イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #06

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」の第5-6段落を読みます。

 

■メモランダム6.第2章第5-6段落:ゲームを定義する意味

6-1.古典的ゲームモデルと新しいゲーム

まずは第5段落から。

 大雑把に見れば、伝統的なカードゲームやボードゲームやスポーツに含まれるゲームのほとんどすべては、ここで言う古典的ゲームモデルのうちにすんなり入る。古典的ゲームモデルに挑むような、新たなゲームのかたちが出てきたのは、ようやく20世紀の残り3分の1になってからであるように思われる。

(邦訳40-41ページ/原書p. 28)

 

コンピュータ以前のゲーム、デジタルゲームとの対比でアナログゲームや非電源ゲームと呼ばれたりもするゲームは、ユールのいう「古典的ゲームモデル」に分類されるという。

ただし、目下のところ、古典的ゲームモデルの詳細は不明である(第1章、邦訳15ページに概要は述べられている)。そこで、ここでは「そうなのか」と、ユールの見立てを受け取っておくに留めて、後に検討することにしよう。

 

6-2."any complication of"の含意

例によって原文も自分で読んでみよう。

In the big perspective, practically every single game found in any compilation of traditional card games, board games, or sports falls squarely within the classic game model I describe here. It appears that it is only during the last third of the twentieth century that new game forms have challenged the classic model.

 

大きく見れば、なにかしら昔ながらのカードゲームやボードゲームやスポーツを寄せ集めてみて、そこに含まれる個々のゲームをとってみれば、実際には私がここで説明する古典的ゲームモデルにきっちり分類される。新たなゲームの形が、古典的モデルに疑念を提示したのは、20世紀の終わりの三分の一になってからのようだ。

 (原書p.28。ただし下線は山本による)

 

ここでユールが”any compilation of ...”(……を寄せ集めたもの)という具合に、やや込み入った言い方をしている点に注目しておこう。松永さんによる訳では、「伝統的なカードゲームやボードゲームやスポーツに含まれるゲームのほとんどすべては」という具合に、読みやすく調整されている。このくだりは原文で読むと、「おや?」と気になるところ。

というのも、何事もなければ、つまり他に意図がなければ、”every game found in traditional card games, board games, or sports”(昔ながらのカードゲームやボードゲームやスポーツに見つけられるいずれのゲームでも)と言えばよかりそうだから。そこにわざわざ”any compilation of...”と述べているのは、これいかに。

compilationとは、辞書では「編集」「編集物」「寄せ集め」と出ている。動詞形のcompileは「(書物・地図などを)編集する」「(一定の目的のもとに資料などを)集める」という意味の言葉。「編集」もまた、さまざまな要素を「集めて編む(編み集める)」営みであることを思い出しておこう。要するにコンパイル/コンピレーションとは、何かを集めることを指している。
(やや余談になるが、今回の読書会にはゲーム開発者たちも少なからずいるので触れると、プログラマーなら、自分がなんらかのプログラム言語で書いたコードを、機械語に変換する処理とそのためのプログラム――コンパイラという――を思い浮かべるだろう。コンパイラは、プログラマーがつくったコードを機械語に変換するだけでなく、関連する他のファイルと編集する働きも持っている)

 

話を戻せば、ユールは、ここでこう言いたいのだろうと思う。私なりの言葉で言い換えてみる。

カードゲームやボードゲームやスポーツといった昔ながらのいろいろなゲームを集めてみて、そこに入っている個々のゲームを見てみれば、ほとんどのゲームは〔ユールのいう〕「古典的ゲームモデル」で説明できるよ。

 

なぜ一見些末なこの言葉(”any compilation of”)に立ち止まってみたかというと、ユールがこの直後に持ち出す「生産的集合」という概念に関わるからだった。

なにかを数え上げるとする。ここでの議論に合わせていえば、ゲームに分類されるものを数え上げる。このとき、普通私たち人間は、自分の記憶(経験の痕跡)によって、「ああ、あんなゲームもあったな」という具合に思い出せるものを数え上げてゆく。もちろんネットや文献を使って「こんなのもあるんだね」と数え上げてもよい。という具合に数え上げて集めたものを「集合」という。

先ほど見た”any compilation of...”、つまり「集める(compile)」という動詞やその名詞形である「編集/寄せ集め(compilation)」とは、集合をつくる操作のことでもあるだろう。というわけで、しばしここに目を留めた次第。

