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虚空の果ての青 第一部

虚空の果ての青 (全年齢バージョン・作品説明) 

虚空の果ての青 第一部

『虚空の果ての青』R指定ギリギリで、一応、全年齢バージョンに加筆修正してみました。
そして、これもかなり古~い過去作なので、描写や表現のアラが目立ちまくっていたので(いえ、今でもそんな変わりませんが、それにしてもヒドイ!)そういう細かな修正もちょっくら行いました。
いえ、行なっている最中でゴザイマス。

これは、R指定入るだろ(ー"ー* って箇所も一部ありますが、「ギリギリ大丈夫だと信じてます!!!」と勝手に力こぶ作って力説いたします。

なので、読んでいただける奇特な方は、どうかご注意を。
更に、これはR指定どころじゃなくって、テーマがすんごい重いです。
しかも、犯罪がかなり出てきます。流血・・・もあったかな? そっちはそれほどじゃないっすが。

と、いうことで。

ハルさんへ捧ぐ。
「すみません! 続きもなんとか進めたいと思っております。
でも、これは続きも加筆バージョンも、ハルさんのお言葉があってのことです。
ありがとうございます(^^)」

勝手に、ここでご紹介。
『ハルと音』
のハルさん。
どこか静かな琴や和風の音を奏でているような世界を綴る作家さんです。
時々乱入しては、勝手なことを書き散らかして帰ってきます。
いつも、fateにお相手くださってありがとうございます!!

と。いうことで。
加筆修正、一応!!! 全年齢バージョン進めます。

ジャンル:[小説・文学] テーマ:[恋愛小説
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虚空の果ての青 (真夏の出会い) 1 

虚空の果ての青 第一部

 その日、優(ゆう)の学年、中学3年生は、マラソンの授業だった。

 優は、走ることが苦手だった。いや、彼女は運動全般がまったく不得手だった。身体があまり丈夫な方ではなく、肌が病的に真っ白で、ほんの少しの日焼けにも火傷のようになってしまうので、真夏でも炎天下で長袖を着ている。

 その日もうだるような暑さの下で、優はたった一人、長袖・長ズボンで皆の最後尾をのろのろ走っていた。
 本人は必死に走っているつもりなのだが、歩く速度よりも遅いくらいだ。
 当然、あっという間に他の生徒の姿は遥か先に見えなくなって消えてしまう。

 それほど車の通りの多くない狭い道路の、一段高くなった歩道を走っていたのだが、優は、すでに目の前が暗くなりかけて、ふらふらと車道に下りてしまっていた。

 熱中症に伴う脱水症状を起こしかけていたのだ。

 見回りの先生の姿はなく、優は、朦朧とした意識の中、ほとんど前が見えずにまるでよろめき歩行になっている。

 ふと、真っ黒のドイツ製の車が通りかかる。
 後部座席に乗っていた若い男が、優の様子のおかしいことに気付き、車を停めさせた。
 そして、車を降りて今にも倒れそうな少女に歩み寄る。

「君、大丈夫か?」

 その男…樹(いつき)マクレーンはスーツ姿のまま、彼に倒れ掛かってきた少女を抱きとめた。

 真っ赤な顔をして気を失ったその子を車の中に抱え込み、長袖の衣服を脱がせる。そして、運転手に命じてミネラルウォーターで湿らせたタオルで顔や首筋や脇の下を冷やし、車の冷房を強くした。

 軽く身じろぎをし、優は意識を取り戻す。しかし、うっすらと開けた瞳はまだ焦点が合わなかった。

 呼びかけてもほとんど反応のない少女に、樹は、ミネラルウォーターを自分の口に含むと、それを口移しで彼女に飲ませてみた。
 少しずつ、喉に流れ込む液体をなんとか飲み下しながら、朦朧とした意識の中で、ぴくり、と彼女は身体を震わせる。

 顔にかかった栗色の柔らかい髪の毛をかきあげてよく見ると、優は、ぞっとするほど綺麗な顔立ちをしていた。

 ぞっとするほど…と表現されるのは、その肌の色の青白さと、無機質のような印象を与えてしまう表情のない人形のような顔立ちからだ。何もかも小さく整っている目鼻。そして、病的に細い手足。

 樹も混血(ハーフ)のため、茶色の髪と瞳をしているが、肌の色が少し浅黒い日本人、で通じる程度の違和感なのに対して、むしろ、優の白さの方が異様だった。

「樹さま、学校に送り届けた方がよろしいのでは…?」

 運転手の鹿島はそう言って、ちらりと周りに視線を走らせる。公道に停車したままの彼らの車は通り過ぎる他の車の迷惑になっているようだ。

「そうだな。この先の公立中学校だろう。鹿島、出してくれ」

 低い、それでいてよく通る不思議な声だと、ほとんどない意識の下で優は思っていた。


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虚空の果ての青 (真夏の出会い) 2 

虚空の果ての青 第一部

 優は、‘愛’された記憶がない。
 人の肌が温かいということも、親の愛撫も知らない。気がついたときには、もう母親はいなかった。
 優を生んで死んでしまったのか、赤ん坊を置いて出て行ってしまったのか。
 それとも、乳幼児の間くらいはそばにいてくれたのか。

 最初の記憶は、『痛み』だった。
 彼女を育ててくれていたらしい若い男から受ける暴力・虐待。

 それがどんな種類のものだったのかなんて、他の世界も言葉も何も知らない優には分からない。
 やがて、優は、その男のもとから救い出され、保護施設に入れられた。

 あまりにも、他人に対して心を閉ざしている子だった彼女は、里親も見つからず、就学年齢になると然るべき児童施設に送られた。



 来年、中学卒業を控えて、優はそれまでいた施設を出て一人暮らしをすることになっていた。施設にいられるのは義務教育の終わる中学卒業までなのである。

 アパートの手配や不動産の契約に必要な保証人などは施設で引き受けてくれる。

 そして、そこまでで公的援助はおしまいなのである。あとは奨学金を受けながら、自力で生活して高校に通うほかない。或いは、仕事を見つけて働くか。

 そこに‘不安’や‘寂しさ’のようなものは優にはなかった。
 彼女は、感情が薄く、そしてその感情の表現の仕方も分からない。

 いつも髪の毛で顔を隠し、うつむいているので、優の顔をしっかり見たことのある者もほとんどいない。誰とも一言も話さずに一日を終える日も多い。常に怯えたように人の視線を避け、片隅でひっそり本を読んでいる。

 この中学校は、優の生活する施設から通う子も他に数名いて、そういう子の存在には慣れている。イジメは当然のようにあったが、新聞を賑わすような致命的なところまでは追い詰めない。そんな環境だった。

 樹が中学校の医務室まで彼女を運ぶと、先生方は驚いて散々お礼を言った。

 実は樹の家は、この地域の名家で、優のいる施設に多額の援助もしている。地域をうまく味方に付けているので問題なく暮らしているが、実は父親は海外に拠点を持つマフィアだった。そして、母親は美しい日本人女性で、ボスに気に入られて向こうで一緒に暮らしている。

 樹は29歳。

 ボスの持つ大手の系列会社の重役をしている。若くても経営手腕はあるのだ。何しろ、幼い頃よりその道を歩むよう徹底的に教育されてきている。母親も頭の良い女性で、ボスはその智的な聡明さを深く愛しているようだ。

 樹は父親と直接会ったことはほとんどない。

 一年間、父の国で共に暮らしたことがあるだけで、そのときも滅多に父は家に寄らなかった。それでも彼は、母親と二人、父という男を、その生き方を、近くで見て、納得してきたのだ。

 黒人ではない、という程度の印象の、漂うオーラが強烈に明るい男だった。彼は、樹の母親にべた惚れで、彼女を離そうとしない。しかし、息子である樹には日本で生活して欲しいと思っているのだ。彼には先妻との間に出来た息子達がいて、後継争いに樹を巻き込みたくなかったのである。

 人生の伴侶に、共に道行きを歩んで欲しい彼の父親と違って、樹は同士のような関係を必要としなかった。

 一度、見合いして婚約までしたチャイニーズとの混血の女性がいたが、ほぼ対等な頭脳を持ち、事業の助け手となるパートナーを、彼は人生の伴侶には出来ないと知った。

 仕事の話を対等にする相手を‘女’には見えないのだ。
 彼女は結局、他の重役と結婚し、樹とは仕事上の良き相談相手に落ち着いている。


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虚空の果ての青 (真夏の出会い) 3 

虚空の果ての青 第一部

 優は目覚めて、はっと身体を起こす。
 何か変な夢をみていた…ような気がする。

 午後最後の授業だった体育の時間はとっくに終わって、すでに放課後だった。
 優が、起きた気配に気付いた保健の先生が、カーテンを開けて彼女を覗き込んだ。

「ああ、良かった。気がついたのね。どう? 気分は?」
「…大丈夫です」

 優は、もうすっかり顔なじみの保健室の先生にそう呟く。額から頬にかかる髪をかきあげもせず、優は重だるい身体をゆっくりと動かして、ベッドから降りようとする。

「歩ける?」

 体育の授業で倒れることは、あまり珍しいことではない。ボールをぶつけられて失神したこともあったし、鉄棒から落ちて気を失ったこともあった。先生も優自身も慣れっこになってしまっていた。
 優は頷いてふらふらと歩き出す。

「待って。ほら、体操着」

 背後から先生の声を聞いて振り返った優は、先生の手に長袖の体操着の上下を見つけて、初めて自分が半そで一枚で眠っていたことに気付く。

 先生が脱がせてくれたのかしら…?

 軽く会釈をしてそれを受け取ると、不意に優の脳裏に不思議な声が響き、あり得ないような光景が映し出された。
 見知らぬ男が優の身体を冷たいタオルで拭いていた。男の顔は見えなかったが、相手が男だということだけが何故か分かっていた。

 優はその映像に愕然、となる。

 彼女は、他人がすべてが怖くて嫌いだったが、特に男性は恐ろしかった。近づかれるだけで鳥肌が立ち、身体が震えて身動きがとれなくなる。脂汗がにじみ、呼吸が出来なくなるのだ。

 優に虐待を繰り返していた男の、身体に受けた苦痛の記憶がそうさせるのだろう。
 優は慌てて、保健室を走り出た。
 逃げたところで、自分の記憶から離れられるわけではないのに。


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虚空の果ての青 (真夏の出会い) 4 

虚空の果ての青 第一部

 やがて夏休みに入り、更にその休みも終わりに近づいたある日の午後、優は、施設の部屋でぼうっと窓から外を見つめていた。同室の子は、連日部活動で学校だ。夕方遅くにしか帰らない。彼女は部活動には何も所属していないので、夏休みは図書館に通う以外にすることもない。

 施設は学校から歩いて十数分の位置にあり、寮のような感じだった。
 学校との往復以外の外出もほとんどしないので、優は外の世界もほとんど知らない。

 ふと、静けさの中に車のエンジン音が響き、施設の玄関先に真っ黒で高級そうな車が停まった。

 優はなんの気なしに、その車を見下ろした。それは、実はたまに見かける車だった。太陽の光を照り返す、際立つ黒さが綺麗だった。少し身を乗り出して、その車の光るさまを見つめていた彼女は、後部座席から降りてきた若い男が、優を怪訝そうに見上げているのに気がついて、はっと身が縮んだ。

 確実に相手と目が合った。

 その、射抜くような視線に、優は怯えてさっと身をひいた。車のドアが閉まる気配と、人の話し声が聞こえ、やがて静かになる。優は、もう窓の外を覗く勇気はなかった。震える身体を抱きしめて、窓の下の壁にもたれかかったまま、膝を抱えて息をひそめていた。

 教室でも大抵うつむいている優は、男と目が合うなんてことはほぼなかったし、彼女の病的な男嫌いは小学生の頃から有名だったので、わざわざ近づいて来る男子生徒はいなかったのだ。

 身体の震えがようやく治まって、優はふと生理現象を感じる。

 そろそろと身体を起こし、部屋を出ようと扉を開け、トイレに続く廊下の先に違和感のある人影を見つけてぎくりと立ちすくむ。

 スーツ姿の男性だったのだ。
 彼は、優の姿を認めて、つかつかと近づいてきた。

 優は、あまりに動揺してしまって、扉を閉めて部屋に逃げ込むという考えすら起こらなかった。
 彼、樹は、恐怖に目を見開いて茫然と立っている優に近づき、軽く微笑みかけた。

「君、この施設の生徒だったのか。体調はどう?」

 その声に、優は凍り付いた。
 聞き覚えがあった。

 低く澄んだよく通る声。あのときの映像にぴったりと重なって、男の声は優の頭の中を駆け巡る。

「…いや…っ」

 ふと、優に向かって伸びてきた手に怯えて、反射的に彼女は部屋の中に逃げ込んで扉を閉める。樹は驚いて茫然とする。

 なんだ?この女(こ)は…?
 特に他意はなかった樹は一瞬、呆気にとられる。

 そして、次の瞬間、まあ、いいや…と肩をすくめて踵を返した。
 今日は、この子の安否を確かめに来たわけじゃない。仕事だ。

 遠ざかっていく足音を、真夏の暑さの中で、優はがたがた震えながら聞いていた。

 誰? あの人は…。
 誰?

 他人、しかも男が自分に向ける関心は、大抵よこしまなものが混じっていた。或いはれっきとした悪意が。
 だけど…、とすっかり男の気配が消えてから、優は考える。

 今の人からは何も、感じなかった。
 どちらかと言えば、単に驚いただけだった。

 いつものように、鳥肌が立つような嫌悪感や、発情期の雄のような獣の匂いは感じなかった。
 澄んだ声。そして、瞳の色が少し不思議だったような気がする。
 優は、しばらく扉にもたれて座り込み、その男のことを反芻し続けていた。
 それは、奇妙な経験だった。


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虚空の果ての青 (真夏の出会い) 5 

虚空の果ての青 第一部

 樹は家に戻ってスーツを脱ぎ、ふうっとため息を一つついて、ずっしりと疲れを感じてソファに身を沈めた。

 今週は忙しくて、女を抱く暇もなかった。
 ふと、樹はそう言葉にして考え、その途端、不意にさきほど施設で見かけた少女のことが唐突に脳裏に浮かんだ。偶然の出会いで、偶然の再会だった。そこに意味を見出すつもりはなかったが、少し不思議な気がした。

 濃い栗色の髪が薄闇にぼうっと光るように、不思議な空気を持つ少女だと思った。

 あからさまな拒絶に少なからず新鮮な驚きを受けた彼は、ふと、あの少女を押し倒してあの白い肌を存分に抱いてみたいという欲望が湧き起こった。

 髪の毛に隠れている素顔が、まるで生き物とは思えないような造形的な美しさをしていることにも興味を惹かれた。人形のようなあの子も、もだえるときは人間になるのだろうか。その喘ぎ声はどんな音色をしているのだろうか。

 彼の血の半分は、暗黒の世界に君臨する肉食獣のような残忍さが潜んでいる。その血の闇の部分が、ときにそういうサディスティックな行為を求める。

 恋人もいなければ、決まったセックスフレンドいない。そして、彼は身内や手近なところで女をあさったりは決してしない。プロの女性を相手にするか、街で見つけたお金の絡む相手しか抱かなかった。

