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虚空の果ての青 第二部

虚空の果ての青 (作品説明)  

虚空の果ての青 第二部

『虚空の果ての青』R指定を外しての改稿版です。

 あまりに長い作品だったので、分けました。
 というだけです。

 第二部は事件が連発いたします。
 かなり辛い世界に投入、更に、いろいろ背徳と倒錯が交錯いたします。
 そういう世界に嫌悪を抱かれる方は、無理は禁物です(ーー;

 優の‘父親’が彼女の前に現れます。

 そのとき、樹は・・・ 





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虚空の果ての青 (‘父親’) 1 

虚空の果ての青 第二部

 桐嶋勲。
 その日。優を認知し、戸籍上の父親となっている男が、二度目の刑期を終えて出所してきた。児童虐待に対する刑罰ではない。今回はそれを止めようとした近所の人に重症を負わせた傷害罪であり、そして、それほど重い罪ではなかったのに、服役は彼が望んだことだった。

 それでも、彼が塀の外へ出て、まずしたのは、優の所在の確認だった。
 幼い優を暴行し、年端もいかない少女の身体を弄んだ張本人である。
 彼は、まだ優を諦めてはいなかった。
 その歪んだ執念のようなもの。それは彼自身にも抗うことのできない暗い運命のような、呪いのようなものだった。

 彼はちょっと大人しいだけの普通の少年時代を過ごし、ごく普通の人生を歩んでいた一人の青年に過ぎなかった。
 その彼の運命を狂わせた出会い。それは初めての‘恋’。どんなに想っても、そばにいても満たされない狂おしい想い。それが彼の心を焼き、そして、失った恋を嘆く心が化け物を生み出した。嫉妬。憎悪。呪い。

 それらが去っていった彼女の娘へと投影されたのだ。すなわち、それが優だった。
  


 優を引き取ろうかと考え始めたとき、樹は、優の父親についてもある程度の調べを進めていた。

 そして、勲が出所するという情報を鹿島は掴んでいた。すぐに樹へ知らせは届き、彼の命を受け、鹿島は勲を見張っていた。しかし、鹿島は警察でも尾行のプロでもない。

 数日後、ほんの一瞬の隙をつかれて、勲は行方をくらます。
 勲は、自分がやましいことをしていることを充分に承知しているので、見張られていることはむしろ当然と考えている。その見張っている相手が誰かということは詮索しない。ただひたすら警戒して、常に逃げる態勢に入っているのだ。

 尾行を撒いた勲は、その足で、確認をとっていた優の学校それから施設周辺に潜んだ。公立高校の受験を終え、発表を待つだけだった優は、その日は中学校へ顔を出すだけだった。すでに私立の合格が内定している級友が大勢の中、希美子と優は、発表後の手続きの説明を受け、二人はそれぞれ学校を後にする。

 お互いあまり言葉も交わさず、校門前まで一緒に帰った二人だったが、希美子は友人に声を掛けられて、じゃあね、と優に手を振る。駆けて行く希美子の後ろ姿を見送って、優は一人で施設へ向かう道を歩く。路上には車通りはなく、人の姿もまばらだった

 学校から施設までは一本道で、のどかな住宅地風景が続く。いつもの道をいつも通りに帰る優。
 そのとき、不意に建物と建物の間から男が現れた。
 瞬間、相手をしっかりと確認する前に何故か優はざわりとする。

「優、大きくなったな」

 その声は背筋が凍りつくような、内側からざらりと舐められるような響きを持って優の身体を捕らえた。

「…父さん」

 ゆっくりと振り向いた優の唇がそう動いた。

 父親。
 そう。少なくとも優が餓死せずに幼児期を過ごせたのは彼のお陰だった。赤ん坊だった彼女の面倒をみて、ミルクを買い与え、働きながら大学へ通い、保育施設に預けながらも育ててきた。それでも、恐怖で身体が固まってしまうほど、その思い出は悲惨だ。

 近づく男の顔を凝視して、優は声も出なかった。少しやつれてますます青白く鋭い眼光が際だつ長身の男。その瞳に宿る残忍な光に、優は身がすくんだ。彼に逆らうことなど彼女には考え付かないことだった。

「来い」

 勲の腕が優を捕らえ、彼女は捕まれた腕から凍りついたように冷気が押し寄せるのを感じた。

「い…いやっ」

 優は反射的に腕を振りほどこうと身をよじる。

「大人しくしろっ」

 勲はその細身の身体からは想像できないような強い力で優の腕をねじり上げた。優は悲鳴すらあげられずに、その場に崩れ落ちる。

「来い」

 引きずるように優を路地裏に引き込み、勲は、そのまま表通りへ抜けてたまたま停留所にいたバスに乗り込んだ。



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虚空の果ての青 (‘父親’) 2 

虚空の果ての青 第二部

 勲を見失ったと連絡を受けた樹は、急いで学校と施設へと連絡を入れる。しかし、優の無事を確認して保護してもらう前に、彼女は友人と別れた直後に、忽然と消えてしまっていた。

「優ちゃん」

 行方が分からないとの報告を受けた瞬間、樹の全身からさあっと血の気が引いた。
 あいつ、だ。間違いない。
 樹は確信する。
 優の父親。幼い優の身体に暴行の傷跡を残し、彼女の人生に回復不可能な打撃を与えた男。

 かああっと全身の血が逆流するような怒りが湧き起こる。
 仕事を中断し、彼はともかく優が消えた学校へと向かう。慌てて戻っていた鹿島が蒼白な表情で樹に謝罪する。

「君のせいじゃない、鹿島。とにかく優ちゃんを探そう」

 感情を押し殺した低い声だった。樹は一見冷静ではあったが、その瞳に浮かぶ激しい怒りに、鹿島は瞬間ぞっとする。不安と怒りが交錯し、その炎は見つめるものすべてを焼き尽くすようだった。

 校門前まで友人と一緒だったと、当の友人から話は聞いたそうだ。その後、彼女は優と別れ、優は一人で施設へ戻るためにいつもの一本道を辿る。その僅かな途上で優はさらわれたのだ。

 職員室で話を聞き、警察に連絡をした方が良いのではないかと話し合う職員の慌ただしい喧騒を後にして、樹は一人で周辺を当たろうと車に戻るために学校の玄関へ向かった。その途中、壁に数枚展示されていた美術課題のポスターの中、優の絵に目を留めて樹ははっとする。寒々とした冬の公園。そこに幻想的なバラの花が空に浮かぶようにいくつも開いていていた。

 樹にははっきりと分かった。それが、いつか二人で訪れた冬の公園の、優の心に残った風景だということが。
 冬枯れの寂しい季節に、優が思いを馳せた光景の美しさ、それに樹は心打たれた。そして、優にとっては何気ないあの散歩が、どれほど大きな位置を占めていたのかを。

 外出すら儘成らなかった彼女が、初めて外の空気を感じ、世界を見つめ、そこに光を見出し、忘れられない思い出として心に刻んだ。その意味。

「油断した…」

 樹はその絵を見つめたまま、どん!と壁を叩く。
 冷えた空気の中で二人で立ったまま飲んだコーヒーの味。嬉しそうだった優の幼い顔が不意に強烈に蘇り、樹は胸がずきずきとした。

「優の父親が出所して来たら、こうなることは充分予想されて、分かっていたことだったのに」

 十数年前に突然姿を消した愛しい女性の面影が過ぎる。あのときの苦しみが鮮明に蘇ってきた。
 また、再びあの言いようのない喪失感を味わうということなのか。
 優を、彼女のように永遠に失ってしまうという暗示なのか。

「…そんなことはさせない」

 呻くように樹は呟き、車へ戻る。

「鹿島、出してくれ」
「…どちらへ向かいますか?」

 重々しい口調で彼は苦しそうに聞く。

「都内へは戻らないだろう。あいつが以前、優ちゃんと暮らしていた住宅地周辺へ向かってくれ。恐らく、あいつが自由に動ける場所はその辺だろう」
「かしこまりました」



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虚空の果ての青 (‘父親’) 3 

虚空の果ての青 第二部

 優は、連れ込まれた古い廃屋の荒れ果てた様子に怯えて息を呑む。そこは以前、勲が幼い優と共に暮らしていたアパート近くの捨てられた民家跡だった。

 窓は破れ、風が吹き込み、床は埃だらけで虫の死骸がそこここに転がっている。幸い一番奥の部屋は扉が閉まり、外からの空気を遮断していた。二人はその部屋に入り込み、勲はあちこちを落ち着きなく物色する。そこはかつてはジュータン張りの綺麗なフローリングだったのでは?と思わせる洋間だった。ソファが並び、壊れたテーブルが脇に立てかけてあった。
 
 勲は警戒するように辺りを見回し、まだ肌寒い空気にブルッと身体を震わせる。隅に置かれてあった反射式のストーブを見つけた彼は、それ引き出してくる。僅かに灯油が残っていたらしく、勲がライターで火をつけてみると炎が赤く燃え上がって埃を焼く焦げ臭い匂いが辺りに立ちこめた。

 勲は制服のままの優を乱暴にソファに座らせ、ここを動くな、と命じる。勲の声に優は素直に従うしかなかった。

 勲はその部屋を出て、家の中を見てまわる。
 優を連れ出してどうしようという明確な意図は彼にはなかった。ただ、彼は突き動かされるように自分が唯一恋して、そして触れることも出来なかった女の娘を、その女の幻として抱くのだ。報われない愛が、過ぎれば憎悪に変わる瞬間を幾度となく心に巣食わせながら。

 どんなに抱いても、痛めつけても、そして優の苦痛に歪む美しい顔を見つめれば見つめるほど、彼の絶望は深くなる一方だった。それから逃れたくてますます優を痛めつける。自らの最後に残った人間らしい心を一緒に殺すかのように。

 優を見ること、優の身体に触れること、本当はそれすら彼にとっては耐え難い苦悩であり苦痛であった。目の前から消えて欲しいと何度願ったか知れない。それでも、殺してしまうことだけは出来なかった。
 彼が、唯一、苦しくとも優しい時間に共に生きた人の、彼女がこの世に存在した証だったから。本当は、慈しみたい、誰よりも幸せを願うはずの自分の娘なのだ。

 その、相反する狂気に、彼は叫び出したくなる。

 狂いそうな吐き気の中、彼は隣の部屋の押し入れの中から、古い毛布を見つけて引っ張り出す。何を探そうという目的があったわけでも、見つけたそれをどうしようという明確な意図があったわけでもない。ただ、まだ肌寒いこの季節、優が風邪をひかないように、とどこかで考えたのかもしれない。

 それを両手に抱えてふらふらと優を閉じ込めていた部屋に戻った。
 優は、青ざめた表情のまま、茫然と彼を見つめてそこにいた。
 その、どんどん母親にそっくりになっていく少女の顔が、不意に彼を責めているように感じられる。

 どうして? と彼の恋した女性が悲しげに、恨みがましい目で彼に問う。
 どうして、優をこんな目に合わせるの…?

 勲は毛布を床に叩きつけて突然叫びだす。

「あんたが、…全部、あんたのせいだっ!」

 愛しい女性の幻に、彼は狂ったように叫ぶ。
 その狂気に、恐怖に、優は声も出ない。

「壊してやるっ、何もかも!」

 勲は優に飛び掛り、悲鳴をあげる優の制服を剥ぎ取っていく。制服を引き裂かれ、下着が露わになったとき、突然、勲は呆けたように優を見つめて動きが止まる。正確には、彼は優の下着を、何か恐ろしいものを見るように凝視していた。

 それは、樹が買い与えた洒落たデザインの女性らしい下着だった。優が、何より喜んだレース生地の淡い桃色の。それが、何を意味するのか、勲には分かったのだろう。

「お前…男が出来たのか?」

 搾り出すような声だった。

 優に、勲の声は届いていない。身を庇うことも出来ずに、彼女はただ怯えて震えていた。勲と暮らしていた頃の恐怖。痛みの記憶。耐え難い痛みを、苦痛を、ひたすら耐えた後でなければ食べ物ですら何も与えてもらえなかった狂った日常を、しばらく忘れることが出来ていた辛い体験を現実として思い出していた。

 凍りついたように、何も感じない。一切の感覚も感情も麻痺させて、耐えるしかなかった悪夢のような日々。それが日常で、それ以外の何も優を救ってはくれなかった闇の中。樹と過ごした時間は夢に過ぎなかったのだと、優は、涙も出ない絶望に落ちていく。

「誰だ、そいつは?」

 勲は、氷のような声で優の顔を覗き込む。
 何を言われているのか分からない優は、ただ怯えて首を振る。

「誰だと聞いてるんだっ」

 勲は苛立って優の頬を殴る。
 優は痛みと驚きで声も出なかった。

「言えっ、誰だっ?」

 髪を掴んで揺さぶられ、優は悲鳴をあげる。彼が何を怒っているのか、何を聞き出そうとしているのか、優にはまったく分からなかったのだ。

 散々、優を殴りつけたあと、勲は息を切らせてソファに座り込む。殴られて口の中が切れたらしい優は、懐かしい血の味に、心はどんどん冷えていった。

 もう、樹には会えない…。
 優はそのとき、そう思った。

 ‘優ちゃんは、他の男とやっちゃダメだよ’

 いつか樹が優に言った言葉がふうっと彼女の脳裏をかすめた。優しい樹。大好きな樹。でも、…ああ、だからこそ、もう会えない。
 

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虚空の果ての青 (‘父親’) 4 

虚空の果ての青 第二部

 樹は、二人がいる廃屋の近くに車を停め、通りかかった近所の人に手当たりしだい話しを聞く。すると、若い男とセーラー服を着た女の子がこの辺を一緒に歩いていたという目撃情報を得て、自分たちの向かった方向が間違っていなかったことを知る。

 しかし、通りかかったという情報のみで、どこへ向かったのか、まだ周辺にいるのかは分からない。
 それでも。

「鹿島、この辺りを探してみるぞ」
「はい!」

 二人は手分けして、優の行方を必死に捜す。絶対に近くにいるはずだと、彼は心だけが焦って身体が思うように動かない。そんなことはいまだかつてなかったことだった。 

 初めてホテルに連れ込んだ日、異様に怯えていた優の瞳の色を思い出す。腕を捕まれただけで気を失うような‘恐怖’とは? ホルモンのバランスが崩れ、成長・発育がぐちゃぐちゃになってしまうほどの肉体的苦痛とは?
 それまで、あまり深く捉えていなかった優の受けた日常的な暴力、虐待。

 やっと人に心を開くことを覚え始めた優の、儚くも淡い笑顔を思うと、心臓がきりきりと痛んだ。
 その、自分にだけ向けられていた信頼を、おずおずと甘えてくる愛しい瞳を、もう永久に失うかもしれない、と樹は考えまいとするそばから呪いのように湧き起こってくる。

 彼女を守れなかった自分を優はもう許してくれないかも知れない。心を閉ざしてしまうかもしれない。
 或いは。
 中途半端に世界を知ってしまった優が、再び男に暴行されることになれば、彼女は自ら命を絶とうとするかもしれない。それはイヤな感触を帯びて、彼の思考に何度も絡み付いてきた。

 今後、他の男に触れさせたりしたら許さないと、彼は優に言ったことがあった。
 それを言葉通りに素直に捉えた優は、もう、樹には会えないときっと考えてしまう。優にとってたった一つの希望、たった一つの安らぎ、世界とつながるたった一つの絆としての樹の存在。優にとってそれを失うことは、きっと『死』と変わりがない。

 樹には、優のそういう哀しい心の叫びが聞こえるようだった。



 暴力でしかないセックスを強行され、優は、身体から思考の一切を切り離して、ただ、その痛みと苦痛に耐えていた。樹に触れられただけで濡れていた彼女は、今は一切受け入れることを拒絶した乾ききった状態で、喘ぎ声もなく、涙もなく、ただ、窓から一筋差し込む細い光に埃がきらきらと舞う様を見つめていた。

 身体中に殴られた青あざが刻まれ、全身は痛みで感覚が麻痺していた。

 樹に出会う前、優には『生きる』ことに意味はなかった。自分の容姿にも身体にも興味はなかった。知識欲も学習欲もなく、毎日がただ過ぎていく時間のベルトに乗って流れていただけだった。それすら気付かずに過ごしていたのだ。

 樹が呼ぶ‘優’の名前を、彼が優しく抱いてくれる彼女の身体を、彼が微笑んで見つめてくれる彼女自身を、初めて愛しいと、生きているのだと、言葉にして感じられた瞬間の温かい喜びを、優はそっと抱きしめて生きていた。それが唯一彼女を温めてくれる光だった。

 そして、他人という存在を初めて認識し、自分以外の誰かの存在を知った。温めてくれる人、教えてくれる人、与えてくれる人。そういう存在を。

 自分が誰かを喜ばせることが出来る、という衝撃に、優は初めて‘喜び’を覚えた。嬉しい、という感情を覚えた。一方的でなくお互いが約束を交わし、違えぬように守ること、先の楽しみを待つということ。
 そういうことの一切が、優には夢のようだった。そんなことを望める日が訪れるとは、彼に出会う前の優には考えも及ばないことだった。

 初めから持っていないものを、人はあまり欲しがらない。持つことを知らないから。しかし、優は、知ってしまった。
 生きることの意味を。

 初めから持ったことのないものと、一度知って奪われるのと、‘持たない’ことに変わりはないというだろうか?
 否、それには雲泥ほどの差がある。天地ほどの開きがある。

 ‘生きる’ことを知らなかったとき、優は‘死’すら知らなかった。しかし、彼女は今、明確にそれを知った。‘生’の対義語は‘死’であることを。

 それまであった『絶望』は薄闇の、むしろ優には優しい友達だった。
 だけど、光を知ったあとの闇は、一切を覆いつくす真っ暗闇へと変容を遂げ、どこまでも深く堕ちていく。
 優は、生まれて初めて、明確に自ら‘死’を望んだ。



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虚空の果ての青 (‘父親’) 5 

虚空の果ての青 第二部

 不意に、音楽がどこかで流れ出した。
 ぎょっとして、勲は辺りを見回す。音源を捜して視線を走らせる。しかし、分からない。それでも音楽は鳴り続ける。

 勲は恐怖に駆られて、優の身体を離し、手当たり次第物をかき分ける。
 やっと音の源を見つけると、それは優の制服スカートのポケットに入っていた携帯電話からだった。一度も鳴ったことがないので、優も知らなかったが、それは樹からの着信を知らせるメロディだった。

「…携帯電話? …ITSUKI? 誰だ、これは?」

 携帯の画面の発信先の名前を見て、勲は言った。

「…い…つき…?」

 虚ろな瞳で、優は勲の手の中の青いガラスのストラップの付いた携帯電話に視線を合わせる。そうだ、樹。彼が買ってくれた大切な…。

 無意識にそれに向かって手を伸ばす優。
 何か物に執着を示し、欲しがる彼女を見たことがなかった。優が誰かの名前を呼ぶ、ということも。

「…こいつか? お前の男は」

 勲は嘲笑うような口調で呟く。そして、ふと、自分が発音した名前を再度声に出してみて、吐き捨てるように言った。

「いつき? イヤな名前だ」

 何故、そうしたのか分からない。
 いつまでも、何度でも諦めずに鳴り続ける電話を、勲は優に向かって放り投げた。ことん、と音がして、横たわる優の脇にそれは転がった。

 優は動くことさえやっとの痛む身体を引きずるようにして、その電話を手にする。
 樹が教えてくれたように、優は折りたたみ式のその電話を開け、画面に表示されている、彼が自分で設定してくれた『ITSUKI』という発信者を確認する。その名前に、優は何も考えられずに、それを握りしめ、抱きしめた。瞬間、恐らくどこかのボタンに触れたのだろう。

