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月の軌跡(R-18)

月の軌跡 (序章) 1 

月の軌跡(R-18)

年齢指定作品です。
<※:R-18>

※レイプシーンがあります。苦手な方は閲覧ご遠慮ください。
※万人にご理解いただける世界ではありません。






‘孤独’とは何なのか。
‘愛’とは何なのか。

 何一つ、彼女は知らなかった。世界とは、窓枠の中から覗き見る額縁のついた風景で、そこには映像と同じように匂いも手触りもないもので。

 生々しく人々が生きて、泣いて、怒って、死んでいくことも知らなかった。
 人々が、生きている、という実感も彼女にはなかったかも知れない。

 生まれたときから彼女には一人になる時間がそれほどなく、周りには常に使用人がいて世話を焼いてくれる。訪ねて来る人々は彼女の父親の威光を目当てに、娘である彼女にもバカみたいに丁寧なお世辞を並べる。心というものを置き去りに、彼女は育てられてきた。

 寂しさを感じても、その意味が分からなかった。
 寂しいと心が悲鳴をあげていることにすら、彼女は気付かなかった。
ジャンル:[小説・文学] テーマ:[現代小説
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月の軌跡 (罪の在処) 2 

月の軌跡(R-18)

 澪は、その日、友人と買い物に出かける予定で白川の運転する車から降りて待ち合わせ場所に向かった。
 夏の終わりのまだ日中は気温がかなり上がる季節だ。

 ブランド物の小さなバッグを抱え、日焼け防止のために洒落たつばのついた帽子をかぶっている。彼女はいわゆるお金持ち階級のお嬢さんだ。

 澪は、気位こそそれほど高くはないが、やはり一般常識から少しズレた感覚を持っている。幼い頃から使用人にちやほやされて育ってきた人間特有の、‘身分’意識があった。使用人たちと自分たち家族とは違うのだ、という悪気のない意識だ。通う学校も、同じ種類の生徒が集う私立の小中高一貫性の学校で、一般の人々との接点があまりなかったせいもあるだろう。

 そかし、それは厳密には彼女の罪とは言えない。疑うことも知らず、そう育てられてきたのだ。そして、それが悲劇の発端となったのかというと、必ずしもそうではなかった。

 そのとき、彼女は待ち合わせ時間は間違えていなかったが、場所を勘違いしていた。

 銀座の高級ブティックの脇の喫茶店で、と数人のやはり運転手つきのご令嬢の友人たちと打ち合わせていた、つもりだった。しかし、ほんのちょっとの言葉の行き違い、のようなもの。脇、と言われたら隣辺りを連想する。澪も、だから、ブティックの隣の喫茶店を目指した。しかし、脇、ではなかったのだ。

 彼女たちが指定したのは、向かい、の洒落た喫茶店だった。

 それをほんの少し勘違いした澪は、ブティックのすぐ隣には喫茶店を見つけられず、少し歩いてちょっとアンティークな喫茶店に入っていく。

 カラン、と扉に付けられていたベルが鳴り、薄暗い店内に多少違和感を抱いたものの、すぐに皆やって来るだろう、と彼女は少し警戒しながらも奥へ進む。

 店内には、数人の客がカウンター席にいて、それぞれ黙してコーヒーをすすっていた。一人は40代半ばくらいの芸術家風の目の鋭い男。少しよれたスーツを着て、手に持った雑誌を熱心に眺めている。澪が彼の背後を通り抜けても一切関心を示さない。一人はOL風の濃紺の短いワンピースを着た比較的若い女性。彼女は携帯電話を片手にタバコを吸いながら、濃いコーヒーをブラックで飲んでいる。そして、一番奥の男性は、年齢不詳の暗い瞳をした、それでもサラリーマンらしくスーツを着ていた。彼は、澪の姿を見て、僅かに眉を寄せたが、彼女はそれには気付かない。

 澪は、窓際に並ぶテーブル席の窓側に腰掛け、水を運んだマスターに紅茶を注文した。

 マスターは丁寧に紅茶の葉を蒸して、ポットに入れる。そして、それをカウンターに出して、ふと後ろを向いて温めていたカップを取り出す。その一瞬の隙に、奥にいた男は立ちあがって何かを拾う動作をし、素早く、そしてさり気なく紅茶のポットに何かを入れた。

 タバコを吸っていた女性は、携帯電話を閉じると、ごちそうさま、と代金をカウンターに置いて出て行く。芸術家風の男は、ぱらりぱらりと雑誌のページをめくることに忙しい。

 マスターは、注文の品を準備すると、澪のテーブルへそれを運んでいく。

「ありがとう。」

 と澪は微笑み、マスターは、カップに一杯目の紅茶を注いでテーブルを離れる。
 澪は、喫茶店の壁に掛かっている時計をちらりと見て、カップに口をつけた。

 みんな、遅いわね、と澪は思う。そろそろ約束の時間だ。だいたい、皆、時間には正確な方だ。誰もまだ現れないなんておかしい。
 ここの時計が早いのかしら?

 澪は、袖口を少しあげて自分の腕時計を見てみる。
 ほとんど、時間は違わない。何か、あったのかしら?それにしても、5人全員なんてあり得ない・・・。

 澪はもう一口、紅茶を口にする。上品な葉の香りに誘われ、澪は更にカップを傾ける。カップの紅茶を半分ほど飲み、もしかして、待ち合わせ場所を間違えたのでは?と初めて彼女は思う。

 立ち上がりかけて、せめてカップの紅茶は飲み干そう、と澪は残りをすうっと喉に流し込む。そして、マスターに、おいくらですか?と尋ねる。彼が金額を答えると、澪はさっきの女性がそうしたように、ぴったりの金額をテーブルに置いて立ち上がった。

 その瞬間、不意に、視界がくらりと揺れた気がした。
 立ちくらみ・・・?

 澪はちょっと息をついて、少し治まったような気がして、そのまま歩き出す。そして、店の扉を開けて外へ出た。奥にいた男が、やはり勘定を済ませてその後を追うように店を出てきた。

 澪は、店の外に出た途端、その明るさに、一瞬視界が真っ暗になった。
 どうしたんだろう・・・?

 澪は慌てたが、もはや身体は言うことを聞かず、足から力が抜け、ぐらりと倒れかかる。それを背後で男がさも当然のように抱きとめていた。そのまま、澪の意識は薄れていく。

 男は、初めから澪の連れのような顔をして、彼女の肩を支えながら裏通りへと歩を進め、途中で、遂に動けなくなった彼女の身体を軽々と抱き上げる。

 そして、裏通りへ抜けるとタクシーを捕まえた。

 行き先を告げる男の声を、微かに残った意識の下、澪は夢のように聞いた。どこかで聞いたことがある、と思いながら。


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月の軌跡 (罪の在処) 3 

月の軌跡(R-18)

 気がついてみると、澪は、まったく知らない場所にいた。

 薄暗いそこは、四方を白い壁に囲まれた狭い部屋のようだった。見回してみたところ窓はなく、固く閉ざされた、やはり白い扉があるだけだ。天井もただすとんと白く、部屋の空気全体が埃臭い気がした。

 見覚えのないその空間に恐怖に抱き、澪は、はっと身体を起こした。そして、身体に感じる違和感に気がついて、愕然とする。

 澪は、何も身に付けていなかった。
 彼女は、裸で白いベッドに横たえられ、着ていたはずの服はその部屋のどこにも見当たらなかった。

「きゃあぁぁっ」

 悲鳴をあげて、澪は自分の身体を抱きしめてうずくまる。その部屋は、澪の寝かされていたベッドと小さなテーブルがあるだけで、他に家具も何もなかった。その、異様な空間。辺りに警戒し、澪は震えて縮こまる。何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。



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月の軌跡 (罪の在処) 4 

月の軌跡(R-18)

 柊は自宅兼仕事場にしている倉庫に、澪を連れて戻った。

 彼は、腕の中でぐったりと動かない澪を冷たく見下ろし、絹のブラウスを着て、ビロード生地の清楚なクリーム色のスカートを穿いた、いかにもお金持ちの令嬢という彼女の服装を憎々しげに見つめる。

 思わぬところで、思わぬ獲物が手に入ったことに、彼自身驚いていた。
 彼が澪に使った薬は、彼が最近常用している睡眠薬だった。たまたま、そのとき柊は薬を持っていたのだ。

 澪を手に入れた彼は、仮眠を取るときにたまに利用するその部屋に、彼女を連れて行った。そして、カメラを用意し、一枚一枚澪の服を切り裂いていきながらそれを写真に収め、パソコンに取り込んだあと、すぐにプリントアウトして、封書にする。そして、その写真をいつでも澪の自宅に送れるよう準備だけをしておいた。実際に送るかどうか、彼は迷っていた。下手なことをすると自分に辿り着いてしまう可能性があるからだ。今の時点では、澪は、完全なる神隠し状態だった。

 彼女の父親は、医学部の大学教授である相良仁だった。

 数年前、柊は、彼の大学病院で、妹を殺されていた。妹は、ごく珍しい疾患で入退院を繰り返し、その大学病院に何度も世話になっていた。初めに担当してくれた若い医師は、誠実な好青年であった。しかし、彼は間もなく大学病院を去り、地方で開業したらしいという噂を聞いた。

 その後、妹は、その大学病院でモルモットさながらの扱いを受け、最期には新しい薬を試してみます、と言われ、新薬の臨床試験の投薬実験をされ、ぼろぼろにされて死んでいったのだ。

 後に、柊は初めに担当してくれた若い医師に偶然再会し、その実態を聞かされた。患者を実験材料にすることに反対した彼は、大学を追われ、それでも、なんとか患者を救いたかった彼は、その後も何度も非人道的な医療行為をやめるよう、大学側に申し入れたが、遂に聞き入れられることはなかったのだと。

 彼は、柊の妹のことも、最期まで心配して心を砕いてくれていた。

 妹の最期の様子を見て、抱いていた疑念、不信、そういうものが一気に形となって彼の目の前に正体を現した瞬間だった。

 両親を早くに亡くし、病気がちの妹を必死で守って生きてきた彼は、その妹をそんな風に奪われて、絶望の淵に立たされた。精神を病み、睡眠薬の量もどんどん増えていった。枯れ果てた涙のあと、彼に残ったのは『絶望』の文字だった。

 殺された憐れな妹を、その清らかだった魂を思い、仕事も手につかず、生きる意味も見つけられずただ日々を過ごしていた。

 そんな矢先に偶然手に入れた生贄。
 澪を見つけた瞬間、彼の心に湧き上がったのは‘復讐’のどす黒い闇。そして、同時にそれまで死んだも同然だった心に、青い炎が灯った。

 相良仁に対する最大の復讐となり得る獲物。
 柊は、彼の最愛の娘をずたずたにしてやろうと決めたのだ。



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月の軌跡 (制裁の始まり) 5 

月の軌跡(R-18)

 扉の開いた音に、澪は、はっと怯えて入ってきた男の顔を凝視する。見覚えはなかった。しかし、彼の瞳に浮かぶ激しい憎悪の炎に、澪は命の危険を感じて悲鳴をあげる。

「叫んだって無駄だよ。周りには誰もいないし、この部屋の声は外にほとんど漏れないからね。」

 澪は、その声にびくりと身体を震わせる。いつか、どこかで聞いた声だと思った。

「澪ちゃん、君、高校生だっけ?鮎奈が死んだのも、高校2年生のときだったな。かわいそうに、あの子は、まだ‘恋’も知らなかったのに・・・。」

 ガタガタと震える澪にゆっくり近づきながら、柊は彼女の青ざめた顔をじっと見据える。言いながら、彼はどうしようもない憤りが湧き起こってくることを感じた。

「同じ女の子に生まれながら、あまりに不公平だよね?そう、思わない?君は、何不自由なく毎日を贅沢に暮らし、高級な服に身を包み、お小遣いとして俺の月収くらいの金額を軽く渡されている。」

 澪のバッグの中身をふと見てしまった柊は、財布に入っていた札束に絶句し、次の瞬間、そのバカバカしさに笑い出しそうになった。

 妹の入院費、手術代。必死に働いてなんとか工面し、彼は自分のことは削れるだけ削って、苦しい治療に耐える妹の笑顔を見たいためだけに働いてきた。

 その金額を、一度買い物に出かけるためだけに浪費する少女。
 柊は、笑いながら、涙がこぼれるのを止められなかった。

「それに引き換え、鮎は・・・、あの子は、実験材料に使われ、身体をぼろぼろにされて苦しみながら死んでいった。」

 その言葉を聞いて、澪は、思い出した。
 彼の声をいつ、どこで聞いたのかを。

 数年前の夜中。家の玄関先で、妹を返せと叫んでいた男。窓から僅かにその姿を見ただけだったので、彼の顔はよく見えなかったし、覚えていない。しかし、その、引き裂かれるような悲痛な声は、澪の耳から離れなかった。
 間もなく警察が呼ばれ、その男は警察に連れ去られた。

 家族は、逆恨みだと相手にしなかった。
 澪も、詳しい事情は知らなかったし、父がその男の言うような非人道的なことをしているとは到底思えなかったので、すっかり忘れていた。

 しかし、そのときのその叫び。
 男の声を、澪は忘れることが出来なかった。

「大丈夫、俺は、君の父親とは違う。君を殺したりはしないよ。」

 澪の目の前に立った柊は、そう言って薄く笑った。

「殺してなど、やらない。じっくりと内側から狂わせてあげるよ。」

 澪は、もう、悲鳴すらあげられなかった。ぞくりと全身が冷えて、身体は硬直する。男の手がすうっと伸びてきたのを目にして、彼女は反射的に身を引いた。

「いやっ・・・いやあぁぁぁっ」

 身を庇った腕を捕え、柊は澪の細い首を片手で掴む。そして、そのまま彼女の身体をベッドに沈めて組み敷いた。

「良い子だね、澪ちゃん?大人しくした方が良いよ?あんまりその白い肌に傷を付けさせないで。」

 柔らかい笑顔を作って、彼は言う。

「辛いのは初めの内だけだから。ゆっくりと、可愛い従順な俺の奴隷に仕立ててあげるよ。」

 言われている意味が、彼女にはまったく分からなかった。ただ、その男の瞳に宿る暗い狂気に背筋が凍った。こんなことが現実であるある筈はないと、澪は思いたかった。目を覚ませば消える悪夢だと・・・。

 そして。
 世界が暗転するまで、澪は悲鳴をあげ続けていた。

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月の軌跡 (制裁の始まり) 6 

月の軌跡(R-18)

 次に気付いて目を開けたとき、澪は、疲労と痛みにほぼ放心状態だった。窓のないその部屋では、時間の経過すら曖昧で、あれから何時間経って、今、一体いつの何時頃なのかすら分からなかった。

 言葉として思考が戻るまで、かなりの時間を要し、澪は、ゆっくり首を動かし、部屋に誰もいないことを確認する。

 手も足もだるくて持ち上げることすら困難だった。

 澪の腹部の辺りには薄い毛布が掛けられており、少し空気がひやりとしていることを感じて、澪は今、夜なのだと思う。

 自分に一体何が起こったのか、澪にはさっぱり分からなかった。そして、受け入れられなかった。
 陵辱。という事実を。

 あまりのショックに感情が動かなかった。夢なのだと、悪夢をみているに違いないと、澪は何度も自分に繰り返す。

 しかし、澪の身体は自分に起こったことを無慈悲に残酷に彼女に伝える。
 涙、という方法で。

 不意に澪の目からは次から次へと熱い涙が零れ落ちてきた。始め、澪は自分が泣いていることに気付かなかった。頭と身体がバラバラで、思考すらついてこなかったのだ。

 頬に伝うものが涙なのだと知ったとき、澪の心に言葉が蘇ってきた。
 どうして・・・?
 どうして、こんなことに?

