その後、柊はアオイのことはが気になって何度かそこを通りかかった。彼女は、大抵同じ時間に客引きをして、そこにいた。そして、何度訪れてみても、彼女のどこか清い印象は変わらなかった。日本語があまり堪能でない彼女から詳しい話は聞きだせなかったが、アオイは、故郷で待っている弟や妹に仕送りをするために働いているらしかった。
こんな仕事に慣れてしまえず、段々ボロボロになっていく彼女の精神状態が心配だった。次第に虚ろな瞳をするようになり、いつも嬉しそうに駆け寄ってきていた彼女が、彼を見ても、もうあまり反応しなくなっていった。そして、冬の終わりに出会った彼女は、春の半ばになって不意に姿を見かけなくなった。
お金が貯まって国に帰ったんだろうか?と思い、彼女がいた店を訪ねて聞いてみた。
「あの、・・・アオイは?」
「アオイ?・・・ああ、あの子ね。今、ちょっと休んでるんだよ。ああいう子が好み?他にも沢山いるよ?」
「いや、俺は彼女に会いたいんですけど・・・、会えませんか?」
声だけの受け付けの相手は、少し怪訝そうだった。
「なんで?・・・あんた、アオイのこと・・・」
「いえ、客でした。それだけです。」
相手は、少し考え込んでいた。
「あんた、アオイの一人目?」
「は?」
「アオイが連れてきた初めての客だった人かい?」
「・・・彼女は、そう言ってましたが。」
相手は、何かを考えているようだった。そして、ため息をつくように、言葉を吐き出した。
「今、体調を崩してるんだ。会っても、仕事は出来ないよ?」
「いや、心配で会いたいだけですから。」
「・・・裏で待っててくれる?」
正直、会わせてくれるとは考えていなかった。こういう商売の元締めは大抵、働く女性を人間扱いしていない。柊は驚いて、そして少し訝しんだ。それでも、彼女に辿り着く方法が他にないのだから仕方がない。彼は、店の裏の暗がりで待った。
すると、ほどなく若い男が現れ、目で付いて来いと合図をすると、無言で柊を更に奥へと案内する。古びたアパートが立ち並び、その一階の一室にその男は向かった。そして、扉を開けるとそのまま去っていく。
柊は、恐る恐るそこを覗き込んだ。
かび臭い匂いと、更に何か異臭が漂い、薄暗いそこには人の気配がまるでしなかった。
「アオイちゃん・・・?」
柊は呼びかけながらそっと玄関を上がった。手探りで電気をつけようとスイッチを探ったが、見つからない。床には物が散乱しているようだ。いろんな物を蹴飛ばしたり踏みつけてしまってぎょっとしたりしながらそろそろと奥へ進む。
薄明かりが漏れている窓まで進んで、おざなりに垂れ下がっているカーテンらしき布を寄せて、外からの明かりを入れると、ようやく部屋の中が少し見えてきた。
散らかったゴミの中に薄い布団が敷かれて、そこに誰かが横たわっていた。
柊は思わず駆け寄る。
「アオイちゃんっ?」
ぐったりと死んだように横たわっていたのは、間違いなくアオイだった。痩せて、ますます細く小さくなって、呼吸の音ですらあまりに微かで分からない。
「どうしたんだい?どこが具合悪いの?」
そっとその額に触れると、幾分熱いような気がする。
「アオイちゃん?大丈夫かい?」
その顔を覗き込んで何度も呼びかけると、ようやく彼女はうっすらと目を開けた。だけど、焦点の合わないその瞳には、もう何も写っていないようだった。柊はそっとその身体を抱き起こす。
その刺激に、ようやく彼女は意識がはっきりしたようだ。
「だれ・・・?」
唇がそう動いた。
「俺、覚えてない?ごめん、名前も名乗ってなかったけど・・・。」
アオイは、その声に微かに微笑んだ。
「会いたかった・・・。」