「もしもしっ? 優ちゃん? 優ちゃんかい?」

 樹の声がした。すぐ近くにいるみたいに。すぐそこにいるみたいに。はっとして優はその携帯電話を見つめる。まるで、そこに声の主が潜んでいるというように、震える手で画面を撫でる。

 優の好きな低い声が、いつもと違う切迫した声色で優の名前を呼ぶ。
 もう、二度と聞けない声。

「いつき?」

 もう、会えないのに、そこに彼がいる訳ではないのに、その名前が口から出た途端、優の目からは涙があふれてきた。あとからあとからぽろぽろ涙がこぼれ、それきり優は言葉が続かなかった。

 その様子を茫然と見つめる勲。
 優が、そんな風に静かに涙を流す姿など、彼はついぞ見たことがなかった。優に、そんな風に感情が育っているとは、彼は考えたこともなかった。いつまでも彼にとって優は、人形のように感情もない、生きる気配すら薄い幻のような存在だった。

「優ちゃんっ? 無事なんだね? 今、どこ? 周りに何か見える?」

 漏れ聞こえるその声に、勲はイラついて、優から携帯電話を取り上げようとする。

「いやあっ」

 優が、初めて勲に対して反抗し、取り上げようとする彼の手を振り払った。一瞬、驚いて勲は言葉を失う。そして次の瞬間、我に返った彼は逆上した。

 優の悲鳴が響く。
 痛みに対してではない。優は、樹の声が聞こえる電話を奪われることに恐怖を抱いたのだ。それが唯一、今、彼女の心を支えている楔だった。

 電話から聞こえてくる悲鳴に、樹は愕然とする。

「優ちゃんっ、優ちゃん!」

 どんなに呼びかけても、彼の声はもはや優に届いていないようだ。そばにいた鹿島は、遠くで微かに優の悲鳴が聞こえた気がしてはっとする。

「樹さまっ、あちらの方から人の声がっ」

 不意に切られた電話に青ざめた樹は、鹿島の指した方角へ一気に走る。
 生きていて、欲しい。祈るような思いだった。


 
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虚空の果ての青 (‘父親’) 6 

虚空の果ての青 第二部

 その廃屋に近づくにつれ、途切れ途切れに、そして弱々しくなっていく優の悲鳴。

 まさか、そんなところに人が入り込んでいるとは思わずに一度は通り過ぎてしまったことが悔やまれる。周りは古びたアパートや耕作放棄地のような荒地で、人の気配を感じられなかったのだ。

 彼らの住んでいたアパートは建て替えられて近代的な建物に生まれ変わっており、周りの宅地には住宅と隣接して小さな企業や店が軒を並べていた。

 その賑やかな通りから一本奥へ入って、荒地の中に、その廃屋はあった。

 樹と鹿島は、しばらくその更に奥の工場の倉庫のようなところや、アパートの空き部屋などを探していたのだ。
 その家の扉は半分壊れたようになり、中への侵入はた易く、確かに最近人の入ったような足跡が埃の中にくっきりと残っている。

 優が電話を切る筈はなく、彼女は何らかの暴力を受けて悲鳴をあげていた。つまり、傍に人がいるのだ。

 不用意に優の名前を叫べば相手に気付かれてしまうと思い、樹と鹿島は、足音を忍ばせて奥へと進む。古い板がきしむ音が響き、二人は息をひそめる。両脇の暗い部屋は蜘蛛の巣が天井から垂れ、破れた窓から風が吹き込んで紙くずを飛ばしていた。

 奥の扉の向こうから確かに人の声が聞こえる。男の声だ。

 二人はきしむ廊下に冷や冷やしながら扉の前まで進み、鹿島と目を見交わし、樹はその部屋の扉へと手をかける。

 そして、一気に押し開いて二人は中へ駆け込んだ。はっとする男と、その腕の中にぐったりとすでに意識のない優の姿に蒼白になる。ある程度覚悟はしていたとはいえ、樹はその光景に冷静さを失いそうだった。だが、男に殴りかかることよりも、樹は、驚いて立ち上がった男の足元に、ほぼ全裸で横たわっている優に駆け寄った。

 鹿島は相手が動きを見せる前に、勲に飛び掛って押さえつける。

 樹は抱き寄せた優の身体に、自分の上着を着せかけて抱きしめる。怒りで彼の身体は震えた。優の身体は全身に殴られた跡が痛々しく残っている。そして、その白い両頬にも。傷からは血が流れ出し、口の端にも血の流れた跡が残っている。何故、そんなことが出来るのか、樹には信じられない。

 優の顔からは血の気が失せ、身体は氷のように冷たかった。ぞっとした。いつかの夜、怖い、と呟いて震えていた優の心が、どこをさまよっていたのかを今はっきりと知った。僅かに浅い呼吸と胸の鼓動が感じられ、辛うじて生きているということだけが分かる。

 勲に一瞥もくれず、優を抱き上げて去ろうとする樹に、鹿島に押さえ込まれたままの勲が声を掛ける。

「待てよ」

 その声に、ゆらり、と樹の全身からどす黒いオーラが立ち上るのが見えたような気がした。

「…何か?」

 彼は押し殺した声で立ち止まる。

「いつき? …っていうのか、お前」
「それがどうした?」
「同じ名前の男を知っている」
「そうか」

 樹はくだらない、という風に再び歩き出そうとした。

「待てよ」

 勲は再び叫ぶ。

「そいつが、オレも、あいつも、そして優の運命も狂わせた張本人だ。…マクレーンという男が」

 樹は、瞬間、耳を疑った。そして、それは鹿島も同じだったようだ。鹿島は驚いて思わず押さえ込んでいた腕から僅かに力が抜けた。

「逃げたりしねえよ、離してくれ」

 勲は言って鹿島の腕を押しのける。
 樹は硬直したまま、振り返らずに言った。

「どういう意味だ?」
「…まさか、あんたがそうなのか? 樹・マクレーン?」

 樹は振り返って鹿島を見た。鹿島は僅かに首を振って、否定するように、と告げている。しかし、一瞬ためらったものの、樹は頷いた。

「そうだ」

 すると、凍りついたように樹の顔を凝視した男は、次の瞬間、叫び出すのではないか、と思われる表情で、突然笑い出した。それは、狂ったように引きつった、狂人のような笑い方だった。勲は笑い続け、樹と鹿島は茫然とそれを見下ろして突っ立っていた。

 二人の様子にはまったく注意を払わずに、勲は笑い続け、しまいにはそれは泣き声に変わっていった。

「何故、…俺を知っている?」

 笑いすぎて息を切らして喘いでいる男に、訳が分からなくて、樹は静かに問いかける。

「…そうか、あんたか」

 勲は言って、座ったまま再びまっすぐに樹を見上げた。

「あんたか…」

 勲は今度は突然、その目から大粒の涙を零し始めた、すすり泣き始めたかと思うと、いきなり大声をあげて泣き出した。それは、もう、これ以上の悲しみはないというような切なくも激しい悲しい声だった。事情が分からなくても、そして、腕に傷ついた優を抱えている樹でさえ、ぎゅっと心を引き絞られるような悲痛な声だった。

 樹と鹿島は、目の前で次々と繰り広げられる男の訳の分からない行動に、成す術もなく茫然と顔を見合わせるのみだった。

「…優は…優は…」

 やがて、男は泣きながら言葉を紡いだ。

「カーチャの娘だ」
「…なんだって?」

 一瞬置いて樹は凍りつく。カーチャ…。エカチェリーナ。それは十数年前、樹がただ一人愛した女性の名前だった。その名を呟くだけで胸が痛む、今も尚、忘れ得ない恋人。
 更に、次の言葉に樹は本当に一瞬、目の前が真っ暗になったような錯覚を得た。

「そして、あんたの娘だよ、樹・マクレーン」

 

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虚空の果ての青 (罪の在処) 7 

虚空の果ての青 第二部

 時は16年前に遡る。
 出会って恋に落ちた若い二人。

 樹はまだ中学生で、彼女は大学生だった。しかし、普通の中学生と違って、幼い頃より英才教育を受けていた樹は毅然とした大人で、まるで子どものように無邪気なカーチャより、精神的にはずっと大人だった。

 お互い、うまく言葉が通じなくても、恋を語ることは出来るのだ。

 まだ、当時、避妊の仕方もよく分からなかった若い二人。それでも、お互いをそっと慈しみ、愛を育んでいった。そして、一番、お互いが恋し合って、一番熱い時期に、二人は否応なく引き離された。

 それは、樹が父親の国に短期留学をするという、ずっと以前から決まっていたことで、それを反古にすることは不可能なことだった。それでも、それは期間が決まっていたので、必ず一年で戻ることも分かっていた。

 若い二人は再会を誓い合って、空港で別れたのだ。


 
 樹が去ってから、カーチャは妊娠に気付く。

 まだ学生の身分で、しかも留学生だったカーチャ。それでも、敬虔なクリスチャンの彼女には堕胎するという選択肢はない。

 彼女は異国の空の下、一人で子どもを生むことを決意する。

 異国で妊娠・出産という思いもかけない事態に陥り、一人で不安だったとき、彼女は同じ大学生の桐嶋勲に出会ったのだ。彼は、一目でカーチャに恋をした。その色素の薄い美しい容姿と、子どものように無邪気な笑顔。天使のようだと彼は思った。

 しかし、カーチャは、勲を友人として信頼を寄せ、樹のことを何でも話し、彼を待っている寂しい心の内を打ち明けるのだ。狂おしい彼女への想いを抱き続けながらも、勲は彼女を友人として励まし続ける。

 やがて、彼女は女の子を出産する。
 しかし、このままでは子どもは戸籍もなく、医療も受けられない。まだ帰らぬ樹。勲は生まれた子を、自分の子として認知して日本国籍を得てやった。

 ‘優’というのは、カーチャが望んでつけた名前だった。

 樹の優しさをカーチャは忘れられなかった。異国の空の下、不安の中、樹のくれた大きな優しさに癒されて暮らしてこられたのだとカーチャは勲に語った。‘優しい’子に育って欲しい。日本では、優しい、を名前にどう使うの?とカーチャはたどたどしい日本語で彼に聞いた。

「女の子だったら、優子…とか、優香とか…」

 勲は一緒に考えてあげる。

「ゆう? …優ではダメ?」
「ダメじゃないけど、男の子みたいだよ」
「そうなの…」

 カーチャはしょんぼりする。

「あ、いや、でも今は、どんな名前も有りだから大丈夫だよ」

 そう言ってあげると、カーチャはぱっと嬉しそうに微笑んだ。
 どんなに恋しても、勲はカーチャには指一本触れられなかった。彼女の友人としての信頼を失いたくなかった。 彼女が、今でも樹に恋したままであることがあまりに明白だったのだ。

 それが、優を出産して間もなく、カーチャは体調を崩した。慣れない異国での産後の無理がたたってしまったのだ。
 それが、尋常ならざる容態に陥り、遂に、故郷から両親が彼女を迎えに来た。

 カーチャが密かに子どもを身ごもり、出産していたことをまったく知らされていなかった彼女の両親はかんかんに怒った。そして、娘を有無を言わさず国に連れ帰ってしまい、勲の手に、子どもは残された。まだ、優が生後三ヶ月にも満たないときだった。

 勲は恋した相手の子どもを一人で面倒をみ続けた。
 昼間は保育園に預けて大学に通い、夕方遅く引き取りに行く。乳幼児の保育料は高額で、彼はアルバイトを余儀なくされる。

 それでも、彼は、本当の父親が日本に帰るまで、と考えていたのだ。樹という男が戻ったら、事情を話して彼の籍に入れてもうらおうと。

 しかし、日本に帰って樹が知ったことは、恋人が故郷に帰ってしまったという事実のみだった。彼女が自分の子どもを出産したなどと、樹は夢にも思わなかったのだ。

 樹と出会えずに、大学で勉強を続けながら一人で赤ん坊の面倒をみていた勲。
 彼は疲れと不安と寂しさとである種の育児ノイローゼ状態に陥る。そして、子どもを残して帰ってしまったカーチャへの想いは相まって憎しみにすり替わる。カーチャが信じて待っていた男は連絡すらよこさない。これはその男の子どもだ。そして、どんなに愛しても、一度も自分には振り向いてはくれなかった女の子ども。

 そういう恨みと憎しみは、疲れと共にどんどん彼の心に積もっていった。
 そして、泣き止まない優をあやすのに疲れたとき、ふと気がつくと彼はその子を殴っていたのだ。

 以来、勲の暴力はエスカレートしていく。そして、成長するに従って母親に似てくる優を見ていると、勲は愛しさよりも憎しみが湧き起こるのを止められなくなる。
 勲は優を殴り、犯し、報われなかった想いの捌け口にしていった。

 そうして、壊れていく二人。



 愛しい少女。
 目の前にいたら必ず傷つけてしまう。暴力を止められない。触れずにはいられない。このままでは殺してしまう…。いっそ、死んで、欲しかった。

 死んでしまえば良いと、本気で思っていた。
 愛した人の娘であるかぎり、手にかけることは出来ない。愛しさ故に、殺せない。だけど、死んでくれれば良いと本当に祈ったのだ。

 それは恐らく優にも伝わっていただろう。
 だから、彼女は心を閉ざしたのだ。外界からの刺激をいっさい遮断してしまったのだ。死を望まれる闇から自らの自我を守るために。

 やっと優と引き離され、彼は望んで服役し、刑務所で心の安定を得る。
 しかし、出所した途端、それはまたゼロに戻ってしまう。

 優は、戸籍上は彼の娘で、彼は彼女に対して責任があるのだ。カーチャが、彼を信じて残していった娘。早く本当の父親を探してやらなければ、と思うのに、優を目の前にした途端、勲は自分の呪われた衝動を止められない。

 愛しさと憎しみと。

 苦しい輪廻。
 狂気の連鎖。
 

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虚空の果ての青 (罪の在処) 8 

虚空の果ての青 第二部

 話し終えた勲は、たまっていた毒素を吐き出したように、大きく息をついた。

 これで、やっと優から自由になれる…。
 勲の疲れ果てた目が、そう言っていた。その目にはもう狂気を宿した残忍な光はなく、カーチャに出会う前の、ただ、大人しく優しい青年のものに戻っていた。

「あんたが、優を実子として籍に入れ直そうが、養子にしようがオレは関知しない」

 彼は、聞く体勢に入って優を抱いたままソファに腰を下ろしていた樹を見つめて言った。

「あんたが優を一生面倒みてくれるなら、それでも良いと思う。オレは…優が、あんたに出会うまで、どうしても離れられなかった。幸せを見届けなければならなかった。そして、優を見るとオレはおかしくなってしまうんだ。…あとはもう、あんたの好きにしてくれて良い。オレはもう二度と優に関わることはない」

 次第に泣き声に変わって、彼はそう言って涙を零した。

 やがて、学校側が連絡を入れたらしい、警察が現れて彼を連れて行こうとしたとき、彼は最後に振り返って、樹の腕の中に眠る優をじっと見つめた。それは、父親として彼女の人生に関わった男の、切なくも穏やかな瞳だった。



 病院で目覚めた優は、初め、自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。
 心配そうな、泣きそうな樹の顔がそばにあって、優は何かがちくりと心に刺さるのを感じる。

 それは、小さいくせに鋭い痛みで、優の心臓を止めてしまうのではないかと思われるほど、切なく苦しく、深かった。

 彼の手が、優の包帯だらけの手を握ってくれていた。寒い、と感じていたのに、樹が触れている指先と手の平だけがほかほかあったかかった。

「いつき?」

 身体の記憶が彼を求めて、ほとんど無意識に優はその名を口にする。

「そうだよ」

 彼の声が優しく答える。

「…痛い」
「どこが痛むの?」

 一瞬、苦痛に顔をゆがめた優に、樹は心配そうな顔をする。樹のそんな表情をあまり見たことがなかった。彼はいつもちょっと意地悪な笑みで優を見下ろしていたし、いつでもただ優しく笑ってくれていた。

「痛い」

 暴行を受けた身体の痛みではなかった。優は、心が、心臓がずきっと音を立てていた。そして、その痛みに、徐々に記憶が蘇ってくる。
 勲に会ったこと。父に連れまわされ、小さな廃屋で暴行を受けたこと。そして。

「いつき?」

 そうだ、彼にはもう会えないと思ったのだ。あの電話で、さよならを言わなければならないと思ったのだ。それは、彼女の心臓を止めてしまうのではないかと思われるほどの大きな痛みだった。幸せを感じたのは、つかの間の夢にすぎなかった。それを突きつけられた瞬間の。

 そして、優は生まれて初めて「死にたい」と言葉にして思ったのだ。
 本当は、ずっとずっとその思考は自分の中に潜んでいたのだと、共に在ったのだと知った。

「優ちゃん!」

 みるみる泣き顔に変わった優の表情に、樹は彼女の心の動きを察知してその手に力をこめる。

「いやあぁあ~っ」

 優は悲鳴をあげて暴れる。それまで、何度かこうやって保護されて病院で目覚めることがあっても、優は目覚めても何の反応も示さなかった。周囲の思惑にも心配にも一切関心を払わず、自らの怪我にも痛みにも無関心だった。だから、施設長も病院側もあまり注意を払っていなかった。

 しかし、今回は今までとまったく事情が違う。それを分かっていたのは樹一人だけだった。

「優ちゃん、暴れちゃダメ! 優ちゃんっ」

 樹の声に、優は無意識にびくりと反応する。

「桐嶋さん? どうしました?」

 優の悲鳴と騒ぎに、やっと看護師が現れて、泣いている優を一緒になだめてくれた。そして優が暴れた拍子に外れた点滴を直しながら、安定剤を投与してくれる。

「イヤだ、いつき…。もう会えないのはイヤ…。イヤ…!」

 次第に朦朧としてくる意識の中で、優はぽろぽろと涙を零して握ってくれている樹の手を必死に握り返す。

「どうしてもう会えないの? 俺はここにいるよ」
「だって…」

 だって、私は父さんにまた抱かれてしまった。もう、誰にもそういうことさせないって約束したのに。
それに、ああ。

 私は、悪い子なんだ。父さんのことも苦しめて、泣かせてばかりいた。怒らせてばかりいた。それは私が悪い子だから。悪い子は罰を受けないといけない。

 それらのことを勲が暴力をふるいながら自らへの言い訳のように優に向かって吐き出し、優自身がそう思い込むに至っていた。それは優の深く暗い呪縛だった。

「私は…もう…」

 いなくなってしまえば良いんだ。そうすれば、もう、誰も苦しまない。誰も傷つかない。私も、もう痛みに耐える必要はなくなる。

 もっと、早くそうするべきだった。
 樹に出会ってしまう前に。楽しいことを知ってしまう前に。樹を好きだと気付いてしまう前に…。

 優は、半分も言葉を紡いではいなかったのに、樹には手に取るように分かる気がした。優の心の叫びが。耐え切れない痛みにあげる悲鳴が。死を望む深い絶望の闇が。

 樹は、虚ろな瞳で彼を見上げる優に静かに言う。

「優ちゃん、言っただろ? 君はもう俺から逃げられないんだよ。君をどうするかは、君が決めることじゃない。俺が決めるんだ。だから、君は余計なことを考えなくて良い。俺の言うことを聞いていれば良いんだよ。分かる?」