 次第に嗚咽が喉から漏れてくる。痛む身体を丸めて、澪は毛布を抱きしめて泣きじゃくる。苦しくて辛くて惨めで、澪は涙が止まらなかった。

 あんな、まるで浮浪者みたいな男。
 獣みたいな男。

 汚らわしい、と澪は思った。彼女の周りにいる男性、とりわけ、父を訪ねてくる男性たちは、皆、スーツを着て物腰が丁寧で、澪に対してもとても礼儀正しかった。彼女が不快になるような言動など一切しなかった。

 私は、何も悪いこと、してないのに。

 お父さまだって、沢山の病気の人を助けている立派なお医者さんなのに。恨まれるようなことは何もしてないのに。

 ひどい・・・!!!あんな男に・・・っ
 誰か助けて!!
 帰りたい・・・
 


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月の軌跡 (捕われて) 7 

月の軌跡(R-18)

 仕事を再開していた柊は、澪の泣き声を聞いてふと手を止めた。

 彼の仕事は、ある意味芸術のようなもので、木工製品に対する彫りの仕事だ。素材が木材でありさえすれば、いかなる模様、絵など何でも注文通りに仕上げる。それが家の壁などの大きなものでも、装飾品などの小さなものでも構わない。一個単位から注文を受け付け、ほぼ、期日までに納品する腕の良い職人だった。

 その作業をするための、ここは倉庫でもあり、仕事場でもあった。

 澪が閉じ込められている部屋は、期日が迫っている仕事の最中に、ほんの数時間仮眠を取るための密室的な空間だった。柊が、一切の音と刺激から隔離され、ほんの少し熟睡するための。

 澪の声が聞こえたのは、彼が扉を少し開けておいたからだ。目覚めた澪の様子が分かるように。
何のために?

 逃げ出そうとするのではないかということと共に、パニックに陥った彼女が自殺などの自傷行為をしないように、と柊は考えたのだ。

 泣き声を聞いて、柊は作業の手を止めて立ち上がった。

 扉を開けると、澪はびくり、と身を震わせて顔をあげた。その顔は青ざめて涙に濡れ、彼の姿を確認した途端、彼女はその恐怖に悲鳴をあげる。

「きゃあぁぁっ」

 毛布を抱きしめて、澪は逃げることも出来ずにベッドの上に縮こまる。

 作業着を着て、木屑だらけで、彼が部屋に入ってきた途端、材木の乾いた甘い匂いが立ち込めた。そういう、下請け作業をする人間を、澪はどこか蔑視していた。それは、父親の影響であろう。

「い・・・やっ、・・・いや!」

 近づく彼の姿を凝視したまま、澪はそれ以上下がったらベッドから落ちそうなほどじりじりと後退する。
 もう、一瞬でも触られたくなかった。

「・・・お、お願い・・・、家に・・・帰して?・・・もう、やめて・・・」
「家に?」

 柊は、ぐい、と澪の首を後ろから掴み、動けないように固定して笑う。

「帰れると思うのかい?」

 その冷たい言葉に、澪は顔色をなくす。澪を捕える手は、情け容赦のない乱暴なものだった。

「当分はここで生活してもらうよ。たまには庶民の生活も体験してみた方が良いよ?お嬢様?」

 男の声は明らかに澪を蔑んでいる声色だった。

 澪は誰かにそんな扱いを受けたことはない。もともと、彼女は望むことはすべて叶えられて生きてきた。何かにひどく執着してどうしても、と望んだこともなければ、そうする必要もなかった。毎日、普通に生活しているだけで、彼女は必要なものをすべて手にしていた。だから、澪は自分で何かを成し遂げるための行動の仕方を知らない。

 彼女が望まないことを強制する者はいなかったし、泣き叫ぶような目に遭ったこともない。つまり、そういう場合どうやって切り抜けて良いのか分からないのだ。使用人も、それから学校の先生も、彼女たち階級の生徒には気を使っていた。高い授業料を払ってもらっている、彼女のたちの家は学校の運営にはお得意様になるのだ。

 それまで、澪の周りに、彼女に対してひどいことをする人間は、皆無に等しかった。



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月の軌跡 (捕われて) 8 

月の軌跡(R-18)

「ああ、そろそろシャワーでも浴びたいだろ?」

 不意に柊はそう言うと、澪を毛布ごと抱えるように抱き上げた。悲鳴をあげる彼女に構いもせず、そのまま澪をどこかへ運んでいく。

 そして、廊下の端にある扉を開けてそこに彼女を放り込む。

「さっさと済ませな。次は俺が使うから。」

 乱暴に下ろされて澪はよろけ、涙の浮かんだ瞳で彼を見上げた。男は、すぐにバタンと扉を閉じて歩き去っていく足音がする。

 澪はどうして良いのか分からなかった。
 そこには鏡もなければ脱衣カゴがある訳でもない。ただ木製の壁に囲われた真四角な空間だった。今、入って来た扉の他に真横に木製の扉がある。恐る恐るそこを開けてみると、そこは簡易的なシャワールームのようだった。床にはすのこのように板が張られ、使ったお湯は一箇所に向かい、小さな穴から外へ流れ出ているようだ。

 散々躊躇ったものの、澪はとにかくシャワーを浴びてみようかと思う。
 身体中が気持ち悪くて、確かに洗い流してしまいたかった。

 抱きしめていた毛布をそっと外し、そろそろとシャワールームへ足を踏み入れる。蛇口をひねるとお湯が出て来た。少し澪には熱い湯加減だったが、我慢出来ないほどではない。ほっとして彼女はとにかく備え付けのソープで全身を洗う。

 いつも使っているソープではもちろんないので、その安っぽい匂いに多少顔をしかめたが、そんな贅沢は言っていられない。

 シャワーの音に紛れてよく聞こえなかったが、不意に扉が開いたような気がした。
 ぎくり、と今入ってきた扉を凝視したが、男が入ってくる気配はなかった。
 しかし、澪は慌てて身体の泡を洗い流し、そうっと扉の外の気配を探る。

「終わったら出ておいで。」

 扉の外で、柊の声がした。シャワーの音が止んだことに気付いたのだろう。しかし、何も身体を覆う物がないのに、出られる筈がないではないか。

 怯えて声が出なくなっていた澪は、不意に扉の開いた気配に悲鳴をあげた。

「いちいちウルサイよ、澪ちゃん。今さら隠したってどうしようもないよ。」

 柊は真っ白なバスタオルを抱えたままツカツカと中に入ってきて、それで澪の身体をばさりと覆った。

「今度は俺が使うから、君は、ここで待ってて。」

 ぐい、と彼女は押し出されるようにシャワールームの外に出される。ぎゅっと目を閉じていたので、澪は気付かなかったが、男はもうシャワーを浴びる支度を終えていたようだった。

 茫然としたまま、柊がシャワーを浴びる水音を聞いて、彼女はそこに立っていた。
 どうして良いのか分からない。
 この隙に逃げ出そうとか、そんなことは思い浮かばなかった。

 やがて、柊が裸のまま彼女の前に現れ、澪は慌てて視線をそらす。今まで気付かなかったが、足元には彼が脱いだ衣服がそのまま散らばり、澪はそれに触れないように慌てて後ずさった。

 そのとき、ふと、きゅううっとお腹が変に痛むような気がした。
 その日、朝食を取った後、そのまま家を出てきた彼女は、紅茶を一杯飲んだあと、何も口にしていなかったのだ。彼女自身に食欲などまったくなかったが、そろそろ身体は空腹を訴えているようだ。

 大きなバスタオルに包まれた彼女は、自分の衣服を身につける柊の背中を茫然と見つめていた。男の裸など、澪は間近で見たことがなかった。自分とは違う男の肉体を、つい先ほど彼女の身体を好きなように弄んだ彼の手を、澪は、現実ではないものを見るように、ぼんやりと見つめていた。意識は、半分身体から遊離していたのかもしれない。

 受け入れられない現実からの、逃避を企てて。
 不意に振り返った柊は、まだ折り目のついた真新しい大きな白いTシャツを手にしていた。そして、澪の身体をバスタオルで軽く拭き取ったあと、そのTシャツを頭からばさりと着せ掛ける。

 一瞬視界が白くなり、次に気付いたときには、柊はそのTシャツの袖口から澪の手を引っ張り出していた。

「悪いけど、下着とかはない。しばらくはこのままで我慢してもらうしかないよ。」

 柊は、そう言って澪の顔を覗き込んだ。澪はびくりとして、言われた意味を一生懸命理解しようとする。

 家の中でも下着をつけずに過ごしたことなどない澪だったが、それまでまったく何も着せてもらえなかった状態に比べればどれだけマシか知れない、と感じる。大きなそのTシャツは、澪の太ももの半分までを覆うのに充分だったし、今はまだ夏の余韻が空気の中にも残っている。寒いわけでもなかった。

 ただ、自分が着ていた服はどうなったのだろう、と澪は聞けなかった。

 時間で言えば、もう真夜中を過ぎていたのかもしれない。しかし、もともと生活時間帯が仕事に寄ってむちゃくちゃになる柊にとってはそれは日常のことだった。

 彼は、閉店間際のスーパーで買ってきた半額に値引きされた惣菜の弁当とペットボトルのお茶を用意してあった。彼女が目を覚ましたら一緒に食べようと思っていたのだ。

 仕事場の脇にテーブルと椅子があり、彼は澪をそこに案内してテーブルに乗っているそれらを指して言った。

「夕飯だ。口には合わないだろうが、体力をつけておかないと持たないぞ。」

 確かに食べたことのない種類の食事だった。澪は、茫然と惣菜のお弁当を見下ろす。出来合いのポテトサラダに申し訳程度のキャベツの千切り。煮物と焼き魚。そして、ごま塩をふったご飯。そんなものが並んでいる。

 それでも、それが食べ物だと認識した澪の身体は正直だった。お腹が鳴った音を彼女自身が聞き、何故、こんな状況で?とどこか呆れる。そして、何故、この男の手から食べ物を受け取らなければならないのかと、意識せずとも、そんな思いがどこかにあったのは事実だった。

 しかし、澪は本当にお腹が空いていた。
 彼女は仕方なく椅子に座って、そのお弁当に手を出した。

 ペットボトルに直接口をつけてそのまま飲む柊を唖然と見つめ、澪は、グラスがどこかにないかと辺りを見回す。しかし、そこは柊の仕事場だ。木材やその切れ端が散乱し、何に使うのか分からない道具が所狭しと置かれているだけだった。

「飲めないのか?なんなら、俺が口移しで飲ませてやろうか?」

 向かいに座る柊がにやりと笑う。澪はその言葉を聞いて青ざめ、慌てて彼がそうしていたように、ボトルの口に唇を寄せた。

 食事の味は、澪にはよく分からなかった。いつも、出来立ての温かい料理だけを食べていた彼女は、こういう、素材のよく分からない食べ物を食べたことがない。それでも、空腹のお腹は満たされ、冷えて固まっていた身体が、ほんの少し温まったような気がした。

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月の軌跡 (捕われて) 9 

月の軌跡(R-18)

 その倉庫は、一つの大きな箱のようで、大きな仕事を請けるときのために大型の鉄の扉が機械仕掛けで開閉する以外には、鍵の掛かった小さな扉が一つあるだけで、澪はどうやっても外へ逃げ出すことは難しいと知る。窓も、高い天井の屋根のすぐ下に並んでついているだけで、手の届くところにはない。そこから光が漏れてくれば外は明るいのだと分かる程度だ。

 壁に大きな時計はついていたので、確かめようと思えば時間だけは確認できる。そして実際の柊の生活空間の方には、畳の部屋があり、洗面所とトイレがあり、簡易的なキッチンや、テレビやパソコンなども揃っていた。その奥にフローリングのごく狭いスペースがあって、そこにベッドとソファが置いてあり、壁には本棚が埋め込まれていた。



 
 その後、三日ほど、柊は締め切りが迫っていた仕事に追われ、澪は放っておかれた。一旦中を案内され、ある程度の自由を得た澪は、その間に、彼に気付かれないように一生懸命逃げ出す方法を模索する。扉の鍵の在り処を探り、通信手段を探す。

