公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いて、おもうこと。

かのシンポジウムを聴いて、色々と考えた。また終了後にも、色々な考察がネットで表白されていて*1、目にする都度「なるほど、そうかぁ」といちいち蒙を開かれている。かといって流されるだけではとりとめがないので、未熟なりに自分の思ったことも書き留めておこうと思う。

  • 前提として

自分は古典と呼ばれるものがわりと好きな方。しかし社会的意義を考える場面では、好き嫌いではなく理で話をしなくてはいけない。いったん気持ちは脇に置き、なるべく客観的に実利に即して。それでもバイアスはあるが、一応そういう腹構えで考えたこと*2。

  • 全体について

自分としては残念ながら、視聴した動画では擁護派の方が分が悪く思えた。不要派は、1.プレゼン能力等の新たなスキルを教育過程に取り入れるために、2.「高校教育に/必修で」古典が必要か?という枠で問題提起しているのに対し、擁護派は古典そのものの意義を主張している。かみ合ってないし、抽象度が高いだけ後者の方が説得力が弱い。

ただ、これは設定に因るところも大きいように思う。1.の目的は、それ自体不要と考えるひとはいないだろう。優先度について議論するなら、お互い具体的な材料が必要。現行の学習指導要領を検討して、新たに必要な能力を養うにはどれだけリソースが必要で、古典をどれだけ削ると捻出でき、天秤にかけて、どうか。天秤の向こう側がはっきりしなければ、「こちらの方が重いぞ」ではなく「こちらも重いぞ」と主張するしかない。

あらかじめこういうフレームで話をすると分かっていたなら、擁護派もその物差しに合う材料を用意してほしかった。そうでなかったなら、擁護派は「なぜ古典でなければならないか」の説明が求められるのに、不要派は「(新しい要素の代償として削られるのが、他の科目や分野でなく)なぜ古典でなければならないか」を説明しなくていい、というのはちょっと不公平な気もする*3。

ただ、それではテーマが高校教育カリキュラムそのものになってしまうし、そうなれば他の科目も検討する必要が生じて、古典について論ずるという目的から離れるので、仕方なかったのかもしれない。それでも福田先生の下記の発言は、そのズレを指摘していたように思う。

平成31年度の指導要領改訂において古文漢文は危機感を感じるくらい減った。減ったものを見ても、それでも多いというのであれば、もう少しきめ細かい議論をしたい。

今回の場で一番発言してほしかったのは、音楽と美術の先生。 

  • 古典を学ぶこと自体の意義

これについては、自分の中に漠然と持っていた答えが、フロアの方の発言で明確になった。

古典を学ぶ意味は他者との出会い。他者といえば英語のような外国文化もそうだが、古典は自分につながっている他者。 

多文化化している現代社会において、異なる他者に対してどう共感するか、どう想像するか。自分たちにとって古典がこのようにルーツであるならば、この人たちもそのようであろうと考えること。 

 つまり、他者に向かいあう態度を学ぶツールとしての古典。これからの時代、異なる文化や背景を持つ他者に相対する能力の必要性は言うまでもない。そして外国文化は横軸=同時代の他者だが、古典は縦軸=違う時代の自分(たち)であるところに意味がある。

「古典は現代のポリコレに反する」という指摘があったが、この観点からはむしろ古典の必要性に繋がる。現在55歳の方に根付く儒教的な考え方は、おそらく50年前は常識で規範だったものだろう*4。それがポリコレのような現在の規範と合わなくて困るのは、50年前にインストールしたものが悪かったというより、社会が変わっているのにアップデートしきれていないことが問題。同じように現在の規範をインストールしても、50年後にはまた変わっているかもしれない。

ならば打てる対策は、あらかじめ「規範はアップデートされうるもの」という柔軟性を持たせておくこと。そのために、かつて規範であったものを示し、現在に通じる部分と異なる部分の両方を認識することで、自分の中にある規範を客観視できる習慣をつけることが有効。つまり今の規範と違っているからこそ意味がある。