 薄れゆく意識の中で、樹の言葉は呪文のように優の心にしみてきた。他の一切の刺激を排除した状態で刷り込まれたそれは、優の弱った心を一瞬で支配した。それは、優が唯一信じている相手の声で、他に何も要らないほど切なく求めている相手の言葉だったから。薬の作用で再び眠りに落ちていきながら、樹の言葉は、それまでの呪縛をしのぐ強い暗示となって、優の心に深く沈んでいった。
 


 ‘君をどうするかは俺が決める’
 それはある意味、本当のことだった。何故なら、樹は‘父親’なのだから。

 それは法的な問題をはらみ、道徳的な概念を包括し、遺伝学的な問題、相続の問題、そして、優の、それから樹自身の心情的な事情など、いろいろな問題をこれ以上ないくらい抱えていた。

 しかし、どうするのかは樹はもうほぼ決めていた。
 あとは、それに付随する問題をどう処理していくか。それに尽きる。その為に、鹿島はすでに動き回っていた。



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虚空の果ての青 (罪の在処) 9 

虚空の果ての青 第二部

 優を病院に搬送して、処置を受ける優を待ちながら、樹は勲の告白に打ちのめされていた。

「なんてことだ。…すべての元凶は俺だったってことか」

 呻くように呟き、樹は待合室のソファに崩れ落ちる。

「桐嶋の…彼の、そして、優の運命を狂わせたのも、すべて」

 樹は、頭を抱えて絶望に沈む。
 知らなかったとはいえ、自分は愛する相手が苦しんでいる間、何も手を差し伸べることが出来なかった。まったく、何も出来なかった。

 裏切ったのは、むしろ俺の方だったのだ。
 カーチャは、恋人は、樹をただひたすら愛し、信じ、待ち続けていてくれたのだ。
 そして、彼の子を、優を生んでくれたのだ。

 だけど…。
 それでも、そのとき、カーチャが妊娠してさえいなければ、すべてはまったく違った方向に進んでいただろう。帰国した樹とカーチャは普通の恋人同士として、いろんな問題を超えて結婚できたかもしれないし、或いは周囲の反対に負けて、或いはもっと基本的にすれ違いが生じて喧嘩した挙句に別れて別々の人生を歩んだかもしれない。

 たとえそうでも、現状より悪い結果は生まなかった。少なくとも、優の人生を狂わすことはなかった。そして、桐嶋を巻き込むことも。

 せめてあのとき、カーチャの妊娠を知っていれば、また事情は違っていた。樹の血を受け継ぐ者の誕生となれば、彼の父親が必ずなんらかの処置をしただろう。決して捨てておいたりはしなかった。樹自身に育てられなくても、もしかして母親が引き取ってくれたかもしれないし、彼の屋敷に手はいくらでもあった。

 何も知らず、何も出来ず、その間に三人もの人間の、その人生を狂わせたのだ。
 どうすれば良かったのか、樹には分からなかった。分かっているのは、今、これからどうすべきか、という否応ない現実がここに横たわっていることだ。

「鹿島」

 樹は、やがて顔をあげて苦痛の声を漏らした。

「俺は、優の人生を一生面倒みるよ。それから、桐嶋にも、出来る限りのことをしたい」
「…はい」

 鹿島は静かに頷き、樹は眼を伏せ、黙って考えを廻らす。最大の、難問に対して。

「鹿島」
「はい」
「俺は、これからあの子をどうやって…父親として愛していけば良いんだろう」

 鹿島は言葉に詰まる。
 優に出会ってから、それまで仕事だけにすべてを注いできた樹が、時折心から楽しそうだった様子を見てきた彼。そして、無機質な人形のようだった優が、樹の手の中で次第に一人の少女として成長してきた姿を目の当たりにしてきた時間。それは、紛れもなく‘恋’の魔法だったと鹿島は思った。

「今さら、娘だと言われても、俺はあの子を娘としてまっとうな父親の愛情で愛してやることは、もう出来ない気がするよ」

 低い、押し殺したような声だった。

「…いつか他の男のものになるあの子を祝福して見送ることなど…決して出来ない」
「それは、…恐らく優さんも同じでしょう」

 樹は、いつかふざけてした会話を思い出していた。
‘俺が優ちゃんをもう抱いてあげないよって言ったら…’
 そう言ってからかったとき、優は本気で恐怖の表情を浮かべた。

 優は、そうやって身体を合わせることでしか、生きていることを確認出来ないのだ。成長過程に、それ以外の何も与えられなかったから。一番必要な時期に、母親からの愛を受け取ることが出来なかったから。

 そしてそれは、樹のせいなのだ。

「そうだな」

 樹は、宙を見据えて、虚ろな眼で言った。

「あの子にとって、父親は桐嶋だ。ともかく、彼は優ちゃんを学齢まで育て、面倒をみてきたんだ。そして、出会った初めから、俺は‘男’でしかなかった」

 では、どうする?
 どうやって一生あの子を守る?
 例えば、俺が死んだあとも。

「俺はあの子を俺の籍に入れる。桐嶋に、同意書をもらう手はずを整えてくれるか?」



 人類誕生後、初めての罪。
 イヴが蛇にそそのかされて取って食べた知恵の実。禁断の果実。それは善悪を知る実だったという。

 何も知らずに過ごすことがどれだけ平和で平穏だったか。
 アダムとイヴは楽園を追い出され、農耕を始める。
 物事の‘善悪’。それを知ったことに寄って、最初の殺人が起こる。

 それは、兄が弟を殺すという悲惨なものだ。しかしそれは、神が仕向けた行為では? と聖書の記述をそのまま読むとそんな気がする。

 人は、知恵を授かり、人と比べることを学び、より多くのものを求めるようになった。快楽や刺激というものを。そして、絶対的なものよりも相対的なものに価値を置き始めたところから狂い始めたのかもしれない。

 もう一つの史実。現在の道徳で当時まだ常識ではなかったもの。つまり、今でいうところの近親相姦だ。

 アダムは自らの娘や孫、姪に子どもを生ませ、更にその子孫も、自分の子どもや孫との間に子どもを作って人口を増やしていった。当時の寿命は数百年もあり、当時の人類の遺伝子は欠損がなく完璧だったから、遺伝病の心配も、血の濃い結婚も害にならなかったのだ。

 つまり、親子の結婚で問題になるのは、遺伝学上の問題だけだ。

 優が子どもを生めない身体である以上、遺伝学上の問題は生じない。更に、優が勲の実子として届けられている以上、法的には何の問題もない。

 そして、何よりも、優は樹以外の男に未だ触れられない。
 壊れそうなガラスの心が、今、辛うじて形を保って機能しているのは、樹の存在があるからで、彼が優を必要としているからに他ならない。それを失うことになれば、優の心はた易く崩壊の一途を辿るだろう。

 危ういバランスで保たれているに過ぎない今の状況を、ほんの一筋、ほんの一かけらの亀裂が襲っても優は壊れてしまう。実は樹は父親なのだと告げたところで、優には理解も受容も出来る類のことではないのだ。



‘あなたみたいにしっかりした保護者を得て、将来を決められてしまう方があの子にとっては幸せなのかもしれないわね。’


 
 雅子の言葉が彼女の意思の強い光と共に脳裏をよぎり、樹はその言葉に背中を押された気がする。
 そう。
 雅子は正しかったのだ。



 それまで、分からなかった謎が、すべて解けたと樹は思った。
 何故、優が、樹にだけたやすく懐いたのか。何が彼女をそんな風に動かしたのか。

 そして、樹自身をあんなにも優に執着させたもの。訳も分からず惹かれた理由。どうしても手元に置きたいと無意識に祈らせたもの。

 それは、‘血’の絆に他ならなかったのだ。
 樹が、優の実の父親だったから。
 そして、彼が生涯ただ一人愛した人の娘だったから。
 それが、知らずに二人の間に確かな信頼を生み出したのだ。揺るぎのない確かな絆を。

 カーチャに寄って、二人は結ばれていたのだ。優が生を受けた瞬間から。
 


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虚空の果ての青 (罪の在処) 10 

虚空の果ての青 第二部

「あんたは…本気で自分の娘と結婚する気でいるのか?」

 ぽかん、と勲は樹の顔を眺めた。



 樹の顧問弁護士が鹿島と一緒に奔走してくれたお陰で、今回、勲は不起訴となり、ほどなく釈放された。そして、その後話があると彼を樹の会社に呼んだ席上で、樹は、勲に優をくれないか? と願い出た。

 彼は、特に表情を変えずにそれに答えて言った。

「言っただろ? 優をどうするのもあんたの好きにしてくれて良いと。オレの許可など要らないよ」
「そうじゃない。優を…君の娘さんを俺の嫁にくれ、とお願いしているんだ」

 一瞬、言われた意味が分からなかったらしく、勲は茫然としたまま彼の顔をまじまじと見つめた。そして、ようやく出た言葉が、それだったのだ。



「知らなければ、いずれそういう形になっていただろう。それが少し早まっただけだ」
「世界的マクレーン財団の御曹司が? あんたは、他にいくらでも女を選びようがあるだろう? カーチャと結婚出来なかったのもそれが原因だったんじゃないのか?」
「それは、違う。…結婚出来なかったんじゃない。そこまでの話を進める前に連絡が取れなくなったんだ」
「あんたは」

 勲は、静かに言った。それは責めるようでも、憐れむようでもなく、ただ悲しい声だった。

「彼女を…本当に愛していたのか?」
「それだけは、誓って」

 勲は、一瞬、樹の目をじっと見据えて、ふっと顔を伏せた。

「それなら、良いんだ」

 そして、呟くように続けた。

「彼女は、最後の最後まで、あんたに会いたがっていた。あんたを信じて…愛していたんだ」

 樹の瞳は揺れた。しかし、彼は表情を変えなかった。

「…ありがとう」

 二人はお互いの目を覗きこむように見つめ合って、すぐに勲は目をそらした。

「だったら、何故…優を、あの子を」
「何故、優ちゃんを? 俺にも分からない。出会った瞬間に惹かれた。だけど、それも今思えば‘血’が呼んだ結果だったんだろう」
「優は…優も、あんたを慕っているらしい。あんな風に、誰かを追うあの子の顔を、何かを求める人間らしい顔をオレは初めて見たんだ。あの子は…優は、いつも怯えてばかりいた。いつも、いつも、あの目が…」

 勲は、ぐい、と目元を拳でぬぐった。

「オレを責めているようだった」
「優が、…カーチャが、君を責めたりはしない。彼女は、君には感謝しか…」
「感謝!」

 勲は叫んだ。

「ああ、カーチャは感謝してたよ。いつも、いつでも。それだけだ。…それだけだったんだ」
「俺も」

 樹は言った。

「感謝している。優を、育ててくれた」

 勲は頭を掻き毟って顔を伏せ、肩で息をしながら呻いた。

「もう、たくさんだ」



 最後に、勲は、淡々と未成年者の婚姻同意書にサインをし、立ち上がった。

「オレ…田舎へ帰ります」

 右手を差し出した樹の手をためらいながら握り、勲は一瞬、言いよどんで、口を閉じた。そして、手を離そうとした樹の手をぎゅっと握り直して、ゆっくりと顔をあげる。

「優を…あの子を幸せにしてやってください。オレはもう、あの子のことは忘れます。もう、二度と思い出しません。カーチャのことも」

 樹は言葉を見つけられずに黙って相手の顔を見つめた。

「姉夫婦が継いでいる家業を手伝いながら、人生をやり直してみます」

 勲は弱々しい笑顔を作って手を離し、一礼した。

「桐嶋さん」

 扉へ向かった勲の背中に、樹は言った。

「優ちゃんの父親である貴方と俺は義理の親子になります。…もしも、ご家業等で何か必要なことがあったら、どうか遠慮なくご連絡を」

 勲は驚いて振り返った。

「義理の…親子?」
「そうなるでしょう」

 樹は怪訝そうに頷く。

「え、ちょ…ちょっと待ってくれ」
「…何を?」
「さ、さっきの書類。あれは取り消してくれ」
「どういうことですか?」
「オレは、その、…そ、そんな、あんたみたいな人間と縁戚を結ぶようなまっとうな人間じゃない。さっき書いた書類は破棄してくれないか」
「ですが、親の同意書がないと…」
「いや、優が、成人するまで届けを待ってくれて構わないだろう? 今じゃなくたって」
「桐嶋さん」

 必死な形相の勲を見て樹は苦笑する。

「同意書の存在ではなくて、優ちゃんと婚姻を結ぶことで、俺と貴方は義理の親子になるんです」

 勲は茫然として立ち竦む。

「じゃ…じゃあ、その、あんた、優をオレの籍から抜いて、親を名乗ってくれないか。だって、それが本当だ。オレはあの子と本来何の血縁もないんだ」
「それはお断りします」

 静かだが、樹はきっぱりと答えた。

「俺は、優ちゃんの親を名乗るつもりはありません。彼女は、俺の女です。桐嶋さん、くれぐれも、それをお忘れなく」

 瞬間、そのしんと冷えた瞳に、その威圧的な空気に、勲はぞっと背筋が粟立った。微笑を浮かべたままの樹の目が怪しい光を帯びたように見えた。

 これは、支配者の目だ。
 暗黒世界を牛耳るマフィアのボスの目だ。
 これが、財団を率いる暗黒社会のボスの息子、樹マクレーンの素顔なのだ。

「…分かった」
「ありがとうございます」

 樹は微笑んで彼を見送り、傍に控えていた鹿島が扉を開けた。
 勲は、背後に扉の閉まる音を聞いた途端、全身から力が抜ける気がした。

 ああ、終わったのだ。
 明確に言葉にして、思った。
 これで、ようやく、本当に自分の役目は終わったのだ。

 カーチャが彼に託した赤ん坊は、然るべき手に渡り、将来を約束された。あの男なら、どんなことをしても、優を守り、幸せにしてくれるだろう。

 ふと、最後に振り返って見つめた、樹の腕に眠る優の顔を思い出した。あんなに幼かった娘は少女へ、そして、女へと変貌していた。恋を、知ったのか。人形のようにただ生かされていただけだったあの子が。

 涙が頬を伝った。
 幸せになってくれ。オレはもう、お前達のことは思い出さない。それで、良い。

 顔をあげて歩み始めると、優の面影も、カーチャの面影もすでにかすみ始めた。もう、二人の幻に煩わされることはないのだ。

 彼のこれからの人生に、二人の影は消えた。

 

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虚空の果ての青 (君をどうするかは俺が決める) 11 

虚空の果ての青 第二部

 4月生まれの優が16歳、つまり結婚可能年齢になるまでは、樹は彼女を身元引受人として屋敷の方に引き取ることにした。後に正式に手続きをして母の養女として籍に入れるつもりだった。
中学校の卒業式はそういうごたごたのせいで出そびれてしまい、優は義務教育課程終了を迎えて施設を出る日が来てしまった。

 希美子やその他、その年の3年生もしっかりと行き先を得て、奨学金を受けながら高校に通えることになった。その資金の中には、樹の会社からの多額の援助も含まれている。

 優は、病院からそのまま樹の家に引き取られ、最後に部屋を片付けるときに、希美子や施設の職員と僅かに挨拶を交わす時間があったのみで、彼女はそれまでの十数年暮らした‘家’を後にした。

「良かったね、養父が決まって」

 希美子は言って、最後に優と握手した。

「ちがうよ、いつきは…」
「違う?」
「いつきは…」

 何だろう? 実は優にも良く分からなくて、そのまま黙ってしまった。

「後見人とか?」
「…いつきは…」
「親戚とか?」
「…」

 途中で考えるのが面倒になって、二人は諦めた。

「なんでも良いよ、どうせまた高校も一緒だしね。あ、でも、優は…部屋は別に借りるんだよね?」
「え?」
「先生が言ってたよ」
「…え?」
「知らないの?」

 優は、事件の前に、希美子と一緒に、卒業後に住む予定の部屋の下見も済ませていた。それに施設の方では契約も済ませているはずだった。

「え、え?」
「…ええと、ほら、きっとその‘いつき’って人の家から通うんじゃないの?」
「そ、…そうなの?」

 頭が真っ白になって、優は茫然とする。

「ま、良いよ。どうせ学校で会えるし」

 希美子は微笑んだ。真夜中にうなされて叫ぶ優を知っている、そして、暴行に寄る怪我に気づいてくれる唯一のルームメイトだったただ一人の友人。お互い関心は薄くても、たった二人きり、お互いを静かに見守ってきた‘友’だった。

「ありがとう」

 優は言って、希美子をじっと見つめた。それが、笑顔を作ることが出来ない彼女に出来る精一杯の誠意だと、希美子には分かっていた。


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虚空の果ての青 (君をどうするかは俺が決める) 12 

虚空の果ての青 第二部

‘君をどうするかは、君が決めることじゃない。俺が決めるんだ。’

 樹がそう言ったとき、その言葉の威圧的で絶対的な内容とは裏腹に、彼の声は優しかった、ように優には思えた。いつもの、優の好きな穏やかで低い声。揺るぎのない、決定事項を告げる時の声色で。

 優の精神的な容態が落ち着くまで、忙しい彼が、こっそりパソコンを持ち込んで、優の隣で仕事をしながらずっとついていてくれた。
 優が、寂しくないように、そして、何より自傷行為をしないように見張る意味もあったのだろう。

 食事が出されるようになって、少しずつリハビリのように食事という行為を再開した頃、あまり食欲がなくても、樹の前では簡単にさげてもらうことは許されない。そういう厳しさと温かさの中で。

 樹の存在が優の心にしっかり届くようになって、彼女は、ようやく‘現実’を自らの目で見つめ始めた。受け留める覚悟を、その瞳に抱くようになった。

 樹と過ごした時間の光の記憶が、しっかりと彼女を繋ぎとめていたのだろうか。

 灯篭流しの川の灯り。除夜の鐘を一緒につくまでのふわふわと温かく過ぎた時間。買ってもらった携帯ストラップの青く澄んだ空の色。
 そういうものが、ひどいことで埋め尽くされそうな優の心の隅にちらちらと一筋の明かりを与えていた。小さいけど、儚いけど、決して消えてしまうことはない命の源として。

 何もかもを見ない振り、感じない振り、そうやって自らを縛ることで辛うじて生きてきた。辛い現実を直視することは命を削ることに他ならなかった。誰もいないのだと知ることは、生きる理由すら霞ませてしまうから。
 今、優は真っ暗闇だった世界に確かな灯りを得た。それが、誰かに必要とされることだと、それを得て初めて知った。樹の存在が、彼女の生きる‘ひかり’となって前を照らしてくれている。彼がそばで手を握ってくれるから、いつでも抱きしめてくれるから、彼女は怯えながらでも、一歩を進む方を選んだ。