 その日、仕事を終え、商品を納品に出かけ、ついでに買い物を済ませて戻って来た柊は、澪がこっそりとパソコンを立ち上げ、パスワードを必死に探している後ろ姿を見つけた。ネットに入り込んで助けを求めようと思ったのだろう。

 一瞬、カッと頭に血が上り、柊は澪をその場で押し倒そうかと考えた。しかし、彼は考えを改めて気配を消して彼女の様子を黙って見守った。澪の取る行動パターンを逆に探ろうと思ったのだ。

 柊のことを、彼の名前すら知らない澪に、彼の設定するパスワードなど想像しようがなかった。適当な文字列を打ち込んではその度に拒絶され、澪は「やっぱりダメね・・・」と小さな声で呟き、両手で顔を覆った。

 悔しくて、その、理不尽さに澪は涙を零す。
 このまま、ここに捕らわれてなどいたくない。
 自分をこんな目に遭わせたあの男を罰したいと、澪は肩を震わせた。

 パソコンの電源を落として、澪は立ち上がり、ゆっくりと振り返った。そして、そのまま表情は凍りつく。
 柊が、背後の壁に背を預けて彼女をじっと見つめていた。

 がたり、とパソコンデスクに椅子の背がぶつかる音が響く。知らずに、彼女は一歩後ずさっていたのだろう。
 柊は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと澪に近づいていく。

「・・・イヤ・・・!」

 澪は小さく首を振り続ける。

「いやっ・・・いやあぁぁっ」

 それほど広い空間ではない。彼女はすぐに彼の腕に捕らわれ、悲鳴をあげる。柊は彼女の両腕を捕えて、引きずるようにベッドの方へと引っ張っていく。そして、棚に置かれていた手ぬぐいでその手を縛り、彼女の身体をベッドの上に引き倒した。

「いやあぁぁあっ・・・やめて!やめて・・・っ」

 柊は、無言だった。そのまま、澪の縛った両腕を彼女の頭上に持ち上げ、更にひも状の布でベッドの縁に固定する。そして、動けなくなった澪の恐怖に震える表情を楽しむかのように、彼女の顔を見下ろしたまま、服を脱ぎ始めた。

 状況を察知して、澪は叫び続ける。

「・・・いや!・・・やめてっ、お願い・・・やめてぇぇっ」

 澪は、近づく彼から身をよじって逃れようともがく。柊の手が首を締め上げるように喉元に伸びて、その苦しさに澪は叫ぶのをやめた。

「ちょっと自由にさせ過ぎたね、お嬢さん。」

 柊は首を押さえ込んだ手に不意に力を込めて耳元にささやく。澪は苦しくて喘いだ。殺される・・・?と本気で思った。

「これからしばらくは時間が空くから、少し本気で躾けてあげるよ。」

 ひどく甘い声色で、彼は言い、澪は一瞬世界が色を無くしたのかと本気で思った。
 ショックに寄る貧血状態で、瞬間的にだが目が見えない気がしたのだ。

「いやぁぁぁぁっ」

 叫んでも、助けはない。誰も助けてはくれないということを、澪はその後何度も思い知ることになる。



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月の軌跡 (捕われて) 10 

月の軌跡(R-18)

 痛みが官能の波にとって変わられ、何度も意識が飛びそうになって、何がなんだか分からなくなりそうな頃、柊も遂に絶頂を迎え、遠慮なく彼女の子宮に向かって白い液を放出した。

 いずれ、家に帰す前に、澪を孕ませようと柊は初めから考えていた。

 発見され、彼女が無事救出されようと、彼の支配の後は、そうやって目に見える結果として残すために。

 澪が、自分を蔑みの目で見つめていることを彼は知っていた。その、高慢な心を嘲笑うかのように、柊は少しずつ彼女の心を内側から壊していく。軽蔑する相手からの陵辱に、少女の精神はどのくらい耐えられるのか。
 



 それから、更に数十日の間、三日と空けずに柊の気まぐれ次第で、昼となく夜となく陵辱は続いた。しばらく仕事が手につかない状態が続いたために、仕事が減っていた彼は、現在、定期的に請け負っている小さな仕事をこなすのみだったのだ。そして、それらを注文先に納め、時間が空くと澪の身体を求めた。

 激しく抵抗を示していたのは初めの内だけで、次第に澪は逆らう気力をなくしていく。
 非日常の異常なことも、繰り返される度に日常と化していくように。

 閉ざされた空間で、助けもない代わり他に誰の目もない。何度も抱かれる内に、澪はすでに身体が彼を受け入れてしまっていることを知る。柊の腕に鳴かされ、濡れて男を求めるようになった自分の体をおぞましいと感じると同時に、それに溺れていく自身の性を悲しく思った。

 もう、どうしようもなかった。

 合意の上ではなく、まったく意に反しての行為を受け入れることは澪にとって屈辱的なことで、どこかで相手を自分より劣る人間だと、そういう意識も手伝って、澪はその陵辱に対して嫌悪をつのらせる。それなのに、それを受け入れる自分の身体に対して絶望していく。しかしもう、彼女の身体は、澪の声など聞かなかった。

 始終見張られている訳ではないが、一度逃げ出そうとして捕まって、更にひどい仕打ちを受けてから、澪は怖くて相手をこれ以上怒らせることは出来ないと常にびくびくびしている。

 何より、柊の冷たい目が、彼女を憎んでいることをはっきりと感じる。それが怖くて、辛かった。澪はそんな風に存在を否定されるような苦しさを味わったことがない。そして、柊は、彼女を愛しているから、欲しいと思うから抱いている訳ではないことが肌で感じられる。冷たい目で見据えられて、心は冷えて震えているのに、身体だけが熱く反応してしまう。それを蔑むように眺めている男の視線が痛かった。悲しくて、ただ辛かった。

 しかし、失神するようにすとんと眠りに堕ちた澪の寝顔を見下ろす柊の顔は、どこか切ない色を帯びるようになってきた。

 そして、いつしか柊は。
 憎んで、呪って、その身体も心も引き裂いてやろうと思っていた相手に、ふと憐憫の情を抱いていることに気付く。 

 失った妹と変わらない年の少女。
 凛と強かった妹が、こんなことを望むだろうか?

 次第に冷静になって考えると、妹の悲しむ顔だけが浮かぶようになってきた。兄が、犯罪者となることを、罪のない少女を弄ぶことを、彼女はきっと悲しむに違いない。

 そういう考えが芽生え始めたとき、柊の、澪に対する扱いが少しずつ変わっていった。

 それは、本人にさえ意識されない程度の僅かな変化だったが、憎しみの心にすり替わって、何かが生まれてきたのだ。



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月の軌跡 (季節は巡る) 11 

月の軌跡(R-18)

 季節は巡り、秋の風が空気を冷やし、夏の気配の中に冬の息吹が立ち上ってきた。さすがに、柊は、澪に服と下着を買い与えた。避妊はしていなかったが、その月、澪の月のものは正常に訪れた。

 彼女の周期はもともと不安定で、遅れたり、一月飛ばしたりはしょっちゅうだったので、彼女もまだそれほど神経質に気にしてはいなかったようだ。

 生理用品を量販店で買い求め、柊は、これからどうしようか?と考える。

 その頃には、はっきりとした意識として、柊は時々彼女を愛しい想いで見つめてしまうことに気付いていた。それは、妹を想う気持ちとは違う。高慢だった澪の態度はすっかり影を潜め、もう何も取り繕う必要を見出せなくなった彼女にも、緩やかな変化が訪れていた。

 自分を飾る必要がない。鎧を身に付け、仮面をかぶる必要がない。良家のお嬢様として、完璧な日常を演出し、自身も役を演じる必要がなくなった。

 それを言葉で思った訳ではない。ただ、澪は意識を保てない時間を何度も経験するうちに、男の腕の中で眠りに堕ちる刹那の危うい無防備さを知る。恥も外聞もない、親にすら見せたことのない姿。自分ですら知らなかった性感帯。むしろ、何の予備知識もなく、素直に官能を身体に教え込まれ、赤ん坊が言葉を吸収していくように教師としての柊に従順に従った。

 生きていくために、それは無意識の本能だった。

 質の良い家庭に育った、澪の本来の素直な性質。すさんでもスレてもいないたおやかな心根。そして感度の良い若い身体。柊はそれを愛するようになった。

 しかし、警察の捜査の手が、いずれ自分にも伸びるかもしれないと柊は考えた。

 偶然に手に入れた獲物だっただけに、家族も警察も苦労しているだろうが、いずれは病院の過去にまで遡って、恨みを抱く人物として候補にあがるだろう。

 あの日、やる気のまったく出ないまま、以前、彼の仕事を評価してくれた依頼主が、別の顧客を紹介してくれて、彼はそこに注文を受けに出かけた帰りに、ふと見つけた喫茶店にちょっと立ち寄った。初めて訪れた喫茶店。居合わせた他の客も常連というわけでもない、たまたまそこに居合わせた人々だった。皆、自分の世界に忙しくて、他に誰がいたかなんてまったく気にしていなかった。

 マスターはおぼろげながら澪を覚えているかも知れない。しかし、取り立てて目立たなかった他の3人を覚えているかどうか怪しい。あの喫茶店の照明はひどく薄暗かった。

 それでも、いつか。
 いつか、澪は自分の世界から迎えが来るだろう。 

 澪が見つかってしまったら、彼女は家族に保護され、自分は逮捕されるだろう。
 澪をこの手から失って、果たして自分は‘復讐’を遂げたことに満足するだろうか。


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月の軌跡 (季節は巡る) 12 

月の軌跡(R-18)

 
 
「今日は、部屋から出ないでね。」

 初冬に差し掛かろうというある日、柊は朝食を終えてそれを片付けながら、澪に言い渡す。その日、久しぶりに大きな注文が入ることになっていた。その依頼主が訪ねて来るのだ。

 澪はぼんやりと頷く。

 一時期、絶望と諦めと屈辱で、精神が崩壊しかけた澪だったが、意地もプライドもすべてそがれ、相良澪という、それまで確かに存在していたはずのブランドを失ったとき、彼女は世界がまったく違った色に見えることに気付いた。

 周りに対して気負うこともなく、見栄もなく、もう、ただの一人の女の子としてのか弱い自分がそこにいた。自分自身だと思っていたすべては虚栄だったのだと、周りの人々が守り、傷つかないように目をふさぎ、耳をふさいでくれていた世界に君臨していると勘違いしていた滑稽な自分の姿。

 一人では何も出来ないのだ。
 掴まれた腕を振り払うことすら。

 澪に命令する人間など、それまでいなかった。しかし、それは澪の価値のためではなく、彼女の力でもなく、単に、父親の力とお金の力だったのだ。それが意味を成さない場合、澪には何もない。そんなことを初めて知った。
 大人の男の前では、澪は単なる無防備な赤ん坊と同じだった。

 それを、否応無しに思い知らされたのだ。




 それでも、世界は自ら閉ざさない限り、扉は常に開かれている。

 澪は、絶望の涙が枯れたあと、見上げた世界に必死に‘意味’を探し始めた。生きるための。
 それは、健全に育った魂の叫び、確かなゆらぎだったのだろう。生命の、生きよ、という根源からの唯一の指令として。




 ほとんど売れ残りの惣菜ものばかりを食べさせられていた澪は、ある朝目覚めて、不意に、それまで自分が食べさせてもらっていた数々の料理の記憶を頼りに、自分で何か作ると言い出した。

 それは、何の予兆もなく、すとん、と訪れた『答え』のようなものだった。

 身体の内側から、それは澪に命令してきた。何かをしてみろ、と。死に絶えようとしていた心に、ぽっかりと淡い光が灯った瞬間だった。

 多少驚いた柊だったが、彼女が今さら自分から逃げようとするとは思っていなかった。そういう作為的なものは何も感じられない、むしろ、何も考えていないような瞳で、澪は料理をさせて欲しいと呟いたのだ。

 それは彼女の人生で初めてのことだった。

 誰かのために何かをする。それは、自分が我慢が出来ないから、ということが動機ではあっても、結局は男の分も一緒に調理することになる。それは外へは出られない澪のせめてもの挑戦、そして楽しみになった。

 当然、自分で料理などしたことのない澪のために、柊は料理の本を買って与え、ネットでレシピをダウンロードしてやる。欲しがる材料をスーパーで調達してくる。それは、お互いにとって、思いもしない心の安定をもたらした。

 柊は、そうやって澪の存在が自分の中でどれだけ大きくなっても、自分の素性は語らなかった。そして、名前も、『柊』の字を分解し、‘冬木(ふゆき)’と呼ばせている。澪には、それが彼の姓なのか名前なのかすら分からない。

 名前を知らなくとも、お互いのそれまでの生活を本当には知らなくても、理解し合おうと努力することは出来るのだ、と二人は身体で知る。セックスは、人間の本性が出る。真剣に取り組めば取り組むほど、それは露わになる。

 暴力的に辛いセックスを強要されていたのは初めの頃だけで、柊は、愛しい者を抱くように、澪の身体を優しく愛撫する。その変化を身体で感じながら、お互いに言葉のない交流を交わすように、澪は彼という人物を受け入れていった。

 澪が柊に捕らわれてから、2ヶ月が過ぎようとしていた。



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月の軌跡 (季節は巡る) 13 

月の軌跡(R-18)

 部屋から出るなと言われ、しばらくそれを守っていた澪だったが、聞こえてくる人の話し声に、自分を捕えている男以外の姿を見たい気がしてしまった。もう、ずっと彼女は他の人間と口をきいていない。

 そっと部屋の扉を開け、彼女は話し声のする方を覗き込んだ。

 スーツ姿の中年の男性が柊と向かい合って、何かを熱心に話し合っている。柊は向かい合って就いていたテーブルから立ち、何か木材を手に説明を始める。木の性質や彫りのデザインの話しらしかったが、澪にはさっぱり分からない。