この目的に即すると、学ぶ手段は現代語訳より原文の方がいい。使われる言葉からして違えば、きちんと異物感があって、盛られた思想を鵜呑みにしない。たとえば源氏物語の過剰なまでの敬語表現。そこに現れた強烈な身分意識に、素直に共感する現代人はほとんどないだろう。また初等教育よりは、ある程度批判的思考が育っているであろう高校生で触れるのがいい。

それは他のもので学べないか?という問いに対しては、上記のような目的にかなうもので、古典ほどノウハウもテキストも蓄積されているものが他に思いつかない。

  • 高校教育は誰のためにあるか

 もうひとつ、フロアの方の発言ではっとしたものがあった。

留学生、労働者が足元にたくさん来ている。その時に、教育の対象は誰なのか。世界で勝てるビジネスマンやディスカッション能力というのは、基本的にホワイトカラーしか想定していない。大学進学しない40数パーセントの人がいる。

登壇者に大学の先生が多かったためか、高校教育=大学に入る前の教育、という思考になんとなく引っ張られていた。しかし高校卒業者というのは別に大学生の半製品ではない。平成30年度の高校卒業者のうち、大学(学部)進学率は49.7%*5。

高校の理系教科は、上位3割にフォーカスした指導要領にすべてしてしまっていいのでは

 という提案があったが、仮にそうなっても、7割のひとは別に消えはしない。社会の一員として、納税者だったり消費者だったり有権者だったりしつつ生きている。

それを前提にすると、高校の必修科目であることの意味が違って見えてくる。大学に入るのに必須なのではなく、18歳の国民として持っているべき知識。高校で教わることは学問的には基礎だが、選んだ進路によっては彼/彼女の人生におけるその分野の知識はそこが完成点になるかもしれない。さらに言えば、後続の教育過程に接続されない限り用に立たない知識だったら、全員に学ばせる必要はあるのか?ともいえる。

その前提で考えると「必修科目でなければならないか?」という問いでコンセンサスを得ることは、古典に限らずどの科目の何についても、結構重たいのではないかな。

  • 国語は、なんとなく道徳や宗教を担わされている

古典は、はっきり言うと中世以前の古典は信仰。 

 渡辺先生のこの指摘も、面白いな、と思った。考えてみると古典に限らず、国語では、文法や読解等の技術だけでなく、特定のものの見方を押し付ける傾向の授業がいくらかある。単に知識として苦手なだけでなく、思想だと合わない人は反発する。現行の授業がアンチを作り出すことがあるという指摘ともつながっていそうだ。

  • さいごに

もっと細かいことでは色々思ったが、ひとまず書いてみた感想は以上。シンポジウムや動画を視聴したひとが批判も含めてアレコレ言いたくなるくらいには挑戦的な、その意味で価値のある企画だったと思う。少なくともしばらくブログ書くことをサボっていたxiao-2に、自分の考えを整理したいという欲求を掻き立ててくれた訳だから、その点だけでも主催の方に感謝。

  • 余談

動画の視聴が終わってから、以前読んだこの本をふっと思い出した。

平安時代から既に「文学は役に立たない」という批判はあった、というかむしろ主流だった。和文学の擁護者はそういう批判に対抗すべく、儒教や仏教等の価値観に即する形で源氏物語やその他物語文学の社会的価値を主張してきた。…ということが書かれた本。古典なんて、こうやってその時代時代の価値観に臆面もなく寄り添いながら、ウン百年生き残ってきた、そのくらいしたたかな存在なんだよなぁ。

*1:参加された方だけでなく、司会をされた先生もブログを書かれていた。忘却散人ブログ|2019年01月21日「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として

*2:なお脇に置いているが、「好き」「面白い」という人間の心情はそれなりに政治や経済に影響力があって、本来は無視できない要素だと思う。

*3:…と言いつつ、でも多くの場面でものごとはそういう進められ方するんだよなぁ、とは思う。

*4:ついでに想像すると、当時教える立場だった世代の方々は、今とは比べ物にならないほど儒教的なものの考え方をインストールされていたはず。

*5:文部科学省「平成30年度学校基本調査」より