 しかし、そういう女にも、少し飽きていた。

 だけど、と樹は思う。あれは、まだ中学生、つまり子どもだ。そんな子になぜ興味を惹かれたんだろう? と。しかし、また次の瞬間には彼女の面影を辿っている。

 どうせ、俺が援助している施設の子どもだ。いわば俺の持ち物だ。構うことはない。
 そう心で呟いて、自分を納得させようとしていることに気付いて、樹は苦笑する。

「何、言ってるんだか…。女なんて他にいくらでもいる。何も子どもに手を出す必要はない」

 樹は起き上がって、戸棚からワインのボトルを取り出した。そして、グラスにつぐことすら面倒になって、そのまま瓶に口をつけた。



 数日後、鹿島が何やら書類を持って仕事中の樹を訪ねる。

 鹿島は運転手というだけでなく、ある程度プライベートの秘書のような役割もしていた。彼は、ボスの秘書だった男が、日本滞在中に樹のために見つけてきたボディガード、というのが本来の姿なのだ。

「樹さま、お仕事中恐れ入ります。ご依頼の書類をこちらに」

 たまっていた書類の整理をしていた樹は、その声に顔をあげる。その重役室には、他に秘書が数人静かに仕事をしていた。この部屋に自由に出入りできるのは、鹿島以外には登録されている数人の秘書だけだった。

「ああ、ありがとう」

 樹は受け取って、ちょっと微笑んだ。一礼して、鹿島は去っていく。
 樹は、山積みの机上の書類から目を離して、たった今受け取った資料に目を通す。そして、一瞬、息を呑んだ彼は、一つ息を吐いて背後を振り返り、窓の外の景色に視線を走らせた。

「はあ…、なるほどね」

 机上に置いてある、もうすっかり冷めたコーヒーを一口含んで、ゆっくりその苦味を味わう。その苦い味は、下の上でほんの少し甘みを帯びた気がした。


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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 6 

虚空の果ての青 第一部

 8月の最後の週の初め。
 その日は、公立中学校は登校日だった。

 登校時間。施設から中学校の門へ続く道の脇に、一台の黒い車が停まっている。次々と登校していく生徒たちは、特にその車を気にする風もなく、わいわいと通り過ぎて行く。そして、一通り生徒の群れが過ぎ、そろそろいつもなら始業時間に近づいた頃、慌てて小走りに駆けてくる小さなセーラー服の人影が現れる。

 優だった。
 彼女は、人が大勢歩く時間帯に一緒に表に出ることができず、いつも、始業時間ぎりぎりになって学校へ急ぐのだ。

 優は、路上にまったく生徒の姿がないことに、すっかり慌てていた。休みが続いたせいで、まだ生活リズムの調子が戻っていないのだ。それで、時間を気にするあまり、彼女は停まっている車にはまったく注意を払わなかった。



 優の姿を確認すると、車に乗っていた男、樹はドアを開けて外に立つ。それでも、周りの様子をほとんど視界に入れていない優はまだ何も気付かなかった。

 いよいよ優が、車の前を通り過ぎようとした瞬間、不意に呼びかけられて、彼女は凍りついたように固まった。

「優ちゃん、おはよう」

 ぎょっとして声のした方を振り向いて、優は声をあげそうになった。この間の男が、優をじっと見据えて、真っ黒な光を照り返す大きな車に背を預けて立っていた。

 反射的に後ずさって逃げようとした優の腕を後ろからつかみ、樹はそのまま彼女の身体をもう一方の手で抱えるように押さえ込む。

「ひゃああ!」

 小さな悲鳴をあげて優は必死にもがいたが、背の高い樹の胸までしか身長の届かない彼女の抵抗は、ほとんどないに等しかった。

「優ちゃん、良い子だから静かに」

 背後から耳のそばでそうささやかれ、優は恐怖とそれに伴う呼吸困難の息苦しさに、あっという間に気を失った。
 ぐったりと腕に崩れ落ちた少女を抱き上げて、樹は車に乗り込む。

「鹿島、出してくれ」

 鹿島はバックミラーでちらりと少女の様子を見て、静かに車を出す。
 
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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 7 

虚空の果ての青 第一部

 優は、周りの空気の違和感にはっと目を開ける。
 目に映ったのは、白く高い天井。明らかに普通の部屋ではない豪華な蛍光灯。そして、不思議な模様の白い壁紙。

 こ…ここは、どこ?

 ゆっくり身体を起こして恐る恐る辺りを見回すと、そこは、彼女が見たこともないような綺麗な作りのホテルの一室だった。部屋はひとつで仕切りはなかったが、空間を区切るような造りの奥にプライベート・ルームのように寝室があり、彼女はその端に置かれている広いベッドの上に寝かされていた。

「起きた?」

 不意に聞いたことのある声が聞こえて、優は飛び上がりそうになった。
 さきほど、登校を待ち伏せて優の腕をつかんだ人物に間違いなかった。

 一瞬僅かに視線だけを素早く走らせたが、優の目には人影は映らなかった。どこから声が聞こえていたんだろう?と震えながら彼女は身体をこわばらせる。心持ち、後ろへとじりじり後ずさってみる。

 人の気配を感じない。

 そっと部屋の様子を見回す。恐らく出入り口の扉と思われる方向には、簡易的なキッチンとダイニングが見える。そこにも人の姿は見当たらない。しかし、部屋の造りは広く、ドアまでの距離はかなりあった。それでも、そこまで辿り着ければ…と、優は思った。

 固まっていた手足になんとか力をこめて、優はベッドから飛び降りるように一気に駆け出した。
 恐怖に足がもつれ、必ず追って来るであろう気配に怯え、無我夢中だった。

 優の背後の窓際に佇んでいた樹は、ドアの方向を確認して、逃げる態勢に入った少女の様子をじっと観察していた。そして、案の定、ドアに向かって駆け出した彼女をゆっくりと追った。

 優は、辿り着いたドアを震える手で必死に開けようとしていた。ドアノブをめちゃくちゃに回して、扉を押したり引いたりする。僅かにドアが開いたが、何かが引っ掛かってそれ以上扉は開かない。

 内側から出るときのロックはなかったが、チェーンがかかっていた。ホテルの部屋など入ったことのない優は、それの外し方が分からないのだ。扉を閉めないでチェーンを外そうとしているので、当然外れない。

 優が慌てふためいている間に、樹はくすくす笑いながら追いついた。

「優ちゃん、反対だよ。こっちにスライドさせないと開かないよ」

 背後から、チェーンを握る優の腕を捕え、樹は優のお腹に手をまわした。

「きゃあああっ…いやあっ」

 ぐらりと視界が揺れ、優は倒れそうになる。

「いや…あ…助けて…いやあっ」

 小さな声で、優は許しを請う。すでに、呼吸が乱れ始め、全身からざあっと一気に血の気が引く。ずるずると崩れ落ちた優の小さな身体を抱きとめて、樹は耳元にささやく。

「無駄だよ、優ちゃん? この部屋は防音がかなりしっかりしてるからね。助けはないよ。良いかい? 俺の言うことをよく聞いて?」

 熱い吐息が髪を揺らし、男の口が耳に触れそうなほど近いことを感じる。
 それだけで、普段はもう耐えられはしないはずだった。嫌悪に息が苦しくなり、気が遠くなるのだ。しかし、優はそのとき、彼の声がまるで内側から響くように意識を捕らわれていた。

「俺の名前は、樹。ここは俺が年間契約で借りているホテルの部屋。ホテルの人間は俺が呼ばない限りはここには来ないし、助けはないよ?」

 樹は、パニックに陥って、ほとんど彼の話を聞いていないらしい様子の腕の中の少女を、不意に抱き上げ、ぐい、と自分の方に顔を向けさせる。

「優ちゃん、良いかい? よく聞いて? 俺は普段は父親の系列会社を手伝っている。年収は、まあ、そこそこ。で、何を言いたいかというとね、優ちゃん? そんな風に誰にも心を開けない君に、ちょっと興味を持ってね」

 間近に男の顔。それだけで優は思考がまったく停止してしまった。

「どう? 優しくするから、俺に抱かれてみない?」


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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 8 

虚空の果ての青 第一部

 幼い頃、彼女に暴力を振るっていた男は、優が逆らうことをひどく嫌った。ちょっとでも「No」の意思表示をすると気が狂ったように彼女の身体を痛めつけた。今でも彼女の身体には当時の傷跡が随所にうっすらとだが、残っている。

 そして、優は、その父親と名乗る男に執拗な性的虐待を受けていた。

 その後、施設に保護されて診察をした医師が、優は将来、妊娠することが出来ないかもしれないと言ったそうだ。生理もマトモにくるかどうか分からないと。

 何度かカウンセリングを受け、専門の医師の診察を受け、投薬もされた。しかし、優の閉じきった心にそれらは何の変化も及ぼさなかった。

 誠実で温かい言葉。励ましや労わり、共感、そういうもの一切が、彼女の心に触れることはなかった。



 そういうことの全てを、樹は、鹿島が持ってきてくれた報告書で知っていた。



 樹が施設の子どもの調査報告書を依頼するのは珍しいことではなかった。

 彼は、施設に入所している成績優秀な子どもや、将来性の見込みのある子どもを拾い出し、もちろん、本人の意思を最優先はするが、教育の援助をし、将来的に組織に取り込む或いは特出した才能を示す子には、相応の職を探し与え、外の情報源とする、ということをやっていた。

 これはマクレーン財団が昔から行っている人材発掘の方法だった。

 そのため、彼の父の会社は、マフィアという組織を根底に構成しながら、特にえげつない社会悪を行うことなく、地下深くに繁栄を極めることが出来ているのだ。

 そう、彼らの育てた優秀な人材は、世界各国の警察内部にも、政界にもひそんでいるのだ。


 
 その施設長からの報告書を読んで、樹は、驚くと同時にどこかで「やはり…」という感を否めなかった。

 病的に細い身体、誰にも心を開けない精神疾患のような状態、常に何かに怯えておどおどしている野良猫のように閉ざされた心。それは普通に育ってきた人間の性質ではなかった。

 そして、最後に樹が眉をひそめたのは、その男は、幼児虐待と共に、錯乱状態に陥った彼から優を救い出そうとした福祉施設の職員に殴りかかり、傷害罪で捕まって服役したことがあるということ。更に、彼は、出所してすぐに再び優を施設からさらい、散々連れまわした挙句、同じことを繰り返したという事実にだった。まだ、小学生だった彼女を、だ。優は、以来、益々誰にも心を開けなくなった。幼い身体に刻まれた卑猥で卑劣な行為の爪あと。恐らく恐怖と嫌悪でしかなかったその体験。

 あんなに綺麗な容姿をしているのに、花を咲かせることもなく、誰にもその花を見せずに生涯を終えること。

 試験結果を見る限り、本をかなり読み込んでいる彼女は相当頭は良いはずなのに、それを生かすことなく生涯を終えてしまうこと。

 このまま放っておかれれば、そうなってしまう確率は高いだろう。そして、何の処置も治療も受けずに大人になってしまえば、もう生涯誰にも心を開けずに年老いていくだけだろう、とそれは想像に難くなかった。

 樹はそれを少し惜しいと思ってしまった。

 そして。
 最たる本音は、その禁断の花の蜜を味わってみたい、ということだ。その、無機質な人形のように美しい肢体。虚空の果てを見つめる、現実を何も写さない淡い瞳。その澄んだ鏡のような瞳に自分の姿を写しこんでみたかった。

 ガラス細工のように固く閉ざされた、儚く美しい彼女の内なる世界、未だ誰も侵入を許されないまっさらな世界に自分の足跡を刻みこんでみたかった。

 身体で覚えさせられたことは、身体に教えるしかないのだ。

 暴力という言語でしか生きることを教えられなかった彼女に何かを伝えるには、やはり身体に刻み込むしかない。別の道があることを、暴力とは対極の方法で。

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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 9 

虚空の果ての青 第一部

 優を抱き上げてベッドに運び、樹は彼女を抱いたままそこに腰を下ろした。恐怖に固まっている少女は、もう逃げようと暴れることもしなかった。腕の中の少女の瞳は、涙を流すこともなく次第に虚ろになっていく。

「大丈夫? …俺が分かる?」

 優は、もう、すっかり抵抗を諦めて樹と視線を合わせようともしない。どうせ、この状況でどう暴れたところで逃げられはしないこと、泣き叫んだところで相手がやめてくれることはないと、彼女の経験が語る。

「優ちゃん? 聞こえるかい?」

 ぴくり、と優の瞳に、一筋の光が宿る。

「俺が、分かる?」

 優は泣きそうに消え入りそうな目で、初めて樹を見上げた。おそるおそる、叱られた子どものような怯えた瞳で。

「…怖い」
「怖い? 何が、怖い?」

 樹はただ静かに聞いているのみだったが、優は、ほとんど怯えて声にならない。発言を許されない囚人のようだ。意見を言えば、何か恐ろしいことが待っている、とでもいうように身をすくめる。

「大丈夫だよ、優ちゃん、ちゃんと言って。何を言っても怒ったりしないよ」

 優は反射的に両手で耳をふさぐ。もう、何も聞きたくないというように。そして、樹から目をそらし、小さく首を振り続けた。

「…怖い。…怖い、怖い…っ」
「何が怖いの?」

 樹は優の頭をそっと胸に抱いた。

「痛い…」

 優は、細い声で悲鳴のように訴えた。

「痛い? どこが痛いの?」

 優は小さく首を振り続ける。

「…ああ、痛い目に遭うことが怖いのか。O.k. じゃあ、痛くしなかったら良い?」

 優の小さな身体に、どれだけ深い絶望を抱えているのか、樹には計り知れない。優の父親は、苦痛にただ耐える優の、その心の闇を推し量ろうとはしなかった。いや。知っていて、彼女を壊し続けていたのだ。

「怖い…! 怖い。…助けて。…許して…」

 誰にも言ったことのない言葉を、優は口にしていた。
 助けて、と。痛々しい心の悲鳴。

「優ちゃん、セックスは痛くなんかないんだよ? 良い? 気持ち良くしてあげるよ。痛かったらすぐにやめる。それなら良い?」

 樹の言葉なんて届いていないかのように、優は固く目を閉じて震えている。何も見ない、聞かない、すべての感覚をシャットダウンして、何も感じない。そうすれば、…そうやって耐えていればいつか終わる。

 そう、呪文のように唱え続けて、優は身体の芯を固く固くこわばらせていく。
 ああ、早く…終わって。
 もう、逆らわないから。
 もう、何も言わない、何も望まないから。

 樹は、ちょっと息をついた。こんな風に全身全霊で拒否されるとは考えていなかった。差し伸べられる手にことごとく背を向けてきた、という事実を、その重さを初めて認識した。

 その、闇の深さを。

 この子は、とにかく、自分の感覚を殺すことで辛うじて生きてきたと言っても過言ではない。そうしないと、とっくに精神は壊れていたのだろう。そうやって、二重人格を得る事例も知っていた。そこに至る前のぎりぎりの状態まで追い込まれて、自らを麻痺させることでもう一つの人格を作ることを回避したのだろうか。

 怯えたままの彼女を無理やり抱いたら同じことだ。優を陵辱し続けた男となんら変わりはない。樹はどうしても優を痛みの記憶から解き放ってやりたいと思った。

 自分にだけは心を開き、身体を許すような女に育てようと思った。気まぐれに抱ける手近な相手として。
 樹は、しばらく優の髪をなでながら、震える肩をただ抱きしめていた。

「今、痛い?」

 抱かれた胸から直接声を聞き、優は、初めて樹の顔をしっかりと見つめた。彫りの深い、少し肌質が暗い色をしている綺麗な顔立ちの青年。その瞳に、ぎらつく獣さながらの不快な色はなかった。