 なかったことには出来ない残酷な過去。狂気のような現実。それでも、あるがままを認め、何もかもを受け入れることでしか、進めない。
 息も絶え絶えになるような、焼けた石を飲み込むような辛さに耐えて、優は選び取った。樹と生きることを。



「高校は俺の家から通いなさい。あそこなら通学用バスの停留所も近くにあるし。…まあ、だいたいは鹿島が送迎してくれるけど」

 退院する日、鹿島の車で屋敷に向かう途中、樹は、まだ腕や足に包帯をしたまま、そして顔にもまだ傷が残ったままの優に告げる。

「…えっ?あ、…はい」

 優は、驚いて、そして少し怯えたような瞳で隣の彼を見上げた。
 そういえば、そんなことを希美子にも言われていた。

「ああ、君がお友達と契約したアパートは、キャンセルしてもらったよ。まだ3月だから、すぐに次の借り手は見つかるだろうし、君のお友達もそれはもう知っている。心配しなくて良い」

 樹は手元の書類に目を通しながら言った。それは、先日施設長から預かってきた施設の新規入所者の名簿だった。個人名がずらりと並んだそれは、個人情報にうるさい昨今、施設関係者以外には樹だけが特別に目を通せる重要書類だろう。入所のいきさつや児童の年齢や特徴などが細かく記されていた。

 数日前、その書類を受け取るついでに、優を、自宅に引き取ります、と樹が施設長に申し出たとき、彼は少し驚いた表情をしたが、やがて穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「そうですか。…ああ、そうですか」
「私立に受験させ直そうかとも思いましたが、高校は、お友達と一緒に行きたいところへそのまま通わせます。その方が、優ちゃんも安心でしょうから」
「そうしていただけますか。ありがとうございます。樹さま、あの子は、本当に貴方に出会ってから見違えるように生き生きとしてきました。それはもう皆口をそろえてそう申しております。有り難いことです。今後のこともそうやって引き受けていただけるなら安心です。あの子の周りはいつも不穏な空気が渦巻いて、それに怯えた彼女はすっかり自らの殻に閉じこもってしまっていましたから。樹さまに拾っていただいて、ようやくあの子も運が巡ってきたようですね」
「いえ。…拾われたのは俺の方かも知れませんよ」

 樹は微笑み、施設長も何も言わずに笑みを見せた。

「何か必要な手続きがあれば…」

 樹が言いかけると、首を振った。

「いいえ、もう、彼女は施設を出ますから、何もありませんよ」

 いつも通される施設長室の応接ソファで、彼は自ら入れたお茶を勧める。

「今後とも、ここの子ども達を見守っていただければ幸いです。よろしくお願いします」

 もう白髪の目立ってきた初老の施設長は深々と頭を下げた。

「こちらこそ」

 樹は静かに答えた。心に傷を負った子ども達。ここは、そういう子を必死に救おうとしている良心的な数少ない個人施設だった。すべてはこの施設長の信念に寄る。樹は事業の一環としてこの施設に多額の援助をしていた。
 恐らく施設長は、樹の優への想いがどこにあるのか、薄々分かっていたのかもしれない。それまで学費の援助をしてきた子ども達の一人に、樹がこんな風に深く関わることなどなかったのだから。

「あの子の親御さんは…」

 ふと思い出したように、施設長が少し言葉を濁し、樹は静かに答えた。

「ええ。彼にも直接お会いしていろいろお話いたしました」

 握手を交わしたとき、樹を見つめた勲の目には、確かな優への‘愛’を感じた。本当は慈しみ、抱きしめ、愛したかった娘として暮らした少女への。
 それだけで、充分だと思った。

「お姉さんご夫婦の継いだ事業をお手伝いされるために、郷里へ帰られるそうです」
「…そうですか」

 多くは聞かず、彼もまたほっとした笑顔を浮かべた。

「ここを巣立っていく子ども達が、自らの命を粗末にすることなく、生きる楽しみを見出し、社会の役に立って、一生懸命生きてくれる、それが私共の願いです」



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虚空の果ての青 (君をどうするかは俺が決める) 13 

虚空の果ての青 第二部

 その日、屋敷では、樹が引き取るつもりの子を連れて帰ると連絡を受けていたので、一同が揃って出迎えてくれた。ほぼ、樹は屋敷にいないので、彼らにとっての実質的な主となる人物なのだ。

 まったく事前情報のない彼らは、いったいどんなお嬢さんなのだろう、とひそひそと囁きあう。
 執事の佐伯が、二人を出迎え、厳粛な表情で挨拶をする。

「はじめまして、桐嶋さま。執事の佐伯と申します。今後、わたくしが責任を持ってお世話をさせていただきます」

 一同が一斉に礼をして迎えられ、その圧倒的な空気にひるみ、怯えていた優だったが、近づいてきた佐伯が、どこか雰囲気が鹿島に似ていることに気づき、それで、優は幾分ほっとして彼をそっと見つめる。

 佐伯を始めとして、女主人として相応の社長令嬢のような女性を想像していた彼らは、顔をあげて注目した相手の、そのあまりのギャップに一瞬、動揺の波が振動として広がった。
 これが、今後仕えるべき女主人? まるで、高価なフランス人形のような、可憐な、儚げな、ふわりと舞い飛ぶ小鳥の羽のような柔らかい空気を抱く少女が?

「今日からこのままこの子は、ここに暮らすことになるから、よろしく。それで、母に連絡を取ったら正式に養子縁組の手続きをして、4月の優ちゃんの誕生日を迎えたら、俺の籍に入れる。そういうつもりで、頼みます」

 樹が使用人一同にそう言って微笑むと、空気が一瞬でぴりりと引き締まった。

「かしこまりました」

 一礼して、佐伯は不意に屈託のない笑顔を作る。

「樹さまが女性をお連れするのは大分久しぶりでしたが、こんなに可愛らしいお嬢さんをお連れになるとは思いませんでした」
「どういう意味かな、佐伯さん」

 多少憮然とした樹の質問には応えず、佐伯は使用人一同を仕事に戻し、二人の荷物を運ばせながら、部屋へ案内する。

「寝室は、ご一緒でよろしかったですね?」
「良いよ。週末以外は優ちゃんは一人だけどね」
「…いつきは…一緒にここにいないの?」

 樹の言葉に、優は心細そうに彼を見上げる。

「うん、ごめんね。ここは滅多に戻らないから。でも、大丈夫だよ、何か困ったことがあったらなんでも佐伯さんに相談すれば良いし、俺も週末には必ず帰る。その他にもちょくちょく顔を出すようにするよ」

 部屋に案内されて、荷物を置いてもらった後、樹は優に屋敷内を案内する。
 一階は調理場や食堂、そして応接室と客間がほぼ占めており、優と樹の部屋は二階の南側だった。そこにはずっと以前から鹿島の部屋も用意されてあり、彼もいつでも寝泊りできるようになっていた。別棟にも部屋がたくさんあるらしく、その広さに優は、一人で歩いたら迷子になりそうだと茫然とする。

「書斎に本はたくさんあるから、好きなときに好きなだけ読んで良いよ。それから、部屋にはシャワールームもあるけど、少し広めの浴室は部屋の外にあるんだ」

 案内されながら、優はどんどん不安になる。今までいた施設とはあまりに違う環境。大勢の見知らぬ人たち。

「い…いつき」

 優は泣きそうになる。

「今夜は俺もこっちに泊まるよ。これからは出来るだけ家に戻るようにするけど、どうしてもホテルにこもることもある。それでも、君はきちんと毎日通学しなさい。良い?」

 優にとってはここは外の世界と同じ、未知なる恐ろしい場所に思えた。アパートの部屋も一人には違いなかったが、そちらには隣に希美子もいたし、施設の仲間がだいたい近くの部屋を借りることになっていた。既知の顔があるだけ、まだ恐怖は少なかっただろう。

「大丈夫、すぐに慣れるよ。これから、君も勉強が忙しくなるしね。ああ、その前に誕生日が来るね。お祝いしてあげよう」

 4月15日。
 もしかして、多少のズレはあるのかもしれない。しかし、届けられたのはその日だった。夏に新学期が始まるアメリカの学校に一年間留学するために、彼が夏に日本を発って、その9ヵ月後に優は生まれた。

「それから、優ちゃん、良い? よく聞いて?」

 屋敷を一周した後、部屋に戻った樹は、優の手をとって部屋のソファに座らせると、その両手を握り締めたまま彼は優の前にしゃがみ込んでその不安そうな顔を覗き込む。

「君をどうするかは、俺が決める。…言ったでしょ?」

 優は一瞬、表情がこわばった。樹の手の中の、彼女の小さな手がぴくりと緊張する。

「優ちゃん、俺と『結婚』しようか?」
「…え?」

 一瞬、ぽかんと間を置いて優は聞き返す。言われた言葉が意味を伴って頭に入ってくるのに、数秒の時間を要した。そして、それを理解するには更に時間は必要だった。

 け…っこん、って…結婚? ってこと?
 それって、どういう意味だっけ?

「け、…け…っこん、って。い、いつきが? …してくれるの? …私と?」
「そう」
「…でっ…でも、け…け、結婚って。その、私は…身体が、おかしいし、…笑えないし、…だ…だって、子…子どもも…生めない…って」

 大人たちが彼女に下す評価を、優は知っていた。かわいそうな子だ、と。心も身体の機能も壊れていて、将来、妊娠・出産も無理だと。不憫な子だ、とそう言って憐れむ目には蔑みの色も混じっている。男に散々汚された身体だと。

 その、世間の目というものの意味を、優はうっすらと感じて、分かっていた。そういう彼女を、誰も守りきれないことも。

「そんなこと、どうでも良いよ」
「…で…っ、でも…。周りの人が、反対するよ?」
「誰が?」
「いつきの…」

 言い掛けて、優は、樹の家族を誰も見たことも話しに聞いたこともないことを思い出す。彼の周りで知っているのは、鹿島と雅子くらいだった。先ほど出迎えてくれた中にも‘家族’と称する人の姿はなかった気がする。

「俺が優ちゃんが良いんだから、良いんだよ」

 樹は微笑む。

「イヤなの?」

 優は慌てて首を振る。

「イヤじゃない」

 それでも、きっと、特に樹のような立場の人は、‘結婚’などという、家の名前や財産に直接的に関わってくることを簡単に決められはしないことを、優にもおぼろげながら分かる。

 イヤなんかじゃない。信じられないだけだ。
 信じられない。信じられないのは、嬉しすぎるから? 違う。怖いのだ。

「でも」
「じゃ、優ちゃん、俺が誰か他の人と結婚しても良いの?」

 樹の意地悪に、瞬間、優はさあっと全身の血の気が引いた。
 考えたこともなかった。
 樹が、誰か他の人を。優にしてくれるように優しくキスして、抱きしめて、そして、もう優のことを見てくれなくなるなんてことを。

 ぞうっと身体が冷えて寒くなった。
 その途端、胸がぎゅうっと苦しくなって、身体が震えてくる。

 俯いて震える内に、不意に涙があふれてきた。それは大粒の雫となって次から次へと優の頬を伝う。声もなく涙を零して震える優の頭をそっと抱き寄せて、樹は笑った。

「ごめんごめん。そんなことしないよ。じゃあ、優ちゃん、俺と結婚してくれる?」

 樹の胸に顔を伏せたまま、優はじんと心が震えた。小さく頷いて、彼女はその胸にすがりついた。
 誰が何と言おうと、世界中が優に背を向けることになっても、樹がいてくれるなら良い。彼の言葉ならいつでも聞ける。どんなことでも聞ける。

「嬉しい」

 それは、声になったのか分からない。心の震え、心臓の鼓動だった。
 

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虚空の果ての青 (対峙) 14 

虚空の果ての青 第二部

 海外にいる母親―美也子に、樹は直接電話をして簡単ないきさつを説明し、養子縁組を弁護士を通して手続きさせて欲しいと話してみた。そして、最終的には婚姻を整えるつもりだと。
 初め、さすがに彼女は何を言われているのかさっぱり分からなかったようで、電話の向こうで驚いた声をあげた。

「ちょっと! なあに、それ? 紹介もしてくれる前に結婚するですって?」

 樹は苦笑した。確かに母にしたら青天の霹靂だ。もう、ただひたすら謝るしかない。

「ごめん。俺もこんなに急ぐつもりはなかったんだけど、ちょっといろいろあってね。そういう風に話が進んでしまったんだ」
「いったいどうしたのよ? 今まで、まったく結婚には乗り気じゃなかったのに。よほどそのお嬢さんが気に入ったの?」

 母の言葉に、樹は、ちょっと息をつく。一言で説明できることではない。

「まあ、そう理解してくれても良いよ。いずれ、母さんにも、まして父にも迷惑を掛けるようなことにはならないつもり」
「迷惑なんて、いったい何を言ってるの? どこのお嬢さんなの?」
「俺が援助してる施設の子だよ」
「…なるほど」

 何故か妙に納得して彼女は頷く。

「まあ、確かに相手の家がどうの、子どもが生まれたらどうの、っていう煩わしさはない訳ね」
「そう。それから、彼女は、子どもは生めない」
「どうして? まだそんな年じゃないでしょうに。ああ、もしかして、何か心臓の疾患とか? …まさか、樹、だからそのお嬢さんを選んだの? 子どもをつくらないために? そんなこと、考える必要はないのよ?」
「いや、子どもが出来たりしたら、俺が困るんだよ。父の絡みの問題とはまったく別の次元でね」
「んん? どうして?」

 母が、眉根に皺を寄せる表情が分かるような、怪訝そうな声が聞こえた。

「ああ、なんか、あなたが何を言いたいんだかさっぱり分からないわ」

 何か、言いかけようとした樹に間を与えず、彼女は独り言のように、だけどぴしゃりと言葉を紡ぐ。

「分かった! とにかく、私、一旦帰るわ。うん、そうする! どうしても今あなたに会いたい。それに、私の義理の娘になるだろうお嬢さんにも! 樹、私が戻るまでちょっと待ちなさい」
「…う~ん、だったら、出来れば、近日中に帰って来てくれる? 彼女の誕生日前に」
「Birthdayですって? だって、4月なんでしょう? バカ言わないでよ! 無理に決まってるでしょう?」
「じゃあ、手続きだけは先に進めさせてよ。書類は送信するから」
「もうっ! なんで、そうなるの? 良いじゃない! そんなに急がなくても!」
「こっちも事情があるんだよ」
「どういう事情よっ!」
「…あのね、母さん」

 相変わらずの母親の剣幕を懐かしく思いながら、樹は苦笑する。仕方なく、順を追って説明しようと口を開きかけたとき、美也子は言い放った。

「分かった。じゃあ、何がなんでも帰るわ。15日? …それ以前に帰れば良いんでしょう? 調整してみるわ」

 じゃあね、と樹の返事を待たずに電話は切れた。

 テンポが良くて、前向きでタフで、それでいて涙もろい。樹の母はそういう女性だった。少女がそのまま身体だけ大人になったような、いつまでも純粋で計算も打算もない人なのだ。それでも、何かこれ! と決めたことに集中するときだけは別人のようだった。

 旅行先で知り合っただけの、樹の父親との‘恋’も、そうやって手に入れてしまった女性だ。
 そして、幼い樹をボスの正妻から守り切った人だ。

 今も、母は全身全霊を傾けて父を守って生きているのだろう。そのきらきらした命の躍動が見えるようだ。そういう母を、樹は尊敬している。そして、母子は、お互いを誰よりも理解し合って、尊重し合っている。分かってくれないはずはないと、樹は信じているのだ。
 
 

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虚空の果ての青 (対峙) 15 

虚空の果ての青 第二部

 いったい、どう父を説き伏せたのか分からないが、美也子は本当に4月の10日前に帰国した。ただ、傍らにはしっかりとボディガードを数人引き連れていた。恐らく、ボスがどうしても、と付けて寄越したのだろう。
一見、秘書にしか見えない柔らかな物腰の若い女性と、見るからに用心棒という風貌の黒人男性とが付き添いだった。

「樹っ、久しぶりね! なんて大きくなったの?」

 その日、わざわざ仕事を休んで出迎えた彼を抱きしめて、小柄な彼の母親は喜びに顔を輝かせた。樹によく似た細面で、どこか冷たい印象をすら与える均整の取れた目鼻立ち。その目尻に皺がくっきりと浮かび、もともとは茶色がかっていた長い髪は艶やかな黒に染められていて、樹は時間の経過を不意に確認する。それでも、彼女の内から華やかに発せられる強い光の色は少しも褪せてはいなかった。

「あら、花嫁さんは?」

 玄関先に出迎えた樹と、佐伯、そして使用人一同の中にはそれらしい人影を見つけられず、美也子は息子の背後を覗き込む。

「お帰りなさいませ、奥様」

 佐伯が微笑み、彼女もにこりと返す。

「ただいま、佐伯さん。あなたはなんて変わらず若々しいのかしら」
「奥様もお変わりありませんよ」

 一通りの挨拶を済ませ、美也子がボディガード二人の紹介も済ませると、使用人たちは仕事に戻り、佐伯が彼女とその付き添いの二人を部屋まで案内する。

「優ちゃんはまだ学校だよ。あの子はまだ高校生だからね。入学式が終わって、今週から授業が始まったところだったから、今日は休ませなかったんだ」
「高校生ですって?」

 さすがに美也子は驚いた声をあげた。

「ちょっと佐伯さん、知ってた? この子ったら、何やってたの? それって、日本じゃ犯罪って言わない?」

 前を歩く佐伯は彼女の荷物を持ったまま振り返って頷く。

「若奥様は物静かで美しいお嬢さんですよ」
「そういう問題じゃないでしょう! もう、あなたは樹に甘いんだから…」

 美也子の背後をぴったり歩く二人は英語で何かを囁きあう。なまりが強くて、樹にはあまりよく分からなかったが、二人の空気に不穏なものはなく、そして、母に対する敵意のようなものは感じられなかった。父は、人選だけは違えなかったらしい。

「そういえば母さん、後ろの二人…ええと、ジャックとステラ? 彼らは日本語はまったくダメ?」

 ふと、樹が言うと、美也子は、そうねぇ、と二人を見る。話題が自分達のことだと気づくと、二人は自然に笑顔を見せる。その、どこかほかっとした温かさに、樹は安心する。母は、父の傍で、周りにも愛されているのだろうと思えたのだ。

「挨拶程度なら。でも、会話は諦めて貴方が英語を使ってちょうだい。そうそう、ジャックは元バスケット選手だし、ステラは実は空手の達人なのよ。合気道もかじったことはあるみたい。日本文化に興味があるから今回の訪日は楽しみにしてたそうよ」
「父もだったけど、母さんの周りはけっこう日本びいきなんだね」
「海外に目が向かないのは日本人だけよ」
「…そうかもね」

