりと身体をほどいていった。そして、茫然とその様子を見ている俺に向かって、やがてぱっちりと目を開け、にこっと微笑んだ。
「…しんじゅ?」
俺の見つけた真珠は、そういえばどこへ行ってしまったのだろう?俺はなんとなく、そんなことが脳裏を過ぎり、そう呟いていた。
彼女は、尚もくるくる回りながら、時々俺を見つめてにこにこ微笑んだ。それで、俺はなんだか嬉しくなって、一緒に遊ぼうとその子に話しかけた。
「ねえ、一緒にもぐりっこしようよ。」
その子は嬉しそうに目をキラキラさせて、すぽん、と海の底へと向かった。
「あ、待って!」
俺は、彼女を追いかけた。かなり練習して早く潜れるようになったと思っていたのに、何故か彼女には全然叶わなかった。くそ!女に負けるなんて、と俺は夢中で彼女を追いかける。それでも、一向に差は縮まらず、俺は息苦しくなって水面に戻った。
はあはあと息を切らしながら、水面を見渡すとすぐ近くに彼女がぽっかりと顔を上げて、不思議そうな顔をしている。
「ねえ、君、どうしてそんなにもぐるのが早いの?」
彼女はにこっと笑って、再び、すぽん、と海へ潜っていく。ちきしょう!と俺は彼女を追いかけ、そして、あれ?と思った。あの女の子、魚の尻尾がついてる。
その尾をひらひらと魚のように動かして、ぐいぐい潜っていくのだ。
ずるい!あんなものがあったら、俺がかなうわけない!
俺は、ムッとして水面に戻った。
すると、ややあって、彼女はどうしたの?と言いたげな表情をして俺の隣に浮かんできた。
「君、ずるいよ。魚の尻尾があるんだもの。」
俺が睨むと、彼女はころころと笑った。俺の周りをすいすいと周りながら、岩場の方を指差す。
「泳ぎっこ?良いよ、でも、君、半分魚なんだから、絶対勝つでしょ。」
そう言いはしたが、ようし!という気になって、俺は一気に泳ぎだした。友人たちの中でも、俺は泳ぎはかなり得意な方だったのだ。
岩場へ泳ぎ着き、俺はしぶきのあがるそこによじ登り、彼女の手を引いて上げてやった。並んで腰かけて、俺は彼女にいろいろ聞いてみた。
名前は?とかどこから来たの?とか、その尻尾はどうしてあるの?とか、確かそんな素朴な質問だ。そのとき、明確な答えが返ってきたのかどうかよく覚えていない。ただ、俺はそのとき、新しい泳ぎの上手い子と知り合って、一緒に泳いだり潜ったり、海での時間を共有できたことに幸せだったのだ。
一日中その子と遊んで、やがて、夕方になって別れるとき、俺は言ったような気がする。
「今度は、君が俺の家に遊びにおいでよ。待ってるから。いろんな玩具があるし、美味しいものもあるよ。あ、でもそのときは尻尾は外して来てね。一緒に駆けっことか出来ないから。」
彼女はにこにこと俺の言葉を聞いていた。
彼女がそのとき、何かを言ったかどうか覚えていない。ただ、純粋な、掛け値ない‘好意’だけが、二人の間に流れていた。
俺は、はっとして、現実に帰ってきた。
「真珠…?」
あれは、真珠、だったのか?
「あんた、あの日は、一日海から戻ってこなくて、帰りに‘真珠と遊んできた’ってばっかり言ってたよ。その子には尻尾があって、泳ぎももぐりっこもかなわなくて悔しかったって。」
母は、笑ってそう言った。