 放心したように自分を見上げた少女の何の感情も宿らない瞳に、僅かに何かが芽生えた瞬間を樹は捉えた。
 ようやく、彼の声が、その耳に、心に届いた。

「教えてあげるよ、人間とはどういう生き物なのか。他人と関わるということの意味も」

 優の瞳に、微かな光がよぎる。それでも、それは感情の揺れというより、拒絶の表れ方でしかなかった。

「それから、世界を見せてあげる。君の存在している社会、という世界をね。俺なら、君が望む大抵のことは叶えてあげられるよ。俺のものになって、損はないと思うけどな」

 ぴくり、と優の身体が恐怖を訴える。

 樹の言葉に、優は魅力を感じてはいない。言葉の裏に潜むもの、樹がただ自分を抱きたいだけ、ということをよく分かっている。

「良い? 俺の言うことを聞けば、痛いことはしない。…分かった?」

 ほぼ、蒼白な顔色で優は樹の腕の中に固まる。

「大人しく言うことを聞いたら、午後にはちゃんと家に帰してあげるよ」

 その言葉に、優はようやく他に選択肢などないことを知る。瞬間、ぞうっと絶望が身体を貫く。それでも優は他にどうすることも出来ない。頼れる人も、まして本気で助けを求める相手も思いつかなかった。彼女には、誰も、いないのだ。

 どうしたって、この男は自分をこのまま解放してくれはしないだろう。
 優は、涙の浮かんだ瞳で、こくりと頷いた。

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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 10 

虚空の果ての青 第一部

「ここで、服を脱ぐのは恥ずかしい?」

 茫然としている優の顔を覗き込んで樹は言った。彼は、スーツの上着をハンガーに掛けてワイシャツのボタンを外していた。

 優は、聞かれた意味を理解して、一瞬、考え込んだ。
 そして、ちょっと首を傾げて頷く。

「先にシャワー浴びてくる?」
「…シャワー…?」
「バスルームはそこ」

 樹は素肌にバスローブを羽織りながらベッドと反対側のドアを指さす。そして、尚も茫然としたままの優を促して、バスルームに案内する。

「ここに服を脱いで。ついでにシャワー浴びておいで」

 優は何も考えていない表情で頷く。実際、優はマトモに思考が働いていなかった。言われたことをするだけで精一杯で、これから自分がどうなるかすら、何も考えられなかった。それでも素直に従ってしまっているのは何故だろう。

 脱衣所でのろのろと制服を脱いで、優は、バスルームの扉を開ける。しかし、それからどうして良いのかよく分からなかった。そこはホテルにしては比較的広い作りのバスルームで、バスタブとシャワーが別々にあった。顔を洗おうかと蛇口を捻ると、突然、上からお湯が降ってきて、彼女は思わず悲鳴をあげそうになった。

 しばらく、茫然とシャワーに打たれ、優はすっかり頭までずぶ濡れになる。

 やっと頭がはっきりしてきて、とにかく身体を洗って出てくるまで、かなりの時間が経過していた。それでも、樹は優に声を掛けて急かしたり、まして覗いたりもしなかった。

 優が全身から雫を滴らせて脱衣所に戻ると、そこに脱いだ制服はなかった。バスタオルとローブが置かれてあり、優は仕方なくかなり大きなローブを羽織ってそろそろと出てくる。

 樹は、ベッドに腰かけたまま、何か書類を手にしていた。こんなときでも、仕事を持ち込んでいるのだろう。

「髪、濡れたままだね」

 気配に気付いて、樹は優を見つめて微笑んだ。
 優は、その声の響きに初めて、ああ、と思考が戻る。

 低い、それなのによく通る彼の声。何故かこの声は、身体の内側から聞こえるような気がする。だから、どんなに耳をふさごうとしても聞こえてくるのだ、と。

 樹は手にしていた書類をソファへ放ると、タオルを持って優に近づいてくる。
 その途端、反射的に優の身体は硬直し、足は勝手に後ずさる。

 数歩後ずさってたった今出てきた扉に後ろをふさがれ、恐怖に声もあげられずに、優は樹の腕に捕らわれる。
 しかし、予想していた痛いことは何も起こらず、彼はただ濡れそぼっている優の髪をタオルでくしゃくしゃと拭いてくれただけだった。

「まあ、良いか。帰るまでにもう一度髪は整えてあげるから」

 優の頭を撫でて、その手が地肌に触れる。
 瞬間、優はざわりとする。
 やっぱり、イヤだと、優の身体が訴える。

「あ…あ! …いやあっ」

 優の顔に恐怖の表情が浮かんだ瞬間から、そういう反応を予想していた樹は特に驚きも慌てもせずに、軽々と彼女の身体を捕える。ローブの裾が長すぎて、優は思うように動けなかった。

「大丈夫。言っただろ? 痛いことはしないよ」

 暴れる優の手足ごと抱きしめて、樹はすとんと彼女の身体をベッドに沈める。

 シャワーを浴びたばかりなのに、そして、真夏の昼間なのに、優の身体はどんどん冷えてきた。見据えられると身動きすらとれなくなりそうで、優は必死に目をそらす。

「キスは知ってる?」

 そっと、指先で優の唇を撫でて樹はささやくように言う。
 キス…?
 優は、自分の唇に触れる樹の指にの感触に、ぞくり、と全身が粟立つような感覚を得た。

 額にかかる濡れた髪をそっと指でかきあげて、樹は蒼白な表情の優をからかうような笑みで見下ろし、その小さな白い額に軽いキスを落とす。樹の唇が触れた途端、優はその柔らかさにぴくり、と身体が反応するのが分かった。

 不快、ではなかった。ただ、身体の震えだけが止まらない。

 樹はそのまま頬へ、顎へとキスの雨を降らせる。そして、最後に、優の顎をくいっと指で持ち上げ、否応なく視線を合わせた途端、驚いて声をあげた優のその小さな唇をふさいだ。

 反射的にもがいて暴れたが、優の細い腕でどれだけ抵抗しても、樹はその腕ごと小さな身体を抱きすくめて動きを封じてしまった。

「ん…っ、んぅ」

 唇をふさがれていて、優は声をあげることも出来ない。

 もがく内に、なんとか片方の手が樹の身体の下から抜け、優はその手に渾身の力を込めて覆いかぶさる男の肩を押し戻そうとする。

 呼吸の方法が分からない。次第に頭の芯がくらくらしてきた。
 やっと口を開放され、優は喘ぐような呼吸をする。

「息を止めてたの?」

 樹は笑う。

「君、親が日本人じゃないでしょう?」

 片手を優の細い腰にまわし、身体を浮かせて樹は優のローブを脱がせる。

「肌質が、きめ細かい…というか、黄色人種っぽくないよね。ヨーロッパ系? 北欧系、かな?」

 樹は、優と同じ肌の女性を知っていた。彼女はロシアの中に統合された小さな民族集団の出身だと言っていた。
 何もかも色素の淡い彼女の面影がふうっと脳裏をよぎり、その、ずっと忘れていた記憶が不意に蘇ったことで、樹は彼女と過ごしたふわりとした甘い時間を思い出していた。

 その面影を抱きながら、樹は腕の中で震える少女の首筋に柔らかいキスを落としていく。自由になった両手で、優は尚も逃れようと樹の肩を押す。

「あ…ああっ…やあ…っ」

 触れるだけで、優の身体は敏感に反応する。

 どうして…
 と、優はくらくらする頭で考える。
 どうして、気を失ってしまわないんだろう?

 いつもなら、こんな風に相手の手の中でしっかりと意識を保っていることなんてなかった。相手の声を聞き、相手の息遣いを感じ、その手の動きを肌で感じることもなかった。一瞬にして襲ってくる耐えられないほどの嫌悪と恐怖で、目の前が真っ暗になり、その後のことをほとんど覚えていない。

 それなのに、どうして…?

 優しいキスに、自分の意思とは無関係に身体が痙攣し、身体が言うことをきかない。次第に、優の抵抗は弱々しくなってくる。

「気持ち良い?」

 低い声が耳の奥に響く。優は何も考えられずに微かに頷く。

「素直だね、優ちゃん」

 男の声が優しく柔らかく頭の奥に響いてくる。

 怖いよぅ…
 何度かそう叫んだような気がする。
 怖い…
 本能的に優はそう感じた。

 おかしい。なんだか、おかしいよ。イヤ、助けて。イヤだ。

「ぅ、ぁ…、ぁ、ぁ、ぁぁ…」

 必死に男の腕にしがみついて、必死に熱をそらそうとする。揺れる視界の先に天井の模様や部屋の空気がきらきらと光をまぶしたような錯覚を得る。そういう最中に男の顔を見つめたことなどなかったのに、優は熱い何かが身体の奥で暴れるのを感じながら、自分を抱く男の目の光に吸い込まれるように視線を留めた。そして、強烈な光がかああっと身体の奥を照らしたような感触を得た。それが、頭上を駆け上がって視界を真っ白に染めて…一気に世界は暗転した。
 
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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 11 

虚空の果ての青 第一部

 紅潮した頬のまま、すうすうと寝息を立てて眠ってしまった少女の顔は、驚くほど幼くあどけなかった。

 人として人と関わり、笑ったり怒ったり、共に泣いたりして成長していく過程を優はまったくすっ飛ばして、すとん、とここに来てしまった。赤ん坊の心のまま、抱きしめてくれる優しい母親の肌を、守ってくれる父親の手を、無意識にきっと求め続けて、諦めてしまったのだろう。人生で最初の経験、親との関係を築くこと、人間関係の基礎を学びそこなって不安定なまま怯えて一人震えているのだ。

 母親の胸に抱かれる安らぎも、その背におぶわれて眠ってしまうまどろみも、親に手を引かれて歩くそのきゅんとくる安心感も、優は何一つ与えられることはなかった。彼女は自らの身体を与えることで食べ物を得ることができ、身体を貫かれることでしか愛を示されず、苦痛に耐えることで生きる権利を辛うじて得ていた。

 ‘死’を明確に願うことすら、そういう気力すら優にはなかっただろう。

 何故か、そういうことを樹は分かるような気がした。眠り続ける優の、不思議に安堵の色が浮かぶ赤ん坊のように無垢な表情に、誰かと肌を寄せ合って眠る心地良さを、胎児の頃の安らぎを思い出しているかのような切ない色に。



「優ちゃん?」

 不意に呼びかけられて、優は、はっと目を開け、そして目の前の状況に思考がフリーズする。優の身体は樹の腕にふわりと抱かれ、優はその腕の中で身体を丸めて眠っていたのだ。目の前に男の大きな胸があり、彼の腕が優の体をすっぽりと包んでいた。しかも、その肌の直接触れる温かい感触に、優は自分が何も見に付けていないことを知る。

「…あ…っ、あのっ…」

 うろたえて、優は身体を起こすことも出来ずに自分の身体を抱きしめてどぎまぎする。

「今日は学校は半日だけでしょう? そろそろお昼になるよ。もう帰る?」

 腕の中で固まってしまった少女の頬にそっと触れて、樹は笑う。
 彼の言葉にはっとして、それでも、顔をあげることも出来ずに、優はただ小さく頷いた。


 
 優が、一切外へ出かけなくなり、髪の毛に隠れるように顔をすら見せなくなるに至るまでに、彼女は相応の傷を負っていた。日本人離れした美しい容姿と、嗜虐欲を掻き立てるような怯えた態度とが、ある種の性癖を持つ男たちの血を掻き立てるようで、優は、幾度となく男たちの餌食になっていた。

 助けを求める相手もなく、被害を訴え出る訳でもなかった社会的な弱者であった彼女は、同室の子が気付いてくれる以外、傷の手当もしなかったし、どんなに辛くても薬を飲もうともすらしなかった。敢えてそれを避けていたというよりは、どうして良いのか分からなかったのだろう。

 優は、自分という存在を何も信じていなかったし、愛してもいなかったのだ。自らを憐れむこともなく、卑下することもなく、ただ、すべてに対する反応をoffにすることでやり過ごしてきたのだ。

 しかし、優は本当は狂いそうな孤独と絶望の淵で、誰かを‘待っていた’のだと知る。そう言葉にして明確には意識に上らなかったが、生きるためにすっかり麻痺させてきた心に、何かが触れて、それが強く彼女を揺さぶるのを感じた。

 より強い支配で彼女をここからさらってくれる誰かを。
 冷えた手足を温め、抱きしめて守ってくれる誰かを。

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虚空の果ての青 (狩られた仔猫) 12 

虚空の果ての青 第一部

「送ってあげるから、身体を起こして服を着て」

 樹は言って自分も起き上がり、さっと服を身に付ける。

 優は、行為が終わった後、男が自分だけさっさと日常に戻っていく姿をいつも茫然と見つめていたので、特に何も感慨は起こらなかった。ただ、自分とは違う大きく逞しい肉付きの樹の背をぼんやり見つめ、差し出された制服を、黙って受け取る。

 軽い疲労は身体の奥に残っていたが、痛みを引きずることはなかった。
 それが、優には不思議なことだった。

 あれはなんだったんだろう? と優はふと言葉にして思う。
 あの、自分の身体から意識が切り離され、身体は勝手に熱くなり、言葉を失ってただ切ない声がもれつづける浮遊した感覚は…?

 気持ち良い、という感覚を、セックス以外でも優はほとんど知らない。
 それを、強烈に植えつけられ、優はそれらを受け留められなくてまだ身体も頭もぼんやりしたままだった。

「優ちゃん? …自分で服、着られる?」

 受け取った制服を抱いてベッドの上にぺたんと座り込み、放心状態のように虚ろな表情の優に、樹は少し甘い気持ちになって問いかける。

 彼女の傍らにそっと腰をかけ、その腰を抱き寄せると、優の身体はびくっと反応し、一瞬、優の瞳は揺れた。
 おや? と樹は思う。
 さきほどまで、ただ怯えるだけだった優の目に、不思議な色が浮かんでいた。

 時計をちらりと見て、樹は意地悪な笑みを浮かべる。

「気持ち良かったの?」

 こくり、と優は頷く。そして、子どもが甘えるような無防備に潤んだ瞳で樹を見上げた。

 特に意識してそうしたわけではない。しかし、それははっきりと樹を誘っているように見えた。だが、それはむしろ、保護を求める赤ん坊の目だったのだろう。

 抱いて欲しい、というその意味は違う、と樹は思った。ただ、人の肌に触れていたいのだ。赤ん坊が母親のぬくもりを求めるように。そうやって安心したいだけだ。

 しかし。
 ふっと樹は笑い、良いよ、と答える。
 それでも、この子は、他の誰にも見せなかった顔を見せ、自ら樹を求めたのだ。

「もう一回、今度はもっと優しく抱いてあげる」

 今日は、取引先の重役とランチを約束していた。しかし、相手の話は分かっている。融資金額の上乗せを求めてくるだけだ。樹はそうっと優の身体を抱き寄せて抱きしめ、樹はもう片方の手で携帯電話を取り出し、鹿島に電話を入れる。

 頭を撫でられ、髪の毛を弄ばれて、それでも、優は震えるような嫌悪が湧き起こってこないことを不思議に思っていた。この男の手は、何故か心地良かった。

「ああ、鹿島。悪いけど、ランチの予定はキャンセル入れてくれるかい? …ああ、そう、それで良い。夕方には戻るし、そう伝えてもらえるかな。…ありがとう」


 
 生まれて初めて、優は、彼女の身体を優しく抱き締めてくれる手に出会った。ぴったりと肌を合わせても嫌悪感で気が遠くならないことも、痛くないセックスも、男の声が不快でないことも、優には初めてのことだった。
出会った当初から、優にとって、樹の声はどこか不思議な響きをしていた。ねっとりと絡みつくような暗いものがなかった。大きな音が怖くて、高い音が嫌いだった優は、若いのに不思議に低い音色の彼の声は心地良かった。
音楽のように耳に優しかった。

