「点滴の針を?」
ふと、樹の声が近くで聞こえ、優ははっと目を開ける。すとん、と意識は途切れ、いつの間にか眠っていたようだ。
「申し訳ありません。ほんのしばらく目を離した隙でした。ですが、だからと言って特に問題はありませんので…」
叱らないでやってください、と言いたげに、看護師は樹を見つめた。
黒いスーツ姿の樹の背中がすぐ近くに見えた。
いつき、と叫ぼうとして、優は彼の空気に息を呑んだ。
看護師が出て行き、樹はひとつ息をついて振り返った。その瞳に浮かぶ暗い光に優は彼が怒っていることを知る。
「優ちゃん」
優が目を開けて怯えた顔で彼を見上げているのに、気づいて、樹はベッドに近づいた。
「…い、いつき…」
彼のオーラが明らかに怒りを含んでいる。優に対して彼が今まで怒りの感情を露わにしたことはなかった。優は、何も考えられないくらい怯えて泣きそうになった。
鹿島と桜木からの報告に寄ると、優は自ら屋敷の外に出て、捕まったのだという。もしも、そのとき桜木が何も気づかずに帰っていたら、彼女は今頃、ここにこうしてはいられなかったのだ。何故、自ら捕まるようなことになったのか、彼にはまったく見当もつかなかった。
「とにかく、無事で良かったよ」
でも―、と樹は優の頭をそっと撫でる。その手にすがりつきたいのに、優は彼の声色に身がすくんで動けない。
「何をやってるの? 君は」
呆れたような、しかし、低い怒りの声に、優はびくりと身を縮める。
「ご、ごめんなさい」
「どうして」
言い掛けて、樹は一旦大きく息を吸い込んだ。怒鳴られるのかと思って、優はぎゅっと目を閉じる。知らずに身体が震えた。
それでも、怒ってくれるの? 心配してくれるの?
樹は、まだ‘彼女’に会ってないの?
不意に空気の動く気配がして彼女は恐怖に固まる。殴られるのかと、思った。
しかし、次の瞬間、彼の大きな温かい手がそっと優の頬を包み、優の顔にかかる髪をかきあげた。
「どうして、こんなことになったのさ?」
静かに息を吐き出しながら、彼は言った。それは既にため息に近かった。
そして、優は知った。樹の関心がまだ自分にあることを。喜びと同時に激しい後悔の念が、不意に湧き起こってくる。ああ、きっと彼女が攫われたことで、どれだけ樹に迷惑が掛かったのか。どれだけ多くの人が動いてくれたのか。最後に聞いたあの声の主も、彼女を救うために必死になってくれたのだ。
「ごめんなさい。…ごめんなさい」
優は、震えながら謝り続けた。
「優ちゃん、質問にはきちんと答えなさい。一体、何があった? どうして一人で外に出たりした?」
優は目をぎゅっと閉じたまま、首を振り続けるだけだった。
ああ、まだ樹は娘の存在を知らないのだ、と優は思った。
知られたくなかった。
そして、何より、自らの浅ましい思いを、悟られたくなかった。
初めて、優は嫉妬したのだ。初めて、誰かの存在に怯え、疎ましく思いそうになった。その黒い感情に優自身が怯えた。
「優ちゃん、どうしたの? 答えなさい」
樹の声のトーンがすっと下がり、優はびくりと身体が震えた。息が苦しくなってくる。
嫌われたくない。
樹に嫌われて、もう要らないと見捨てられたら、自分は行く場所などないと、優には分かっていた。
「ご…」
「ごめんなさい、はもう良いよ。ちゃんと俺の目を見て」
樹の声は、ぞっとするほど冷たく感じた。優は泣きそうになりながらそうっと目を開ける。目の前に迫る彼の目は、まだ冷たい。心配のあまり、その裏返しの怒りであることなど、優には分からなかった。
「優ちゃん、君、携帯電話を使ったね? あれは誰の番号?」
発信履歴が残ることなど優は知らなかったが、それでも特に疑問を抱かずに、優は小さな声で答える。
「…本に、挟んであって」
「本?」
優は、同級生が、落し物だと届けてくれた本に紙が挟んであったことを話す。
「それは、君の本ではなかった?」
優は頷く。
「じゃあ、何故、君のものだとその子は思ったんだ?」
優は小さく首を振る。
「…分かった。それにしても、何故、連絡を取る必要なんてあったのさ?」
優は唇を噛み締めた。ああ、その質問をずっと恐れていたのだ。樹の視線は真っ直ぐ彼女を捕えていて、優が目をそらすことを許さない。
「何が、書いてあったの? 電話番号の他に?」
言いよどむ優を、樹は黙って見つめる。
嘘をつくことを知らない優は、言葉を紡ぐことが出来ずに許しを乞う視線を樹に投げかける。
「何?」
