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小説『わたしを離さないで』感想文

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
 

  先日からカズオ・イシグロの『私を離さないで』を手に取り、つい今しがたそのすべてを読み終えた私は、その感想エントリをどうブログに書くべきか――あるいは書かないべきか――ほとほと困り果ててしまいました。それと言うのも、噂には聞いていたとおりにこの小説はあまりにネタバレが望ましくない、主人公の語りとともに霧の中をさ迷い歩くように読むのが望ましい、そんな小説だったからです。何かを掴もうと無邪気に所在なさげに切望する幼子のように、ぶっきらぼうに腕をできるかぎりに前方に突き出しよたよたと歩みを進めるような、そんな読み方がきっともっとも相応しい、そんな小説であるように私には思えたからです。だから私にこの小説の多くを語ることはできません。何より気をつけなくてはならないのは、この小説で私が感じたことを伝えたいという気持ちが昂ずるあまりに未だこの小説を読んでいない誰かの楽しみを奪ってしまってはいけないということです。不安に駆られる霧の中を誰の導きもなしに一人歩き果せたということが、きっと誰にとっても後々ささやかな誇りとなり、その誇りこそが人の傷ついた心を慰める助けになるのでしょうから。ですから私は、極めて慎重にお世辞にも雄弁とは言いがたい調子でこの小説の感想を綴らなくてはなりません。しかし私にそれをやり遂げるだけの能力があるものかどうか、決して小さくない不安を抱いてることもここに記さなくてはなりません。結局、どれだけもったいつけた前口上を述べてどれだけ蛮勇な決意表明を高らかに叫んだところで、未熟な私は最初の段落の最後には「ネタバレ要素を含むかもしれないので閲覧は自己責任でお願いします」と忠告するより仕方がないのです。

 ここで私自身は恐らく肝となるネタバレを受け容れた状態でこの小説を読み進めたことを告白しなくてはなりません。どこでそのネタバレを目にしたか? それは今となっては私にもよくわからないことです。私はテレビや映画などで優れたように思える俳優について、ふと思い出したようにwikipediaでその俳優の舞台経験を確認したがるという手癖のようなものがありました。その時々の舞台を日々チェックすることができればそれが一番であることは心得てはいるのですが、頻繁に足を運ぶことはなかなか難しい舞台についての情報をいつも網羅しようというのはなかなかに骨が折れる作業になってしまうものですから、このような順序で俳優さんの舞台経験を辿ることになるのは致し方ないことです。もしかすると多部未華子さん――あの娘自身はとてもかわいらしいのですが、多部未華子似という危なっかしい言葉もまた同時に生まれました――について調べていた時に蜷川幸雄演出の舞台の感想を見かけてしまったのかもしれません。あるいはまるで思いもよらない全く違うところで私は見知っていたのかもしれません。ともあれ私は恐らく多くの感想で散見される「ネタバレ」の部分をまるで「あらすじ」の一部であるように了解してこの小説を読み進めていたのです。しかし幸いなことに少なくとも私にとってはこの読書体験の質を大きく損なう結果にはつながりませんでした。もちろん戸惑いはありました。何より私の心を乱したのは、私の知っているこの要素があらすじの範疇であるのかネタバレであるのか、これ以上のより核心的なネタバレが他にあり既にこの本を読み終えたみなさんが指してネタバレと呼んでいる要素はそちらの方ではないのか、その一切の事情が私には判別できなかったことです。だからと言ってここでそれを明らかにしようとGoogle先生に窺いを立てるようでは、まるで鳥餅にかかった羽虫のようにより一層のネタバレに触れるほかありません。それこそ幼子が霧の中を歩くようによたよたとページを繰る以外、私の辿るべき道は残されていなかったのです。今になって思えば、これくらいの環境が私にはむしろ良かったのかもしれません。

 物語への言及を避けたままこの小説の手触りを伝えようとすると、どうしてもこの小説に触れた私周辺のお話をすることになってしまいます。読むほうにとっては私の稚筆も手伝いあまりに退屈に感じられるかもしれませんが、この小説自身もまたそのような語りを用いて何かとても大きなものの輪郭を何度も何度も少しずつ指でなぞりながら形作っていくような、そんな小説なものですから、それを読む練習だと思ってどうかもう少しだけお付き合いください。

 私がこの小説に触れて味わったささいながらも稀有な体験として一つ、行き帰りの通勤時間で読み進めた文量が極めて多かったという不思議があります。と言いますのも、私は隙間時間の読書というものがもともと苦手で、細かな移動時間ではどうにも本を開く気がなかなか起きず結局寝る間を削って作ったまとまった時間でその大部分を読み果せてしまうことが常でした。しかしこの小説に限っては――もちろん最後の100ページほどは家で食い入るように読み終えましたが――毎日の隙間時間で手に取ることがまったく苦にならず、10ページ読んではカバンにしまい、またある時に取り出しては5ページだけ読み進め、そんな風に読み進めることができました。思えば、これほどまでに物語とともに生活するという経験は私にとってほとんど初めてのことだったかもしれません。私にそれをさせたのはきっと、このカズオ・イシグロという作家の精緻な文体であったことには疑う余地もないでしょう。またそういった文体こそが、本来であればヒステリックに人の感情を揺さぶることも可能であったこの物語を、その日その日の空気の匂いを感じるかのように終始穏やかな気持ちで読ませることを可能にしているのでしょう。少しとっつきにくい回りくどい文体ではありますが、しばらくするとそれが当たり前のように、私たちがいつもそうして物を見、聞き、感じているように、やがて主人公の語りが身体に流れ込んでくるようになることでしょう。

 私の最もお気に入りのシーンは――主人公である彼女もそこをやがて訪れることはかなり序盤で告白しているのでさしたる問題にはならないでしょう――やはりノーフォークの街を歩く二人の描写に尽きます。私にとってはほとんどあそこがピークでした。もう少し、何か書こうかなとも思いましたがこれ以上はやめにしましょう。既にこの小説を読み終えた人に、あるいは万が一にもこれをきっかけにこの小説を手に取った人があればまた読み終えた後に、何かしらを思ってもらえたらきっとそれだけで十分です。

 極めて特殊な設定でありながら極めて普遍的な物語、なんとも不思議な読後感のなか、こうしておずおずと感想を綴り始めたわけですがそれももうどうやら限界のようです。残念ながら私にはこれ以上を語ることができそうにもありません。いつもと異なる語り口を採用した結果、落としどころもほとんど見失っている有様です。それでも、人生はそうした出来事の連続で、失敗は失敗として、思い出は思い出として、擦れ違いは擦れ違いとして、愛情は愛情として、そのすべてを引きずったりあるいは忘れたりしながら、それを繰り返していくほかきっとないのでしょう。その真実を受け入れ、その真実に膝をつき手を合わせれば、それだけで何もかもに納得できるものなのか、それは私にはわかりません。しかし、きっとそれは生きるということへの向き合い方の一つであることは私には疑いようもなく、今はめったに開くこともなくなった宝箱の奥底にこの物語もそっとしまいこむと、私はまた今日からを生きていこうと考えるのでした。

 それでは最後に私がtwitterで披露したカズオ・イシグロ大喜利を紹介してお別れしましょう。

 

  以上です。