 しかし、その男性はしきりに感心したように頷いていた。そして、彼も立ち上がって柊の手にしている木片に触り、何かを質問しているようだった。

 澪の姿に気付いたらしい柊が、一瞬眉を寄せたことに気付き、澪は慌てて扉を閉めた。
 スーツの男性が音のした方を振り返る。

「おや?誰かいらっしゃるんですか?」

 あまりに明らかな人為的な音に、柊は内心舌打ちをして微笑む。

「友達が遊びに来て、散々飲んだ挙句、昨夜泊まったんですよ。今日は二日酔いがひどくて休んだみたいです。」
「ああ。・・・そうですよね。確か、妹さんは、もう・・・。」

 彼の言葉に、柊の心臓は音を立てる。疼く痛みは、そうやってふとした瞬間、彼の心臓をちくちくと突き刺していく。いつか、もっと穏やかに妹を思い出せる日が来るのだろうか。

 部屋の中で、澪は、初めて見た商談をする柊の、今まで見たことのない真剣で真っ直ぐで、情熱のこもった眼差しに軽いショックを受けていた。それがどういう種類の感情なのか澪には分からなかったが、それは、ひどく彼女の内面を揺さぶった。

 慌てて扉から離れ、彼女はベッドに倒れこむようにそこに顔を伏せていた。言われたことを守らなかったことで、柊がひどく怒っているだろうことよりも、彼の瞳の光が澪の脳裏から離れなかった。それは彼女の心をかき乱した。

 彼女の周りにはそういう目をする人はいなかった。

 誰もがトーンの薄い、感情の分からないような暗い瞳をして、どんなに笑顔を作っても瞳だけは笑っていなかった。

 そういう姿が紳士なのだと、澪は思っていた。人間味の薄い、明確な‘夢’を語らない人々。
 やがて、人の声はしなくなり、そして、他人の気配は消えた。

 その頃になってようやく、怒り狂った柊がすぐにやって来るだろうと、澪は怯えて扉の外の気配を窺っていた。しかし、かなりの時間が経過しても彼が扉を開けることはなかった。

 大分経ってから、澪は恐る恐る扉に手を掛ける。

 そうっと開けて見ると、柊はさきほどあの男性と話したときに手にしていた木片を傍らに置きながら、何か図面を引いていた。そして、その脇に幾何学的な模様をさらさらと手書きで埋めていく。

 澪が扉をそっと出て、近づいてくる気配にも一切関心を示さず、彼は一心不乱にその作業に取り組んでいた。

 澪は、作業の邪魔にならない程度の場所まで近づき、彼の手元をじっと見つめる。生み出されていくその繊細な線に、次第に完成されていく模様はとても美しく見えた。

 魔法のようだ、と彼女は思う。人の手から生み出されたものではないようだった。

「勝手に部屋を出るなと言ったはずだけど?」

 柊は、ちらりと彼女の方へ視線を走らせて低い声で言う。

「ご・・・ごめんなさい・・・。」

 慌てて澪は謝る。家族に対してすら、澪は誰かに謝ったことなど、それほど多くはない。自分は常に正しいと思っていたし、そう教えられてもきた。それが、何故かそのとき、素直に彼女の口から詫びの言葉が出てきた。怯えて、というよりも、彼女は素直に謝らなければならないと思えたのだ。

「しばらく手が離せないから、君はあとは好きにしてて良いよ。食材は今日は買い出しには行けないから、ある物を適当に使ってくれる?」

 柊は、もう澪の方を見なかった。手元の定規と黒いペン先に視線は集中されていた。澪は頷いてその場を去る。どこか、彼の発する圧倒的な空気に呑まれていた。



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月の軌跡 (季節は巡る) 14 

月の軌跡(R-18)

 それから、しばらく柊は作業に集中していた。

 図面のようなものは、寸法が正確に描かれると、作図の方は適当な手書きのみで、あとはすぐに本体の木を削り始めていた。そして、彫りに入る。

 澪は、その様子をただじっと見守っていた。

 澪は、父親の仕事を尊いものと思っていた。人の命を救い、病を治癒させる。それは確かに間違ってはいないだろう。医師という職業は『先生』と呼ばれるにふさわしいものだ。ただ、そこの携わる人間の心構え、人間性、志に左右されるだけの話しだ。

 彼女は、父に群がってくる多くの人々を幼い頃からずっと見てきた。
 そこに微かでも嫌悪を感じたことが、実は確かにあった。

 しかしそういうものは、成長するにつれ、周りからの暗示のようなものに覆い隠され、当たり前だと植えつけられていく。これが、医者の世界なのだと。これが、立派な人間の象徴なのだと。

 肩書きが増え、賛辞が増えることが‘大人’の証なのだと。

 だから、澪は、そういう世界の人間を素晴らしいと思い込み、父に関わる人々、政界や医療関連や、金融関係者などを同じ世界の人なのだと認識してきた。それ以外の職業に携わる人々は、自分より劣る種類の人間なのだと。

 言葉ではっきりそう意識して見ていたわけではない。
 だが、そういう微かな侮蔑的な感情があったのは確かだった。
 そういう世界にいる自分には価値があると思い込んでいた。

 それが、それらは彼女を守っている鎧に過ぎず、彼女の本体はただのか弱い少女でしかないのだと思い知らされた。自尊心はずたずたに引き裂かれ、業火の燃え盛る地獄に突き落とされた。そして、炎に舐められ、何もかも焼けつくされて最後に残ったのが、それでも、‘生きる’ことへの執着だった。

 剥ぎ取られた鎧の下にあったのは、幼い少女の素顔だったのだ。

 仕事に真剣に取り組む人間の燃える瞳と、その気迫。澪は、今まで父の周りで彼のご機嫌うかがいをしている腐った目の男たちより、ずっと清々しいものを感じた。退屈なはずのそんな作業を、彼の横顔を、思わず見入ってしまうほど。

 柊は、作業場に大きなストーブを置き、澪がいつでも好きなだけそこにいられるように、小さな座り心地の良い椅子を作ってくれた。そして、ストーブの上で何か調理が出来るように脇に木製のワゴンを置いてくれる。その、木を組み立てる作業の素早さに、澪は息を呑む。いくつかの木を削って、組み立てて、釘を刺して、くっつけていると思っていると、それらは磨かれ、あっという間に美しい完成品となって、「はい。」と澪の目の前に置かれるのだ。

「・・・ありがとう。」

 澪は、心から感動してお礼を言う。
 そして、柊の少し嬉しそうにほころんだ顔に、不意にどきりとするのだ。
 


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月の軌跡 (それぞれの変化) 15 

月の軌跡(R-18)

 そうやって、それほど言葉は交わさずに過ごしていても、彼をただ見ているだけで、いろんな職業があるのは、世の中に必要だからなのだ、と澪は思うようになった。思い返すと、彼女の家の中の調度品にしても家具にしても、誰かが作った作品なのだ。そして、あの家自体も。

 自分が失敗しながら料理を始めて分かったことは、作ることの大変さと同時にその楽しさだ。そして、どれだけ失敗しても、調味料を間違って信じられない味になっても、柊は一度もそれに対する文句を言ったりはしなかった。

 彼が怒るのは、澪が彼の言いつけを守らなかったときだけで、基本的に柊はここのところ、澪に対して優しかった。

 そういうことを一つ一つ噛み締めて、澪は、それまで分からなかったいろいろなものが見えるようなった気がするのだ。

「・・・あの、フユキ。・・・いつか、おっしゃってた妹・・・さんのこと、聞かせて?」

 その日、休憩に入った柊にお茶を淹れてあげながら、澪はおずおずと口を開いた。
 そもそもの根源的原因。その、妹のことがなければ、澪は今ここにはいない。

「・・・なんで?」

 柊の瞳は一瞬で曇った。その、痛みの度合いが推し量れる。澪はその表情にひるみ、ううん、良い・・・と俯いた。

「良いよ。」

 お茶のカップを手にしたまま、柊はふうっと息をつく。

「・・・妹は鮎奈。あの子は、生まれたときから身体が弱かった。それでも、なんで?っと思うくらい、心が綺麗な子だったよ。」

 柊は静かに話し始める。ストーブの傍らで鍋の様子を見ながら椅子に座っている澪を見上げるような形で、床に直接腰を下ろしたまま。

 お互いたった一人きりの兄妹の楽しかった生活。両親の死。

 そして、妹を守って生きてきた辛い時間。入退院を繰り返して、それでもいつでも笑っていた優しい彼女。痛みに涙を零しても、正確なデータがとれなくなるからと鎮痛剤の投与を断られ、妹はただ耐え続けた。最後は見る影もなくやつれ、苦しみながら、苦痛の表情を浮かべて死んでいった。

 柊はただ淡々とそれらを話した。
 担当医が変わってから、妹はますます苦しみだしたのだと。

 澪は、初めの担当医の名前を聞いて、その面影を思い出していた。綺麗な目をした若い医師だったことをおぼろげながら覚えている。

 学校帰りに運転手が母から預かった届け物を父に手渡すために、澪はたまに父の病院を訪れていた。
 柊は、そのときに彼女を見て、知っていたのだ。

 澪はそのとき、患者になど興味はなかった。いつでも、彼女ににこやかに接してくれる父の取り巻きにだけ愛敬を振りまいて、用が済めばすぐに帰っていたのだ。

 父は、常に彼女の中では正しい偉大な男だった。

 分かってはいた。その話を聞いてしまえば、自分がどれだけショックを受けるのかを。しかし、聞かずにはいられなかった。柊を狂気に駆り立てたその理由を。

「・・・それは・・・、それは、本当?父は・・・本当に、そんなことを?」

 滅多にない疾患。発表のための新薬の臨床実験。苦しむ患者をデータを取るための実感材料にし、いたずらに苦しみを長引かせ、患者は安らかな最後さえ妨げられた。

 愛する妹。
 大切な家族。
 守ると誓った少女。

「直接、担当していたのは別の医師だけど、指示は君の父親から出ていた。」

 柊は言った。
 澪は、もう聞きたくないという風に両手で耳をふさいだ。

「どうして、そんなこと・・・。どうして?」

 呟くように、泣き声のような細い声で、澪は叫ぶ。

「お父さま、どうして・・・?」

 柊は、ショックを受け、涙を零す澪を見つめ、その零れ落ちる涙に何かが溶けていくのを感じた。

 頑なに父親を信じていた澪が、何故、彼の言葉を信じようと思ったのか。澪の中でも、何かが揺らぎ始め、何かが変わり始めていたのだろう。

 それが、二人の心の焦点を不意に合わせたのだ。
 柊の中で、どろどろと黒いものを幾筋も巻き込んで固まっていたどす黒い氷の塊。
 それが、さわさわと澪の涙が溶かしていった。
 それを、茫然と見つめる柊は、妹が本当に望んでいたことの真実を知る。

 ‘許す’ことの偉大さを。


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月の軌跡 (それぞれの変化) 16 

月の軌跡(R-18)

「フユキは・・・、お父さまを・・・どう、なさりたいの?」

 その夜、最中にずっとどこか上の空だった澪は、柊の腕の中でそう呟く。
 澪の髪を撫でていた彼の手がふと止まった。

「この手で、殺してやりたかったよ。」

 抑揚のない声で、柊は言う。ぴくり、と澪は震えた。

「・・・でも、もう、良い。・・・鮎奈は・・・妹は、そんなことは決して望まない。それが・・・分かった。」

 澪は彼の目をそっと見上げた。呟くような、独白のような柊の声は、どこか悲しげだった。

「君を、見ていてそう思うようになった。」
「・・・え?」
「君が・・・教えてくれたよ、澪ちゃん。」
「どうしてですか?」

 柊は答えずに、ただ、澪の身体をぎゅっと抱き寄せた。外はもう木枯らしのような寒い風が吹いている。澪と出会ったときにあった夏の気配は、すっかり鳴りを潜め、もう、季節は廻り始めている。

 どうして、この子は、ここにこうしていてくれるのだろう?と柊は思う。
 本気で逃げ出そうと思えば、きっと可能なのに。

 助けを求めて騒げば、外に声がまったく漏れない訳ではない。彼が不在の間、そうやって近所に助けを求めることだって出来るし、或いは、パソコンのパスワードも、盗もうと思えば今なら出来るだろう。何度も、彼女の目の前でネットを開いてみせていたのだから。

 大人の分別で混沌とする柊と違って、澪の中は、もっとすっきりとしていた。

 女は、その性別の役割の違いに寄って、自分を支配する男に対して、決定的な絶望を抱かない限り、従うことをそれほど苦痛に感じない。男は狩猟をして食料を調達し、家を守り、家族を守る。女は、家の中を整え、男の狩猟を支え、子どもを育てるのだ。

 男が、自分を大切にしてくれていることを肌で感じられるならば、女は多少の不自由もそれほど不満には感じないように自らを調整してしまうのだ。

 特に、澪の家庭はそうやって維持されていた。
 父の仕事を全面的に信じる母親に寄って。




 人の肌は、どうしてこんなに温かいのだろう?と二人は同時に思う。
 肌を合わせると安心するのはどうしてなのだろう?と。

 二人の間に憎しみが消えたとき、残ったものは儚い幻想のようなものだった。危ういバランスで保たれているガラスのカケラ。ほんの一押し、隙間風が舞い込んで起こしたそよぎですら、嵐と同じ打撃を与えうる。

 ひと時の夢だとお互いに分かっている。

 もう、その夢も覚める・・・。



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月の軌跡 (命) 17 

月の軌跡(R-18)

 冬に差し掛かる頃、澪は体調の変化に気付く。

 理由もなく胸がムカムカとし、食べたものがこみ上げてくる。それでいて、何も口にしていないと、それは益々激しくなる。いつもすっきりしなくて、何か酸っぱいものを口にしたくなる。それは、レモンでも酸っぱいキャンディでも何でも良いのだ。