 それで、思わずその声に従ってしまったのかもしれない。
 人の肌は同じように温かいのだと、優は初めて知った。

 彼の愛撫を思い出すと、それだけで優は心から安堵する。その優しい手に抱かれているような安定した気持ちになる。

 ただ、ぎゅっと強く、息が出来なくなるくらい抱きしめて、たくさんのキスを身体中に降らせてくれた。一方的にではなく、ちゃんと優が感じていることを確かめながら、樹はゆっくりと行為を進め、痛みのために気を失ってしまうようなことは決してしなかった。

 セックスとは愛の行為だと、優はそのとき初めて知ったのだ。
 悪夢に飛び起きて身体中がきしむ痛みを思い出しても、樹の腕に抱かれて眠ったあの時間のことだけをひたすら 身体に刻みつけようと身体を丸めていると、不思議に安らかな眠りが訪れていた。

 優は、宝物のように何度も彼との時間を思い出し、繰り返し反芻して、夢ではなかったのだと自分に言い聞かせてその夏の終わりを迎えていた。

 もう一度会いたいなどと、希望を抱くことを優は知らなかった。



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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 13 

虚空の果ての青 第一部

 夏休みが終わり、秋の授業が始まった。

 9月も半ばが過ぎ、暑さもようやく一段落し出した頃、学校から戻った優は、施設の玄関先に樹の車を見つけた。
 一瞬、ぎくりと優は立ち止まる。もう、それは反射的な反応で、優の複雑な内面は彼女にも把握できていない。
 数人の施設の児童が立ち止まる彼女の脇をすり抜けて普通に中へ入っていく。

 優は、数分ほどじっとその車を見つめて佇み、やがて、不意に引き寄せられるようにふらふらとその車に近づいた。そして、ためらいながら、真っ黒でつやつや光るその車体にそっと手を伸ばす。

 太陽の光に温められていた黒いボディは、熱いくらいの熱を吸収して彼女の白い肌に突き刺すような刺激を与える。

「…あっ…!」

 少し驚いて優は声をあげ、手を離す。

 しかし、彼女は再び、そうっと自分の影の出来た端の方に手を置いてみる。覚悟を決めて触ったので、今度は熱さにじんとしたものの、驚いて飛び上がるほどではなかった。つるつるした気持ちの良い感触。光を照り返す熱いボディ。

 なんとなく樹の印象に似ている気がして、優はそうっとその感触を楽しみながら触り続けていた。ここにいれば彼に会えるとか、そんなことを思ったわけではない。優は、何か明確な目的を持って行動することが出来なかった。

「高級車に、手垢をつけないでください、お嬢さん」

 不意に背後から低い声が聞こえて、優は飛び上がりそうに驚いた。

 相手を確かめもせず、慌てて逃げようとした優を、誰かの腕が不意に抱えて抱き上げた。

「あっ、…や…あっ!」

 恐怖に身がすくんでろくに声もあげられなかった優は、自分を捕まえている腕が樹のものだと知った途端、ぽかんとして彼の顔をまじまじと見上げてしまった。
 彼はにやにやとからかうような目で優を見下ろしている。

「久しぶりだね、優ちゃん。顔色、良いみたいだね」

 樹は言って優をすとん、と地面におろす。
 優は思ってもみなかった突然の再会に、思考がすべて真っ白になってしまった。

「施設長と話しはしたからもう帰るけど、ついて来るなら夕飯をごちそうするよ」

 樹はにやりと優を見下ろす。

「…?」

 優は、食事、というものに対してあまり魅力を感じない。樹の意図が分からないので、彼女は反応のしようがなかった。

 呆けたように彼をただ見上げている優を強引に車に押し込み、何か書類を抱えて樹のあとを追ってきた鹿島にちらりと視線を投げて、樹も車に乗り込んだ。

 まだ、ほとんどマトモな思考が廻らない優の返事を待たず、樹は車を出させる。

「…ホテルにお寄りになられますか?」

 おどおどと樹を見上げている優の様子をちらりとミラーで確認し、鹿島は問いかける。

「そうだね、その前に適当な店に寄ってくれるかい?」
「かしこまりました」

 何の? とも聞かず、樹の考えていることをほぼ把握している鹿島は頷く。

 夏の終わりに優を抱いてから、樹は、それまであまり感じたことのない想いの存在に気付いて、少なからず戸惑っていた。

 彼の手が、優の柔らかい肌を懐かしんでいた。痩せてほとんど肉のない細い手足、本当に血が通っているのか疑いたくなる白い肌が桜色に染まって熱くもだえる優の小さな肢体。触れると、ふわっと、まるでソフトクリームが口中でとろけるように彼の手に反応するつるりと滑らかな肌。

 喘ぐ声も、震える身体も、まだまだ瑞々しく柔らかく、静かな印象を残す幼い少女。
 誰にも開けられなかった硬い扉の隙間を、確かに覗いた感触が、彼にはあった。

 何度も身体を重ねた相手でも、次に会う瞬間まで、その相手の顔も身体も、ましてその肌の感触など思い出しもしない樹にとって、それは驚くべきことだった。

 彼が誘ったら優は断りはしないだろうことは樹には分かっていた。
 彼女は男に逆らえない、ということよりも、最後に一瞬見せた自分に対する甘えの感情を彼は見逃さなかった。

 何かを考え込んでいる樹の横顔をそっと見上げて、優は、やっと‘言葉’が戻ってきた頭で考える。

 どこへ連れて行かれるんだろう?
 私はどうすれば良いのかな…?
 …もしかして…、また、抱いてくれるんだろうか?

 恋も知らず、人間関係の基礎も学び損ねて身体だけが成長してしまっている優には、セックスに対して、恥ずかしいとか、男と時間を過ごすことにときめくとかいう感情は起こらない。

 彼女の中にあるのは、未知なることも既知のことでも、すべての物事に共通して、‘恐怖’だけだった。
 男という生き物が彼女に求める行為に必ず付随するのは耐え難い苦痛と痛みだった。

 しかし、樹の胸に抱かれて、人の肌に触れることが気持ち良いと感じたのは、彼が初めてで、そして、彼だけだった。

 自分を見つめる少女の視線に気付いて、樹はにこっと彼女を見下ろし、その肩を抱き寄せる。制服の中の優の身体がぴくりと反応し、一瞬怯えて彼女は視線をそらした。

 気持ち良い感覚と、同時にそれに対する恐怖を優は不意に思い出した。傷口から流れ続ける血のためにすっかり乾ききった身体に、樹の愛撫は優しい煎じ薬のように温かく沁みてきた。しかし、その反応過程を優はコントロール出来ない。

 ビーカーの中で、二つの試薬がまだ混ぜ合わせてもいないのに勝手に反応を始めてしまい、茫然とそれを外から眺めているようなそんな焦りにも似た恐怖に陥るのだ。

 その夜、樹はお得意様のホームパーティに招かれていた。ほとんど身内と友人たちだけの気軽な集まりだと告げられていたので、同伴する女性を探す必要はなかった。初めは一人で訪問するつもりでいたが、帰りがけに優の姿を見つけた樹は、彼女を連れていってみようと思い立ったのだ。

 あまりに場違いだと分かったら、草々に引き上げてどこか静かなレストランで食事をしてホテルへ戻ろうと、樹は気軽に考える。

 鹿島は、小さなブティックの前で車を停め、樹は優を連れて店に入る。連れ出された優は、滅多に出かけない街の空気に怯えた。そして、今まで一度も入ったことのない店の、研ぎ澄まされた空気に呑まれて声も出ない。

 店内にずらりと並ぶ日常ではあり得ないある種特異な美しい服。彼女には眩しくて見ていられない。優は、一体自分はここで何をするのか、と本気で不思議に思う。

「この子にパーティ用のカクテルドレスを適当にみつくろって、着替えさせてくれる?」

 店長らしき美しい女性の前に優を押し出し、樹は時計をちらりと見る。
 一瞬遅れて、優は、ええ? と樹を見上げたが、彼はただ微笑んで彼女を見下ろしただけだった。

「ありがとうございます」

 見るからに中学生という幼い優の姿に眉ひとつ動かさず、彼女は営業スマイルで応え、うろたえている優を優しく奥へ引き込んだ。優の顔を覆っているふわふわの髪をすうっと撫でながら、カーテンの向こうから彼女は樹に声を掛ける。

「ヘアとメイクもお作りいたしますか?」
「ええ、お願いします」

 そう答えて、樹は一旦外へ出た。そして携帯電話を取り出して施設長に連絡を入れる。優を連れ出した由と場合に寄っては明日の朝そのまま学校へ送るという内容を。

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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 14 

虚空の果ての青 第一部

 何がなんだかさっぱり分からなかったが、逆らうわけにもいかず、優はおとなしくされるがままに従っている。

 すっかり下着まで外され、身体の線を調えながらレースのついたパット付きの下着を着せられる。最後に、少し大人っぽいメイクをしてもらい、フランス人形を思わせるフリルのふんだんに使われたパーティドレスを着せられた優は、鏡に写った自分の姿に愕然とする。上品なクリーム色のドレスが、青白い彼女の肌をうまく調和させ、別人のように仕立てている。

「あ…っ、あの」

 誰に何を聞いて良いのか分からない。

「あの、どうして…」

 どうして私はこんな格好を? と言いかけて、優は周りの女性を見回してみたが、微笑を返されるだけで何も答えてくれそうにないことに、彼女らは何も知る訳がないことを悟る。

「こ、…これ、どうやって動けば…良いんですか?」

 足首まですとんと隠れる裾の長いドレスに恐れおののき、優は小さな声でメイクをしてくれた店員に聞く。こんな格好を生まれてから今までしたことがなかった。

「裾を少し蹴飛ばすように歩くと動き易いですよ」

 彼女はあまりの優の幼さに呆れつつも、むしろ同情に近い笑みで教えてくれる。

「え、…は、…はい」

 優はすっかり困ってしまってただ頷く。

 結い上げられた髪、背中の開いたドレス。胸の形を整えるためにちょっと詰め物をされ、優は居心地が悪くてどうしようもなかった。鏡の中でほんのり紅い頬紅とピンク色の唇のすました少女は、どう見ても自分とはかけ離れた空気を作り出している。メイクで顔の印象も表情もこんなに違ってしまうのだということに、優は感心を通り越して怖くなってしまった。

 それでも、メイクのせいで、むしろ優は顔をさらすことにそれほど大きな抵抗や恐怖を感じずに済んでいた。鏡の中の少女はとても優自身とは思えなかったのだ。

「出来ましたよ」

 やがて、ホテルで自分の着替えを済ませて戻ってきた樹に、店長はにこやかに優を披露する。優は、樹の黒いタキシード姿にどきりとする。

 ありがとう、と言って優を見つめた樹の笑顔が、一瞬凍りついた。
 彼の瞳が、まるで幽霊を見たかのようにゆっくりと恐怖に見開かれたのだ。

「どうなさいました?」

 店長が怪訝そうに声をかける。優も、樹のその様子に怯えた表情をして彼を見上げた。
 ああ、やっぱり似合わないのだろうか?
 優は逃げ出したくなった。

「あ、ああ、…失礼。ちょっと驚いて」

 樹は茫然としたままの表情で優を見つめ、そして次の瞬間には、しっかりとした笑顔に戻って泣きそうな表情の優の全身をゆっくり眺めた。

「うん、少しは大人っぽく…と考えていたけど、それも、良いね。似合うよ」

 樹は微笑んで支払いを済ませ、優の制服を入れた紙袋を受け取った。そして、まだ、少し固まったままの優を店の外に連れ出して車に誘導する。

 歩きにくそうな優をうまくエスコートして、樹は慌てなくて良いよ、と笑う。それで、優は少しほっとした。
 彼女にとって、今、樹に見捨てられることが、何より恐ろしいことだった。

 何故、そんな風に感じるのか分からない。だけど、樹の関心が自分だけに向いていることを優は貴重に思うのだ。

 今まで、そんな風に彼女を見つめた相手がいなかったわけではないのに。むしろ、射すくめるような樹の視線に、優は逆らえないだけかもしれない。

 どこへ何しに行くのかも知らされず、学校帰りに突然連れ出され、外の空気は強烈過ぎて、こんなに大勢の見知らぬ人の中で、優はおろおろするばかりだった。いつも部屋にこもってばかりいる彼女にとっては何もかも未知の世界、初めての体験なのだ。

 それは優にとってひどく怖いことだった。いつでも、薄暗い闇の中に息をひそめて気配を消して生きてきた彼女は、舞台の真ん中に引きずり出されて一斉に注目を浴びているような恐怖を感じる。しかし、ふと横を向くと樹がいて、そして、優の小さな手は、必死に彼にすがりついていた。

「どこに…行くの?」

 聞いても怒られないだろうかとびくびくしながら、優はそっと樹を見上げる。

「うん、パーティに出かけるんだよ、お姫様?」
「パーティ? …って、何?」
「シンデレラとかが、着飾って出かけるでしょう?皇子様のお妃候補を選ぶダンスパーティとかに。その、パーティだよ」

 優は、ええ? と固まる。お伽噺の世界?