 不意に使用人が会社から電話が入っていると樹を呼び、彼は母のことは佐伯に任せて自室へと戻っていく。

「3時を過ぎたら鹿島が優ちゃんを迎えに行って連れて来てくれるはずだから、荷物を解いて少しゆっくりしてて」
「あなたも仕事の虫ね。パパにそっくりだわ」

 ため息をついて美也子は手を振る。そして、忙しそうに携帯電話を取り出して鹿島に指示を与えている彼の後ろ姿を見つめて微笑んだ。



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虚空の果ての青 (対峙) 16 

虚空の果ての青 第二部

 その日、優は本格的に始まった授業に、今までよりずっとペースの早い進み方を実感して少し慌てていた。ちょっと考え事をしていたら、途端に内容が進んでしまっていた。

 今日、樹の母親が帰国すると聞かされていた。
 樹のお母さま。
 優はその言葉を頭の中で反芻する。

 ‘母親’というものに対する明確な印象がない優は、少し戸惑っていた。ただ、その存在は切ない憧れで、本当は狂うほど焦がれた頃があったことも覚えている。保育園に迎えに現れる‘お母さん’という人たち。父親がごく機嫌のいいときに話してくれた優の母親の面影。

 そして、一般的な『母親』というものを考えたとき、ふと、つい先日の入学式の光景を思い出したのだ。
 入学式の日、生徒の母親たちが大勢並んだ体育館の中に樹の姿を見つけて、優はひどく驚いた。

 保育園から中学校に至るまで、入学式も卒業式も、まして授業参観のようなものに、優の保護者が姿を現したことは一度もなかった。

 勲は、働きながら勉強を続け、そして大学を卒業してからも生活していくための仕事が忙しくて、或いは服役している期間があったりで、彼がそういう場に関心を寄せることすらなかったし、施設の関係者が挨拶に訪れることはあっても、それは優だけのためではなかった。

 高校まで鹿島の運転する車でやって来て、優は他の生徒と一緒に教室へと向かい、鹿島と樹はそれをにこにこと見送った。優は二人はそのまま帰り、式が終了したら鹿島が再び迎えに来てくれるのだろうと思っていた。寂しいと感じる余裕はなかった。優にとってはそれは当たり前のことだったので。

 だから、樹が父兄席に鹿島と並んで座っている姿を見つけた瞬間、優は喜びの感情よりもまず、驚きで息が止まりそうになった。ふと、温かいものを視界の端に感じて、そこに意識を持っていった途端、樹の姿だけがくっきりと優の目に迫ってきた。何もかもぼんやりと面倒だった世界の中に、彼の姿だけが強烈な光となって彼女の心をクリアにした。

「いつき」

 優は言葉にしてその名を呟き、その途端、まるで激しい嵐のような熱い喜びの渦がお腹の底から湧き起こってきた。生まれて初めて、優は、‘家族’というものを、その意味を感じた。

 見ていてくれる人がいる。
 そう知っただけで、世界は突然色彩を放って優を取り巻いた。

 退屈なだけのその式典が、一つ一つ意味を持った。
 ここは、新しい世界への扉だと、はっきり心に描くことが出来た。

 そんなことを幸せに反芻していたら、いつの間にか授業が淡々と流れていたのだった。
 いけない、と優は思う。
 しっかり勉強しないと、奨学金は成績が下がったら受けられなくなる。

 実際、樹に引き取られた時点で、奨学金は受けられなくなっているのだが、優はその事実を知らない。優は必死に授業に集中し出した。

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虚空の果ての青 (対峙) 17 

虚空の果ての青 第二部

「母さん、ちょっと良い?」

 仕事の電話を終えて、樹は母の部屋を訪ねる。後ろにまとめていた髪をおろし、彼女も久しぶりの我が家にほっとしている様子だった。昔からあまり化粧もせず、若い娘のようにさらさらと細い長い髪をすとんと肩に流している。樹の髪も、その茶色がかった淡い色合いもその髪質も母の血を受け継いでいる。

 この家は彼女の名義で、そして、母はボスと籍を入れておらず、国籍も日本のままだ。ボスが先に亡くなったら、恐らく彼女は日本へ戻ってくるつもりなのだろう。

 二人のボディガードもそれぞれ別々の部屋で荷物を解いているようだった。この屋敷はボスが直々にセキュリティをチェックした万全の設備が整っているそうで、彼らも美也子が屋敷内にいる間は緊張を解いているのだろう。

「良いわよ。今、お土産を探していたんだけど」

 と、美也子は先に届いていたいくつかの荷物に中から包みをがさがさと開けていた。

「優ちゃんの話」

 樹は、ベッドに荷物を広げている彼女の後ろのソファに腰を下ろした。

「ああ、施設にいたってことは…ご両親が亡くなりでもしたの?」

 手にした高価そうなネックレスや髪飾りを満足そうに見つめながら、無邪気に美也子は聞き、樹は静かに話し出した。

 真夏の優との出会い。そして、その後の関わりと背景。勲と会った経過。そして、彼からもたらされた衝撃の事実。そのすべてを。

 初めはにこやかに、そして次第に眉をひそめつつ聞いていた彼女は、勲から告げられた事実に話が至ったときには、さすがに蒼白な顔をして、息子を凝視した。

「…それって、…つまりは、優ちゃんは血のつながったあなたの娘って…こと?」

 樹は頷く。
 美也子は明らかに顔色を変えた。今にも息子が、冗談だよ、と笑ってくれるのを待つように、樹の目を必死の形相で見つめている。

「樹、…あなた、いったい…それがどういうことか、分かってるの?」
「分かってる、つもり」
「分かってる? 何をどう分かっているの? それがどんなにおかしいことか、二人を不幸にするのか、考えてよ」
「…充分、承知している」

 樹の声は次第に苦しそうになってきた。それでも、息子は、すでに覚悟を決めた瞳をしていた。しんと冷えた静かな光を湛えながら。

 理解出来ない。
 美也子は恐怖を抱いた。

 この子は、本当に私の息子なのだろうか?
 自分のしたことを、これからしようとしている背徳を分かっているのだろうか?
 それがどんなに罪深いことなのか、本当に?

「お願い、お願いよ、樹。考え直してちょうだい。そんな、…そんな神を冒涜し、自然の摂理に背くこと、いいえ、そんな誰も幸せになれない道を選ぶなんてことをしないで」

 ただ、静かに彼女を見つめる息子に、哀願するように叫んだ。
 樹は何も答えなかった。ただ、静かに、そして、悲しそうに母を見つめていた。その瞳にははっきりと失望の色が浮かび、それが益々美也子を不安に陥れた。

「樹、樹、分かってよ。その子を守りたいなら、傍に置きたいなら、私の養女として法的に手続きするだけで充分でしょう? あなたは、父親なのよ? お願い、そうするって約束してちょうだい」
「さもなくば?」
「樹っ…」

 美也子は悲鳴のような声をあげた。固く無表情を崩さない息子の腕にすがりついて、その腕を揺さぶる。

「やめて、樹。…どうして? どうしてなの?」
「母さん、俺は、もう決めたんだ」
「樹っ」

 樹はゆっくりと冷笑を浮かべた。そして、ふう、と大きく息をついて母の手をそっと外し、立ち上がった。その場に崩れるように座り込んだままの彼女を見下ろして、樹はふい、と視線をそらす。
 そのままドアへ向かう樹の後ろ姿を、美也子は茫然と見つめる。彼は数歩進んで立ち止まり、横顔を向けた。

「ねえ、母さん、息子の娘って、母さんにとっては何?」
「…え?」

 何を聞かれているのか分からなくて、半分、放心状態のような顔で美也子は彼の声を反芻する。

「優ちゃんには、つまり、母さんの血も流れている」

 言いたいことはまだ分からない。

「優ちゃんは―」

 一旦言葉を切り、樹はゆっくりと振り返って微笑んだ。

「あなたにとって、この世でただ一人の孫娘だってことさ」



 扉の閉まる音が響き、美也子は無音の空間に取り残された。
 息子が出て行ってから、彼女は何度も、彼から聞かされた話を反芻し、ともかく事態の把握に努めた。

 あり得ない。
 どうすれば良いんだろう?
 いったい、私は何をどう間違ったのだろう?
 親子? 父親と娘?
 考えられない。そんな血の濃い関係は許容できるものではない。いったい、あの子はどうしてしまったのだろう?

 一切、何も手につかず、ぼんやりしたまま、美也子は悩み続けていた。
 片付けの手は完全に止まり、気がつけば同じことを何度でも繰り返していた。

 樹を育ながら、命を狙われて身を潜めて暮らしていたときも、お金がなくなって苦しい思いをしたときも、こんな暗い絶望のような思いを経験したことはなかった。二人は共に助け合い、支えあって生きてきた。お互いを深く理解していた。

 何が、間違っていたのだろう?
 何が違っている?

 次第に彼女は考えることに疲れ果て、とりあえず、その樹の婚約者に会ってみようとため息と共に決意する。他に、どうしようもないではないか。

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虚空の果ての青 (‘愛’のかたち) 18 

虚空の果ての青 第二部

 暗くなる前に鹿島が戻ったらしい気配がして、やがて、彼女の部屋の扉をノックする音が響いた。

「どうぞ」

 幾分、緊張し、しかし毅然と彼女は答える。
 息子を惑わせた女。
 ふとそんな黒い思いが立ち上り、美也子は自身に軽い衝撃を受ける。

 ふるり、と頭を振って、扉の向こうの気配に全神経を集中させた。そして、すうっとドアが開いて、樹の姿が現れる。作った微笑を浮かべて彼を見つめ、だけど、どうしてもその傍らに立つもう一人に視線を向けることが出来なかった。

「紹介するよ。母さん、この子が優ちゃん」

 そのとき、ふと、美也子は不思議な錯覚を得た。そこに、ふわりと仔猫の気配…いや、天使の気配を感じたのだ。

 え? と驚いて目の端でぼうっと光を放っていた存在に視線を落とすと、思わず彼女の口からは吐息が漏れた。
 そこに立っていたのは。
 樹のそばにぴったりと身を寄せて、怯える野生の子ウサギのように震えていたのは。

 まるで、天使が羽を隠しただけのような、まるで生きた人間とは思えないようなふわふわしたお人形のような女の子だった。

 セーラー服を着たまま、樹の傍らに佇む少女は、空気に透けて消えてしまいそうな存在感の薄さ、そして、まるで存在を許されているのはここだけだというように、樹に寄り添っておどおどと身を縮めていた。

 美也子から受ける微かな拒絶の空気に敏感に怯えているのだろうか。

「優ちゃん、これが母だよ」

 これ以上ない優しい声で、樹は彼女に屈みこんで微笑んでいる。

「あ、の…は、はじめまして」

 怯えた瞳で、少女はそっと美也子を見上げた。

 瞬間、美也子は雷に撃たれたような衝撃を心臓に受けた。まるで灼熱のように熱いそれは、‘愛しい’という思いだった。

 不意に、樹が言い残していった言葉が脳裏を過ぎる。
‘あなたにとって、この世でただ一人の孫娘だってことさ’

「ああ…」

 美也子は、知らずに声をもらし、そして、意図せず、おずおずと差し出された白い小さな手を両手で包んだかと思うと、その華奢で細い身体をぎゅうっと抱きしめた。驚いて、腕の中でますます小さくなった少女の細い身体を感じた瞬間、美也子は思わず涙が零れそうになった。

 なんて、小さな、愛しい娘。
 これは、間違いなく、樹の子だ。
 愛しい息子の、愛しい一人娘。

 そして。
 ああ、この子は、樹と引き離されたらきっと生きていけない。
 それを悟った。

「はじめまして、優ちゃん」

 腕の中の少女は微かに震えた。

「会いたかったわ」

 樹は呆気にとられて母を見つめる。
 抱きしめられた腕の中で、優も、不思議な想いを体験していた。

 温かい。
 樹に抱きしめられたときとは違う。柔らかい優しい匂い。
 これが、‘お母さん’…?

「お…母さん…?」

 優は、小さな声でほとんど口の中で呟いてみる。夢見ることも諦めていた母親の抱擁。お母さん、という存在。死に物狂いで求め続けた恋しい相手。

 呼びかけても良いのだろうか?
 これが、‘お母さん’というもの?

 これ以上強く抱きしめたら壊れてしまうのではないかと思うくらい、美也子はその小さな愛しいものをしっかりと胸に抱いて、手の甲でそっと涙をぬぐった。

 どこか勝ち誇ったような息子の視線には気づかない振りをして、美也子は、身体を離して優の顔をしっかりと見つめた。母親の面影が色濃く残っているのだろう、遠い北の国の淡い印象を宿し、花のように儚い空気を抱く少女。しかし、その甘い輪郭の中に、確かに樹の、そして自らの血、その凛とした光を見つけた。

 内に秘めた華がある。柔らかい印象の裏に、強い光を抱いている。
 だけど。
 ああ、この子は…。

 どこか戸惑っているその子から視線を外し、美也子は樹に向き直った。そして、彼女は目だけで息子に告げた。それを受けて一瞬、母を見返した彼は、無言で応えた。

「会えて嬉しいわ、優ちゃん。いらっしゃい、お土産があるのよ」

 どこかまだぼうっと彼女を見上げたままの優の手を引いて、美也子は彼女をソファに座らせる。ゆっくりとその後を追って、樹も優の傍らに、呆れたような笑みを浮かべて佇んだ。

「ほんの内輪だけでお披露目をするときのために、これは、パールのネックレス。日本では正装用ね」

 嬉々としてお土産の披露を始めた母と、驚いて、困って、何度も樹を見上げる優の様子を微笑ましく見つめながら、樹は、結局、誰も優には敵わないのだと思う。優を知って、彼女を嫌ったり憎んだり出来る人間などいないと。


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虚空の果ての青 (‘愛’のかたち) 19 

虚空の果ての青 第二部

「あれだけ、なんだかんだ言ってたのに」

 優が着替えに先に部屋へ戻り、樹は、美也子の部屋を去る前に振り返って不敵な笑みを浮かべる。

「…そうね。完敗だったね」

 美也子は、苦笑とともに、どこか心配そうな色を宿した視線を樹に送った。

「あなたの昔の恋人…カーチャ? …私は遂に会ったことはなかったけど、あなたとあの子を見ていると、どんな女性だったのかなんとなく分かるわね」
「昔の、じゃないよ。彼女は恐らく俺の生涯ただ一人の恋人だ」
「今でも?」
「今でも、だよ」

 美也子の視線の意味を分かっていて、樹は頷いた。

「優ちゃんのことを俺は生涯守ることに決めた。あの子を愛しいと思う。失いたくないと思う。だけど、カーチャに恋した時間を越える何物も、もう訪れることはないだろうね」
「それは、あなたが若かったから。初めての恋だったから」
「うん」
「…樹、優ちゃんは…」
「何?」

 あの子は、長く生きられないような気がする。

 母の視線の意味を、樹もずっと分かっていた。考えたくなくて、考えないようにしていた。しかし、それは樹も時々感じる思いだった。

 世界に関わることを教えようとすればするほど、優は疲弊し、命の光とでもいう灯が弱くなってしまう。
 社会と関わることは、彼女にとっては過剰な刺激でしかないのかも知れない。

「あの子の気配はまるで無垢な天使のようね」
「分かってるよ」
「…あの子も苦しいでしょう。だけど、最終的に苦しむのはあなたよ」
「分かってる」
「それでも?」
「俺が、守る」

 美也子は息子の目を真っ直ぐに見つめて、そして、やがて笑顔を作った。

「そうね。そうしてあげて。私もあの子の幸せを心から祈りたい気持ちになったわね」
「うん。…ありがとう」

 樹は微笑んでドアを閉めた。

 もしも、カーチャが知ったら、…今の樹と優の関係を知ったら、彼女はどんな風に思うだろうか。クリスチャンである彼女は、愕然と青ざめるだろうか。それとも、驚きはしても、許して認めてくれるだろうか。二人の行く末に祈りを捧げてくれるのだろうか。

 分からなかった。
 そして、今、現状でカーチャに再会したら、樹は優の前で彼女を選べるだろうか?
 それを思うとその先の光景が何も浮かばない。
 愛した女性。その面影はいつでも切なく美しい。

 それでも、今、目の前にいる優を愛しいと思う。望むことをしてやりたいと思う。どんなことをしても、守りたいと祈る。

 それがどんなに歪んだ形の‘愛’であろうとも。

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虚空の果ての青 (‘愛’のかたち) 20 

虚空の果ての青 第二部

「いつき」

 その夜、樹の腕の中で優は呟く。

「‘お母さん’ってあったかいんだね」
「…そうか。うん、君にとっても‘お義母さん’だ。うんと甘えて良いんだよ」
「甘える?」
「そうだよ。くれる物は何でももらってやってくれ。上手に甘えてやるのも親孝行だからね」
「親…孝行」
「そうだよ。母は、女の子も欲しかったみたいだから、実はすごく喜んでるよ。服とかバッグとか、そういうのを一緒に買い物してみたいらしいよ」

 優にはさっぱり想像のつかないことで、仕方なく彼女は曖昧に頷いた。

「母のことはもう良いよ。今は俺のことをちゃんと見てな」

 優の耳元にそっと唇を這わせて樹はささやく。

「ひゃあっ」

 まだ身体の熱が冷めやらず、どこかふわふわしたままの優は、その僅かの刺激に悲鳴をあげる。
 逃げようともがく優を抱きすくめ、樹はその首筋に唇を押し付けた。

「やあっ…んん~っ」

 優は、細い腕で必死に抵抗を示したが、樹はまったく意に介していない余裕の笑みを浮かべて、腕の中の獲物を丁寧に愛していく。

 眠りに落ちた…というよりも、失神に近い形で意識を失った優をベッドに残し、樹は寝巻きを羽織って部屋を出る。

 中学後半と高校の3年間だけを過ごしたこの家は、彼にとっては実家というよりもまだ他人の家の感覚に近かった。しかも、最近はほぼホテル暮らしだ。

 それでも、周りが静かなこの屋敷は気に入っていた。
 周囲はまばらな林に囲まれ、それを抜けるとやがて田舎の住宅地といった風景が見えてくる。

 感傷に浸っている訳ではないが、なんとなく外の風に当たりたくなって、中庭への扉を開けようとしたとき、ふと庭に人影が見えて、樹はぎょっとする。侵入者が? と思ってよく見ると、それは美也子だった。

「何、してるの? 母さん」

 扉を開けて、後ろ姿の彼女に声を掛けると、すでに寝巻き姿の美也子は少し驚いてゆっくりと振り返った。

「樹、あなたこそどうしたの? 眠れないの?」
「まだ、11時前だよ」
「優ちゃんは?」
「子どもはもう寝たよ」
「…そうね。まだ、子どもよね」

 その事実を重く噛み締める。

 大人の思惑に翻弄されて、罪のない子がボロボロになって最後に辿り着いた安息の場所。それが樹なのだとしたら、それを邪魔する権利が誰にあるだろうか。

 しかも、美也子と、そしてボスの血を引くただ一人の娘なのだ。何をおいても守ってやりたいと、息子が覚悟を決めたのなら。

 美也子は、ふっと視線をさまよわせる。その横顔が月に照らされてぼうっと光っていた。どこか厳しい、険しい表情を湛えていて、樹はふと懐かしい思いに捕らわれる。

 まだ幼い彼を必死に守って、一人であらゆるものと戦っていた頃、母はよくそういう横顔を見せたものだ。
 樹は庭に下りて扉を閉める。ほぼ満ちている太った月が明るい。手入れの行き届いた庭は、月の薄明かりを照り返して幻想的な明るさで満たされていた。