6-3.ゲームの定義は必要か

段落を変えて、次のように続く。

ゲームのルールをいちいち言うことがそのゲームを退屈に思わせるのと同じように、ゲームの定義は〔ゲームに対する理解を〕窮屈にさせるものに見えるかもしれない。しかし、実際はその逆だ。ゲームを定義することは、ダグラス・ホフスタッター(Hofstadter 1985)が「生産的集合」を呼んだものを作ることにほかならない。生産的集合の例を挙げよう。たとえば、文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。この集合の性質を挙げていくことは、それだけで、どうやれば当の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。これと同じように、ゲームを定義することは、これまでのゲームが挑戦してこなかったことに挑戦する新しい種類の「ゲーム」を作る方向を示してくれるだろう。ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなるものだ。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

ゲームを定義するのは窮屈なことに感じられるかもしれない。人によっては、「そんなに堅苦しく定義なんてしなくても、だいたいのところゲームってこんなものだよ」と思っておけばいいじゃないか、と考えるかもしれない。もう少し強く言えば、定義など役に立たないのではないか、という見方もあるかもしれない。

しかし、例えば何かを研究する場合、研究対象を限定するためにも定義は必要になる場合が多い。制作の場合には、必ずしも定義は要らないように感じる人がいても無理はない。定義があろうがなかろうが、ゲームができればよい、とも考えられるからだ。実際のところは不明だが、私の経験では、ゲームとはどのようなものであるかという定義を明確にした上でゲームを制作している人のほうが、むしろ少数であるように感じる(ただし、壁際に追い詰めて、「キミのゲームの定義を教えてくれ」と迫れば、なんらかの定義を聞き出すことはできるかもしれない)。

しかし、これもまた私の狭い経験範囲でのことだけれども、「少なくとも今回のプロジェクトでは、ゲームとはこういうものであると仮定する」と、定義を施した上で制作に取り組んだほうがよいとも思う。なぜなら、例えば100人のチームでゲームをつくるような場合、ゲームの定義は100人100様だからだ(ことは3人でも同様)。

ついでながら、開発現場では、しばしば何がゲームであるかということを「ゲーム性」という言葉で表していることもある。「ゲームが備えている性質」ということだ。しかし、多くの場合、「ゲーム性とは何か」ということ自体は検討されず、「ゲーム性が薄い」とか「ゲーム性が違う」というように、なにかゲーム性なるものが自明の性質であるかのように議論されていることもある。使えばなんとなく話が通じる便利さがある一方で、コンニャク問答があちこちで生じる危険も大きいわけである。

6-4.生産的集合

それはさておき、ユールはここで、ゲームを定義することの意味を主張している。そこで援用されているのは、ダグラス・ホフスタッター(Douglas Hofstadter、1945- )が本で言及している「生産的集合」という概念である。念のために言えば、「生産的集合(productive set)」は、ホフスタッターが考案した概念ではない。

ホフスタッター本人がどのような議論をしているかは、後に見ることにして、先に今読んでいるユールの文章を見ておこう。

彼は、「生産的集合」という概念そのものを説明する代わりに、生産的集合の例を提示している。その部分をもう一度引用すると、こんな説明だった。

たとえば、文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。この集合の性質を挙げていくことは、それだけで、どうやれば当の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

このくだりは、ホフスタッターの文章の文脈をもう少し踏まえないと、理解しづらいかもしれないが、ここではやはりユールの文章だけを頼りに読んでみよう。

上の引用部分で言われていることを、分解して並べてみる。

1) 文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。
2) この集合の性質を挙げていく。
3) 2によって、どうやれば1の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。
4) 文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。

それぞれについて、もう少し詳しく検討してみよう。

1) Aの集合

まず、いろいろな形をした「A」という文字がある。これは、コンピュータの多様なフォントで「A」を表示するような場面を考えてみてもよい。また、いろいろな人が手書きで「A」と書いた場合、すべて形は異なっていると思われるが、そうした異なる形をしたあらゆる「A」を集めた集合があると考えてみよう。

2) Aの集合に共通する性質

そうしたいろいろな「A」という文字の集合について、その文字の形について性質を挙げてみる。それらの「A」という文字(とみなされる文字)に「共通する性質」と読んでおくと、理解しやすくなるかもしれない。言い換えれば、これは「A」とは何か、という定義のことでもあるだろう。