「ど…どうして?」
「一般的に、そういうのは女性同伴なんだよ。でも、お願いするのが面倒で、一人で出かける方が多いんだけどね。たまには俺も女性をエスコートしていかないと、ゲイかと勘違いされちゃうからね」

 茫然、とする優に、樹は笑う。

「大丈夫だよ、ダンスしろとか言わないから。ただ、行って食事をして帰ってくるだけ。君はただ俺のそばにいるだけで何もしなくて良いよ。だから、ちょっと付き合ってくれない?」

 晴れやかに笑う樹の顔を見つめて、望みを持つことを知らない優が、初めてほんの少し願った。
 彼にもう一度抱いて欲しい…と。

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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 15 

虚空の果ての青 第一部

 それからしばらく樹は無言だった。
 彼は、思い出していたのだ。昔出会って初めて恋した女性のことを。

 髪をあげてメイクをした優の白い姿が、その彼女の面影を彷彿とさせた。彼女も透けるような白い肌をしていた。そして明るく笑う人だったのに、何故か遠くで彼女の印象を思うと、いつでもすとんと世界が閉じるように静かだった。それは‘祈り’に似て、中世ヨーロッパの、ヘンゼルとグレーテルが本当にいそうな、魔女が住んでいそうな森の中、水面を駆ける水鳥の羽音のような静止した時間を彷彿とさせる。

 ちくり、と樹の胸が、忘れていた痛みを思い出していた。



 そのホームパーティは本当に家庭的な集まりで、不快なことも窮屈なことも何もなかった。

 その家は、そういう集まりを開くことを初めから意識して設計されていて、玄関を入ってすぐに少し広めの部屋があり、そこの天井は吹き抜けになっている。気持ちの良い上品なジュータンが敷かれ、外に続くガラスの扉が部屋全体を開放的な雰囲気にしていた。そして、庭はヨーロッパ調に整えられ、外にもテーブルが数個あった。

 主催した奥様が気さくな人だったため、紹介してくれる樹と一緒に軽く会釈をしていれば良いだけだったので、樹のそばで、彼にくっついているだけで優の役割は事足りた。

 立食パーティ形式で特に席に就く必要もなく、言葉を発する必要もない。優の素性を詮索したり不躾な質問をしたりする人もなく、ほとんどが中年女性の集まりだったので、優は相手の視線から逃れようとおどおどすることもなかったのだ。

「樹さまが女性をお連れするなんて珍しいですね」

 主催者のおっとりして優しげな奥様が微笑んで優に飲み物を勧め、優はその綺麗な色の飲み物を不思議そうに眺め、そっと樹を見上げる。

「飲んで良いよ。アルコールは入ってないから」

 樹は言い、優は恐る恐る奥様の手からカクテルグラスに注がれた桜色のシャンパンを受け取る。

 炭酸飲料など飲んだことのない優は、ちびりと一口舐めてみて、舌先への刺激に驚いてグラスを取り落としそうになった。
 樹は笑いながら言う。

「シャンパン、飲んだことないの? ジュースをもらおうか?」
「…大丈夫」

 優は少しどきどきした。初めての綺麗な飲み物。

「優ちゃん、お皿に好きな食べ物をとって良いからね。ちょっとここで食べながら待ってて。俺は少しあちらのご婦人たちに挨拶をしてくるから」

 樹は顧客獲得のために、ちょっと優のそばを離れる。

「はい」

 少し心細さを感じたが、思うように動けない優は、窮屈なドレスにちょっと息をついて彼の背中を見送る。食の細い優は、テーブルに並ぶごちそうにはあまり興味がなかった。

「優さん?」

 不意に背後から声を掛けられ、優はびくりとして振り返る。

「とって差し上げますね、どのようなものがお好きですか?」

 取り皿を手に、優以外で唯一若い婦人がどこか探るような目で優を見つめて微笑む。赤地に黒いレースを縫い込んだ華やかなドレス。豪華な金のネックレス。大きな瞳は吸い込まれそうな闇色に光っている。

 優は、自分とは対照的な彼女の空気に呑まれて言葉を失う。
 問いかけてはみたものの、優の返事を待たずに適当に料理を皿に盛り始めた彼女の優雅な細い指を見つめて、優はその指にはめられている指輪の石の光にうっとりする。優は、光を放つもの、光を照りかえすものが好きらしい。

「樹さまとは…ご親戚か何かですか?」

 綺麗に彩りよく盛り込まれた皿を差し出して、彼女は優の瞳を覗き込む。

「あの」

 何と答えて良いのか、優には分からない。

「婚約者だよ」

 突然、樹の声が頭の上から聞こえて、優はほっとして振り返り、その女性は一瞬表情をひきつらせる。

「…そうですか」

 優が、彼女に再び視線を戻したとき、彼女はすでに綺麗な微笑を浮かべていた。

「ずいぶん、お若いご婚約者ですね」
「ええ」

 樹は一切余計なことを言わずにただ微笑み返す。

「では、楽しんでらしてください」

 柔らかくそう言って、彼女は次の来客の接待へ移っていく。そして、優が茫然と見ていると、彼女は一人一人に丁寧に挨拶をしてまわっていた。

 ああ、それでも…
 ふと、優は感じた。あの綺麗な人は、樹のことが好きなんだ、と。

「あの子は詩織さん。さっき飲み物をくれた方のお嬢さんだよ」

 樹はじっと彼女を目で追っている優に言った。手には、いつの間にか料理を乗せた皿を持っていた。それをゆっくり食べる樹の顔を見つめていた優は、のろのろ受け取った自分の皿に視線を落とす。

 食べ方の分からない、見たこともないような品ばかりだった。

「彼女に盛り付けてもらったのかい? ほら、箸を使っても良いよ」

 フォークを握って困っている優に、樹は笑って黒塗りの箸をテーブルの奥から取り出して渡す。

 立って食事をすること自体が慣れていない優は、なんだか落ち着かなくて、何もかもを小さくちぎって、ちびちびと口に運ぶ。美味しいのかまずいのか、さっぱり分からない。何もかも不思議な味がした。


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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 16 

虚空の果ての青 第一部

 あまり意識はしていなかったが、その日、優はだいぶ神経をすり減らし、疲れていたようだ。次々と樹に挨拶に現れる華やかな女性たち。優があまりに幼いせいかそれほど不躾に冷たい視線を向けられはしなかったが、どういう関係の女性なのかと誰もが聞きたがった。

 食事もそこそこに、隅のソファに座って、優はグラスに注がれた飲み物にうっとりしていた。淡い桃色で、空気の泡がぷつぷつあがって、幻想的な色彩の小さなグラスの中の世界。それを見つめていると、怖いことを忘れられたのだ。

 迎えに来た鹿島の運転する車に乗り込んだ途端、彼女は瞼が重くなって、目を開けていられなくなってきた。
 こくりこくりとふらつく優の身体を抱き寄せて、樹は笑った。

「良いよ、優ちゃん、眠ってて」

 優は樹の腕にもたれかかった途端、ことん、という感じで意識を失う。赤ん坊みたいだと思いながら、樹はその身体を横たえ、小さな頭を膝の上に乗せる。

 すうすうと寝息を立て、まったく無防備に優は眠る。
 これじゃあ、さぞかし襲われ放題だったろう、と樹は呆れた。

 そして、そのあどけない寝顔を見下ろしてふと考える。どうして、こんな子に関わってしまっているんだろう?と。
 その身体にしか興味はなかったのだ、本当は。
 自閉症のような、人とうまく付き合っていけない精神疾患を抱え、感情表現もろくに出来ない少女。

 しかも、発育が悪くやせっぽちで、抱き心地もそんなに良くないのに、触れたいと思ってしまうのは何故なのか?
 こうやって、髪の毛をまとめて額を見せると、フランス人形のように整った顔立ちが際だつ。同時に栗色の髪と、少し淡い瞳の色が、精神薄弱児を思わせる。

 あまり慕われない様に少し距離を置いたまま付き合った方が良いかな、と樹は思う。
 女と深く関わって、ごたごたが生じることを彼は嫌った。面倒だった。

 しかし、それだけではない何か…の感情が彼の奥でこそりと揺れ、彼は眉をひそめる。
 いや、もう考えるのはよそう。
 とりあえず、この子はまだ中学生だ。明日の朝早く学校へ送り届けなくては。
 

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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 17 

虚空の果ての青 第一部

「優ちゃん、着いたよ?」

 揺り起こされ、優はねぼけたまま身体を起こす。まだ車の中にいると思っていた彼女は辺りを見回して、あれ?という表情をする。
 この間のホテルの部屋だった。

 樹は、滅多に自宅の屋敷に戻らない。郊外にあるそこは仕事が真夜中までかかったときに戻るのがあまりに不便だった。

「優ちゃん、その服は脱いで。そして、先にシャワー浴びてそのメイクを落としておいで」

 タキシードを脱いで部屋着に着替えながら、樹はソファの上の優に声を掛ける。
 まだ、思考がうまく働いていなかったが、とりあえず優は言われた通り、そのドレスを脱ごうと試みる。しかし、一体どうすれば脱げるのか分からない。四苦八苦している優に気がついて、樹は、ああそうか、と笑う。

「ごめん、背中のファスナーをおろしてあげるよ。」

 着替えを手伝って、バスローブを着せかけ、樹はくいっと優の顎を指で持ち上げ、その顔を覗き込む。

「優ちゃん、君、メイクの落とし方…分かる?」

 きょとん、と彼を見上げる優に、樹は苦笑する。

「…わけ、ないよね?」

 う~ん、と考え込んで樹はバスタブにお湯を張る。

「一緒にお風呂に入って俺が落としてあげるよ。備え付けのクレンジングがあるし」

 男と一緒に入浴する、なんてことを優は何故受け入れてしまうのか。それが常識的にどうなのか、彼女にはまったく分からない。社会性、というのもがほとんど育っていないのだ。

 お湯がたまると、樹はその湯加減を調節して優を呼ぶ。ぼんやりとその場に座り込んでいた彼女は、ぱたぱたと足音をさせてバスルームにやってくる。そして、ほとんどためらいもなくローブを脱いで、差し出された樹の腕に抱かれてお湯に身体を沈めた。

 背後からぴったりとくるむように抱かれ、優の小さい身体は彼の胸の中に収まる。人の肌が気持ち良いと優は眠い頭で思う。
 ふわりとした安堵感に包まれ、再びとろとろと瞼が重くなる。

「優ちゃん? 眠っちゃダメだよ」

 不意に重くなった腕の中の優の身体を揺さぶって、樹はお湯でぬらしたタオルを優の頬に当てて化粧を浮かせる。そして、用意していたクレンジングクリームを取り出し、手の平で泡立てる。

「とにかく洗い流せば良いんだろう?」

 ぼんやりしている優の顔に泡を丁寧に塗りこみ、柔らかくマッサージするようにその小さな顔を撫でる。額から目の周り、頬、そして唇、顎。その心地良さに、優の瞼は重くなってくる。

「目を閉じててね。石鹸が入ると痛いから」

樹の声を夢のように聞きながら、喉に手が触れた途端、初めて優は小さな悲鳴をあげて、はっと目を覚ます。

「くすぐったい?」

 くすくす笑いながら、樹は優の嫌がる喉元から首の後ろをくるくるこするように撫でる。

「あ…っ、やあっ」

 全身をくすぐられているような気がして、優は樹の腕の中で悲鳴を上げ続ける。腕の中で暴れる彼女に笑いながら、樹は優の身体を洗ってやる。

 どんなにくすぐられても、やがて、優は樹の胸に身体を預けて何度も眠りそうになっていた。
 半分朦朧とした意識の中で、樹が彼女の身体を抱き上げてバスタブからあがり、二人同時に頭からシャワーを浴びて部屋に戻ったことを優は感じていた。

 そのまま大きなバスタオルにくるまれ、しばらくベッドに横たえられていた優の身体を、着替えて戻ってきた樹の腕が不意に抱き起こす。そして、ドライヤーでくしゃくしゃと髪の毛を乾かされる感触が続いた。

「もう、限界みたいだね」

 目を半分閉じかけている優に、樹はちょっと苦笑する。

「仕方ないね。もう、子どもは寝る時間か」

 裸の優を再度ベッドに横たえ、樹は毛布を掛けてやった。そして、優の頭を大きな手がなでるのを感じ、彼女はすとんと眠りに落ちていく。
 とても安らかな眠りだった。


 
 怖くない人間は、優の中にはほとんど認識されていない。
 学校の保健室の先生、施設で同室の子。その程度だ。

 同室の坂下希美子は、小学校の頃からずっと同じ部屋だった。その子も似たような境遇で施設に引き取られ、優を昔から知っていることもあり、彼女を普通に扱い、優に変に気を使わないせいで、優も気を使う必要のないほぼ唯一の存在だった。お互い、特に相手に関心がないために一緒にいられる…という感じだ。その程度が優には楽だったのだ。

 会いたい人も、そばにいたい相手もいない。
 彼女の中に、他の人間という存在はないに等しい。

 その中に、不意にねじ込んできた‘樹’という男。彼の存在は、モノクロだった彼女の世界に突然カラーを伴って現れた。他のすべての人間に色を見出せない優が、彼の姿だけは鮮やかな色彩を伴って見えているのだ。

 何故なのか、彼女自身にも分からない。

 今までも、優に優しく接してくれた人は何人もいた。カウンセラーの先生、診察してくれた医師、里親として優を引き取りたいと申し出てくれた年配のご夫婦。

 心から彼女を心配し、その心に添おうとしてくれた人々だ。それでも、彼女の心は動かなかった。他人と触れ合う一歩を踏み出せなかった。

 彼らに比べたら、樹は、優に対して特に優しかったわけでも、その心の傷に対して向き合ってくれたわけでもない。むしろ、彼は身体だけが目的だと、優にも薄々は分かっていた。それなのにどうして言うことを聞いてしまうのか。触れて欲しいと願ってしまうのか。

 樹が、深い部分で、そらさず真っ向から彼女を捉えようとしていることを、彼女が分かるやり方で向き合ってくれようとしていることを、どこかで感じているのだろうか。

 優は、温かい言葉や、医療的な手当てでは決して救われはしない。
 人生の一番初めに求めたもの。それは、‘親’の愛という心地良い温かい愛撫。抱きしめて守ってくれる大きな腕。そこに逃げ込めばとりあえず安心という胸なのである。

 動物が、犬でも猫でも、赤ん坊を産んだ母親がまずその子ども達にすることは、体中を舐めまわすことである。それは、清潔のためというよりは、そうしないと死んでしまうからである。皮膚に与えられるその温かく湿った心地良い刺激、それが生命の成長に欠かせないことを知っているからである。

 それらのことを樹が知っていたわけではない。
 ただ、彼は本能的に優のそういう‘飢え’を感じてしまったのだ。


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虚空の果ての青 (ホームパーティ) 18 

虚空の果ての青 第一部

 翌朝、樹が身体を起こした気配に優ははっと目を開ける。

「ああ、ごめん。起こしちゃった? 君は、まだ眠ってて良いよ」

 部屋の中は薄暗く、周り中がしーんと静まり返っている。まだ早朝の時間らしかった。
 樹がシャワーを浴びにバスルームに消えた背中をぼうっと見送って、優はまたとろとろと眠りに落ちる。身体中が気だるく、樹の腕に抱かれていた部分が温かかった。
 


 シャワーを浴びながら、樹はふと彼のベッドに眠る少女を思った。

 優を初めて抱いてから数日後、樹は、いつものように仕事帰り、町で女を誘ってホテルへ行ったことがあった。
 それほど、遊びなれている風には見えなかったが、その子はベッドで豹変した。樹は女に奉仕されることがあまり好きではない。そういうことを嬉々としてする女の顔をあまり見たくなかったのだ。

 途中でうんざりして、さっさと行為を終わらせ、彼はお金を払った。
 帰り道、ビルの明かりを見上げた途端、優の顔が浮かんだ。

 小さく震え、切ない喘ぎ声をもらす幼い、しかし女の顔。柔らかい肌。喜びに揺れる瞳。身体中にキスをして、腕の中で鳴かせ続けたいと、樹は思った。

 身動きの取れない仕事の忙しさをそのとき初めて恨めしく思った。



「桐嶋さん、昨日、樹さまにお知り合いのお宅のホームパーティに連れて行ってもらったんですって?」

 その日、学校が終わって施設に戻った優に、事務の女性が声を掛ける。彼女は樹が施設長に電話をしたとき、そばにいて聞いていたのだ。

「…?」

 優は、言われたことの意味を理解するのに一瞬の間が空いた。しかも、会場にいたときのことはほとんど覚えていなかった。不思議な味の食事をしたことと、綺麗な飲み物、その食事を盛り付けてくれた女性の印象が少し残っているだけだ。

 慣れない衣装にほぼ全神経を集中させていた優は、それを外してほっとした後、ひたすら眠かったことをぼんやり覚えているだけだった。

「楽しんできた?」

 樹が慈善事業的な意味合いで、閉じこもってばかりいる優を外に連れ出してくれたのだとしか考えていない彼女は、無邪気に微笑んで彼女を見る。

「…はい」

 答えようがなくて優はただ頷いた。

「そう、良かったわね」

 事務の女性はそう言って立ち去る。幼い頃からの優の境遇を知っている彼女は、ほんの少しでも優が‘楽しい’ことを知ってくれると良いと思う。家族もなく、友人もなく、笑うことを知らない優の心の内を一瞬でも照らしてくれるものがあるのならば。
 


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虚空の果ての青 (甘やかなる時間) 19 

虚空の果ての青 第一部

 それからしばらく、樹は仕事が詰まり、本気で忙しい日が続いた。あっという間に短い秋は終わり、冬に向かって季節は静かに始動を始めていた。


 
 優は、いつも、いつでも樹のことを考えていた。
 どうして、彼のような人が自分に興味を抱いたのか分からなかったが、それまで誰にも触ることができなかった優は、たった一人、‘親’のように、そして恋人のように自分を抱きしめてくれた男を忘れられなかった。

 ごまかしも嘘もなく、彼は、優の身体を求め、愛してくれた。

 それが、どういう形の‘愛’だったにしろ、そして優には‘愛’だという意識はなかったにしろ、文字通りすべてを受け入れてくれた人だった。

 それでも、会いたい、という想いが形を成しても、それを伝える術はなかった。



 11月の終わり。

 ある週末の午後、施設の前に、不意に樹の車が現れた。部屋でぼうっといつものように本を抱えて窓にもたれていた優は、それを見て、どきりと胸が鳴った。

 樹が自分に会いに来たのだろうか、とういう考えは優には起こらない。

 いつも、彼は施設長と何かを話して帰っていくので、そういうことだろうとは思った。だけど、もしかして姿を 見かけられるだろうか? と優は思う。見かけたら、彼は自分を見てくれるだろうか?