「あなたを抱いて、暗い部屋の隙間から差す月明かりを眺めていた夜を思い出したわ」

 美也子は、横顔のまま月を見上げた。
 そのとき、ふと口をついて出た質問に、樹は、彼自身の闇を知った。

「母さん、俺に死んで欲しいと思ったことあった?」
「まさか」

 しかし、美也子は考える間もなく即答する。

「どんな生活でも、今思えばなんだか楽しかったわよ。あのとき、明日なんて来ないかも知れない闇の中にどんなに絶望を見ても、私にはあなたがいて、どうしたって‘希望’が私を捕えて離さなかった。それに、いつか彼と暮らせることをどうしてか信じていたのよね」

 そう、と呟いて、樹は、何か問いたげな母の視線を感じて慌てて彼女から目をそらした。

 勲が言った。優の死を望んだことがあると。そして、それをきっと優自身も感じて、分かっていたのだろう。そんな風に、親に死んで欲しいと願われることの深い闇。そこにどうやって光を当てられるのか、樹には分からない。そして、その恐怖を幼い彼もどこかで感じたような気がしたのだ。

「なんで、そんなこと聞くの?」
「いや」

 美也子は、しばらく何も言わずに樹の横顔を見つめ、やがて、瞳に月の光を落としたような不思議に怪しい笑顔で言った。

「月明かりは、闇を浄化してくれるのよ。優ちゃんと一緒にいつかこの庭に出てみてご覧なさい。きっと、心が静まるから」

 樹は驚いて母を見た。

「優ちゃんのお誕生日、みんなで祝ってあげましょうね」

 月光に照らされて目を細める母が、きっと何もかも大丈夫、と、そう言ってくれているような気がした。
 

ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説
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虚空の果ての青 (‘愛’のかたち) 21 

虚空の果ての青 第二部

 大きなケーキをシェフが焼き、ローソクを16本。
 樹と美也子、鹿島、そしてステラとジャックが祝ってくれた初めての誕生日。大袈裟なことにはきっと怯えてしまうから、と、ささやかなパーティだったが、優は生まれて初めてプレゼントの包みを沢山もらったことより、彼女のためにだけ焼かれた大きなケーキより、周りの誰もが嬉しそうな様子に心が震えた。存在が許されて、受け入れられていることに喜びを感じていた。

 美也子からは山ほどの服と靴とアクセサリー。ジャックとステラはぬいぐるみを用意してきてくれたらしい。鹿島はつつましくハンカチとスカーフのセットを。そして、樹は指輪を贈った。

「普段は付けられないから、チェーンに通して持っていると良いよ」

 そうっと、小さな箱を開けて、その繊細な造りの細いリングに光るダイヤモンドの煌きに、優は息を呑んだ。お星さまとおひさまの光を詰め込んだかのようなキラキラと光を反射する宝石。

「あ…ありがとう」

 皆からのプレゼントに、優は胸がいっぱいになって、涙が零れそうになって、かすれた声で唇を震わせた。

 ごちそうも、ほとんど喉を通らず、口の中で蕩けるケーキも優はほんの少ししか食べられなかったけど、あまりに幸せでお腹いっぱいで、談笑する皆の顔を見ているだけでドキドキして。そこにいられることがただ嬉しかった。

 そして。その週の週末、そろって婚姻届と養子縁組の書類とを作成することになり、優は、樹が自分の名前を書くペン先をじっと見つめて、少し驚いた表情をして彼の横顔を見た。

「いつき…って、そういう字だったんだね」
「そうだよ、君の頭の中では常にひらがなだったみたいだけど」

 樹は言って、はい、と優にペンを渡す。
 応接室に、弁護士の立ち合いのもと、三人は書類に署名・捺印をする。

 樹は父の姓を名乗っているが、母親は真柴のままで、優は一旦母の籍に入る。そして、彼女の養女となることで美也子の名義の遺産の相続権を得て、樹との婚姻に寄って万が一樹の死に寄っても彼の名義の財産すべては優の所有になる。法的に、優の権利は完全に保障されることになる。

 何のための書類なのか、何度も説明されても、優にはあまりよく分からなかった。

 言われた通りのことを、公文書ということで緊張しながら書いた、ということのみで、それを提出すれば自分がどうなるのか、いまいちよく分かっていなかったのだ。

「はい、確かに確認いたしました。では、書類はこのまま私がお預かりして提出させていただきます。よろしいですね?」
「お願いします、先生」

 美也子は微笑んで頷き、優はその場の空気になんとなく緊張して固まっていた。

「優ちゃん? …本当に理解してる?」

 優は、隣に座る樹を見上げ、微かに首を傾げつつも頷く。
 書類上、何がどうなろうと、優にはあまり興味のないことだった。

「学校の方へは、いろいろ面倒なことになるので、このまま‘桐嶋’の姓で通して卒業させてもらうことにしてください。本人も混乱すると思うし」

 樹は言い、弁護士はちょっと首を傾げる。

「そうですね、その程度の融通はなんとかなるとは思います。ただ、公式書類は正式な姓名が必要ですから、その点だけ気を付けていただければ」
「ああ。そうですね、分かりました」

 樹は座っていたソファから腰を浮かし、母へ視線を投げる。彼女は、他に、日本に滞在中に整えておきたい書類があるようだった。

「優ちゃん、俺たちはこれでお仕舞いだよ。外へ出よう」

 美也子とその弁護士を残して、優と樹は部屋を後にする。

「おや、もうお済みですか?」

 佐伯が紅茶を用意してワゴンを押しながら廊下の向こうから現れる。

「うん、こっちの分はね。後は別件で母が先生と相談事があるそうだから」
「そうですか。では、お茶をご用意いたしましたので、お部屋の方に運びましょうか」

 佐伯の言葉に樹はちょっと考える。

「いや、ちょっと中庭に出るから、そっちにもらうよ」
「若奥様もご一緒で?」
「そうだね」

 廊下から中庭へ抜ける扉を開けて、樹は優を外へ連れ出す。まだ、時折春の風が強かったが、その風も大分ぬるくなっている。屋敷の南側に位置するその庭は見事なバラの生垣があり、芝生の庭には、中央に池があって周りを季節に寄って様々な花が水を彩っていた。

 初めて庭を目にしたとき、バラの生垣に感嘆の声をあげた優の横顔に、樹は、優がバラが好きな理由をはっきりと知る。優の母親、カーチャが、バラを愛した女性だったのだ。彼女の生家にはやはり庭にバラ園があり、彼女はいつも部屋にバラの鉢植えや切花としてバラの花を絶やさなかったという。

 優が生まれたばかりの頃、カーチャが娘のそばにいた僅かの時間にも、バラの花たちはその高貴な香りで優を優しく包み込んでいたのだろう。その、ほんの僅かの幸せだった瞬間の記憶の中に、バラの花は息づいているのかもしれない。

「このバラはいつ咲くの?」
「5月から6月くらいかな」

 そう、と優はうっとりとその季節を夢見る。まだ、青々とした若芽が茂るだけの生垣。蕾はまだ息をひそめている。
 扉の前に木製の小さなテーブルとベンチが置いてあって、樹はそこに腰かける。佐伯がテーブルにクロスをセットして、紅茶をカップに注ぎ、一緒にビスケットを用意してくれた。

「若奥さま、こちらにお茶をご用意しておきます。冷めない内にどうぞ」

 佐伯が庭の優に声を掛ける。しかし、優はその呼ばれ方に慣れなくて、自分のこととは思っていないようだ。そもそも、優は誰かに名を呼ばれること自体、あまり多くなかったのだろう。佐伯はちらりと樹に視線を落とし、樹は肩をすくめた。

「優ちゃん、お茶が入ったってさ。こっちにおいで」

 樹が呼びかけると、バラの蕾をうっとりと眺めていた優はようやく振り向く。

「こっちに来て、少し休みな」

 呼ばれて、優は慌てて戻ってくる。佐伯が微笑んで一礼し去っていく後ろ姿をぼうっと見つめ、ようやく優ははっとする。先ほど、‘若奥さま’と呼ばれたのが自分だったのだと。
 樹の横に座って、優は、紅茶を一口ゆっくりと味わった。ポットで丁寧に蒸された深く甘い味わいだ。渋みが苦手な優も、蜂蜜を入れなくても飲むことが出来る。

「おいしい」

 ふわっと、胸の奥があったまった。それは紅茶のせいなのか、佐伯の心遣いのせいなのか、ここ数日の穏やかな時間のせいなのか優には分からなかったが、そういうことのすべてが、彼女を幸せにした。

 あまりに幸せで、優は、どこか現実感がなかった。
 まだ、何もかもがしっくりこなかった。

 怖いことや痛いことや辛いことが多かったとき、そういうことがないことが‘幸せ’だった。今は、樹の存在が優にとっては‘幸せ’の象徴で、彼を通してすべての世界が優に向かって微笑んでくれているような気がしていた。『ない』ことが幸せだったとき、優は何も求めなかった。しかし、『存在(ある)』ことが幸せだと気付いた瞬間、優は失う怖さを知ったのだ。
 
 
 
ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説
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虚空の果ての青 (事件) 22 

虚空の果ての青 第二部

 樹の会社をライバル視している新興企業が、彼の周辺を嗅ぎまわっていた。
 表向きでは企業間のライバル闘争ということになるが、裏で糸を引いているのは、ボスの長兄の配下の者だった。ボスが、後継者をまだ公表していないため、一番出来の良い樹の名が浮上してくるのではないかと、彼ら兄弟はまだ疑っていた。

 正攻法ではどうにもならず、それは次第にスキャンダルのネタや、脅迫のネタ探しへと発展し、大金を使って雇った胡散臭い探偵社は、樹の過去に焦点を当て、カーチャとの関係まで辿り着いた。

 その後、彼女が日本で子どもを産んで、故国へ連れ戻されたことを知ったのだが、肝心の子どもは見つからなかった。当時、捨てられた子どもや、母親が分からない子どもが施設に預けられていないか都内周辺をくまなく探しまわったのだが、該当する子どもの存在はなかったのだ。しかも、それが樹の子であるとの証拠もない。

 しかし、もしも桐嶋へとその捜索の手が伸びたりすれば、どうなるか分からなかった。ただ、彼らが一緒にいた時間が短かったため、二人の関係を知っていた人間がほとんどいない。そして、カーチャが日本を出てからの消息は誰も知らなかった。

 そして、それ以上、海外への捜索に対する費用を、それに見合う真実に辿り着く確信を得られないでいた企業側は、打ち切ることに決め、探偵社もそろそろ諦めて撤退する意向を固めつつあった。

 そんな中、樹が、施設から子どもを引き取り、マクレーンの籍に入れたらしいという情報が入る。
 探偵社ではその情報に色めきたった。
 いったい、その意味するところは?



 資金不足に寄る樹の過去のネタを諦めた彼らは、現在の弱みに的をしぼった。
 つまり、優、だ。

 事件に巻き込まれた優を病院から直接引き取り、養女としてマクレーンの籍に入れた。そして、運転手付きでの通学。その執着ぶりに彼女が樹のアキレス腱だと、確信したらしい。
 相応の情報網を持つマクレーン財団でも、実はその動きを察知していた。鹿島に優の安全確保を進言され、樹は苦笑する。

「そうか。むしろ、優ちゃんは確実に狙われる対象になっちゃったんだなぁ」
「樹さま、そんなことを感心されても仕方ありませんよ」

 優のbirthdayを一緒に過ごし、樹の母、美也子は帰ってしまった。美也子は日本に滞在期間中、関連会社をまわったり要人に会ったりと忙しく過ごし、優ともあまりゆっくり出来なかったが、夕食の席には出来る限り一緒に就き、樹が不在の夜も優と一緒に過ごしてくれた。

 優にとっては初めての温かい‘母親’の存在。その数日間で、すっかり母になついてしまった優は、美也子の帰国をとても寂しがった。樹も週末にしか屋敷に戻らず、広い家で、優は大人に囲まれて一人ぽつんと過ごすしかない。もともとそれほど口数も多くはない彼女だったが、希美子がそばにいれば、僅かでも会話をしていたことを考えると、優の孤独は深いかも知れない。

 しかも、そんな状態で尚、身の安全にも考慮しなければならない。

「鹿島、しばらく、君が優ちゃんのそばにいてくれないかな」
「ですが、彼らの最終的な狙いは樹さまです」
「俺は大丈夫だよ」
「私を雇っているのは、樹さまのお父上です。ボスの承諾なしに、私は任務を離れるわけには参りません」

 会社に向かう途上だった。運転しながら、鹿島は言い、樹も、そうか…と頷いた。それに、鹿島を安易に動かす訳には確かにいかないかも知れない。鹿島の動きは相手も注視しているに違いないのだ。

「私の方で、信頼できるボディガードを手配いたします。財団関係者ではありませんので、むしろ、彼の方が動き易いかと思われます。それから、樹さま、彼の補佐に静寂(しじま)を付けたいと思いますが」
「静寂? あの子はまだ子どもだろう」

 静寂とは、樹が地方の施設で見つけた男の子だった。無口な子だったが、悲惨な生い立ちにも関わらず、素直で済んだ目をしていた。真っ黒な髪の毛と、人の好さそうな丸い顔立ちの柔らかい印象の子だ。イジメグループから助けてくれた樹に憧れ、彼の役に立ちたいと今一生懸命勉強している。まだ20歳になったばかりだ。

「樹さま、そういつまでも子ども扱いは彼が悲しみますよ」

 鹿島はうっすらと笑う。

「静寂は、早く樹さまのおそばでお役に立ちたいんです。これは実は彼からの申し出です」

 鹿島の言葉に樹は呻った。

「いや、ダメだよ、鹿島。補佐とはいえ、ボディガードというのは相応の危険が伴う。まだ彼には早い」
「…では、そのように伝えますが。静寂は、樹さまに頼りにされたいんですよ。あの子は、樹さまに心酔してますから」
「俺は、そんな立派な人間じゃない。あの子には、まっとうな職業に就いて欲しいと思っている。裏の世界で働らかせるにはあの子は心が綺麗過ぎる」

 樹がその施設を訪れる度に、尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄ってくる仔犬のように、静寂はこれ以上ないくらいの幸せそうな顔をして挨拶に来た、当時まだ高校生だった彼。そんな少年の笑顔を思い出して、樹はふっと目を細めた。

 樹がたまたま出張で地方に赴いたとき、彼は学校帰りの道端で同級生に寄ってたかって苛められていた。彼の父親はあるヤクザ関係者に騙されて罪を犯し、大事な友人を死に追いやってしまった。父親は服役し、後悔と絶望のあまり獄中で自殺してしまい、その心労で母親は病死。そんな境遇で施設に暮らしていた彼を、周囲は犯罪者の子だと差別していたのだ。

 無言でその喧騒の中に割って入った樹は、スーツ姿のままあっという間に少年たちを一撃で動けない程度の技をかけ、静寂を救い出した。そして、逃げようとする彼らを並ばせ、座らせ、一人一人に理由を尋ねたのだ。

 イジメに明確な理由などない。しかし、樹はそれを彼ら一人一人に考えさせ、答えるまで解放しなかった。
 それを少年たちがどう解釈し、どう受け留めたのかは分からない。

 しかし、何故、一人を相手に理不尽な暴力を振るうのか。その答えを自らの中に意識するキッカケにはなったのかも知れない。その、‘理由’。渇きの。絶望の。孤独の。

 彼ら自身の‘闇’を探る手段の一環として。

 そして、その後、地方に数日滞在した樹は、その間、静寂を鹿島の運転する財団の高級車で学校へ送迎した。それだけで、静寂へのイジメがなくなったことはもとより、先生方や上級生の態度までも変わってしまう始末だった。

 口数は多くないその子だったが、世の中や世間に対する恨み言を一切口にせず、彼はぽつりぽつりと夢を語った。仕事は世界の歯車の一つで構わない、それでも、誰かの役に立って、必要とされる存在になりたい。そして、普通の暮らしをして、小さな家庭を持ちたいのだと。普通の暮らし。それが叶わなかった少年にとって、温かい家庭は彼の魂に刻まれた憧れなのだろうか。

 ささやかで清い夢だと樹は思った。当たり前の日常が夢なのだと。

「君、高校を卒業したら俺の組織に入って働かないかい?」

 最後にそう言って、校門で見送ってくれた樹に、静寂は感激して即答した。

「はいっ、ありがとうございます!」

 誰かに必要とされること。
 人が生きていく上での‘ひかり’の存在。

 洗練された樹の仕事に向かう姿勢と、武道としての攻撃技などを仕込まれていた樹の喧嘩っぷりに静寂は一目惚れしたのだろうか。強い男の姿に憧れを抱いたのかも知れない。社会的にも、身体的にも、父親が‘負けてしまった’と感じていた彼にとって、樹の姿は希望であり、目標とすべき未来に見えたのだろうか。

「俺に対して抱くそんなのは幻想だ。理想は自らの中に見つけて、到達点は自分で決めるんだよ」

 樹は静寂の真摯な憧れの眼差しに対して、苦笑して言った。

「しっかり勉強して、身体も鍛えろ。待ってるよ」

 そして、静寂は高校を出るとすぐに樹を訪ねて来たのだ。鹿島が身元引受人として住む場所を契約し、彼は今、財団の研修機関で勉強しながら、営業などの見習いとして働いている。

「一度、闇を抱いた者は、本人が望むと望まざるとに関わらず、裏の社会とは縁が切れないものです。静寂はいずれ、樹さまの傍で働きたいと願うようになりますよ」

 鹿島の言葉を複雑な思いで聞きながら、樹は無言で車窓の風景を睨んだ。それは恐らく、鹿島の持論であり、彼の人生そのものを語ったのだろうと思えたのだ。

 そして、思考はふと問題の原点に立ち返った。

 どこの誰であろうと、優ちゃんに手を出すようなことがあれば、どんなえげつない手段を使おうと相手の息の根を止めてやろうと、静かな表情の下で彼は淡々と考える。

 アキレス腱?
 いや、彼女は俺にとって地雷のようなものだ。
 触れたら最後だと、他の異母兄弟への警告として、見せしめとして行使するつもりだった。

 しかし、相手がこれから仕掛けようとしている手段が、樹にも鹿島にも予想できないような巧妙なものだったとは、そのとき、二人には知る由もなかった。



ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説
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虚空の果ての青 (事件) 23 

虚空の果ての青 第二部

 高校生活に大分慣れ、日常は回りだした。希美子と同じクラスになったお陰で、優は、いちいち自分で説明しなくても、彼女が優について皆に話してくれるので、だいたいのクラスメイトは必要以上に彼女に近づいてこなかった。特に、男に対する一種アレルギーのような症状は、知らずに触れた先生の前で倒れてから周知のこととなった。