3) Aの集合を拡張する

文字「A」の集合に共通する性質がわかれば、文字「A」の集合を拡張する手がかりが得られる。文字「A」の集合を拡張するとはどういうことか。この説明だけでは必ずしも明確ではないが、例えば、まだ文字「A」の集合に含まれていないような形の「A」を、この集合に加えて、文字「A」の集合をより大きくするということかもしれない。

4) Aの集合に含まれていない新しいA

「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる」というのも、このままでは少し分かりづらい。というのも、「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げる」ということは、新しい字体を思いつくもなにも、そのようにして挙げられた「A」のなかにすべての可能性があるわけだから、とも読める。あるいは、「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げる」ことによって、まだ挙げられていない「A」の形を見つけやすくなるということかもしれない。ただし、その場合、そもそも「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げた」ことになっていない。

 

不明な部分もあるけれど、ユールの文章の続きを読もう。このように述べていた。

これと同じように、ゲームを定義することは、これまでのゲームが挑戦してこなかったことに挑戦する新しい種類の「ゲーム」を作る方向を示してくれるだろう。ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなるものだ。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

文字「A」の話と同じように、ゲームを定義すれば、いまだその定義に含まれていない、新しいゲームを発見できる手がかりが得られると述べている。

この段落で特に重要なことは、最後の1文に示されているように思う。つまり、「ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなる」という指摘である。

ゲームを明確に定義しないと、その制限を拡張したり、その外にあるものから、新たななにかを見つけたりしづらい。定義をすれば、それを意識して破ったり変形したりもしやすい、というわけである。

具体的にいえば、例えば、仮に「ゲームでは、必ず勝敗が決まる」という条件があったとする。もしこのように明確に定義されている場合、「ふむ、それならもし勝敗が決まらないものをつくってみたら、どうなるかな」と発想してみることもできる。

だからゲームの定義をすることには意味がある、というのがユールの主張だった。まとめれば、ゲームを定義することの意味をここでは述べていたのだった。

 

果たしてホフスタッターの本から「生産的集合」という概念を借りてくることで、このくだりの説得力が増しているかどうか、とは素朴な疑問である。というのも、おそらくホフスタッターのもとの文とその文脈を読んでいない読者にとっては、このくだりを読むだけでは「生産的集合」がなんであるか、その含意が不明のままに留まるだろうから。「生産的集合」という言葉を出さず、文字「A」の話だけを援用するというやり方もあったかもしれない。

 

それはさておき、ここでもユールの原文を自分でも見ておこう。

Like the fact that mentioning the rules of a game can make it sound dull, the idea of a definition may sound limiting but it is really the opposite. In fact, to define games is to create what Douglas Hofstadter (1985) has termed a productive set. An example of a productive set is the set of all shapes that represent the letter A, where the mere description of the properties of the set help show how the set can be expanded. Having described all possible A’s makes it much easier to come up with new typographical designs for the letter A. Having a definition of games also points to how we can create new kinds of “games” that try new things that games have not tried before. It is easier to break the rules once you are aware of them.

 

ゲームのルールを論じるといえば、面白くないように感じるかもしれないのと同じように、定義という発想は、物事を制限するように感じるかもしれない。だが、実際にはその反対である。事実、ゲームを定義することは、ダグラス・ホフスタッター(1985)が「生産的集合」と呼んでいるものをつくることなのだ。生産的集合の例に、Aという文字を表すあらゆる形の集合がある。その集合の性質を〔捉えて〕記述すれば、その集合をどのように広げることができるかを示す助けとなる。可能なすべてのA〔という形〕について〔その性質を〕記述すれば、Aという文字について〔まだ文字「A」の集合には含まれていない〕新しい字体(タイポグラフィ)のデザインを見つけ出すのもはるかに容易になる。〔同じようにして〕ゲームの定義も、どうしたらこれまでゲームが試してこなかった新しいことを試すような、新しい種類の「ゲーム」をつくれるかを示すものだ。ルールを知ってさえいれば、それを破るのは簡単である。

 

次に、ホフスタッターの本で「生産的集合」という語がどのように使われているかを確認しよう。長くなってきたので、いったんここで区切る。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」

 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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