 樹に触りたいと言ったら、彼は不快な表情をするのだろうか。
 ほんの少し、その胸に顔をうずめてみたいと言ったら怒るのだろうか。

 しかし、どきどきしながら窓の外を見下ろしていた彼女は、運転席から鹿島がおりて一人で中へ入っていく様子を見て、樹は乗っていないのだということを知る。

 その、脱力感。喪失感のような惨めな気持ち。
 優は胸が痛む、という思いを生まれて初めて経験した。

 希美子が、いつもと違う彼女の様子に気がついて、どうしたの? と聞く。

「ううん…、なんでもない」

 無表情に答え、優は本を抱えて自分の机に向かった。なんだか、何もする気が起きなかった。

 ドアをノックする音と、希美子の名前を呼ぶ友達の声が聞こえて、やがて、彼女はぱたぱたと出て行ってしまう。しん、となった部屋に、優は一人取り残された。

 しばらくして、不意に扉を叩く音が聞こえ、優は不思議に思って扉の方を凝視する。同室の子がいないとき、この部屋を訪ねてくる人なんて滅多にいなかった。彼女がいないことを知らない誰か…、事務の女性かな?

 それでも、優はしばらく身体が動かない。希美子が不在のとき、この部屋の中で襲われたこともあるので、怖くて扉に近づくことが出来ないのだ。

「桐嶋優さん? いらっしゃいますか?」

 優は、名前を呼ばれてびくりとする。聞き覚えのある声。
 …誰? 優はふと懐かしい気持ちになって、はっとする。鹿島の声だった。

「樹さまの使いでお迎えにあがりました」
「いつき…さま?」

 その名前の響きを夢のように味わい、優は恐る恐る扉を開ける。そこには、先ほど見かけたそのままの姿で、鹿島が場違いなほど真面目な顔をして立っていた。

「あ…」
「桐嶋優さん? 樹さまの使いで、お迎えにあがりました。今すぐ、お支度して、お出かけになれますか?」

 部屋着で茫然としている優に、鹿島は繰り返す。

「…はい」

 返事はしたものの、優はまだ鹿島を見上げたままだ。この人は、いつも樹と一緒にいる男だ、と優はぼんやりと思う。

「優さん? すぐにお支度なさっていただけますか?」

 優は、何を言われているのか分からなかった。思考が追いついていかない。
 鹿島が自分を迎えに来た。

 樹の使い? …どうして?
 しかも、支度と言っても何をして良いのか分からない優は、ただ困って鹿島を見上げる。

「着替えなどはよろしいですか?」

 制服以外で、ほとんど外出着を持っていない優は、ただ頷く。女性の部屋に勝手にあがるわけにもいかず、鹿島はちらりと優の背後の部屋の様子に視線を走らせただけで諦めた。

 このままのいい加減な服装で優をホテルへ案内したら、自分が一緒でもエントランスで止められかねない。

「では、…何か上着を羽織られた方が」

 彼は少し困ってそう提案してみる。
 優は、扉の陰で小さく頷き、抱いていた本をそっと机の上に置くと、タンスの中から紺色の学校用のコートを引っ張り出してきた。鹿島は、諦めて息をつく。

「では、ご案内いたしますので、どうぞ、ご一緒に」

 鹿島について上着をただ抱きしめたまま、優はとことこと歩いて行く。半歩前を歩く鹿島は、優の歩幅にあわせてゆっくり歩いてくれる。

 社会の常識も、大人の思惑も、そして男の自己顕示欲や所有欲など何も知らない女の子。翻弄され続けた運命を恨むこともせず、捕えた獲物をその手に抱くつもりだけの男の使いに素直に従う憐れな少女。

 鹿島は、きらきらと澄んだ瞳で自分の後をついてくる優を、複雑な思いで見つめた。

 彼は樹はいつでも正しいと信じてきた。実際、彼は人道を外れるようなことはいないし、人望も厚い。優に対しても彼はある意味誠実だった。ごまかしたり、嘘をついたり騙したりはしない。だから、鹿島は何も言わない。

 そして、こうやって心なしか嬉しそうな優を見ていると、この子は彼の腕に捕らわれて生きる方が幸せなのかもしれないと思えてくる。施設で時折見かけていた彼女よりも、遥かに生き生きとして見えるのだ。

 事務所の前に差し掛かったとき、事務の女性が出てきて、優に声をかけた。

「あら、桐嶋さん、お出かけ?」

 鹿島は施設長に話を通してあるので、特に何も言わずに彼女の前を通り過ぎる。優は胸がいっぱいで、更にまだどこか不安を抱いていて、彼女に対して反応することが出来ない。ちょっと不思議そうに見送る彼女の視線を背中に感じながら、優は、どきどきしていた。

 もうすぐ…本当に会える?

 後部座席のドアを開けられて、優は初めて樹の車に一人で乗り込んだ。そうっと息を深く吸うと、いつも彼が座っているその空間は、樹の匂いがしみていた。
 

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虚空の果ての青 (甘やかなる時間) 20 

虚空の果ての青 第一部

「おや? 優ちゃん、その格好で来たの?」

 いささか呆れて、樹は苦笑する。
 いつものホテル、いつもの部屋に連れてこられた優は、鹿島の心配した通り、あまりにホテルにそぐわない古いトレーナーとジャージ生地のパンツという姿で、散々注目を浴びてしまった。

「鹿島、途中で何か調達してくれて良かったのに」

 樹は苦笑と共にため息をつく。

「申し訳ございません」

 鹿島は頭をさげて、そのまま退出して行った。優は、フロントに内線をして軽食をオーダーする樹の横顔を見つめながら、不安になる。彼がどこか機嫌が悪いように見えたのだ。彼は何か話しながら優に向かって手招きをした。

 書斎机の向こうの樹は仕事用の顔をしていて、何か分厚い書類を手にしている。そして、受話器を置いた途端、間髪入れずに再度机上の電話が鳴る。ホテルのフロント経由で取り次がれる仕事の電話だ。

 コートを抱きしめたまま、そろそろと樹に近づいていた優は、その音にびくりとして立ち止まる。

「優ちゃん、ちょっと待っててね。そこに掛けてて」

 ソファを指さされて、優は頷いて後ずさった。

「ああ、はい。お願いします」

 樹は、フロントからの電話の切り替えを受けて、仕事の相手と何かを話し始め、優は取り残されてしまう。

 手持ち無沙汰でソファにじっとしていると、なんだか、部屋の暖房が心地良くて、樹の声が耳に心地良くて、優はとろとろと瞼が重くなってくる。

 …そういえば、樹はどうして自分を呼んだんだっけ? と優は眠い頭で考える。
 たとえ、彼が何を考えていようと、優は今樹に会えて嬉しかった。そばに行ってその手に触れてみたかったし、キスしたかった。でも、彼はどう思っているんだろう…?

 樹の低い澄んだ声が気持ち良かった。いつも、仕事ではこんな風に話しているんだ、と優は思う。
 その声に包まれて、ふわり抱かれているような幸せを感じる。

 眠りに落ちそうになって、ふらふらしている優を横目で眺めながら、樹はまったく無防備な彼女の、そのいい加減な服装の下の白い肌を思う。触れた瞬間小さく震え、溶けそうに柔らかい少女の肌を。

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虚空の果ての青 (甘やかなる時間) 21 

虚空の果ての青 第一部

 不意に樹の気配を間近に感じてはっと目を開けたとき、優はすでに彼の腕に抱かれ、唇をふさがれていた。

「う…んんっ…?」

 思わず樹の腕にしがみついてもがいた優は、腕を押さえ込まれ、ソファに押し倒される。
 そのかなり乱暴な行為に、一瞬怯えて、優は固まった。

「優ちゃん、君、俺の前でいつも眠ってるよ?」

 不意に抵抗をやめた優の瞳を覗き込んで、樹は不敵な笑みを浮かべる。

「…ごめんなさい」

 訳も分からず泣きそうになって、優は、まだ半分仕事の顔をしている樹を見上げた。外向けの顔をしている樹はどこか近寄り難く、更に、さきほど見せた彼の表情が優を不安にさせていた。再会を喜んでくれるとは期待していた訳ではなかったが、明かに困惑したような呆れたような目をして彼はため息をついたのだ。

 樹が口を開きかけたとき、不意に、机上の電話が鳴る。
 彼は、小さく息をついて、優の身体を抱えあげて机に向かうと、そのまま電話の横に浅く腰を掛けて受話器を取る。

「…はい、つないでください」

 優を片手で抱いたまま、彼女の耳元で樹はそう電話に告げる。背後からその大きな手に抱えられ、樹の片方の膝に座った形の優は、不安定な姿勢におろおろする。その間にも、彼の手は優の肌を求めてTシャツの中に滑り込んでくる。

「…あっ…あの…っ」

 何か言いかける優に、樹はちょっと通話口を押さえて小声でささやく。

「ダメだよ、優ちゃん。静かにしててね」

 慌てて優は口を押さえる。

 樹は、その手の動きとは裏腹に、まったく冷静な声で淡々と仕事の話を進めていく。そして、仕舞いには受話器を肩と耳の間に挟んで、両手を使って優の身体を愛撫し始めた。
 身体の反応に声がもれそうになって、優は必死に自分の口を押さえている。

「…んん…っ、く…ぅっ」

 それでも、小さな声がもれて優は身をよじらせる。こらえようと思えば思う程、身体は熱く反応する。熱がどんどん内に蓄積されてきて、優の身体は小刻みに震える。

 早く電話が終わって欲しいと、優はただ必死に祈る。
 たとえ樹が何かに怒っていても、どんなに怖いことをされても、声をあげられない苦しさはもう限界に近かった。

「ああ、ではそれで結構です。そうしていただきます。よろしく」

 ようやくそう言って、相手の電話は切れる。
 それでも、もうそれすら分からないほど、優の頭は思考が停止状態になり、痙攣する身体を押さえられない。通話から開放された樹の唇が、そっと優の首を這い、舌が髪の生え際を舐める。

「ふぅっ…んん~っ!」

 優の目には涙が光る。樹が、もう良いよ、と許可をくれないので、優は自分の口を両手でふさいだままだった。もだえ苦しむ優を楽しむように、樹はその手も、舌も官能的な愛撫を決して緩めない。

 遂に、絶頂まで導かれ、優は切ない悲鳴に似た声をもらす。
 足のつま先まで痙攣しながら、優の身体からがくりと力が抜け、樹の腕に崩れ落ちた。

「よく耐えたね。良い子だよ、優ちゃん」

 樹の声が、仕事用の声色から、いつもの甘い調子に変わった。

「服を脱いで、先にベッドで待ってて。」

 多少ふらつく優を立たせて、樹は彼女の首筋にキスを落としてささやく。目的はそれしかないだろう、と言わんばかりの冷たさだったが、優はただ、やっと本当に樹に触れると思うと嬉しかった。

 樹は散らかったままの机にちらりと視線を投げ、時計を確かめる。

 今日予定していた相手からの連絡はだいたい来たはずだった。それでも、ふと不安になり、樹はフロントに電話をつなぐ。

「これから6時まで、緊急の連絡以外、取り次がないでもらいたいんだけど。…そうですね、判断は彼に任せます。鹿島がそう判断した場合だけ。…はい、お願いします」

 まったく何の考えもなく、するすると服を脱ぎ捨てている優を視線の端に捕えながら、樹はふっと笑みをもらした。

 優の小さな喘ぎ声も、彼の手で桜色に染まる肌も、樹は愛しかった。抱きしめたときに見せるとろんとまどろむ優の至福の表情も、じらされたときの泣きそうに切ない瞳も、無性に可愛いと思うのだ。

 それがどういう意味の愛おしいなのか、或いは、擦り寄ってくる仔猫を可愛いと感じるのと変わりがない感情なのか、樹にも分からない。

 探さなくても、優はいつでも同じ場所に同じように、樹をただ待っている。

 彼に、自分を愛しているか? と尋ねたりしない。恋人にして欲しいと目に見える関係を、増して結婚して欲しいなどと迫ったりしない。

 彼が見ている前で、最後の下着もためらいなく脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ優の小さな背中を見つめながら、樹は受話器を置いた。


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虚空の果ての青 (甘やかなる時間) 22 

虚空の果ての青 第一部

 しばらく二人で肌を寄せ合ってうたたねした後、ベッドから夕食をルームサービスで頼んで、樹はシャワーを浴びる。

 ほとんど眠り込みそうなまどろみで優はうとうとしており、彼は優を敢えて起こさずに放っておいた。表情のあまりない優の顔に、幸せそうな余韻が浮かんでいるのを見つけて、彼も少し甘い気持ちになったのだ。

 バスローブ姿で部屋にストックしてあるワインのボトルを開けていたとき、部屋の呼び鈴が鳴って食事が届く。
 時計は5時半を指している。樹にとっては大分早い時間の夕食だったが、今後、仕事の電話が入るのは必至なので、早めにゆっくり二人で食事を取りたかったのだ。

 テーブルにセッティングしてもらって、給仕係が出て行ったあと、樹はグラスにワインを注いで、優を起こしにいく。

「優ちゃん、食事だよ」

 くるりと丸くなって毛布に包まっている優の耳元で、樹はささやくように言ってみる。

「優ちゃん、ご飯が冷めちゃうよ」

 まったく反応のない優の体をそっとゆする。
 その刺激に、ぼんやりと目を開けた優は、まだ、夢の中のような曖昧な瞳をしている。

「ご飯だよ。起きて?」

 頭がまだぼんやりしている優は、それでも彼の声に素直に従う。身体を起こして一瞬困ったように辺りを見回した優に、樹はバスローブを着せ掛ける。あまり小さなサイズがなかったそれは、優の身体をすっぽり隠してしまいそうだった。袖口を二重にまくりあげ、足が出ない分は諦めて樹が抱き上げてテーブルまで優を運ぶ。

「はい、食事にしようか」

 優を椅子に座らせて、樹は向かい側に腰を下ろす。この間のパーティで、見たことのない料理には特に食が進まなくなるらしい優を見ていたので、彼は施設でよく調理されるであろう和食を用意させていた。

「ワイン、飲める?」

 一つのグラスにほんのちょっぴりピンク色のワインを注ぎ、樹は優に差し出す。
 飲めるのか、優にも分からなかったが、とりあえず彼女は受け取ってみた。

「乾杯」

 優が手に持っているグラスに自分のグラスを合わせ、樹は微笑んだ。

 優は、自分ではほとんど笑顔を作れなかったが、樹の笑顔を見るのがとても好きだった。自分の存在が許されているのだ、ということを、どこか、無意識に感じられるのだろう。
 グラスの中の液体をほんの少し舐めて、優はちょっと顔をしかめる。その様子を見て樹は笑い、良いよ、無理しなくて、と言う。