 そして、次第にあらゆる匂いに敏感になり、料理は一切出来なくなった。

 一週間ほど、ほとんど水しか飲めずにぐったりとベッドで過ごした澪は、それが‘つわり’の症状だなどとはまったく考えが及ばなかった。

 ただ、原因不明の胃腸症状に怯え、父ならすぐに何らかの薬を処方してくれるのに、と初めて強い郷愁に陥る。心細くて辛くて、澪は涙を零しながらその時間にただ耐えていた。

 柊は、それが妊娠に寄るものだと分かってはいたが、何分、彼には経験のないことで、どうして良いのか分からなかった。ほとんど何も口に出来ない澪のために、ほんの少しでも食べられそうな物を買ってきて与えることしか出来ない。

 仕事の合い間に彼女の様子を見て、何か食べられるか?と聞くのが日課になっていた。

 彼は、少なからず後悔し始めていた。自分に一体どんな権利があって、一人の少女の運命をこんな風に狂わせたのか。苦しむ澪の、その涙を、青ざめた表情を、見ていられなかった。

 しかし、それは訪れたときと同じようにある日突然なくなった。

 食べ物は普通においしくなり、普段食べなかった物を欲していた身体は通常に戻った。かくして、彼女が食べたいと言って買ってもらった普段使わない食材が大量に冷蔵庫に残った。

「・・・どうしましょう?これ・・・。」

 葉物野菜や甘い果物。どちらかと言えば、肉類や根菜が好きな彼女は大量の野菜を処分する方法を模索する。

「何でも良いよ、そんなの。おひたしにしてしまえば?サラダとか。」

 柊の提案に澪は首を傾げる。

「・・・おひたし?」
「あまりに簡単過ぎて、逆にそういうのを知らないのか。」

 柊は笑う。
 それでも、そういう何かを得ているときは彼女は余計なことを考える必要がないだけ、幸せだったのだ。

 ただ、必死に生きているとき。人はむしろ幸せなのかもしれない。それは、振り返ったときに思うことだ。

 初めに感じていた高慢さが影を潜め、澪は、同じ年頃だった妹とは比べ物にならないほど、幼い少女に戻ってしまっている。その純粋さは、彼女の内面を照らし、それまで彼女自身が自覚していなかった清いものを静かに発光させるに至った。

 ただ、怯えていた少女が、時に甘えるような視線を彼に投げかけることがある。その瞬間に柊は知った。
 彼が欲しかったのは、ただ、これだけだったのだと。
 相手を傷つけ、貶め、抵抗をねじ伏せてまで、柊は、ただ、誰かにそばにいて欲しかったに過ぎないのだ、と。
 



 そして、本格的な冬がやってくる頃、澪は初めて身の変化に否応無しに気付かされる。華奢な彼女の身体に表れた微かではあるが明らかなお腹のふくらみ。そして、一度あったきりで生理がまったくストップしてしまっている現実。

 柊は、仕事が忙しくなったことも手伝い、澪をもう初めの頃のように獰猛な獣の如くの抱き方はしなくなっていた。挿入も柔らかく浅く、彼女が物足りないと感じるほど、優しくなっていた。それが、澪の身体を気遣ってのことだと、彼女はその頃になって初めて知った。

 そして、その愕然、とする事実に震えが走るほどの衝撃と恐怖を抱く。
 妊娠、した?
 子ども・・・?赤ん坊?

 それは、愛しいものというより、彼女の感覚としては、自分の身体を侵食している異物に過ぎない。ただ、恐ろしかった。

 どうして良いのか、彼女にはまったく分からない。

「お・・・お母さま、お母さま・・・」

 柊の腕の中で、澪は、助けを求めて泣きじゃくる。怖くて、受け入れられなくて、澪は混乱していたのだ。
 帰りたい、と澪は思った。
 家に帰って、母に助けを求めたかった。
 彼女は結局、まだ世間知らずの子どもに過ぎないのだ。




 柊は、そんな澪の様子を見て決心する。
 もう、復讐は終わった。彼女を彼女のいるべき世界に戻してやろう、と。

 澪は、こんなところでずっと暮らしていけるような女の子ではなかった。今まで、一人きりだった柊は、澪がいることで安らぎを得ていたことは確かだったが、それはいつか来る終わりを常に意識していた期間限定のきらめきだ。

 このまま、彼女を手元に引き止めておくことは出来ないと、彼にも分かっていた。
 年の明ける前に、柊は澪を外へ連れ出した。

 そして、産婦人科に連れて行き、彼女に本名を名乗り、身体の状況を説明するように言い残し、彼女が診察室へ消えると、彼はその場を去った。

 それが、最後の別れだと、彼は澪が最後に彼を振り返った少し不安そうな表情を微笑んで見送った。



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月の軌跡 (命) 18 

月の軌跡(R-18)

 まだ、堕胎の可能な時期だった。

 恐らく、澪は適切な処置を受け、その後はもう何事もなかったかのように、日常に戻る努力をしているだろう。
 誰より、彼女の両親がそういう風に彼女を導き、澪も数ヶ月間の悪夢を、なかったこととして封印する術を身につけていくのだろう。

 そして、いずれ、自分には警察の手が伸びるだろう、と柊は覚悟を決めていた。

 仕事は淡々とこなし、注文も普通に受けてはいたが、いつでもそこを去れるように、常に準備をしていた。依頼主が困らないように、どこまでどの程度進んだか一目で分かるように、いずれ、誰かが引き継ぐ場合のことを考慮に入れて、デザイン画もパソコンできっちり仕上げて、何もかもを誰の目からも分かるように仕分けしながら進めていた。

 そうやって、仕事にすべてを傾けなければならないほど、彼の心は動揺していた。
 それは、‘不在’の寂寥感だった。
 人は失ってから初めてその真価に気付く。

 柊は、日が経つにつれて、ただがむしゃらに仕事に没頭していった。何も思い出さずに済むように。
 澪の、料理を褒められて嬉しそうにはにかむ笑顔も。
 これ、どうやって作るんだろう?とレシピを片手に悩む横顔の真剣さも。
 ひたすら、仕事を進める彼の手元を見つめて、瞳を輝かせる子どもの目も。
 彼の腕に狂う‘女’の顔も。

 そして。彼女は、ここにいて、くつろいだ時間も確かにあったのだと信じられるようなまどろむ澪の幸せそうなうたたね。

 気が付けば、柊は、澪の面影だけを追っていた。
 僅か数ヶ月、ここで暮らした憐れな少女の。




 年が明けて、ふと気付くと真冬の寒気は少しずつ緩み始めていた。
 何故?澪は自分のことを警察に話さなかったのだろうか?

 或いは、あの家では、その事実を隠し通すことに決めたのだろうか。澪の将来のために。それは充分に考えられた。娘の心の傷よりも、きっと世間体を気にする人々だ。

 それとも、澪自身も、もうすっかり何もかもを忘れ去って、何事もなかったんだと普段の日常を生きているのだろうか。

 そう考えると、柊は、どこかずきずきとする感覚を味わう。

 むしろ、警察に捕まって、何もかもを洗いざらい告白出来た方が良かった。そうすれば、自分と澪との確かな時間の経過を、そこで繋ぎとめられたような気がしていた。

 澪は、自分との時間、関係、その一切を、否定してしまったのだ。
 それは、思いのほか、柊の心を打ちのめした。

 それなら、自分も忘れてしまおうと、彼は思う。
 何もかも。
 二人で囲んだ食卓のほんのりと光った時間も。

 朝方にふと目覚めて、腕の中の少女のあどけない寝顔に心が揺れた想いも、思わず「好きだ」と言いそうになって、目をそらした澪の熱い瞳の色も。

 もともと、本来なら、自分は彼女の人生に触れるべき人間ではなかったのだから。
 
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月の軌跡 (アオイ) 19 

月の軌跡(R-18)

 町を彷徨った夜、柊は、ふと澪に風貌の似た女の子に声を掛けられる。
 風俗嬢だった。

 肩より少し長い緩くウェーブのかかった髪。黒というよりはこげ茶に近い瞳。明らかに日常ではあり得ない派手で破廉恥な服装。年の頃は十代後半・・・か。

「いくら?」

 彼は聞く。女の子はカタコトの日本語で金額を答える。外国人か・・・。彼は、その女の子の瞳にまだ純粋さを失っていないきらめきを見つける。

「良いよ。」

 彼はその子に案内されてその店に足を踏み入れる。受け付けは遮光カーテンのようなもので覆われていて、彼はそこで入店料のようなものを支払った。

 個室のそこは、中央にダブルベッド、脇に小さなテーブルと申し訳程度のソファがあるだけの狭い空間で、シャワールームだけが思いのほか広かった。彼女は、洗面台を覗き込んでいる柊の背後でおずおずと服を脱ぎ始め、彼の視線に顔を赤らめながら、下着までをすっかり外すとバスタオルを抱えてバスルームに消える。

 避妊具を見つけた柊は、それを手にベッドに腰かけてため息をつく。
 自分はいったい何をしているんだろう?と思う。思わず、ふらふらと彼女について来てしまった。

 今まで、こういう誘いに乗ったことはなかった。そもそも、夜中にこんな裏の繁華街のような場所をうろつくことなどなかった。

 仕事明けで開放的な気分だったことと、今夜は、なんだか一人で眠りに就ける気がしなかったせいで、彼はふらりと町に出てしまったのだ。

 月が妙に明るい夜だった。

「あの・・・先に・・・シャワー、浴びた。・・・どうぞ。」

 女の子がバスローブを着て現れた。

「・・・君、名前は?」

 柊はベッドに腰かけたまま聞いた。

「・・・ア・・・」
「あ?」
「・・・アオイ・・・です。」
「アオイ?それ、本名?」
「・・・いいえ。」
「まあ、良いや。アオイちゃん?君、どうしてこんな仕事してるの?故郷(くに)はどこ?」

 アオイは俯いた。

「タイ。」
「家族は?」
「・・・います。きょうだい、3人。」

 まだ、あまり慣れていないらしい彼女は、柊が手招きすると、一瞬ためらうような仕草を見せた。明らかに怯えた視線を向ける彼女のその瞳に、柊はますます澪の面影を見てしまった。

「俺は何人目?」

 隣に座らせて柊は彼女の顎をくいと指で持ち上げる。

「・・・?」

 アオイは聞かれた意味が分からなかったらしく、困ったような視線を投げるだけだった。

「まあ、良いや。」

 柊はそのままアオイの身体を抱き寄せて唇をふさいだ。驚いて反射的に身体を固くした彼女の反応に、まだそれほど経験がないんだな、と彼は思う。それでも、自分から誘って、初めから覚悟を決めている子だ。一生懸命、応えようとしていることが分かる。

 処女というわけではないらしい。
 唇を離してゆっくりローブを脱がせながら、柊は耳元でささやくように言う。

「こうやって、何人客を取ったの?」
「・・・初めて・・・。」

 アオイの細い声に、柊は、えっ?と身体を離す。

「そんな訳はないだろう?いつ、日本に来たの?」
「ニホンには・・・昨日。ここに来たのは、今日です。」

 覚悟は決めたものの、まだどこか揺れている、という目をして彼女は答えた。

「好きな男は、故郷にいたの?」

 何故、そんなことを聞いたのだろう?
 彼女は、はっとして柊を見つめ、そして一筋の涙を零して頷いた。

「その男は、どうして、君を引き留めなかったんだ?」

 アオイは首を振った。涙が後から後から零れ落ちる。

「・・・死んだ・・・。」

 搾り出すような、震える声だった。そして、そのまま彼女は両手で顔を覆って声を殺して泣き続けた。
 柊は、その言葉に、彼女の涙に、心臓を鷲摑みされているような息苦しさを感じた。
 愛する人を失った憐れな少女。
 泣いている彼女の姿は、恐ろしく静謐に見えた。

 結局、彼は、そのままただ彼女の身体を抱きしめたまま数時間を過ごしてしまった。

「早く、故郷に帰りな。」

 柊は、まだ茫然としている彼女の手に約束の金額を握らせ、真夜中過ぎにその部屋を出た。
 ネオンに掻き消された空の星。
 見上げた空はただ暗くくぐもった闇だけがしんと息づいていた。

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月の軌跡 (アオイ) 20 

月の軌跡(R-18)

 その後、柊はアオイのことはが気になって何度かそこを通りかかった。彼女は、大抵同じ時間に客引きをして、そこにいた。そして、何度訪れてみても、彼女のどこか清い印象は変わらなかった。日本語があまり堪能でない彼女から詳しい話は聞きだせなかったが、アオイは、故郷で待っている弟や妹に仕送りをするために働いているらしかった。

 こんな仕事に慣れてしまえず、段々ボロボロになっていく彼女の精神状態が心配だった。次第に虚ろな瞳をするようになり、いつも嬉しそうに駆け寄ってきていた彼女が、彼を見ても、もうあまり反応しなくなっていった。そして、冬の終わりに出会った彼女は、春の半ばになって不意に姿を見かけなくなった。

 お金が貯まって国に帰ったんだろうか?と思い、彼女がいた店を訪ねて聞いてみた。

「あの、・・・アオイは?」
「アオイ?・・・ああ、あの子ね。今、ちょっと休んでるんだよ。ああいう子が好み?他にも沢山いるよ?」
「いや、俺は彼女に会いたいんですけど・・・、会えませんか?」

 声だけの受け付けの相手は、少し怪訝そうだった。

「なんで?・・・あんた、アオイのこと・・・」
「いえ、客でした。それだけです。」

 相手は、少し考え込んでいた。

「あんた、アオイの一人目?」
「は?」
「アオイが連れてきた初めての客だった人かい?」
「・・・彼女は、そう言ってましたが。」

 相手は、何かを考えているようだった。そして、ため息をつくように、言葉を吐き出した。

「今、体調を崩してるんだ。会っても、仕事は出来ないよ?」
「いや、心配で会いたいだけですから。」
「・・・裏で待っててくれる?」

 正直、会わせてくれるとは考えていなかった。こういう商売の元締めは大抵、働く女性を人間扱いしていない。柊は驚いて、そして少し訝しんだ。それでも、彼女に辿り着く方法が他にないのだから仕方がない。彼は、店の裏の暗がりで待った。