「・・・え?」
「会いた・・・かった・・・。」
アオイの手が、ゆっくりと持ち上げられ、自分を抱いている柊の腕に触れた。細い、冷たい手だった。
柊は、彼女の目が自分を見ていないことに気付いた。アオイは、亡くなった恋人が迎えに来たと思っているのだろうか。
いや、それとも・・・。
彼女の目は、もう見えていないのかもしれない。
つうっと、その頬に涙が伝う。
「ありが・・・とう・・・。」
アオイはそう呟いて目を閉じる。
「アオイちゃんっ?・・・どこか苦しいの?どこか痛むのかい?」
彼女はもう目を開けなかった。規則正しい微かな呼吸音が繰り返され、次第にその身体から力が抜け落ちていくことが分かった。彼女の手が、ぱたりと落ちる。
「アオイちゃんっ!」
柊は叫ぶ。身体をゆさぶる。しかし、アオイの身体からはどんどんエネルギーが漏れ出してでもいるかのように生気の類がしぼんでいくのが分かった。
ぞっとした。
妹の最後を看取った彼には分かった。
アオイは、今、逝こうとしているのだ。
こうなったら、もう、誰にも止められない。魂はこの世の仮の宿を離れる準備を始めてしまった。生まれる前に描いた青図の通りに。その、‘生’への契約をまっとうして旅立つのだ。
妹の冷たくなっていく手を握り締めていた、ぞっとするような孤独の夜を思い出した。
あの悪夢を再び味わうことになろうとは・・・。
冷たくなっていくアオイの身体を抱きしめたまま、柊はどのくらいそこにそうしていたのだろうか。
ふと気付くと誰かが背後に立っていた。
「・・・悪かったな。」
声が、受け付けの男のものだった。柊は振り返らなかった。
「アオイは、ずっとあんたに会いたがっていたんだ。・・・もう助からないと分かって、アオイは帰国しないことを決めた。このままここで行方不明になった方が・・・家族にとって良いと思ったんだろう。・・・ここのところ、ものすごく弱ってきて、もうすぐ逝くと分かってた。最後に、あんたに会わせてやりたかったんだ・・・。」
「助からない・・・って、どういうことだったんだ?」
呻くような苛立ちの混じった声で、柊は聞く。
「医者に診せたときには、もう、末期の癌だった。アオイは、日本に来る前からもうすでに癌に侵されていたらしい。」
「なんで・・・」
「金が必要だったんだろうよ。」
柊は唇を噛み締める。
「あとは、こっちで始末をする。あんたは、もう帰った方が良い。」
「・・・夜が明けるまでいさせてくれ。」
柊は言った。
「せめて、朝の光が・・・アオイの魂を導いてくれるまで。」
「ああ。」
男は、そうため息をつくように呻いて去っていく。
柊は、そっとアオイの身体を布団に横たえた。心にぽっかりと穴が空いたようだった。その空洞の闇があまりに深くて、涙も出なかった。
「・・・恋人が、迎えに来てくれたかい?」
乱れた髪を直しながら、柊は語りかける。
「そこに俺の妹もいるかな?・・・きっと、君と良い友達になれると思うんだ。俺はなんとか元気に暮らしているって伝えてくれるかな・・・?」
衣服を直し、薄い毛布を掛けてやりながら、柊は微笑みかけた。
「・・・これで、君も、長い苦しみから解放されたのかい?」
ただ、苦しんで死んでいった妹の顔が浮かんだ。苦痛に歪んだ表情が、涙を浮かべて自分に救いを求める切ない瞳が。そして、何もしてやれなかった悔しさが、鮮明に蘇ってくる。
忘れてはいけないと、言われているような気がした。
恨みを?憎しみを?
遅い夜明けと共に、柊はそこを後にした。
最後に振り返ってビルの隙間に建つそのボロアパートを見つめたとき、ゆらゆらと立ち上る陽炎のような光が見える気がした。