「自分で取り分けて食べられる?」

 大皿に盛り付けられている色とりどりの煮物や炒め物、焼き魚を前に、なんとなく圧倒されている様子の優に、樹は小皿に手を伸ばしながら聞く。

 優は、少し考えて首を振る。
 施設での食事は、一人一人に決まった量が配られるので、こういうスタイルで食事をしたことがなかった。そして、彼女はいつでも割り当てられた半分以上は食べられないのだ。

「じゃあ、俺が取ってあげるけど…」

 樹はちょっと優を見据えて言葉を続ける。

「俺が盛り付けた分は残しちゃダメだからね。必ず全部食べること。分かった?」

 優は、その言葉に怯えた表情をして樹を見上げる。許しを請うようなその視線を軽く一瞥して、樹は念を押す。

「分かった? 優ちゃん」

 優は、怯えたまま小さく頷くしかなかった。
 実際、そんなに食べられないだろうことは分かっているので、樹は、食事が拷問の場になったりしないように、すべての料理をほんの一口ずつ綺麗に盛り付ける。そして、優の目の前にことん、と置きながら、ゆっくりで良いからね、と微笑んであげる。

 どうしよう…? と本気で怯えて樹の手元を見つめていた優は、思ったほどの量ではないことに幾分ほっとした。

 ほとんどしゃべらない優の言葉をなんとか引き出しながら、樹はゆっくりでも、丁寧に食事を味わう優の姿勢を良いと思っていた。優の食べ方はなんだか祈りのように厳粛だ。おいしそうに沢山食べる女性も気持ちが良かったが、そういう豪快さがなくても、それはそれで良い気がした。

 こんな風に他人と向かい合わせで食事をしたことのない優だったが、それほど緊張もせず、なんとなく自然に箸を動かすことが出来ている自分に少し驚いていた。

 そして、いつもならとっくに箸を置いている量を、にこにこ優を見つめる樹の前でだと軽く食べられる、という事実に、何よりもほっとしていた。

 良かった、食べきれた。
 怒らせなくて済んだ、と優は思うのだ。

 今まで、彼女にこんなに関心を寄せた相手はいなかった。もちろん、先生方や施設の職員は彼女を心配し、気遣ってくれたが、彼らにとって優は生徒の一人、可哀相な子どもの一人に過ぎなかったのだ。そして、同年代の周りの仲間達にとっては、興味の対象にはなっても、それは優を傷つけはしても、慰めにはならなかった。

 優を、一人の人間として、特別な対象として扱う度量を持ち合わせ、それを実行できる相手は今までいなかった、ということだろうか。

 時間的に忙しい樹だったが、それをカバーし得る経済力と人材を持ち合わせ、社会的信用があり、社会的地位がある。それが、普通に考えたら不可能な、ある意味、‘恋愛’という関係を成立させていた。

「ちゃんと食べられたね。O.K.合格だよ。普段でもこのくらいは食べるようにね」

 樹は、綺麗に皿の上を片付けた優を見つめて微笑んだ。ほんの一瞬、優の目に得意そうな光が浮かんだ。それは、子どもが親に見せる甘えと喜びの色だ。自分を受け入れ、認めてくれる存在に対する信頼の色だ。

 この子は、そういう当たり前の感動を今まで味わったことがないんだ、ということが、樹の胸をほんの少し熱くさせた。


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虚空の果ての青 (甘やかなる時間) 23 

虚空の果ての青 第一部

 夕食を済ませ、片づけが済んで、樹は部屋着に着替えて再びかかってきた仕事の電話に答えるのに忙しくなる。彼は、机の上に並んだ決済書類を見ながら話しを進めていた。要検討書類のようで、平行線を辿っている感があるのだが、優にはそういうことは分からない。

 ときに、多少イライラしながら、それでも樹は根気良く丁寧に話しを進めている。とにかく、頭ごなしに否定や反対はせずに、もう一度あらゆる方面から検討を加えるように言い渡して話しを終える。

 その繰り返しだった。
 優は、樹の机の背後に並ぶ書庫の本の背表紙を眺めて過ごしていた。
 テレビを観ても良いし、読みたい本がもしあったら、勝手に読んで良いよ、と樹は言っていた。

 優はあまりテレビを観る習慣がなく、興味もさほどなかった。しかし、本はジャンルを問わずなんでも読むので、壁を覆うほどのたくさんの樹の本には少し惹かれた。

 経済学、経営学、法律関係の書籍、裁判記録、それから医学に至るまで、難しいものばかりだったが、樹が取り掛かり程度に初めに読んだのであろう、初心者向けの医学書や、民法の入門書などは、優にでも読めそうに思う。

 ソファからそれらを眺めていた優は、そっと立ち上がって、樹の机の脇を通って書棚に向かう。読もうと思った本が手を伸ばしても届かず、精一杯背伸びしていると、それを目で追っていた樹は、電話の相手に、少し待ってもらって電話を保留にする。

「どれが欲しいの?」

 優は、はっとして振り返る。

「ええと…あの、『免疫学』とあの赤い表紙の…」
「ああ、こんな医学の専門書、読めるの?」

 笑いながら樹は優が指した本をとってあげる。ありがとう、と彼を見上げた優の小さな唇に軽いキスを落として、夜まで良い子で待っててね、と樹は彼女のふわふわの髪をなでる。

 優は、樹の柔らかいキスにちょっと身体が熱くなり、受け取った本をぎゅっと抱きしめて、慌ててソファに戻る。長すぎるローブの裾が邪魔になり、彼女は裾を踏んで転びそうになってソファに転がり込んだ。

 その様子を、笑いをこらえて見ている樹の視線に気がついて、優はちょっと赤くなった。

 樹は、そうとは意識せずに、自然に優の感情をどんどん引き出し、僅かでも表情の変化を作り出していた。それは、恋する者同士が紡ぐ魔法のようなものだ。‘恋愛’は一番、生物の感情を揺らし、その揺れ幅を最大限揺さぶるものなのだ。

 優は、‘嫌われたくない’という‘感情’を初めて他人に対して抱いた。それはまだ本能に近かったが、他人に対する興味が一切なかった今までの優の人生にとって、劇的なことだった。

 そして、この‘恋’の熱は、樹にとっても『初めて』を引き出した。

 今まで、彼は女性を恋愛の対象として捉えていなかった。どんな女性に出会っても、彼はマトモに‘恋’が出来なかった。本人はそうとは意識してはいなかったが、結局は、誰のことも信じてはいないのだ。

 今回、何故、優にこんなに固執しているのか、樹には分からない。初めて彼が恋した女性の面影がダブっているのか。優の境遇や変わった性質が彼を惹きつけるのか、或いは同情しているせいなのか。

 今まで、誰にも感じたことのない想い。
 今はまったく自分の手の中の優を、だけど、他の誰にも触れさせたくないと思った。そして、常に手の届くところに置いておきたいと。それは、『独占欲』とか、『所有欲』『支配欲』と呼ばれるものだ。

 樹は、優と離れている間、その想いが渦巻く自身の内面に少なからず驚いていた。慌ててすらいたかもしれない。

 こんな想いが自分の中にあるとは、彼は知らなかったのだ。恋愛に対して淡白だと評され続け、彼自身もそう思っていた。誰かの心を手に入れたいと執着したことが未だかつてなかった。
 


 優は、同じ年代の子と違って、ある意味、とても大人だ。あまり言葉を発しないので誰も気付かないが、恐らく彼女の知識の量は半端ではないだろう。しかし、もう一つの意味ではまるっきり世間知らずの赤ん坊同然だった。

 容姿とアンバランスな不安定な内面。ガラス細工のようにもろい心の安定。壊れかけた心を入れる器は、それ以上に壊れていた。ホルモンのバランスが狂い、優はまだ生理すら始まらない。生理がマトモに訪れるか分からない、と医師は言う。幼いときから弄ばれた優の身体は異様なほど敏感になり、触れるだけの刺激でも過剰なほどに反応する。

 そういうことの全てをうまく調和させることが出来れば、優は、きっとその聡明な能力を発揮して、或いは社会の中で居場所を見つけてうまく生きていけるようになるのかもしれない。

 まだ、生まれたままの何にも染まっていない優を、自らの手で躾けて育て上げてみたいと、樹は思う。



 現代版、源氏物語か? と電話で冷静に取り引き先のリサーチの報告を受けながら樹は思う。確か、光源氏が憧れた女性に生き写しだった少女を無理やり引き取って育てたのが、紫の上だった、と。

 十数年前、樹が母と父の住む国に呼ばれてしばらく日本をあとにする直前、出会った留学生がいた。彼女は、ロシアに統合された小さな国の出身だと言って微笑んだ。カタコトの日本語、カタコトの英語で、二人はいろんなことを話し合った。

 彼女は、樹よりずっと年上だった。知り合った当時、まだ大学1年生だった彼女。大学の4年間を日本で過ごすと言っていたのに、長くても1年で日本に帰ると言った樹を、必ず待つと手を振った彼女は、樹が日本に戻ったとき、すでに故郷に帰ってしまっていた。

 正確な彼女の故国の名前も覚えていない樹は、彼女を探す手立てはなかった。
 初めて恋した相手だった。
 あんなに人を好きになったことはなかった。
 それが、あっけなく裏切られたことで、樹は人を信じられなくなってしまっていたのだ。

 アメリカの人が、日本人は皆同じ顔に見える、というのと同じように、樹もまた、北欧の色素の淡い人々は、皆、同じように感じるのだろうか。恐らくヨーロッパ系の血が流れている優を、彼女と重ねて見てしまっていることは否めない。それでも、裏切られたことに対して、今さら恨みがましい思いを抱いているわけではない。彼女にも事情があったのだろう、と今では思える。幸せでいて欲しいと祈る思いもある。
  

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虚空の果ての青 (デートって何?) 24 

虚空の果ての青 第一部

「優ちゃん、明日、午前中に時間を作るから、俺とデートしよう?」

 ベッドの中で、もう、ほとんど眠り込みそうな優を腕に抱いて、樹はささやくように言う。

「…うん」

 デートって何? という表情で、ぼんやりしたまま優は頷く。
 何にしても、彼女は、樹といられるのが嬉しかった。

 他の人々にいろいろ質問されると、しまいには萎縮して何も答えられなくなってしまう優が、樹の問いかけにはあまり深く考えずに返答を返せる。彼の声を聞いているのが嬉しいのかもしれない。

 樹は、常に優に対して優しかった。それは今まで‘他人’を認識したことのない優にとって初めて心から安堵・安心して身を任せられる相手だった。それはきっと、子どもが家庭の中で守られて知る当然の感情だったろう。

 それが‘親’でも‘恋人’でも、優が甘えをほんの少しでも見せられる初めての相手だったということだろう。

「普段着られるような服をいくつか買ってあげるよ。それから、公園を散歩してみようか」

 ほとんど眠りに落ちそうになって、優はただ必死に頷く。
 抱かれている腕が温かかった。

 この腕の中では自分の存在が許されているという、身体の奥からほかほかあったまるようなやすらぎが彼女を捕え、ずっと怯えて凍りついたように固まっていた身体の力がふうっと抜けて優はとにかく眠くて仕方がなかった。

 樹のそばにいると、優はいつでも眠かった。



 翌朝、優は樹の声で目が覚めた。
 彼はまだ寝巻きのまま、机に寄りかかって、書類を手に、静かな声で誰かと電話で話していた。
 まだ眠っている優を気遣って、樹は出来るだけ声をひそめていたのだ。

 優は、身体を起こして毛布を抱きしめる。その気配に樹は振り返り、優に微笑んでみせた。
 優は、その笑顔にほっとして再び毛布の中に丸くなる。

 樹の匂いを胸いっぱい吸い込んで、優は満足して幸せな気分に浸った。セックスの余韻がまだ身体に残っていて、どこか気だるい。

 やがて、電話を終えた樹が優のそばにやってくる。

「お目覚め? お姫様?」

 優の頬にチュッと優しくキスを落として、樹は彼女の身体を毛布ごと抱きしめる。その温かさに、抱きしめられた腕の強さに、優は嬉しくて身体が震えた。

「朝食が届くまでに、シャワー浴びて着替えして。夕べ、そのまま寝ちゃったでしょ?」
「…うん」

 優がシャワーを浴びている間、樹は鹿島に連絡を取り、迎えの時間を伝える。

「ああ、うん。9時にホテル前に。午後の仕事は予定通り入れててもらって良いよ」
「…今日一日くらい休まれたらいかがですか? 樹さま」

 鹿島の少し心配そうな声が電話口から聞こえる。

「大丈夫だよ。今抱えている件が解決したら、ゆっくりするから」

 樹は笑う。
 間もなく朝食が運ばれてきて、優も、シャワーの雫を滴らせたままバスタオルに包まってバスルームから出てくる。

「優ちゃん、昨日君が着てた服、置いてあったでしょう? 着替えておいで。」
「…でも」

 優は、昨日の樹の反応を覚えていた。それが、彼女には怖かったのだ。

「とりあえず、何か着ないと外出出来ないでしょ?」

 優のおどおどした様子に気がついて、樹は苦笑する。濡れた髪が肌にはりつき、優の白い肌から湯気が立ち上り、艶やかに色づいている。

「そんな格好で部屋をうろうろしてると、デザート代わりに食べられちゃうよ」

 きょとん、と彼を見上げる優を、樹は手招きして抱き寄せ、首筋に流れる雫を舌で掬い取る。

「ひゃあっ」

 思わず声をあげて、タオルから手が離れ、優の裸体があらわになる。

「あ…っ、や…、いやっ」

 驚いて暴れる優の腰を動けないように片手で押さえ込み、もう片方の手は、優の細い腕を捕らえた。優の肌に残るシャワーの雫をぺろりと舐めて、樹はかああっと桜色に染まる肌を目で味わう。

「先にデザートをいただいちゃおうかな」

 不敵に微笑んで、樹は優の身体を抱き上げてベッドへと運ぶ。

「あ、あの…」

 慌ててもがく優の身体をすとんとベッドへ下ろすと、彼女は咄嗟にベッドの隅へと逃げようとする。恐怖というより、身体のだるさに少し怯えていた。

「ダ…ダメ…」
「何が?」

 樹はふわりとベッドに乗って、優を端へと追い詰める。

「だって…その、か…っ身体が、重くて…動けなくなる…」
「良いよ、動けなくなったら抱いてあげるから」

 優の頬にそっと触れて樹はにやりと微笑む。

「で…っ、でもっ…」

 優が尚も何かを言おうとして口を開いたとき、樹は優を抱き寄せてその唇をふさぐ。怯える心とは裏腹に優の身体は、もう樹の愛撫に応え始めていて、樹の舌の動きは優の官能を誘うのに充分だった。

「俺に逆らおうなんて、10年早いよ」

 腕の中で虚ろな視線を投げかける優を、笑って樹はベッドに沈める。

「…い…いつき…さま…」

 優は、ほぼ無意識に彼の名を呼んで許しを請う。

「そうだよ。黙って俺の名前を呼んで、鳴いてな」


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虚空の果ての青 (デートって何?) 25 

虚空の果ての青 第一部

 どうして。
 何故、優をこんな風に抱くのか。まるでサカリのついた雄のようではないか。相手はまだこんなに幼い少女なのに。

 腕の中にまどろむ優を見下ろして、樹は彼女の頬に掛かる長い髪をかき上げる。細い髪の毛が彼の指に絡みつく。

 今まで、そんなことはなかった。
 お互いが、完全に独立した大人の関係だったからなのだろうか。恋愛の入り込む余地のない関係性だけを求めていたからなのだろうか。

 どうして、優にだけ、油断してしまったのだろう?