 すると、ほどなく若い男が現れ、目で付いて来いと合図をすると、無言で柊を更に奥へと案内する。古びたアパートが立ち並び、その一階の一室にその男は向かった。そして、扉を開けるとそのまま去っていく。

 柊は、恐る恐るそこを覗き込んだ。
 かび臭い匂いと、更に何か異臭が漂い、薄暗いそこには人の気配がまるでしなかった。

「アオイちゃん・・・?」

 柊は呼びかけながらそっと玄関を上がった。手探りで電気をつけようとスイッチを探ったが、見つからない。床には物が散乱しているようだ。いろんな物を蹴飛ばしたり踏みつけてしまってぎょっとしたりしながらそろそろと奥へ進む。

 薄明かりが漏れている窓まで進んで、おざなりに垂れ下がっているカーテンらしき布を寄せて、外からの明かりを入れると、ようやく部屋の中が少し見えてきた。

 散らかったゴミの中に薄い布団が敷かれて、そこに誰かが横たわっていた。
 柊は思わず駆け寄る。

「アオイちゃんっ?」

 ぐったりと死んだように横たわっていたのは、間違いなくアオイだった。痩せて、ますます細く小さくなって、呼吸の音ですらあまりに微かで分からない。

「どうしたんだい?どこが具合悪いの?」

 そっとその額に触れると、幾分熱いような気がする。

「アオイちゃん?大丈夫かい?」

 その顔を覗き込んで何度も呼びかけると、ようやく彼女はうっすらと目を開けた。だけど、焦点の合わないその瞳には、もう何も写っていないようだった。柊はそっとその身体を抱き起こす。

 その刺激に、ようやく彼女は意識がはっきりしたようだ。

「だれ・・・?」

 唇がそう動いた。

「俺、覚えてない?ごめん、名前も名乗ってなかったけど・・・。」

 アオイは、その声に微かに微笑んだ。

「会いたかった・・・。」
「・・・え?」
「会いた・・・かった・・・。」

 アオイの手が、ゆっくりと持ち上げられ、自分を抱いている柊の腕に触れた。細い、冷たい手だった。

 柊は、彼女の目が自分を見ていないことに気付いた。アオイは、亡くなった恋人が迎えに来たと思っているのだろうか。

 いや、それとも・・・。
 彼女の目は、もう見えていないのかもしれない。
 つうっと、その頬に涙が伝う。

「ありが・・・とう・・・。」

 アオイはそう呟いて目を閉じる。

「アオイちゃんっ?・・・どこか苦しいの?どこか痛むのかい?」

 彼女はもう目を開けなかった。規則正しい微かな呼吸音が繰り返され、次第にその身体から力が抜け落ちていくことが分かった。彼女の手が、ぱたりと落ちる。

「アオイちゃんっ!」

 柊は叫ぶ。身体をゆさぶる。しかし、アオイの身体からはどんどんエネルギーが漏れ出してでもいるかのように生気の類がしぼんでいくのが分かった。

 ぞっとした。
 妹の最後を看取った彼には分かった。
 アオイは、今、逝こうとしているのだ。

 こうなったら、もう、誰にも止められない。魂はこの世の仮の宿を離れる準備を始めてしまった。生まれる前に描いた青図の通りに。その、‘生’への契約をまっとうして旅立つのだ。

 妹の冷たくなっていく手を握り締めていた、ぞっとするような孤独の夜を思い出した。
 あの悪夢を再び味わうことになろうとは・・・。




 冷たくなっていくアオイの身体を抱きしめたまま、柊はどのくらいそこにそうしていたのだろうか。
 ふと気付くと誰かが背後に立っていた。

「・・・悪かったな。」

 声が、受け付けの男のものだった。柊は振り返らなかった。

「アオイは、ずっとあんたに会いたがっていたんだ。・・・もう助からないと分かって、アオイは帰国しないことを決めた。このままここで行方不明になった方が・・・家族にとって良いと思ったんだろう。・・・ここのところ、ものすごく弱ってきて、もうすぐ逝くと分かってた。最後に、あんたに会わせてやりたかったんだ・・・。」
「助からない・・・って、どういうことだったんだ?」

 呻くような苛立ちの混じった声で、柊は聞く。

「医者に診せたときには、もう、末期の癌だった。アオイは、日本に来る前からもうすでに癌に侵されていたらしい。」
「なんで・・・」
「金が必要だったんだろうよ。」

 柊は唇を噛み締める。

「あとは、こっちで始末をする。あんたは、もう帰った方が良い。」
「・・・夜が明けるまでいさせてくれ。」

 柊は言った。

「せめて、朝の光が・・・アオイの魂を導いてくれるまで。」
「ああ。」

 男は、そうため息をつくように呻いて去っていく。

 柊は、そっとアオイの身体を布団に横たえた。心にぽっかりと穴が空いたようだった。その空洞の闇があまりに深くて、涙も出なかった。

「・・・恋人が、迎えに来てくれたかい?」

 乱れた髪を直しながら、柊は語りかける。

「そこに俺の妹もいるかな?・・・きっと、君と良い友達になれると思うんだ。俺はなんとか元気に暮らしているって伝えてくれるかな・・・?」

 衣服を直し、薄い毛布を掛けてやりながら、柊は微笑みかけた。

「・・・これで、君も、長い苦しみから解放されたのかい?」

 ただ、苦しんで死んでいった妹の顔が浮かんだ。苦痛に歪んだ表情が、涙を浮かべて自分に救いを求める切ない瞳が。そして、何もしてやれなかった悔しさが、鮮明に蘇ってくる。

 忘れてはいけないと、言われているような気がした。
 恨みを?憎しみを?




 遅い夜明けと共に、柊はそこを後にした。

 最後に振り返ってビルの隙間に建つそのボロアパートを見つめたとき、ゆらゆらと立ち上る陽炎のような光が見える気がした。
 
 

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月の軌跡 (ハワイ) 21 

月の軌跡(R-18)

 病院で妊娠が分かり、明らかにまだ未成年であることから、連絡先を聞かれた澪は、一瞬ためらった後、自宅の電話番号を答えた。

 柊の顔がよぎった。しかし、澪は母親に会いたかったのだ。
 そこで病院から連絡が行き、彼女は数ヶ月ぶりに無事に保護された。

 警察や両親に、それまで一体どこにいたのか何度も聞かれた彼女だったが、ほとんどまともな情報は持っていなかった。

 監禁していた男の素性も、澪は名前、しかも‘フユキ’とだけしか答えなかった。鮎奈という患者の家族であることは分かっていたのに、澪はそれを答えることに躊躇いを感じていた。何故なのか、彼女自身にも分からない。

 暮らしていた場所も、澪は外の様子がまったく分からなかったので答えようがなかったし、彼の生活や職業についても、彼女は、分からない、とだけ答える。

 彼が警察に捕まることを、澪は望まなかった。

 何か知っていることを隠している澪の態度は明白だったが、両親ですら、何より事件が表沙汰になることを恐れ、娘が無事に戻ってきたのだから、もう良いと言い出した。

 澪にはさっさと堕胎手術を受けさせ、しばらく海外で療養させたいと。
 子どもを殺す・・・という段階になって、初めて澪はその意味を考える。自分の子どもであり、柊の子ども。

「・・・ま・・・待ってください。あの・・・っ」

 澪は、すぐに手術と言われ、ためらった。

「大丈夫よ、澪ちゃん。すぐに済むし、・・・それで、もうおしまいにして忘れられますからね。」

 母にそう笑顔で諭され、それでも、澪はまだ決めかねている。

「でも・・・でも、この子は、・・・もう生きているんですよね?」
「この子だなんて・・・。澪さん?あなた、まさかその年で子どもを生む気ではないでしょう?」

 母親の驚いた顔に、澪も少しひるんだ。それは、未知の恐ろしい体験に思えた。まだ、彼女は高校へ行きたかったことも事実だ。

「それに、そんなことが世間に知れたら・・・。」

 その先に続く恐ろしい現実。母の言葉に萎縮し、澪は、もう何も言えなくなった。それでも、まだ、彼女は本当にはどうしたいのか分からなかったのだ。しかし、もう彼女の意思などそこには必要とされておらず、両親と病院とですべては整えられ、澪は訳の分からない内に、子どもを失ってしまった。

 そして、失ったことに気付いてから、澪ははっきりと知った。自分が、その子を本当は慈しみたかったことを。この世に生み出して抱きしめてあげたかったことを。

 その喪失感に、澪は打ちのめされた。

 そして、有無を言わさず、新学期までを彼女は母と共にハワイで過ごすことになってしまった。名目は、病気療養ということで。
 



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月の軌跡 (ハワイ) 22 

月の軌跡(R-18)

 いろんなことが落ち着くと、思い出すのは、最後に柊が診察室に入っていく澪を見つめた悲しいまでの熱い瞳だった。

 あれは、『さよなら』と云っていたのだ・・・、と澪はそのときになってようやく知る。

 待合室に彼の姿がないことに気付いた澪は、泣きながら彼を探し歩いてしまった。それを、病院側では勘違いして大慌てで両親を呼んだ。

 両親の姿にほっとしたことよりも、柊が消えてしまったことへの寂しさで、澪は泣いた。何故、あの男を恋しいと思えるのか、澪は自分自身の心が分からなかった。だけど、ただ悲しかったのだ。それまで一緒にいた人間の存在をこんな風にあっけなく失うことが。

 それとも、すり込まれた‘恋’だったのかもしれない。
 愛されているのだと錯覚した幻想の。

 そして、身体に刻み込まれた彼の足跡。その刻印。澪の身体は、夜毎、柊を求めた。丁寧に彼女の身体を愛してくれた男の呪いを。
 



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月の軌跡 (ハワイ) 23 

月の軌跡(R-18)

 忘れようと思った。
 南国の太陽の下。白い砂浜と気の遠くなりそうな青い空と海に抱かれて。何もかもが明るく眩しく強烈なハワイの空の下。陽気な人々。思考の粒子ですら、そこでは何もかもがふわふわと軽かった。

 それでも。
 夜の闇に、月を見ると、柊の瞳が浮かぶ。

 取引相手と交渉するときの熱い瞳、仕事をしているときの澄んだ光が。目の前で魔法のように美しい模様を彫る彼の繊細な手の動きが。
 自分を見つめるときの切ない色が。

 彼の腕に狂う瞬間の、もう他に何も要らないような、もう、何もかもがどうなっても良いと思う中毒のような感覚が澪を何度も襲う。

 リゾート地を歩いていると、男に声を掛けられることがある。日本人もいたし、海外の旅行者もいた。真っ黒に日に焼けた現地の男もいた。いつもなら、視線も合わせない彼女だったが、あるとき、母親の目を盗んで誘いに乗ったことがあった。それまでの澪には考えられないことだ。だから、母親も、まさかそんなことがあるとは考えることすらせずに気付かなかった。

 買い物に行ったままずいぶん帰らない娘を、それでも、まさか男と会っているとは思わずにいた。
 久しぶりに男に抱かれてみて、澪は、知る。

 セックスとは、身体で表現する言語でもあるのだと。男が何を目的に抱くのかで、自分の感じ方も違うのだと。
 澪は、幾人もの男と関係を持った。
 何を求めているのか、彼女にも分からなかった。

 そして、身体はしばし満たされても、どんどん深くなる絶望の中で澪は知った。彼女は柊のように彼女を抱いてくれる男を探していたのだ。その意味も分からずに。

 幾人目かの男が、澪を抱いたあと、ソファに座ってタバコに火を点けながら言った。

「あんた、男がいるだろ?なんで、こんなことをしてる?」

 彼は、どこかヤクザ風の日本人だった。黒いワイシャツを着こなし、きちんとし身なりの金持ちそうな男で、彼の宿泊するホテルでの情事の後だった。
 澪は、裸のままベッドで毛布を引き寄せてそっと首を振る。

「捨てられました。」
「そりゃ。・・・あんたを捨てるような男がいるとはね。」

 澪は答えず、窓に揺れるカーテンを眺めた。

「大分、その男に丁寧に躾けられているじゃないか。随分、愛されたんだろ?」

 男は、澪が答えないことを気にする風でもなく一人で話し続ける。

「あんたが日本人じゃなきゃ、このままさらってその筋の店に売り飛ばしたいくらいだよ。感度の良い身体で、良い声で鳴くお嬢さんだ。」

 ざらざらした声だと、澪は思った。タバコの吸いすぎで、喉をやられているんじゃないのかしら?と。

「まだ、未練があるなら、どうして会いに行かないんだい?」
「未練・・・?」

 澪は初めて男の顔をマジマジと見つめた。

「未練じゃないのか?あんたはオレの腕の中で、そいつのことだけ想ってただろ?」

 男はにやりとする。

「初めての男で、初恋だったって訳?」
「・・・違います。」

 澪は動揺して首を振る。

「あの人は、私の父を憎んでいて・・・、私は復讐の道具だっただけです。」

 男は笑った。

「復讐?それだけで、あんたをそんな風に抱けるわけないね。あんたは、男がしてくれた順を追ってオレに求めてただろ?辱めるためだけに、そんな抱き方をする男はいないよ。その男は、あんたを愛していたんだよ。だから、そいつも混乱してあんたから離れようとしたんだろう。」

 男は煙を吐き出しながら、ひどく静かな目をして、澪の信じていない目をおもしろそうに見つめる。

「会いに行ってみな。」

 男はベッドに歩み寄り、澪の顎を片手でとらえて、ぐい、と自分の方に向けさせた。

「そんな目をして町をいつまでもウロついていると、性質の悪い男に捕まって、抜けるに抜けられない世界に引きずり込まれるのが落ちだ。いずれ、あんたの身体はその男を求めて、堕ちるところまで堕ちてしまうだろうよ。」

 そのとき、澪の心に、その忠告は届いていなかった。彼女はその後もフラフラと誘われるままに、男に身体を預けていたのだ。

 そして、帰国間近になったとき、彼女を探しに来た母親に遂に現場を見つかり、澪は半狂乱の母親にぶたれ、恐ろしい形相で罵られた。母には、もう娘が理解できなかったのだろう。そのまま、有無を言わさず帰国させられ、そして、自宅の部屋に閉じ込められたのだ。