たたみ掛けるように、樹は鋭い視線で先を促す。
今回のことで、樹は陰に潜む異母兄弟の陰謀的なものに確信を抱いたものの、証拠を掴むまでには至らなかった。探偵社は深いことは何も知らなかったし、取引相手は、待ち伏せに気づいて逃げ去ってしまっていた。どこから情報が漏れたのか。その苛立ちと、もう、優が巻き込まれる事件はこりごりだと震えた時間を思うと、樹はどうしても憤りを抑えきれなかった。
特に、今回は、相手が無理やり優を拉致したのではなく、彼女が無防備に自分から守りの外へ出て行ってしまったことに寄って引き起こされた結果だった。桜木の機転で大事に至らなかったに過ぎない。しかし、そもそもの優を誘い出すに至った原因を知らないことには、同じことがまた起こらないとは限らなかった。
「優ちゃん?」
樹の声は冷たく、いつもの優しい響きがまったく感じられなかった。ここで強情を張っていたら、もう、良いよ、と言われかねないと優は本気で怯えた。
「い、いつきの…」
優の目からは涙が一滴零れ落ちた。
これを言ったら、お仕舞いだと優は思った。
もう、樹は私を見てくれなくなる。きっと、だったらもう要らないと言い渡されるに違いない。だけど、それでも、答えない訳にはもういかなかった。
「いつきの…本当の子どもがいる、って。その子が、いつきに会いたいって…」
優は零れ落ちる涙に視界がぼやけ、泣きながら瞳を閉じた。
「今、出てきたら…その子に会わせてあげるから、って言われて」
樹は一瞬、茫然、とする。
「な…んだって?」
「その子に会って…、お願いしたかったの。私を追い出さないで、って。ここに置いて、って…。ご、ごめんなさい、ごめんなさい、いつき。…ごめんなさい」
優は樹の低い声色に、悲鳴のように謝る。
捨てないで、と優は全身で訴え続けていた。
その子の邪魔はしないから。ただ、樹が見える場所に置いて欲しい、と。
樹は、その予想外の言葉にしばし絶句し、その意味することがしっかりと理解できるまでしばらくの時間を要した。そして、ようやく一つ息をついて身体を起こす。
優は、泣きながらまだ謝り続けている。
なんてことだ。
樹は、あまりの動揺に言葉を失っていた。額にかかる前髪を無造作にかきあげ、落ち着こうと大きく息を吐き出す。そして、視線を戻すと、泣きながら小さく震えている優を改めて見つめる。
何がどうなって、そんな話になったのか。
そして、それを優がどんな風に受け取り、怯えていたのか。
言わずに済まそうとしていた結果が、むしろ、問題をこじれさせ、大きくしてしまったのだ、と茫然とするしかなかった。
この子にとって、俺の娘の存在など、何故…
優が何より求めているものが、‘親’という存在なのだと、樹にも、そして、優自身にも理解されていないことだった。
迂闊だった。
そして。
いずれ、変な形で知れるよりも、言っておくべきことかも知れない、と樹はため息とともに覚悟を決めた。
彼女自身に、背徳の罪を共に背負わせることを。
「…探偵社ともあろうところが、なんて中途半端な情報を仕入れたのかね」
苦笑と共に、樹はそっと優の背に腕をまわす。優は抱き上げてそっと抱きしめてくれた樹の胸に夢中ですがりついた。必死に、ただ、引き離されることを心底怯えるように。
「優ちゃん、確かに俺にはこの世でたった一人、娘がいるよ」
ぴくり、と優の身体がその言葉に反応する。
樹は優の耳元にささやくような声で話し始める。
「昔、知り合った留学生と、俺は恋に落ちた。16年以上前のことだ。栗色の髪と白い肌をした、北欧の女性だった。だけど、俺は彼女と知り合って間もなく、日本を後にした。…と言ってもほんの一年、父親の国に暮らしただけだったんだが」
優は樹の声を、怯えながらも、ただ全身で聞いていた。
「その、俺が日本にいなかった僅かの間に、彼女は俺の子どもを日本で生んでくれた。…女の子だった。だけど、彼女はその後、慣れない異国での暮らしに身体を壊してしまった。彼女の両親が迎えに来て、彼女は赤ん坊を日本に残したまま故郷へ帰らなければならなくなった。…そして、残された子を育ててくれたのが、桐嶋勲という青年だったんだよ」
そこまで黙って聞いていた優は、桐嶋の名前に、初めて身じろぎをした。
そして、一瞬の後、…え?という表情で泣きはらした顔を上げた。
「桐嶋…勲?」
樹は放心したように、ぽかん、と自分を見上げた優に頷いた。
「そうだよ、優ちゃん。…君だよ」