エマニュエル


そこから始まるんだ、のファーストカットからの、50年前の映画『エマニエル夫人』でも有名な一幕は「エロくない」。エマニュエル(ノエミ・メルラン)は自分から誘って男とセックスするが快感を得られない。原作小説を読んだことはないけれど、SNSによって特に可視化されたことに、「女」は「男」とセックスをしても大して気持ちよくないことが多いのだから、今の映画ならそこから始めるのが正しい。女、誰かと言っておこうか、がして気持ちよくないセックスを、他の誰か、マジョリティと言っておこうか、が見て気持ちよくなるように撮るのは間違いだと言ってくれるので安心だ。

ホテルのハウスキーパーの仕事とエマニュエルが鏡の前でかっさを使う姿が交互に挿入されるくだりが面白い(映画であんなにかっさが強調されたこと、ないよね?)。彼女は見る・見られる、支配する・支配される、どちらの立場にもなることが可能で、自身もそのことを知っている、あるいは無意識に知っていたのをゼルダ(チャチャ・ホアン)に引き出される。これまた『エマニエル夫人』にもあった女同士の向かい合っての場面も、昔は何なんだいきなり、だったところがこちらのゼルダはあなたに見られて興奮したから私を見てくれと自慰をする。こうしたやりとりがあるのも安心だ。

ケイ(ウィル・シャープ)の「(機内のトイレで)男を待ってる時どんなだった」に、この映画はそうした「描かれないところ」を探っていくものだと分かる。なかなかセクシーな問いだがエマニュエルは「単に待っていただけ」だと言い、その後のセックスにつき、彼女に痣ができるような体勢の具合にも我関せずで腰を振り続けた男の様子ばかりを男が射精するまでより長い時間を掛けて語る。この語りが映画内の話をはみ出してあまりにつまらなくて、作中唯一心が離れ自分のセックスのことを考えてしまった(映画内の「つまらない映画」がつまらなくて苦痛、というのに似ている)。

この映画の白眉はエマニュエルのマーゴ(ナオミ・ワッツ)への態度である。経営陣の一人である彼女はホテルの中からなら嵐も楽しめると言ってのけ(外の写真を撮る観光客の姿が秀逸)、トラブルの際にはゼルダの性的要素を利用しておきながら彼女を異物として追い出す。それにつき問い詰めに出向いたエマニュエルとマーゴのやりとりにふと、『キノ・ライカ 小さな町の映画館』でカウリスマキがヘルシンキで経営していた映画館はヒルトンだかシェラトンだかに買収されて立ち退かされたと話していたのを思い出した。資本主義が敵というわけだ。それに気付かされたエマニュエルはシステムの下での女同士の争いを避け、マーゴを排除しようとするオーナー企業の依頼に背く。

停電の晩のケイの「君もホテルから出ろよ」が、エマニュエルが、女がセックスで快楽を得るための一つの、広義には正しい答えである。それこそ今この瞬間、スマホを、PCを、町を見てそりゃ気持ちよくなれるわけないだろうと実感する私もそう考える。誰にでもできるものではないが、映画はゼルダの、マーゴの、そしてケイの言葉で変わったエマニュエルに寄り添って、あまりに鮮やかに、少なくとも私にはあらまほしきセックスを見せてくれた。自分が自分に沿った、いわばリアルタイムのセックス。裏を返せばこの社会では私達は快楽を得られないということであり、それを訴えている、システム破壊の協力を募っているとも言える。