 澪の絶望の本当の意味は、外側から自分たちの世界が見えてしまったことだ。
 世界はそれまで、彼女にとってごく狭い範囲にしか存在していない、鳥籠の中の空間だった。

 そこは温かく穏やかで、退屈で平和な場所だった。外に世界があることを知らずに、人々が生活していることも知らずに、澪は閉ざされた世界で生かされていた。人生を決められ、逆らうことを知らず、人を憎むことも愛することも知らずに。

 激しいものをそれほど持たなかった澪は、柊に出会って、人間の持つ生の感情を知った。心を激しく揺さぶられることを、憎悪を知った。そして、それまで知る必要のなかった‘自我’を、‘自分’というものの存在を否応なしに考えさせられた。

 時間だけが、そのとき彼女に与えられた自由だった。

 籠の中にいたとき、その籠の存在を意識したことはない。しかし、一歩外に出るとそれまでいた世界がどんなにちっぽけで狭い空間だったのかが見えてしまった。

 病院という医療の最前線で、華やかな舞台で繰り広げられるショーの舞台裏。その腐った人間関係。娘の心の傷よりも世間体を気にする母親と出世を考える父親。

 澪は、両親が、彼女の高校の卒業と同時に、父親の見初めた跡継ぎ候補と見合い結婚させようとしていることを知っていた。

 そのために、今は事件を大きくしたくないこと。
 ほとぼりが冷めるまで、世間から身を隠すために海外に避難させたのだということ。
 だが、それはそれまで澪が信じてきた‘愛’の形だ。
 それに、反抗する気だったわけではなかった。
 ただ、澪はどうして良いのか分からなかったのだ。



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月の軌跡 (再会) 24 

月の軌跡(R-18)

 4月から高校に復学し、澪は表面上は日常生活に戻った。

 しかし、それまで以上に澪には自由がなくなった。行動は常に運転手付きで、唯一彼女が一人になれるのは、図書館で勉強する時間だけだった。

 クラブ活動も制限された彼女は、学校帰りに市営の図書館に寄り、夕食の時間までの数時間、遅れた分の勉強をそこで少しずつ進めている。

 母が、家庭教師をつけてくれようとしたのだが、澪はそれを断った。一人になれる時間がないと、気が狂いそうだった。
 



 夏前の、もう暑くなりかかっていた頃、柊は、ふと目の前の車に澪が乗っている姿を見つける。自分のワゴン車で、商品の納入に出かけた帰りだった。

「澪・・・ちゃん?」

 そう、声に出して呟いた途端、柊は、一緒に暮らした時間の彼女を一気に思い出した。どくん、と心臓が音を立てた。

 何度も抱いた彼女の身体のすべて、怯えて泣き叫ぶ彼女を次第に蝕んでいった闇が、あるとき吹き払われるように消え去り、次第に瞳に光が戻り、命が輝きだした瞬間の少女の笑顔を。

 それは、灰色だった彼の日常に一気に色彩を取り戻した。
 手に入れたかった魂が、そこに在った。

 信号で止まっていたその車が走り出した方向へ、柊も向かった。街中を走りぬけ、その車は進む。追いかけて、どうしようと明確に考えていたわけではなかった。

 もう、澪は自分を忘れる努力を、それこそ死に物狂いでしているのだろう、と分かっていた。自分を見て、彼女は再び闇に突き落とされることになるだろうことも。

 それでも、欲しいという想いが止められなかった。

 何故だろう?

 自分を認めてくれた瞬間があったことを、彼に恋した瞬間があったことを、柊は感じていたのだろうか。澪の瞳が、深く揺れて憧れのような炎を宿した瞬間、彼は本当の意味で癒されたことを、その魂が知っているのだ。

 二人の魂が深く結びついた瞬間の閃光を。




 澪を乗せた車は図書館前に停車し、彼女を玄関に下ろすと、駐車場に向かって走っていく。そして、運転手の白川は車を下りて、入り口のカフェで待機しているようだ。

 それらをゆっくり確認し、柊も車を停めると、そのまま中へ向かった。
 館内を見てまわり、机が並んでいる学習室を覗き込んで、柊は心臓が鳴った。
 奥の窓際の席に、澪が机の上に教科書やノートなどを広げてペンを走らせていた。

 何かを必死にごまかそうとしている、というのか。ぴりぴりとした、切ないまでの飽和した悲しみを感じた。薄い空色のヴェールが張り巡らされているように、彼女の周りの空気は沈んでいた。

 柊は、そっと彼女の向かい側の、少し離れた席に腰を下ろす。
 そのまま、黙って澪を見つめていた。

 澪は、必死に何かを書き写していたかと思うと、不意に両手で額を覆い、肩をふるわせる。そして、窓の外をぼんやりと眺めると、また、目の前のことに集中しようとする。そんなことを幾度となく繰り返していた。

 おぞましくも辛い記憶と戦っている・・・ように、柊には感じられた。
 忘れようとしているのだ、と。

 しかし、彼はそのまま彼女を見なかった振りをする気には、もうなれなかった。

 失った命の代償に?
 妹の想い。アオイが遺した想い。
 苦しんで逝った彼女たちが伝えたかったこと・・・。
 



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月の軌跡 (再会) 25 

月の軌跡(R-18)

 やがて、澪は、あまりに不躾な視線に気付いたのか、ふっと顔を上げて感じる視線の先に目を向けた。
 そして、ゆっくりと目を見開いた。

 そこに、どんな種類の感情が宿っていたのか、澪にも、柊にも分からない。
 しかし、柊はそんなことはどうでも良かった。
 目の前の獲物を捕えることだけに集中していた。

 澪の視線を完全に捕えたことを確認して、彼は、目だけで合図をして、澪をその部屋の外へ連れ出そうとした。従わなければ、無理やりにでも引きずって行くつもりだった。

 しかし、澪は茫然としたまま、立ち上がった彼について席を立った。そして、入り口でふと振り返った彼の後について、そのままゆっくりと歩き続ける。

 催眠術のようだった。或いは、操り人形の・・・。

 数歩離れて彼の後について来る澪を、柊は表示に従って裏口の方へと誘い込む。そして、そのとき使われていなかった会議室へ向かう廊下の突き当たりで振り返り、彼が立ち止まったことでそこに佇んだ澪の、頭ひとつ分低い身体を強引に抱き寄せた。

 澪は、逆らわなかった。

 そのまま彼の腕に身体を預け、彼の胸に顔をうずめた。懐かしい乾いた木材の良い香りがした。不意に時間が巻き戻った気がして、澪はその胸にしがみつく。

 やがて顔を上げた澪は、自分を見つめる柊の切ない瞳に出会い、そのまま静かに目を閉じる。そして、二人はむさぼるように唇を奪い合った。

 ああ、誰もこんな風には自分を求めなかったと、澪はくらくらする頭で必死に思う。

 柊の首筋にしがみつくように澪は腕を絡め、口の端から流れ落ちる唾液も、もう伝い落ちるまま関心を払わなかった。ただ、このまま感じていたかった。相手がここにる事実を。つながっている瞬間を。

 薄暗いそこには人影はなかった。

 柊は、澪のスカートをたくしあげ、下着を引き剥がすように外していく。彼女はされるがまま一切の抵抗はなく、最後に自分でそれを足から外す。そして柊は片手でベルトを外すと、彼女の身体を壁で支えながら、その細い腰を抱き寄せ、一気に澪の中に入っていく。

「・・・あっ・・・」

 澪が細い声をあげた。自分の中に感じる柊を、澪はぎゅうぅっと抱きしめる。熱い、男の命の息吹を。
 他の誰に抱かれても、そんなことは感じなかった。

 テクニックのどれだけ上手い相手とでも、心を満たされることはなかった。初めから何度もじらされて、感じたことのない深い絶頂を得ても、相手の得意そうな目を見た途端、すとん、と心は冷えていた。
 身体は何度でも相手に応え、もう、自分の自由にならない境地に追い込まれても、澪はその男と別れた次の瞬間、相手の顔も思い出せなかった。

 浮かぶのは、いつも、最後に澪を見つめた瞳の色だけだった。そして、不思議なことに、思い出すのはいつも最後の夜のことだけだった。優しく彼女の身体を抱き寄せて一緒に眠ったまどろみの時間。

 陵辱者として彼女の前に現れたはずの彼が、そういう獣の顔をした柊の目を、澪はもう思い出せなかった。いや、思い返すと、彼の目は初めからどこか‘深い悲しみ’を宿していたような気がするのだ。

 ‘復讐’とは、悲しみに起因するものだ。

 どれだけ心を鬼にしても、零れ落ちる想いが奥底に潜んでいる。凍らせた心の更に奥深くに。

 ゆっくりと深く、柊は澪を抱く。
 ひとつになる瞬間の甘美な蜜を味わう。

 絶頂を与えることよりも、ただ、隙間なく二人が魂を近づける瞬間を求め続ける。肌を寄せ、唇を合わせ、どこまでも深く。

 そして、澪がその熱に耐え切れなくなって全身を震わせて絶頂を迎えた瞬間、柊はすうっと身体を離した。

「・・・?」

 澪はがくがくと震えたまま、彼の腕に身体を預ける。

「どうして・・・?」

 柊が、まだイっていないことは明白だった。
 澪を見つめる柊の目は厳しくも、ひどく優しかった。

「どうして?」

 澪は繰り返す。彼の腕にしがみついていないと崩れ落ちてしまいそうだった。柊は、そのまま澪の身体を強く抱きしめる。痛いくらい強く。

「・・・怒ってる・・・の?」

 澪は、恐る恐る聞く。

「赤ちゃん・・・生めなかったこと・・・。」
「違う。」
「・・・ごめんなさい。」
「違うよ。」

 澪の身体を抱きしめたまま、その頭をむちゃくちゃに抱きながら柊は吐き出すように言う。

「悪かったのは、俺だ。君は、まだ子どもなんて生まなくて良かったんだよ。」
「でも・・・」

 初めて澪は涙が零れた。

「生んで、あげたかったの・・・。」

 そして、知った。失った赤ん坊のことで、本当は自分がどれだけ泣きたかったのか。本当はどれだけ傷ついていたのかを。

「フユキ・・・」
「違うよ。」

 柊は身体を離して、澪の目を見る。

「俺は・・・‘柊’だ。」

 澪は頷いた。



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月の軌跡 (再会) 26 

月の軌跡(R-18)

「存じてます。」
「知ってる?」
「鮎奈さんの・・・カルテを見ました。そして、そのご家族のお名前を調べました。」
「どうして?」
「知りたかったんです。あなたのことを・・・。それから、自分のことを・・・。」

 澪は零れ落ちる涙をぬぐいもせず、ただ必死に彼を見上げた。そこに彼が本当に存在しているのかを確かめるように。

 不意に、人の声が聞こえ、二人は慌てて衣服を直す。羞恥のためではない。澪は、母親に見つかって、その後自由を奪われたことを忘れられなかった。今は、どこへ行くにも白川が監視に付いて来る。友人と自由に出かけることすら叶わないのだ。

 そして、ただ、話をしているような様子で佇む二人は、薄暗闇でお互いの目を見つめ合っていた。
遠くに聞こえた人の話し声は、そのまま遠ざかっていく。そろそろ戻って、帰る支度をしないと白川が探しに来てしまう。二人はもと来た方向へ向かって歩き出した。

「私・・・、しばらく、ハワイに行っておりました。」

 澪は柊に支えられて歩きながら話し始める。

「そして、そこで出会ったある方に言われました。私はあなたに恋していたんだろう?と。」

 どきりと心臓が鳴り、柊は何も言わず、立ち止まった。
 それは、彼も自分自身に何度も聞いた問いだ。

 澪を愛していたんだろう?
 だから、そばに置きたかったんだろう?
 ‘妹’のことからはもう離れて、仇の娘を愛したんだ、と。

 だけど、復讐にかこつけた欲望に、澪は引き裂かれ、闇に堕とされた被害者だった。彼女が否応なく従わされたのは‘陵辱’という行為に寄ってだ。そこから解放された彼女が、何を思うのか、彼には分からなかった。

 それでも、手放したくないと、柊は彼女を見つけた瞬間に知った。

「そのときは、そんなことは思いませんでした。ですけど、後でいろいろ思い返すと、そうだったのかもしれないと思いました。あなたを求める想いが、他の男性すべてに投影されるのだと、その方がおっしゃっていたことを・・・。」
「俺を求める想い?」
「あなたに抱かれたい想いが・・・、です。」

 柊は驚いて立ち止まり、澪を見つめる。彼女のまるで照れもせずに淡々と答える、どこか恍惚、とした表情に彼は違和感をおぼえる。そして、その意味することを理解して、柊はカッと頭に血がのぼった。

「他の男とやったのか?」

 その、怒りを含んだ柊の驚きの声に、澪はびくりと彼を見上げた。

「・・・あの・・・ごめんなさい。」
「いつ?・・・一体、どうして?」

 腕をつかまれ、澪は怯えた。

「ごめんなさいっ・・・」

 柊は、澪の身体を他の男が好きに弄ぶその光景を目の前で見せつけられているような錯覚を得て、逆上しそうになった。自分では抑えきれないその激情。そして、柊は確信するのだ。

 この女を愛していたのだ、と。

「なんで、そんなこと・・・」
「ごめんなさい・・・っ、だって、フユキが、いなかったから・・・」

 悲鳴のような細い声に、柊ははっと我に返る。そうだ、彼女の前から姿を消したのは自分の方だった。

「ごめん。」

 つかんでいた腕を離し、柊は大きく息をつく。

「・・・ごめん。」

 そして、柊は壁にもたれて一旦澪から顔を背けた。澪は、その彼の様子に軽蔑されたのかと怯える。もう、嫌われてしまったのだろうか、と。

 青い顔をして佇む澪を、柊は、その腕をつかんで引き寄せる。そして、そのままその頭を胸に抱いて、ささやくように言った。

「澪ちゃん、俺のものになれよ。」



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月の軌跡 (婚約) 27 

月の軌跡(R-18)