 話しかけてくれる女の子と少しは話が出来るようになり、過激なスポーツ以外は体育にも参加して、優は少しずつクラスメイトの中に普通に受け入れられるようになっていった。

 教室の隅で一人、本を開いている優の姿が、違和感としてではなく、いつもの風景となりつつあったのだ。

 優は相変わらず勉強はよく出来たので、希美子を初めとして、女の子達が宿題を写しにそばに寄って話しかけたり、珍しい本を貸してくれる子がいたり、表情のほとんどない彼女の感情の動きを、少しずつ理解してくれるようにもなっていた。

 優の高校生活はそれなりに充実していた。
 優の身体が弱いらしいことも、体育についていけない様子や、食の細い様を見ている内に皆理解し、彼女が車での送迎があることも、そんな感じで普通に受け入れられていたようだ。



 そんな中、優に近づく隙を狙っていた探偵社の男が、ある日、鹿島を待って校門前に佇む優が希美子と他愛ない会話を交わしているところに、通りすがりのように近づいた。

 ちょっと離れて優の周囲に警戒しているボディガードに一瞬緊張が走ったが、男はただ優の前を通り過ぎただけのようだった。しかし、彼は気付かれないように、優の制服のポケットに紙切れをすっと押し込んでいたのだ。当の優も、気付かないほど手際良く。

 屋敷に戻り、着替えをして制服を脱いだとき、ポケットから紙切れが覗いていることに気がついた優は、不思議に思ってそれを取り出してみる。

 綺麗に折りたたまれたそれには、汚い文字で、こう書かれてあった。
『Mrマクレーンには、本人もまだ知らない実の娘が存在する』

 一瞬、優は何のことか分からなかった。そして、Mrマクレーンとは、‘樹’のことだと気付いた途端、どくんと心臓が音を立てた。

 実の娘がいる。
 樹に、女の子がいる。

 彼らは、優が樹に引き取られるまでの経過を施設から追い、優が、樹の母親の養女として引き取られたことを知った。そして、優が樹を‘本当の父親のように’慕っていることを、施設関係者から聞いていた。

 それは、むしろ優自身にも自覚されていない思いだった。

 優は、樹を、恋愛の対象というよりはむしろ、保護者のようなものと感じているのだろう。そこに‘恋’は確かに存在していても、雅子や樹の周りに普通にいる多くの女性たちへの嫉妬へは至らない。樹は、優にとって、恐らく、愛してくれる人であると同時に、彼女を保護し、守ってくれる人という意識が強い。

 親の愛をずっとずっと求めてきた優にとって、それは無理のないことだ。
 彼女に必要なのは、男としてよりも、父親或いは兄のような存在としての樹だった。
 樹に…、本当の娘がいる。
 それは、思いのほか彼女の神経をかき乱した。

 何故、そんなことを自分に知らせるのか? という疑問を抱く隙もないほど、強烈に優の自我を翻弄する。

 父親というものが、本来どういうものなのか優には分からない。勲が父親として彼女にしてくれたことよりも、受けた酷い仕打ちの方が未だ彼女を苦しめる。樹の存在は、優にとっては世界のすべてだった。だから、樹を父と呼ぶ娘の存在は、幻想の域を出ないまでも、大いなる脅威となって彼女に迫った。

 樹の母、美也子に会って、優は母と子のその優しい関係をうっとりと味わった。樹と美也子の様子を見て、家族というものの姿を見た気がした。その中に自然に入れてもらった感動を未だ余韻として感じ続けている。そこに、樹が優に対するのと同じように、いや、或いはもっと心を砕く相手が入り込んでくるということは、今、優が受けている愛情も待遇も、その子がすべて奪ってしまうような気がしたのだ。

 樹が、優にだけ向けていた極上の笑顔を、もう二度と見られないかも知れない。

 イヤだ…!
 優は反射的に思った。
 イヤだ、樹が見てくれなくなるのはイヤ!
 身体が震え、優は立っていられなくなった。

 へなへなと足から力が抜け、優はその場に崩れた。同時に、目の前が一瞬薄暗くなる。強烈なショックに寄る貧血状態だった。

 本当の娘。
 樹の血をひく、樹の、子ども。母親にすら見捨てられた自分などより、樹は同じ血を持つ本当の娘を可愛いと感じるだろう。そして、それは樹の母親、美也子だってそうに違いない。

 イヤ! …知られたくない。知らせたくない。樹がそのことを知ったら、樹はその子に会いたがるだろう。きっと、探して会いに行くだろう。そして、優にしてくれるように、いや、それ以上にその子を優しく抱いて、あの、優の大好きな声でその子の名を呼ぶのだろう。

 優に、生まれて初めて芽生えた‘嫉妬’というもの。
 捨てられることへの恐怖。失うことへの痛み。
 優は、その紙切れをびりびりと破いて、ゴミ箱に捨てた。
 そんなこと、イヤだ。
 叫び出しそうだった。

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虚空の果ての青 (事件) 24 

虚空の果ての青 第二部

 金曜日の帰り、まだはっきりと所属を決めかねていたクラブ活動を休んで、優は校門に佇む。
 あれから、優はまったく何も手につかなかった。

 いつ、そのメモを書いた主が樹を訪ねて来るか分からない。樹が‘娘’の存在を知ってしまうのは時間の問題かも知れない。そう思うと優は胸がふさがれるような気がした。

 そして、あれは、いったい誰がどうやって優のポケットに押し込んだ紙なのかが分からない。
 ただ、よく思い出してみると、校門前で男がすぐ目の前を通り過ぎて、優ははっとして一歩引いたことがあった。しかし、その男はそのまま彼女の方を見もせずに通り過ぎていき、優はほっとした。

 あのとき、…だろうか。
 いったい、あの男は誰だったのだろう?

 大抵、鹿島の迎えの車は優が出てくる頃には校門の脇に待機していたので、彼女がそこで待つことはそんなに多くはない。しかし、その日も鹿島は少し遅れているようだった。

 あのときの男は40代も半ば過ぎであろうという風貌だった。しかし、今日はまた別の男が優に近づこうとしていた。今度の男は比較的若く、優は、男の気配に怯えて校門の中へ逃げてしまう。しまった! と彼は思った。視線を感じて周囲をそっと見ると、優のボディガードが、彼を慌てて目をそらすこともなくじっと見つめていた。

 彼は、不意に屈み込んで何かを拾うような様子を見せ、校門を出て来た生徒に何かを話しかける。一瞬驚いたその子は、しかし、すぐに笑顔になって男から何か小さな本のようなものを受け取り、再度、構内へ戻っていった。

 ボディガード―桜木は、どこか訝しそうな表情を浮かべたが、彼の存在を周囲に知られる訳にはいかなかったので、すぐには動けなかった。怪しい男はそのまま歩き去り、桜木もそっと校門から中を盗み見てみたが、優に変わった様子はなかった。

 しかし。探偵社の男がしたことは。
 校門から出て来た女生徒に、「今、ここに立っていた女の子が落としたみたいなんだけど」と小さな文庫本を見せたのだ。それは彼がたまたま持っていた日本歌人の詩集だった。彼らはそういう小道具をいつも身に付けているのだ。それに、彼が書いたメモを挟み、優の手に渡そうとしたのだ。

 女生徒は、その女の子の特徴を聞き、すぐに優だと分かったらしかった。いつも本を読んでいる姿を知っていた彼女は、本を見せられて、確かに彼女なら持っていてもおかしくないと思ってしまった。それで、特に疑いもせず、それを優に届けた。

「はい、これ、落し物だって」
「…え?」
「じゃあね」

 急いでいたのか、彼女は優の返事を待たずに帰ってしまった。優は、受け取ってしまった本に視線を落として考え込む。

 誰かと間違えたのかな?
 やがて、門に鹿島の車が到着し、優はとりあえず、それを持ったまま迎えの車に乗り込んだ。



 部屋に戻って着替えをし、ふと、さきほど渡された本に目がいった。
 日本の歌人。

 なんとなく、興味を惹かれて優は手に取って開いてみる。すると、何かひらりと床に落ちた。それは白い紙。誰かが挟んだ内容に関するメモかと思い、優は何気なくそれを開いてみた。持ち主が分かるかも知れないし、と。

 すると、そこに書いてあったのは。
 明らかにこの間と同じ筆跡で、マクレーン氏の娘が父親を探し、会いたがっている。彼女は裁判を起こすことも厭わない覚悟で、娘と認められ、父親と暮らすことを望んでいる。止めたければ至急連絡を寄越すように、という内容のことが書かれていた。

 明らかに法的根拠も事実確認もない単なる脅しの内容だったが、パニックに陥った優に、そんな判断は出来なかった。

 そこには、電話番号が書かれていた。
 ここに、今すぐ連絡を入れなければ、と彼女は震えながら考える。

 買ってもらったままほとんど使ったことのない携帯電話。優は、初めてそれを使おうと決心した。見知らぬ人間との会話なんて、しかも、筆跡からして男のものである相手に自ら連絡を取るなどという行為を、彼女は生まれて初めて行使しようとしていた。

 樹を失いたくない。彼に知られる前に。彼が帰ってくる前に。
 まるで思考を操られるかのようだった。


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虚空の果ての青 (事件) 25 

虚空の果ての青 第二部

 その日、屋敷までの行程を見守った桜木はいつも通りに帰ろうとしていた。優がセキュリティのしっかりした屋敷内に入ってしまえば、彼の仕事は一旦終了する。また、翌朝までは近所に待機しているだけで良かった。

 塀が張り巡らされているゲートの前で車をUターンさせて、彼はふと建物を見上げてみる。特に何か意図があった訳ではなかったが、建物をすうっと視線の端で捕えてそのまま車を走らせようとした途端、ふと目に入ったものに、彼は違和感を抱いた。

 違和感の原因をもう一度見上げると、いつも、そんな場所で目にしたことのない優の姿が目に入ったのだ。彼女は部屋に戻ると大抵しばらく出て来ない。それが、そのとき、桜木は優を廊下の窓から見たのだ。しかも、着替えもせずに制服のままで。

 遠目でもはっきりと優だと断言出来るほど桜木は視力が良かったことに加えて、この屋敷には、女の子は彼女しかいない。見間違えようはなかった。

 どうしたんだろう? と彼はふと訝しむ。彼のプロとしての勘が微かな警鐘を鳴らしていた。
 桜木は、そのまま屋敷の門から少し離れて道路脇に車を停車させた。

 間もなく、玄関からこっそりと出てくる優の姿が、隙間から見えた。佐伯の姿は近くに見えない。そんな筈はない、と桜木は思う。バッグの中から双眼鏡を取り出して屋敷の周囲を警戒しながら、再度、門へ向かっているらしい優の姿を確認する。彼女が一人で外へ出るなどあり得ないことだった。優は、辺りを警戒しているような素振りはしていない。ただ何かに必死になっているような青ざめて緊張した面持ちだ。

 外側から門に近づく者へは屋敷内にアラームが鳴る設備も、内側から外へ出ようとする者に対してはあまり警戒されずに、優はそうっと、門を出てきてしまった。

 優は門の前で怯えた表情できょろきょろと周囲を見回している。桜木は、中へ戻るように促そうと車を降りて数歩進んだ。そのとき、彼の背後から猛スピードで一台の車が近づいてきた。はっとして彼は振り返り、咄嗟に優に向かって駆け出した。狙いは、彼女、だ。本能的に彼は思った。

「お嬢さんっ…優さんっ! 逃げろっ」

 全速力で走っても、まだ門までは辿り着かない。離れて車を停めたことを後悔する。優は、その声に驚いて彼の方を見たが、何故か、凍りついたようにそのまま動かなかった。桜木の横をすごい勢いで通り抜けた黒いセダンは、優の前で急ブレーキをかけて止まり、後部座席から男が二人飛び出してあっという間に優を両側から押さえ込んだ。

「きゃあああああっ」

 優の悲鳴が聞こえ、そのとき、ようやくそこへ辿り着いた桜木は、車の中へ連れ込まれようとしている彼女をなんとか奪い返そうとした。しかし、男はもう一人いた。助手席から出てきた男は、そこそこ体格の良い大男で、桜木はその男と対峙する羽目になる。

 その間に、優は男二人に押さえつけられて気を失ってしまったようだ。

「お嬢さんっ」 

 殴り合いをしながら桜木は叫ぶ。その頃には騒ぎに気づいた佐伯が、屋敷の中から飛び出してくる。佐伯の姿を見つけて舌打ちをした男は、車の中に押し込んだ優の首筋にナイフを突きつけて桜木を脅し、追いすがろうとする彼をなんとか振り払い、慌てて車に飛び乗って走り去ってしまった。

「佐伯さん、警察に…っ、いや、鹿島さんに連絡をお願いします!!」

 額から血を流しながらも、桜木は、車へと駆け戻る。そして、優に付けてある筈のGPSを追う。車のモニター画面に点滅が進み、彼はそれを睨みつける。いつ、気づかれて捨てられるかも知れない。どこへ向かうのか見極めなければならなかった。案の定、すぐにそれはぷつり、と消されてしまった。優の制服に装着させていたことに気づかれたらしい。

 それでも、あの連中はそれほどやっかいな相手ではない、と桜木は思っていた。プロの暗殺者のような空気はなく、むしろ、素人だった。ただ、後ろで糸を引いている黒幕がやっかいなだけだ。彼らの手の中にある間は、優は少なくとも、命だけは無事だと思われる。何故なら、彼らの仕事は恐らく誘拐まで、だ。それ以上の、殺人などに関わるような度胸はないとみた。

 すぐに鹿島から連絡が入る。車のナンバーから調べを進めたらしい彼から、相手は探偵社の人間である、との情報だった。その探偵社の名前だけで桜木はピンとくるものがあった。以前に関わった事件にもその探偵社が絡んでいたことがあった。なかなかやっかいなヤクザな会社だ。しかし、お陰でどこへ向かうかの目星が付いた。いくつかの関連施設を思い浮かべ、恐らく彼らの所有の古い倉庫辺りであろうと推測する。

「鹿島さん、恐らく、やつらは港内の倉庫へ向かうと思われます。そちらに何人か寄越してもらえますか? それから、念のため、他の関連施設も調べていただけますか?」

 彼は、そう言って脇道に入り込んだ。



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虚空の果ての青 (事件) 26 

虚空の果ての青 第二部

 優は、見ず知らずの男と話すという恐怖よりも、樹を失う恐怖により強く支配され、それほど躊躇わずに書かれていた番号に生まれて初めてダイヤルしてみた。

 すぐに探偵事務所を名乗る相手が電話に出た。優は、何を言っていいのか分からずに「あの…」と言ったきり沈黙する。しかし、相手はすぐに優だと分かったらしかった。言葉巧みに優を脅し、その子に会わせてあげると彼女を屋敷の外へと誘い出した。

 てっきり優は、そこへその子がやって来るのだと思っていた。
 そう、樹に会うために。

 その前に、優は彼女に会わなければならなかった。どうしても。そして、樹を取らないでと、お願いしたかった。それしか、まったく頭にはなかったのだ。

 そして。
 優は、誘導されるままふらふらと外へ出て、近づいてきた車の男たちにいきなり捕らわれたのだ。
 複数の男に押さえつけられ、優は恐怖で意識を失った。樹の名を心で叫びながら。


 
 次に気がついたとき、優は薄暗い埃とカビの匂いが充満する冷たいコンクリートの上だった。両手を後ろに縛られて、口をガムテープのようなものでふさがれていた。

 近くに人の気配がして、彼女はぞっと怯える。

 話し声とイラついた罵声。そして、すぐ背後に明らかに一人、誰かがいた。目を開けても彼女はまったく身動きをしなかったので、意識が戻ったことは気付かれていないようだった。

「いつまで、ここで待機していれば良いんだ?」
「迎えはすぐに来る手はずになってる。そしたら、俺たちの仕事はそこまでだ。このお人形さんをどうするのか、関係ない。とにかく、生かしておけ」
「こんなことして、本当に大丈夫なんだろうな? だいたい、気づかれずに拉致出来る手筈だったんじゃないのか? 顔を見られて、あれだけ騒ぎになってしまった! 調べられたら俺たちのことも分かるじゃないかっ」
「声が大きい。落ち着けよ。…顔を見られたって言っても、正体が知れている訳じゃない。このガキが生きて依頼主の手に渡ればもう証拠は何も残らないんだ」
「人身売買に関わったなんて、…もう終わりだ!」
「俺らが請け負った仕事はここまでだ。やつらがその後どうしようが知ったことじゃないんだよ。俺たちは何も知らなかったんだ。聞かれたって知ったこっちゃないんだ」

 男は繰り返す。知ったことじゃない、とイライラと口にすること自体、優がどうなるのか彼は知っているのだ。優の誘拐を要求してきた組織が、実は樹の身内、マクレーン財団の関係組織だと薄々は気づいていた。しかし、それが分かったときには、もう手を引くことの出来ない渦中に関わってしまっていた。日本ではまっとうな企業でしかないその親財団は実はマフィアの表の顔だと知ったときには震えが走った。この子がマフィアの手に渡るということは。その後、樹がどれだけ優の行方を追っても、たとえ、発見出来たとしても、そのときにはこの子はもう生きてはいまい、と男たちは思う。

 商品として使えなくなればゴミのように捨てられて、どこかの廃屋で、道端でその短い生涯を閉じることになるだろう。

 彼らの目的は、樹に対する最大限の精神的ダメージを与えることらしい。もはや、取り引き、という段階ではないのだ。そんな風に急がざるを得ない事態が何か、彼らには起こっているのだろうが、そこまでは関知したくはなかった。

 早々にこの件からは手を引きたかった。
 ひそひそ交わされる不穏な会話に、いったい、ここはどこだろう? と優は思う。
 この男たちは誰で、自分をどうしようというのか?