 利害関係もなく、仕事上の支障が出るわけでもなく、いつでも切り捨てられる相手だと警戒を抱かせなかったからなのだろうか。

 実際、今、樹が優をまったく見捨てても、彼女は自分から樹に連絡を取ろうとか、そういうことを思いつく子ではなかった。優は、ただ、ひたすら樹を待って、待って、過ごすのだろう。希望を抱くことすら知らずに。願いを口にすることすらせずに。

 優は、今、樹の腕の中でだけ見せる表情、というものがあり、それを樹も分かっていた。心を許した相手にだけ見せる‘甘える’表情だ。

 今まで、他人というもの、つまり、自分以外の存在をまったく意識の中に入れなかった少女が、自分以外の肉体を持った相手に、自分とは違う心の存在を知り、その相手に興味を抱いた。自分にだけ関心を寄せ、自分にだけ優しくしてくれる相手として。本来、それは‘親’から与えられるべき当然の愛情であって、それをベースに人生を始められるものなのだ。


 
 そんなことを冷静に考える一方で、樹は、むしろ、自分の方が優を失いたくないのだと思う。

 何故だろう?
 一切の打算も計算もなく、ただ、優は樹を慕い、追い求めてくる。そこに意味を見出すこともなく。そして、ある日突然切り捨てられても、追いすがることもないだろうというどこか諦めを常に抱いた瞳で。

 素直で勉強熱心で、逆らうことも知らず、いつでも自分を受け入れることが分かっている。
 それは、甘い誘惑だ。これ以上ない甘美な果実だ。

 そして、何より、弱々しいようでいて、高潔なしんと光るその魂に心惹かれているのだと樹は思った。悲惨な幼少期を過ごし、何度も辛い目に遭っても、彼女の心はそれに染まらなかった。ただ、綺麗なものを見つめ続けて生きてきた。生きるために。

 何不自由なく生きてきた男の傲慢さが、どうしても見え隠れしてしまう。
 今、こんな風に欲しいと思うものも、いつか、そのすべてに飽きてしまう日が来ないとは限らない。

 或いは、樹が育て上げた少女は、世界に受け入れられ、世界を知り、彼の手を必要としない日が訪れるかもしれない。他に恋する相手を見つけ、彼のもとから去っていこうとするかもしれない。

 そんなことを考えると、不意にむらむらと暗い怒りが湧き起こる。
 殺してでも繋ぎ止めたいと思うだろうか?
 樹は考える。

 いや。
 自分に心がなくなった相手を追うことはしないだろう。
 そして、すとん、と絶望的な寂しさを感じた。そう、恋人を失ったときと同じ喪失感だった。


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虚空の果ての青 (デートって何?) 26 

虚空の果ての青 第一部

 デザートに先に手を出した樹のお陰で多少遅れたが、二人は朝食を済ませて、迎えに来た鹿島の運転する車に乗り込む。

「先にちょっと優ちゃんの服を買いたいんだけど、鹿島、どこか良い店知ってる?」

 自分のコートを着せ掛けて、樹は優の肩を抱く。
 確かにだるかったが、むしろ身体がふわふわするような心許ない感覚があるだけで、優は妙に幸せだった。

「あまり、高級な品は、いただいても優さんがお困りになりますでしょうから、若い人が普通に買い物をされる店なんかがよろしいかと思います」
「例えば?」
「ユニクロとか、そうですね、ジーンズショップのようなところとか」
「…なるほど。任せるよ」

 自分の服も滅多に買いに出かけることのない樹は、むしろ世間にうとい。仕事用のスーツは専用のメーカーが定期的に作ってくれるし、普段着はほとんど必要としないため、カジュアルな服はあまり持っていない。たまに取引先のメーカーがプレゼントしてくれたりする程度だ。

 自分の為に服を買ってくれると言われて、優は初め、少し困っていた。あまり服装に頓着しない彼女には、嬉しいという感情が湧かなかった。

 どうして、そんなことをしてくれるのだろう? と優は、隣に座る樹を恐る恐る見上げる。
 しかし、どこかうきうきしている様子の樹の横顔に、優は、あれ? と思った。樹の柔らかい表情に、優の心は不意にあったかいもので満たされたのだ。

 …なんだろう?
 優はちょっとどきどきした。

 一般の店に入ることがあまりない樹と優。それでも、たくさん並ぶ変わった色合いの服たちを見上げて、コーディネイトされたマネキンを参考に幾度か試着してみる。

「ああ、少し濃い色でも逆に良いかもね」

 上から下まで全身コーディネイトで試着させて、樹は満足そうに頷く。
 一緒に連れて歩く手前少し大人っぽく見せたかったのだが、あどけない顔立ちはどうしても柔らかい雰囲気の可愛らしいタイプの服が似合う。

「これをこのまま着て出ますから、値札だけ外して会計してもらえますか?」

 一瞬、呆気にとられた店員は、それでもにこやかに、分かりました、と答える。更に、同じサイズで数点を適当にみつくろってもらい、樹はそれはプレゼント用に包装を頼んだ。

 優が着たまま、女性店員がついている値札やサイズ表示をすべて外してくれて、彼女は改めて鏡に写る自分を眺めた。この間のパーティドレスと違って、それほど動きに不自由せず、違和感がない。そして、自分を見つめる樹の満足そうなにこにこした顔に、優はただ満たされた。

 そうか。樹が笑うと私も嬉しい…。
 優は、そう言葉にして思う。そう思うと、自然に心が躍った。

「鹿島、どこか感じの良い公園まで送ってくれる? 後は、お昼過ぎに迎えに来てくれれば良いから」
「かしこまりました」

 真新しい可愛い服に身を包んで、少しはにかんだような様子の優を見て、どこか少年の顔に戻っている樹の表情を見て、鹿島は自然に顔が緩んだ。

 初々しい恋人同士みたいだ、と彼は思う。
 鹿島は、都内にある有名な公園に二人を下ろし、一旦会社に戻った。
 樹が不在の間、緊急の要件以外はだいたいのことは彼で事足りるのだ。


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虚空の果ての青 (デートって何?) 27 

虚空の果ての青 第一部

 肌寒い北風が吹きぬける常緑樹の森と山茶花の花がほころぶ冬の公園。日差しがキラキラと空気をきらめかせ、空気が乾いて空が高く澄んでいる。優は、差し出された樹の腕につかまって、妙にどきどきしてうつむいて歩く。

「優ちゃん、怖いの?」

 周りの景色が一切目に入っていない様子の優に樹は笑いながらその細い肩を抱き寄せる。

「眩しい」
「うん、光がすごいね。空気が乾いているからかな」

 樹は、ふと眼前の、今は葉も落ちたバラ園に視線を移す。そこそこの広さと規模の、春から秋にかけて綺麗に花をつける、そこは手入れが行き届いたバラの庭園だった。

「このバラ園も、春には見事に花をつけるよ。今はもう葉も落ちているけど」

 樹は指さしてちょっと懐かしそうに目を細める。

「バラが、ここに咲くの?」
「そうだよ。ここはバラだけの庭園だから。うん、季節に一斉に咲き誇るバラは、まさに花の女王、なかなか豪快だよ」
「…見たいな」

 ぽつり、と優は呟く。いつか写真で見た一面のバラの庭。優はその光景にうっとりと思いを馳せたことがあった。バラの香りが漂ってきそうなほど、それは見事な満開のバラ、様々な色と種類のバラの王国だった。
 何故、バラの花に反応したのか、優にも分からない。たまたまその写真に惹かれただけかもしれない。優は、花はなんでも好きだった。

「そうか。優ちゃんはバラが好き? 春になったらバラ園を訪ねてみようか」

 珍しく優が希望を述べたので、樹は嬉しくなってそう言ってみる。優しい視線を落とす樹を見上げて、優は瞳が輝いた。
 そっと、バラの木に触れて、優は何かを語りかけでもするように、その枝の先を見つめていた。今は眠るバラの精と静かに心の交流を交わすように。少なくとも、樹にはそう見えた。

 夏には噴水のあがる大きな池に架かる赤い橋を渡り、池の鯉を見下ろす。
 夏には亀もいるよ、と教えると、優は驚いた表情をする。
 ただ、静かに。

 二人は淡々と誰にも邪魔されず、周りを気遣うこともなく、二人の時間を過ごした。静かな会話と静かな景色との交流で。

 空気が淡い優には、街の中の色とりどりの刺激も、うるさい雑踏や音の刺激も強すぎた。映画やゲームにも興味があるとは思えない。図書館では落ち着きすぎる。

 今の二人には、人影のまばら冬の公園がちょうど良かった。

 途中で、屋台の紙コップのコーヒーと茹でたウィンナーを買って食べてみる。ウィンナーに添えられたケチャップとマスタードソースが垂れてきて、二人は慌ててそれぞれ口にほうばる。どちらも、そういうものを、歩きながら食べたことがなかったのだ。

 顔や手がべたべたになってしまった優を見て、樹は笑った。

「そこに公衆トイレがあるから、手を洗っておいで」

 水で散々手を洗って、氷みたいに冷たくなって戻ってきた優の顔や手をハンカチで拭いてあげながら、樹は恋人と過ごしているというより、仔猫を懐に抱いて歩いているような気分になってきた。不思議な、優しい時間。

「何かあったかいものを食べてあったまろう?」

 樹が言うと、優はこくりと頷いて、彼女にかがみこんでその冷たくなった小さな手を包み込んでくれていた彼を見上げる。

 ああ、この表情だ、と樹は思う。

 まったく疑いのない、無垢な‘甘え’の目。時々、ほんの一瞬彼女の瞳に宿る年相応の少女の顔。その唇に軽く口付けると、一瞬にして優はとろんとまどろんだベッドの中の女の顔になる。

 知らない人にはほとんど分からない優の表情の変化を、樹は一人で楽しみながら、自分のコートに彼女をすっぽりと一緒に包み込んで歩き出した。

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虚空の果ての青 (デートって何?) 28 

虚空の果ての青 第一部

 公園の中の小さなレストランで軽食をとって、迎えに来た鹿島に優の施設に向かうよう樹は指示を出す。

 その途端、ああ、もう樹と一緒にいられる時間は終わりなのだ、という現実を、優は初めて認識し、そして、生まれて初めて寂しさを感じた。きゅうっと胸が痛む感じ。ぽっかり自分の中に空洞が出来て、もうそこは埋められないという悲しさ。

 普段も無口だったが、ますます静かになって樹の腕にすがりつく優の様子に、樹は胸が少し痛んだ。
 自分を、掛け値なく求めてくる相手に、彼は胸の奥が熱くなるような愛しさを感じる。

 樹は優の髪に何度も優しいキスを落として、またね、とささやく。
 二人にとっては、あっという間の時間だった。やがて施設の門に着き、樹は一緒に降りて優の頭をなでる。そして、先ほど買って包装してもらった服を手渡して、少し泣きそうな優に微笑みかける。

「はい、これはプレゼント。今度会うときに着ておいで」

 優が着てきた服とコートを入れた袋とをその小さな手に握らせて、樹は約束する。

「クリスマスには冬休みに入るでしょ? そしたら、また迎えに来るからね」
「クリスマス…?」
「そう。イヴの次の日ね。俺も年末は長期で休暇を取るから、ケーキとご馳走を一緒に食べよう?」

 そう言ってぽんぽんと優の頭に手を置く。

 傍から見るとそれは、親子の姿と変わらなかった。事務所の窓越しに見ていた事務の女性の目にも、そんな風にうつった。お金持ちの‘あしながおじさん’さながらのスポンサーのように。

 優が頷くと、樹はそのまま車に乗って、去っていく。
 いつまでも、ぼんやりそれを見送っている優を、事務の女性が迎えに出て、声を掛ける。

「桐嶋さん、お帰り。可愛い格好しちゃって! 服を買ってもらったの?」

 優が振り向くと、彼女は羨ましそうな顔をして、それでも嬉しそうににこにこしていた。

「樹さまとお食事とかしてきたの?」

 優はこくりと頷く。

「何かお話してきた?」

 優にかがみこむ背の高い彼女に、優は少し考えて答えた。

「…もっと、たくさん食べないとダメだよ、って言われた」
「そうねえ。桐嶋さんは食が細いから。少しずつでも食べられるようになると良いんだけどね」
「クリスマスに、ご馳走食べようって言われたけど…」

 不安になって優は呟く。

「たくさん食べないと怒られるかな…?」

 事務の女性は笑った。

「大丈夫よ、食べられないからって怒ったりしないと思うわよ。怒られたりはしなかったでしょう?」

 優の手を引いて部屋に戻りながら、彼女は、優が良いスポンサーを見つけて、このまま学費の援助などを続けてもらえると良いと、祈りのように思った。



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虚空の果ての青 (その想いの名を) 29 

虚空の果ての青 第一部

 はっと目を開けると、樹が少し心配そうに優の顔を覗き込んでいた。

「苦しい?」

 優は、ううん、と首を振る。

 あれ? 私はどこにいるんだっけ?
 優はあたまがぼうっとして、考えがまったくまとまらない。

「なかなか目を開けないからびっくりしたよ」

 樹はほっとした表情で優の身体をそっと抱きしめる。その、熱い肌の感触に、優は頭がくらりとする。

 これは、夢じゃない。
 優は細い腕で樹の身体にしがみつく。
 夢、じゃない。


 
 ‘恋’を知った少女。
 生まれて初めて、願いを抱いた。希望というものを言葉として心に描いてみた。

 クリスマスにまた会おうと、彼は約束してくれた。
 それを指折り数えて‘待つ’ということを優は初めて体験した。

 ‘楽しみ’を期待して待つということ。

 しかし、それまで単調に変化のない淡々と流れるだけだった時間が、その途端、どこまでもぐんぐん伸びるゴムのように、果てしなく長く遠く、優の待つ時間を引き延ばしたような気がした。クリスマスまでの道のりは遥か遠く感じられたのだ。

 もっと食べなさい、と言われた言葉を優は覚えていた。

 いつもなら、何も考えずに箸を置いた食事を、あと一口…と頑張って口に運ぶように努力し、必死に食べていると、不意に、公園で二人でウィンナーを苦労して食べた甘い時間を思い出す。そのときの樹の笑顔を思い出すと、優は‘食べる’ことが少し楽しくなった。

 喜んでくれる人がいる。
 人の心の原動力だ。

 樹の笑顔を見るためなら、優はなんでも出来そうに思えた。
 そんな風に、心はどんどん広がっていく。可能性を求めて。

 幾夜も優は、樹のことを想って眠りに落ちる。

 彼に抱かれている夢をみる。大きな胸に安心してとろとろとまどろむ幸福な瞬間の夢を。腕を組んで歩いた公園の風景を。彼のコートにすっぽり包まれた温かさを。大切な宝物の様に何度も反芻する。そのときの彼の匂いも、コーヒーの熱さもリアルに感じられるくらいに集中して。

 そして、はっと目覚めて朝の薄明かりの中の一人きりの現実にしょんぼりする。

 隣のベッドで、希美子がまだすうすうと寝息を立てている姿をぼんやりと見つめ、また、布団に潜り込む。
 あと、何日待てば良いんだっけ…?


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