 その後も、何度か二人はその図書館で会った。しかし、そう何度も誰の目も届かない空間など都合よく見つかりはしない。

 澪の様子が変わったことに不審を抱いた白川に、二人はほどなく見つかってしまった。

 柊の素性はすぐに知れることとなり、事件の犯人が彼だったことはすぐに見抜かれた。澪の父親は、柊を警察に突き出されたくなければ、二度と会ってはならないと娘に言い渡した。父親としては当然の処置であろう。相手は、娘を監禁し、陵辱した犯人なのだから。

 そして、それだけでは済まさず、高校の卒業まで待つはずだった見合い、そして婚約をすぐに履行することに決めた。もはや澪の意思などそこにはないも同然だった。

 初めから決められていて形だけのお見合いは、双方の家で滞りなく進められ、澪は、逆らうことも出来なかった。相手は、父親の大学の後輩の医師で、澪より大分年が上だった。医師としては信頼も厚く、なかなか誠実な人柄の男だったが、生真面目で面白みがなく、柔軟さのない堅物だった。

 高校だけは絶対に卒業したいと澪は頑なに言い張り、結納までは済ませても、その先は卒業まではイヤだと最後の抵抗をみせた。

 家と学校の往復以外の一切を奪われた澪は、ほとんど部屋に閉じこもってふさぎ込むようになになった。

 柊が、澪に言ってくれた言葉。
 想いは同じだったのだと、初めてお互いに確認したこと。

 始まりが犯罪だったとしても、二人は惹かれあい、求め合ったことは錯覚ではなかった。確かに、どんな形であれ‘愛’が存在していたのだということ。お互いの魂に‘尊敬’を抱いたこと。

 それをようやく手に入れて安堵した矢先のことだった。
 長い孤独と流離からの帰還となったはずだった。
 それを一瞬で砕かれた。

 辛い道のりが長すぎた二人には、温かい思い出がそれほど多くはない。支えあえるほどの、何も、まだなかった。そこに在るのは、ただむき出しの『欲望』に過ぎない。お互いの身体を求め合うだけの。

 溶け合う瞬間の刹那の熱い塊。白い閃光。至福の一瞬にすべてを閉じ込めただけの。

 生木を裂かれるような引き裂かれ方をした澪の想いは、血を流し続ける深い傷となって嘆きの底に沈んだ。
見る蔭もなく痩せて顔色の悪い娘を見かねて、母親が、ある休日、一緒に買い物に出かけて来ようと誘う。せめて気分転換をさせようと思ったのだろう。

 基本的に親に逆らうことをしない澪は、大人しくそれに従う。
 そして、外へ出て車に乗り込もうとしたとき、ふと視線を感じて塀の外へ視線を移した。

 そこに、道路を挟んだ向かいの家の壁際に、寄りかかるように佇む柊の姿があった。

 澪は声をあげそうになって、慌てて口を押さえる。お腹の底から恋しさが湧き起こる。傍に駆け寄って、その腕に飛び込みたい。思い切り抱きしめて欲しい。愛していると、ささやいて欲しい。

 信じさせて欲しかった。彼に必要とされていることを。世界がまだ開かれているということを。

 澪は、彼を見つめながら、涙をぽろぽろと零した。母親は、忘れ物をして一旦家の中に戻っていたし、白川は車の窓にちょっとした汚れを見つけて、慌ててそれをふき取っているところだった。

 柊は、澪の視線を捕えると、手に持っていた白い封筒を指さし、それを彼女の家の郵便受けにそっと入れた。そして、玄関から出てきた母親の姿を見て、ふい、と背を向けて歩き去って行ってしまった。

 行かないで!と叫びたいのをこらえて、澪はただ必死に彼の後ろ姿を目で追った。瞼に焼きつけて、忘れないように。
 



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月の軌跡 (婚約) 28 

月の軌跡(R-18)

 柊が、そのときたまたまそこにいた訳ではないだろう。
 恐らく、澪の姿を見つけるまで、何度か通っていたのだろう。
 彼は、確実に、何か意図があって澪に会いに来たのだ。
 澪は、買い物の間中それを考えていた。

 彼の持っていた白い封筒。あれは、何だろう?
 一緒に死のうと、何か薬をくれたのだろうか・・・?

 彼女の家に何度か足を運んでいたらしい彼が、澪の、見合い、婚約の流れを知らない訳はなかった。近所でもすでに噂になっているし、澪の家には相手方の家族や関係者の出入りはずっと続いていたのだから。




 自宅に戻り、母が買ってきた荷物を出迎えた家政婦に手渡しているとき、別の若い家政婦が郵便物を手にして首を傾げているのを見つけて、澪ははっとする。

 そうだ、柊のくれた封筒!

「それ、ちょっと見せてちょうだい。」

 家政婦が封筒の束を父親の書斎に運ぼうとしているところに、澪は声を掛ける。

「はい・・・?」

 彼女は立ち止まって、怪訝そうな表情をする。澪が郵便物に関心を示したことなど今までなかったのだ。
 澪は、彼女の手からそれらを受け取って、柊が手にしていた宛名の書いてない封筒を探し当てる。

「あ、そちらは・・・。」
「これは、友人が授業の資料を届けてくれたものだから。」

 澪は、何気ない様子で微笑んでみせる。

「そうでございましたか。宛名が書かれていなかったもので、少々不審に思っておりました。」

 ほっとしたように家政婦は言い、残りを抱えて彼女はいつものところに郵便物を運んで行った。
 それを見送って、澪は、高鳴る鼓動を押えながら部屋に駆け込む。

 柊は何かを伝えようとしていたに違いない。
 駆け落ちの連絡?
 それとも、こっそりと二人が連絡を取れる方法?

 澪は震える手でその封筒を開け・・・
 そして、ぱらぱらと床に落ちたその中身を目にして、愕然とする。

 一瞬、目を疑った。
 間違いではないかと本気で思った。
 悲鳴をあげそうになって、喘ぎながらもようやく堪えた。

「・・・どうして・・・?」

 声がかすれていた。

「・・・どう・・・して?」

 あまりの絶望感に涙すら出なかった。眩暈を感じて、吐きそうにすらなった。
 澪は、そのままベッドに突っ伏して、声を殺して、それでも思い切り泣き始めた。




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月の軌跡 (婚約) 29 

月の軌跡(R-18)

 柊のくれた封筒に入っていたもの。

 それは、彼が澪をさらったときに撮影した彼女の写真だった。一枚ずつ衣服を切り裂いていったその過程を写したこれ以上ない、惨めで卑猥な写真だった。

 その背景に、そのとき着ていた服に、澪は間違いなくこの写真を撮影したのが柊だと分かっていた。

 何故?
 どうして、こんな物を?
 これ以上、私を辱める必要があるの?
 愛していると云ったあの目は嘘だったの?



 
 散々泣いて、泣き疲れて、澪はぼんやりと先ほどの柊の表情を思い出した。
 封筒を指さして、彼女を見つめた彼の、何かを言いたそうだった暗い瞳。

 何かを、言いたそう・・・。

 そうだ。
 彼は、わざわざ澪を傷つけるために来た訳ではない筈だ。

 ただ、彼女を傷つけ、貶めるためなら、彼女にこの写真を渡るようにする必要はない。他の誰かの目に触れさせた方が、致命的な打撃になることが分かっているなら、こっそりと郵便で送る手もあるし、もっと確実なのは、ネット上にこの写真をバラ撒くことだ。

 だけど、違う。
 彼は、何かを伝えに来たのだ。




 何を?
 二人が望むものを手に入れるために。
 駆け落ちでも、心中でもないのなら?




 不意に、澪は頭がクリアになる。散々泣いて、余計な思考を排除したせいかもしれない。




 「この写真を婚約者に見せれば良いのだ。」



 
 生真面目で堅物で、不正は許せない潔癖症の彼に。
 他の男に陵辱され、堕胎し、更にその陵辱者に恋している女など、彼は顔を背けるに違いない。
 両親がひた隠しにしている事実。口だけでは信じられなくても、ここに、こんなに鮮やかな証拠がある。




 自分に、そんな勇気や行動力があったとは、澪は知らなかった。

 生まれて初めて、手に入れたいもののために、彼女は自ら立ち向かったのだ。イバラの道を。自分を貶めても、手に入れたいもの。

 それが正しいのかどうかなんて分からない。
 後悔しないか、など分からない。
 だけど、たったひとつ分かっていること。

 あの、婚約者と結婚して、あの男に抱かれることだけはイヤだった。
 それまで、幾人もの男に平気で身体を許せたのは、本当に欲しいものを諦めていたからだ。

 だけど、澪は知ってしまった。
 柊に、会いたい。
 彼に、抱かれたい。

 あの、澄んだ眼差しを生活の中に感じて、彼が紡ぎだす魔法の世界を近くで見ていたいのだと。その世界を支えていきたいのだと。




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月の軌跡 (婚約) 30 

月の軌跡(R-18)

 自分から婚約者に会いたいと言い出した澪を、両親はやっとその気になってくれたのかと喜び、彼と会うセッティングをしてくれた。澪は、白川に送られ、婚約者と食事に出かけた。

 洒落たレストランで向かい合ってテーブルに就き、料理を選んで注文をし、ウェイターが去った直後、澪は黙ってその写真を彼に手渡した。

 ふと不思議そうに、だけど微笑んでそれを受け取って、中を見た彼の表情は、一瞬で強張り、そしてこれ以上ない不快さを露わにした。そして、彼は汚らわしいものを見るような驚愕の表情でゆっくりと澪に視線を戻す。

「・・・これは、いったいどういうことですか?」
「ご覧になった通りのことです。」

 澪は、無表情に答える。

「・・・これは・・・、それだけ、だったのですよね?」

 彼の呼吸は苦しそうだった。

 それだけ、とは衣服を剥ぎ取られただけで、それ以上のことはなかったんだろう?と彼は最後の望みを掛けて聞いているのだと澪には分かった。

「こんな写真を撮る方が、それだけで終わると思いますか?」

 事実、その後のことは、やはり今でも澪は思い出すことが辛い。あのときの恐怖と苦痛が蘇り、澪は少し青ざめた。

「その後は、数ヶ月に渡って監禁され、・・・妊娠が分かって放り出されました。」

 ガチャンと音がして、彼がテーブルにこぶしをついたことが分かった。グラスの水がこぼれ、彼は片手で顔を覆った。呼吸がますます乱れ、それでも落ち着こうと努力していることが感じられる。

「・・・今でも、私はそのときのこと、彼に・・・抱かれて、もう、何も分からなくなったときの感覚が忘れられません。・・・彼を、忘れられないのです。」

 言葉を選んではいても、そんなことを口にすること自体、澪には震えるほど勇気に要ることだった。自分を貶め、蔑まれても、成し遂げなければならないことのために。どうしても手に入れたいもののために。

「・・・無理です。」

 やがて、彼は苦しそうに口を開いた。

「申し訳ありません。私には、許容の範囲外です。」

 彼は、もう澪の顔を見なかった。

「失礼ですが、白川くんをお呼びいたします。私はこれで失礼させていただきます。」

 顔を背けたまま、彼は席を立った。そして、まだ運ばれていない、だけど注文済みの伝票をテーブルから取り上げてレジへ向かい、苦しそうに、だけどそそくさと支払いを済ませると、振り向きもせずにそのまま外へ出て行った。

 これで、終わった・・・、と彼が扉を出ていく気配を背後に感じて澪は目を閉じた。
 これで、すべてが終わってしまった。もう、引き返せない。

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。

 だけど、同時にお腹の底から何か熱いものが湧き上がってくることも感じていた。

 そして次の瞬間、澪の頬に熱いものが伝い落ちていた。後から後から零れ落ちるそれは、俯く澪の顔の下に、白いテーブルの上に、丸く池を作っていく。溢れる涙をぬぐいもせず、澪は声を殺して嗚咽を続けた。




 婚約は破棄された。

 彼はしかし、その理由については明確な言及を避けた。それでも、両親には薄々分かってしまったようだ。

「・・・澪、いったい、お前はどうするつもりなんだね?」

 父は、重々しい苦痛に満ちた表情で娘を見据える。婚約破棄を仲人を通して知らされたその夜の食卓の席でのことだった。

「私は・・・」

 澪は、震える声で父を見上げた。娘を心配する心よりも、そのときは世評に対する不安と勝手なことを仕出かす娘に対する怒りが勝っていた。

 娘の意見を聞きたいのではない。ただ、責め、窘めたいのだ。

 それまで、ずっと聞き分けの良い娘だった澪は、父のそんな険しい表情に出会ったことなくて心が竦んだ。彼は、いつでも彼女には優しい父親だった。しかし、それは、彼にとって澪が親に従うだけの従順な娘だったからだ。

「・・・私は・・・。」

 澪は、その場の凍りつくような空気に呑まれて、言葉を紡ぎ出せない。

 柊と過ごした時間に得た初めての感動と喜び。思いがけず得たそれを、彼女はもう一度味わい、試してみたかった。それで、反対は覚悟の上で、「高校を卒業したら、調理の専門学校に行って、料理の勉強をしてみたいです。そして、いずれは、そういう世界で働きたいと思ってます。」ということを思い切って話してみたかった。

 しかし、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。

「澪さん、黙っていては分かりませんよ。」

 俯く澪に、父の横に座る母もため息をついた。

「男性側からお断りをされるなんて・・・。」
「澪、お前はこの家の跡取り娘だ。いずれ、然るべき婿をとって、彼の出世の助けになり、生涯夫を支えていかなきゃならないんだ。そういう心積もりを忘れてもらっては困るよ。」

 両親にたたみかけられ、澪は、口をつぐんだ。
 どうして、言えないのだろう?
 自分の人生は自分で選びたいのだと。
 
 


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