 息苦しかった。不用意な口のふさがれ方で、優の身体は酸欠に喘いでいた。次第に頭がぼうっとなってくる。
 いつき。
 優は、ただ、彼の名を想う。
 いつき…、いつき…。
 その名の響きがともすれば消え入りそうな優の心を支えていた。

 こんなことになったのは、何よりも自分の浅はかさが原因だと、優にも分かっていた。どうして、もっとしっかり確かめなかったのだろう? 世間知らずの自分が、勝手に動いてどうにかなる筈など、なかったのだ。

 このまま、樹に会えなくなるかもしれない、という思いに、優は初めて事態を把握する。
 男に身体を好きにされることよりも、暴力を受けることよりも、優は、樹にもう会えないかもしれないという恐怖に身体がすうっと冷えていく。

 彼が、誰を愛していても良い。
 もしかして、もう抱きしめてくれなくても良い。
 見ていたい。
 そばにいて、その笑顔を見ていたい。
 たとえ、それが自分に向けられたものでなくても。
 次第に朦朧となる意識の中で、優はただ願った。

 そのとき、不意に遠くで何か轟音がする。男たちに緊張が走り、優の背後にいた男が、彼女の身体をぐいっと抱え上げた。

 その乱暴な、まるでモノを抱えるような腕の感触に、優は呻き声をあげ、男は優の意識が戻っていたことを知る。男は彼女の首を掴んで低い声で命令する。

「声を出すな。大人しくしていろ」

 聞いたことのない声だった。電話の相手ではない。

 その固い大きな指の感触に、優は気を失いそうになる。それを必死で押し留めて、彼女はもがくのをやめ、体力を温存する。

 すぐに大きな音がして、光が一面を満たした。空気が動き、人の叫び声のようなものが喧騒と共に起こり、優は眩しさに目がくらみながらもどこかの扉が開けられたことを知る。鹿島の配下が数人、表から突入したところだった。

「近づくな! こいつを殺すぞ!」

 優を抱えている男が、優の首にナイフを突きつける。苦しくて頭がぼんやりとしている上に、乱暴に揺すぶられて優は意識が危うくなっていた。

 ぐったりと男の腕に抱えられている優は、蒼白な顔色で、死んだように動かない。

 車に乗っていた3人がそのままそこにいた。それを確認し、桜木は、取引相手らしき一団がこちらに向かっているとの情報を得て、その前になんとか優を奪い返そうとしていた。まだ、人質を死なせる訳には決していかないだろうことに賭けていたのだ。

 鹿島の部下が、じりじりと男たちと間合いを詰めている。それを裏の窓から覗き見ながら、桜木は優の命の危機を感じる。身体が丈夫ではない、と聞いていた。そして、極度の男性アレルギー。こんな状況に耐えうる体力を彼女は持っていないに違いない。

 前方の数人にすべての注意を向けている男たちの背後の窓を叩き割り、桜木は中へ飛び込んだ。

 その音に驚いて、優を抱えていた男が振り返り、他の二人の注意もそれた。その一瞬を見逃さず、鹿島の部下数名は一斉に誘拐犯に飛び掛り、他の二人を押さえつけた。優を抱えていた男は慌てて優を連れ去ろうと走り出す。桜木は胸ポケットから取り出したナイフを躊躇いもなく男の背中へ放った。切っ先の鋭いそれは、場所を誤れば致命傷にもなりかねなかったが、幸い、それは彼の肩に突き刺さり、優を抱えていた腕の力が緩んだ。呻き声を上げてスピードを落とした男に追いつき、彼は振り返って優を盾にしようとした男の喉元にもう一本のナイフを押し当てた。そして、男の腕から優を奪い返し、その横っ面を殴り飛ばす。

「さっきのお礼だ」

 殴られて吹っ飛んだ男を見下ろして桜木はにやりと笑い、優の口を塞いでいたテープを丁寧に外し、縄を切る。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 桜木の声を、優は深い闇の底で、遠く聞いたような気がした。
 

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虚空の果ての青 (‘娘’) 27 

虚空の果ての青 第二部

 病院で意識を取り戻した優は、はっと目を開いた瞬間、自分がどこにいるのか分からなくて、悲鳴をあげそうになった。慌てて口を押さえて、彼女は男たちがいないかと辺りを見回す。そして腕に刺さっている針とつながれた管が目に入る。

 他には誰もいない白い病室。

 ゆっくりと点滴の管の雫の伝わる様を見上げ、見慣れたその光景にようやく優は助かったのだと知った。誰かの声を聞いた。知らない声だったのに、何故かそのとき優はほっとしたことを覚えている。

 辺りを見回し、彼女は掠れた声をあげた。

「いつき?」

 そして、思い出した。
 問題は何も解決していないということを。

 いつきの…本当の、娘。自分とは違う。樹が無条件で愛する相手。たとえ何があっても彼が見捨てたりしない相手。

 彼女の存在が重くのしかかる。
 私はその子に会えなかった。いや、もともと会わせてくれる気などなかったのだろう。

 その子に会って、自分のことを追い出さないで欲しいと、その子の片隅にでも良いから、樹を見ていられる場所に置いて欲しいとお願いするつもりだった。

 以前、こうやって病院に搬送されて目覚めたとき、樹はそばにいてくれた。なのに、今日は目覚めても尚彼女は一人ぽっちだった。

 きっと、樹はもうその子に会ったのだろう。きっと、その子を抱きしめてあの、低く甘い声で、その子の名を呼んだのだろう。かつて、優にそうしてくれていたように。

 もう、ここには来てくれないのかも知れない。
 今まで彼女を愛してくれたようには、もう、必要としてはくれないのかも知れない。
 優の頬には知らずに涙が伝った。

 もう、これで「さよなら」だと、言われるのかも知れない。もう、樹が愛する人は見つかったから。
 それなら、もう…。



 優は、ゆっくりとだるい身体を起こし、自分の腕を見つめる。そして、おもむろに腕の点滴の針を引き抜く。
 点滴の液が床に零れ落ち、腕の血管から血がにじんだ。
 涙がぽたりと毛布に落ちる。視界が涙でぼやけ、優は初めて自分が泣いていたことを知った。

 優は、どんなに酷い目に遭わされても、どんなに苦しくても、泣いたことはなかった。痛みに耐えられずに零す涙と違う。悲しい、という感情が湧かなかった。それなのに、樹に出会ってから、優は泣くことを覚えた。嬉しいことと共に、悲しいことを覚えたのだ。

 不意に扉が開いて、看護師が入ってきた。そして、ベッドの上で茫然と涙を流している優の、その腕から血が流れ落ち、点滴の針が外れていることを知って、彼女はぎょっとする。

「優さん? ど…どうされました? どうしたんですか?」

 そこそこベテランの看護師だった彼女は、慌てずにゆっくりと優をベッドに横たえ、彼女の腕の止血をする。取り乱して暴れたりはせず、優はされるがまま、ただぽろぽろと涙を流し続けていた。

 もう、会えない?
 もう、見てくれない?
 イヤだ、いつき。
 それが最後でも…。
 …最後にもう一度だけ、会いたい。

「こんなことをして、自分を傷つけてはダメですよ。良いですか、もう大丈夫ですよ。どこか苦しいところがありますか?」

 静かに話しかける彼女の声は、優には届いていなかった。ただ、いつき、いつき…と泣きながら繰り返し呟くだけだ。

「ついさっき、ご連絡をいただきましたから、すぐにいらっしゃいますよ」

 優の傷ついた弱々しい様子に少し憐れみを感じてしまい、彼女は優しくそう教えてくれる。
 点滴をセットし直し、再びとろとろと眠りに落ちたらしい優の幼い顔を見下ろして、看護師はほっと息を吐く。

 優が攫われたと鹿島から連絡を受け、会議中だった樹は思わず立ち上がりかけた。しかし、動く訳にはいかない重要な議題を抜け出すことは出来ず、鹿島と桜木を信じて任せるしかなかった。

 彼が進めるプロジェクトのプレゼンテーションだったその会議は、樹の焦燥を他所に順調に進み、ほどなく、会議が終わる前に優を無事に救出したと知らせが届く。

 全身から力が抜けるほど、樹は安堵した。
 そして、次の瞬間には激しい怒りが彼を支配した。


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虚空の果ての青 (‘娘’) 28 

虚空の果ての青 第二部

「点滴の針を?」

 ふと、樹の声が近くで聞こえ、優ははっと目を開ける。すとん、と意識は途切れ、いつの間にか眠っていたようだ。

「申し訳ありません。ほんのしばらく目を離した隙でした。ですが、だからと言って特に問題はありませんので…」

 叱らないでやってください、と言いたげに、看護師は樹を見つめた。

 黒いスーツ姿の樹の背中がすぐ近くに見えた。
 いつき、と叫ぼうとして、優は彼の空気に息を呑んだ。

 看護師が出て行き、樹はひとつ息をついて振り返った。その瞳に浮かぶ暗い光に優は彼が怒っていることを知る。

「優ちゃん」

 優が目を開けて怯えた顔で彼を見上げているのに、気づいて、樹はベッドに近づいた。

「…い、いつき…」

 彼のオーラが明らかに怒りを含んでいる。優に対して彼が今まで怒りの感情を露わにしたことはなかった。優は、何も考えられないくらい怯えて泣きそうになった。

 鹿島と桜木からの報告に寄ると、優は自ら屋敷の外に出て、捕まったのだという。もしも、そのとき桜木が何も気づかずに帰っていたら、彼女は今頃、ここにこうしてはいられなかったのだ。何故、自ら捕まるようなことになったのか、彼にはまったく見当もつかなかった。

「とにかく、無事で良かったよ」

 でも―、と樹は優の頭をそっと撫でる。その手にすがりつきたいのに、優は彼の声色に身がすくんで動けない。

「何をやってるの? 君は」

 呆れたような、しかし、低い怒りの声に、優はびくりと身を縮める。

「ご、ごめんなさい」
「どうして」

 言い掛けて、樹は一旦大きく息を吸い込んだ。怒鳴られるのかと思って、優はぎゅっと目を閉じる。知らずに身体が震えた。

 それでも、怒ってくれるの? 心配してくれるの?
 樹は、まだ‘彼女’に会ってないの?

 不意に空気の動く気配がして彼女は恐怖に固まる。殴られるのかと、思った。
 しかし、次の瞬間、彼の大きな温かい手がそっと優の頬を包み、優の顔にかかる髪をかきあげた。

「どうして、こんなことになったのさ?」

 静かに息を吐き出しながら、彼は言った。それは既にため息に近かった。

 そして、優は知った。樹の関心がまだ自分にあることを。喜びと同時に激しい後悔の念が、不意に湧き起こってくる。ああ、きっと彼女が攫われたことで、どれだけ樹に迷惑が掛かったのか。どれだけ多くの人が動いてくれたのか。最後に聞いたあの声の主も、彼女を救うために必死になってくれたのだ。

「ごめんなさい。…ごめんなさい」

 優は、震えながら謝り続けた。

「優ちゃん、質問にはきちんと答えなさい。一体、何があった? どうして一人で外に出たりした?」

 優は目をぎゅっと閉じたまま、首を振り続けるだけだった。

 ああ、まだ樹は娘の存在を知らないのだ、と優は思った。
 知られたくなかった。
 そして、何より、自らの浅ましい思いを、悟られたくなかった。

 初めて、優は嫉妬したのだ。初めて、誰かの存在に怯え、疎ましく思いそうになった。その黒い感情に優自身が怯えた。

「優ちゃん、どうしたの? 答えなさい」

 樹の声のトーンがすっと下がり、優はびくりと身体が震えた。息が苦しくなってくる。
 嫌われたくない。
 樹に嫌われて、もう要らないと見捨てられたら、自分は行く場所などないと、優には分かっていた。

「ご…」
「ごめんなさい、はもう良いよ。ちゃんと俺の目を見て」

 樹の声は、ぞっとするほど冷たく感じた。優は泣きそうになりながらそうっと目を開ける。目の前に迫る彼の目は、まだ冷たい。心配のあまり、その裏返しの怒りであることなど、優には分からなかった。

「優ちゃん、君、携帯電話を使ったね? あれは誰の番号?」

 発信履歴が残ることなど優は知らなかったが、それでも特に疑問を抱かずに、優は小さな声で答える。

「…本に、挟んであって」
「本?」

 優は、同級生が、落し物だと届けてくれた本に紙が挟んであったことを話す。

「それは、君の本ではなかった?」

 優は頷く。

「じゃあ、何故、君のものだとその子は思ったんだ?」

 優は小さく首を振る。

「…分かった。それにしても、何故、連絡を取る必要なんてあったのさ?」

 優は唇を噛み締めた。ああ、その質問をずっと恐れていたのだ。樹の視線は真っ直ぐ彼女を捕えていて、優が目をそらすことを許さない。

「何が、書いてあったの? 電話番号の他に?」

 言いよどむ優を、樹は黙って見つめる。
 嘘をつくことを知らない優は、言葉を紡ぐことが出来ずに許しを乞う視線を樹に投げかける。

「何?」

 たたみ掛けるように、樹は鋭い視線で先を促す。

 今回のことで、樹は陰に潜む異母兄弟の陰謀的なものに確信を抱いたものの、証拠を掴むまでには至らなかった。探偵社は深いことは何も知らなかったし、取引相手は、待ち伏せに気づいて逃げ去ってしまっていた。どこから情報が漏れたのか。その苛立ちと、もう、優が巻き込まれる事件はこりごりだと震えた時間を思うと、樹はどうしても憤りを抑えきれなかった。

 特に、今回は、相手が無理やり優を拉致したのではなく、彼女が無防備に自分から守りの外へ出て行ってしまったことに寄って引き起こされた結果だった。桜木の機転で大事に至らなかったに過ぎない。しかし、そもそもの優を誘い出すに至った原因を知らないことには、同じことがまた起こらないとは限らなかった。

「優ちゃん?」

 樹の声は冷たく、いつもの優しい響きがまったく感じられなかった。ここで強情を張っていたら、もう、良いよ、と言われかねないと優は本気で怯えた。

「い、いつきの…」

 優の目からは涙が一滴零れ落ちた。
 これを言ったら、お仕舞いだと優は思った。

 もう、樹は私を見てくれなくなる。きっと、だったらもう要らないと言い渡されるに違いない。だけど、それでも、答えない訳にはもういかなかった。

「いつきの…本当の子どもがいる、って。その子が、いつきに会いたいって…」

 優は零れ落ちる涙に視界がぼやけ、泣きながら瞳を閉じた。

「今、出てきたら…その子に会わせてあげるから、って言われて」

 樹は一瞬、茫然、とする。

「な…んだって?」
「その子に会って…、お願いしたかったの。私を追い出さないで、って。ここに置いて、って…。ご、ごめんなさい、ごめんなさい、いつき。…ごめんなさい」

 優は樹の低い声色に、悲鳴のように謝る。
 捨てないで、と優は全身で訴え続けていた。

 その子の邪魔はしないから。ただ、樹が見える場所に置いて欲しい、と。

 樹は、その予想外の言葉にしばし絶句し、その意味することがしっかりと理解できるまでしばらくの時間を要した。そして、ようやく一つ息をついて身体を起こす。

 優は、泣きながらまだ謝り続けている。
 なんてことだ。

 樹は、あまりの動揺に言葉を失っていた。額にかかる前髪を無造作にかきあげ、落ち着こうと大きく息を吐き出す。そして、視線を戻すと、泣きながら小さく震えている優を改めて見つめる。

 何がどうなって、そんな話になったのか。
 そして、それを優がどんな風に受け取り、怯えていたのか。

 言わずに済まそうとしていた結果が、むしろ、問題をこじれさせ、大きくしてしまったのだ、と茫然とするしかなかった。

 この子にとって、俺の娘の存在など、何故…
 優が何より求めているものが、‘親’という存在なのだと、樹にも、そして、優自身にも理解されていないことだった。

 迂闊だった。
 そして。
 いずれ、変な形で知れるよりも、言っておくべきことかも知れない、と樹はため息とともに覚悟を決めた。

 彼女自身に、背徳の罪を共に背負わせることを。

「…探偵社ともあろうところが、なんて中途半端な情報を仕入れたのかね」

 苦笑と共に、樹はそっと優の背に腕をまわす。優は抱き上げてそっと抱きしめてくれた樹の胸に夢中ですがりついた。必死に、ただ、引き離されることを心底怯えるように。

「優ちゃん、確かに俺にはこの世でたった一人、娘がいるよ」

 ぴくり、と優の身体がその言葉に反応する。
 樹は優の耳元にささやくような声で話し始める。

「昔、知り合った留学生と、俺は恋に落ちた。16年以上前のことだ。栗色の髪と白い肌をした、北欧の女性だった。だけど、俺は彼女と知り合って間もなく、日本を後にした。…と言ってもほんの一年、父親の国に暮らしただけだったんだが」

 優は樹の声を、怯えながらも、ただ全身で聞いていた。

「その、俺が日本にいなかった僅かの間に、彼女は俺の子どもを日本で生んでくれた。…女の子だった。だけど、彼女はその後、慣れない異国での暮らしに身体を壊してしまった。彼女の両親が迎えに来て、彼女は赤ん坊を日本に残したまま故郷へ帰らなければならなくなった。…そして、残された子を育ててくれたのが、桐嶋勲という青年だったんだよ」

 そこまで黙って聞いていた優は、桐嶋の名前に、初めて身じろぎをした。
 そして、一瞬の後、…え?という表情で泣きはらした顔を上げた。

「桐嶋…勲?」

 樹は放心したように、ぽかん、と自分を見上げた優に頷いた。

「そうだよ、優ちゃん。…君だよ」

 

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虚空の果ての青 (‘娘’) 29 

虚空の果ての青 第二部

「バカだね、優ちゃん。俺に娘がいようがいまいが、君は、俺の奥さんなんだよ」

 一日入院しただけで、特に目立った外傷もなかった優は退院となった。
 その夜、屋敷に泊まった樹は、虚ろなまま必死に彼にすがりつこうと腕を伸ばす優の身体を組み敷いたまま、不敵に笑う。

「い…いつき…いつき」

 不安で、抱きしめて欲しくて、優は必死に意識を保とうと名を呼ぶ。

「良いかい、優ちゃん? もう二度と俺に黙って勝手なことをしないこと。分かった?」

 何を言われているのか、もう、優には分からない。必死に小さく首を振り続ける。抱いて欲しいと、抱きしめて欲しいと彼の腕にしがみつく。

「優ちゃん? 聞いてる?」

 ふわりとその髪を撫でて耳元にささやくと、優は夢中で樹の肩に手をまわしてすがりつこうとする。

「いつき…いつき」
「聞いてるの?」

 分からない。だけど、優は、ただ必死にこくこくと頷いた。くすりと樹は笑う。

「まぁ、良いか。今回は許してあげるよ」

 ぎゅっとその細い背中を抱き寄せると、優は全身に感じる肌の熱さにようやく安心する。母親の懐に抱かれたように。ここにいれば安心だという居場所を得たように。

 すでに意識が危うかった優は、その途端、ことん、と電気が切れたように眠りに落ちていく。甘い、深い、まどろみの闇へ。



 樹と血がつながっている、という事実。あれほど焦がれた‘親’の存在。母が、去った本当の理由。そして、怯えていた‘樹の娘’の影が霧散して、優は何よりそれに安堵した。

 父と娘という関係。それが、倫理的にも道徳的にも許されざる関係だという現実を、だけど優は頭では理解しても、そこに何か否定的なものを見出すことはなかった。

 優にとって、法律など意味のないことだったし、閉じられた彼女の世界に、樹以外の人間は存在していないに等しい。他の誰かが何を思おうが、全世界がそれを間違いだと叫ぼうが、優の心には何も届くことはなかったのだ。

 しかし、それを世間に知られることは、樹の立場としてはとてもマズイことになる、ということも同時に理解していた。桐嶋と優が引き離されたように、もしも、この事実が世間に知られることとなれば、樹とも引き離されてしまうだろう、と。

 それは彼女にとって、‘死’と等しいことだ。
 決して口外してはならない。

 そして、だからこそ、樹は優に告げなかったのだと知った。真実を知る人間は少なければ少ない方が良いのだから。

 樹が何も言わなくても、優は、それをすとんと心に刻み込んだ。

 時間の経過と共に、そして優はそれを忘れてしまえると思った。聞かなかったこと、知らなかったことにまでリセット出来る、と。優には、そういう切り替えのような、意識的な心のコントロールのような機構が備わっていた。それは、生きるために本能が与えてくれたもの。

 生きて、生き続けていくための。



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