狭霧 (駆逐艦)
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注釈
- ^ 艦船要目公表範囲の順番では、吹雪型の欄、吹雪から13番目に「朝霧」、14番目「夕霧」、15番目「天霧」、16番目「狭霧」と並ぶ。
- ^ 日本海軍の内令では、昭和3年9月11日(内令254号)で「天霧」「朝霧」追加、昭和3年11月23日(内令323号)で「狭霧」追加、昭和3年12月11日(内令356号)で「夕霧」追加。だが昭和3年内令323号時点で『「天霧」ノ下ニ「、狭霧」ヲ加フ』とあり、艦艇類別等級表では「…敷波(深雪を入れて12番目)、天霧(〃13番目)、狭霧(〃14番目)、夕霧(〃15番目)、朧(〃16番目)…朝霧(〃24番目)」と並ぶ。
- ^ 一部二次資料で「狭霧」沈没日を「1942年(昭和17年)1月24日」とするが、誤記。12月24日沈没。
- ^ 荘司喜一郎大佐は軽巡川内艦長として、ブーゲンビル島沖海戦における川内沈没時に戦死。
- ^ 則満宰次大佐は重巡筑摩艦長として、レイテ沖海戦における筑摩沈没時に戦死。
- ^ 後日、磯久研磨大佐(元狭霧艦長)は第4駆逐隊司令に補職され[83]、トラック島空襲における乗艦(駆逐艦舞風)沈没時に戦死した[84]。
- ^ 後日、白浜政七大佐は第27駆逐隊司令に補職され、渾作戦における乗艦(駆逐艦春雨)沈没時に戦死した[92]。
出典
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- ^ a b c ポケット海軍年鑑(1935)コマ50(原本83頁)『一等驅逐艦"狭霧 さぎり" 全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和4年3月 竣工昭和6年1月 建造所浦賀船渠會社}
我が海軍の有する驅逐艦中にて特 型 と呼ばれるのはこれ等の最新式大型驅逐艦の別稱で、その第一に建造されたのが雪の附く4隻(現在深雪は除籍)でその他に雲 級 が4隻、波 級 が4隻、霧 級 が4隻、それに"朧 おぼろ" "曙 あけぼの" "漣 さざなみ" "潮 うしほ" "暁 あかつき" "響 ひびき" "雷 いかづち" "電 いなづま"。
以上23隻の同型艦を有するわけである。そして其の後に現はれたものが"初春 はつはる"以降9隻の1,368噸型の最新型であるがこれ等も上記のものと同様に特型と呼ばれてゐる。即ちこれ等特型驅逐艦合計32隻の活躍こそは将來不幸にして一朝事ある場合に於て我が艦隊の手足として又時には他艦種の缺を補ふ方面に活躍するものとして大いなる期待がかけられてゐるのである。』 - ^ a b ポケット海軍年鑑(1937)コマ48(原本78頁)『一等驅逐艦"狭霧 さぎり" 全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和4年3月 竣工昭和6年1月 建造所浦賀船渠會社} 特型驅逐艦はわが海軍驅逐艦の中堅主要部隊である。わが驅逐艦名のゆかしさは世界に比類のない、外國の追随を許さぬ詩的なものであるが、"吹雪"より始る特型驅逐艦は "吹雪 ふぶき" "初雪 はつゆき" "白雪 しらゆき" 雪級3隻(深雪が除籍された) 雲級4隻 "浦波 うらなみ" "磯波 いそなみ" "綾波 あやなみ" "敷波 しきなみ" 波級4隻 "天霧 あまぎり" "朝霧 あさぎり" "夕霧 ゆうぎり" 霧級4隻 外に"朧" "曙"等一文字名のものが8隻、合計23隻で各大體4隻づゝをもつて驅逐隊一隊を編制、時には水雷戰隊となり、或ひは航空戰隊に加はり、また警備戰隊に入つて活躍する。』
- ^ 歴群(18)水雷戦隊(I) 1998, p. 19(狭霧写真解説)
- ^ 幕末以降帝国海軍軍艦写真と史実コマ160(原本251頁)『吹雪型(十六隻) 艦種一等驅逐艦 艦名考風波等気象に採る。(略)狭霧 (起工)昭和4-3-28 (進水)4-12-23 (竣工)6-1-23 (建造所)浦賀船渠會社』
- ^ #海軍制度沿革(巻11、1940)コマ574(原本1096-1097)、昭和6年4月29日(内令79)艦船要目公表範囲
- ^ 写真日本の軍艦10巻235頁『四種の艦型にわけられる"特型"』
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- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.66『昭和三年十一月二十三日(内令三二三)艦艇類別等級表中驅逐艦ノ部驅逐艦一等吹雪型ノ項中「天霧」ノ下ニ「、狭霧」ヲ加フ』
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 写真日本の軍艦10巻255頁〔『特型駆逐艦』(磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、天霧、狭霧、夕霧)行動年表 ◇狭霧◇〕
- ^ a b c d #海軍制度沿革(巻4、1939)p.68『昭和六、一二、一(内令二一五)|横須賀鎮守府|第二艦隊|第八驅逐隊|天霧、朝霧、夕霧|昭和六、一二、一(内令二一五)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル(略)昭和七、五、一九(内令一六七)横鎮ノ部隊第九驅逐隊ノ次ニ第十驅逐隊(狭霧、漣)ヲ加フ/(略)/昭和七、一一、三〇(内令三七〇)第十驅逐隊ニ暁ヲ加フ』
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狭 霧 』 - ^ a b c #海軍制度沿革(巻11、1940)p.574『狭霧|一等驅逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|昭和4-3-28|昭和4-12-23|昭和6-1-31』
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- ^ a b 昭和天皇実録五巻919-920頁『(昭和六年十一月)十九日 木曜日(熊本驛御発/鹿児島駅御着/鹿児島県庁/消防組御親閲/御親閲/御召艦榛名に御帰艦/鹿児島御出港)』
- ^ 昭和6年11月21日官報第1470号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『◎御出港 天皇陛下ハ一昨十九日午前八時二十分行在所御出門同八時三十分熊本驛御發車午後一時二十分鹿兒島驛御箸車鹿兒島縣廰及御親閲場(伊敷練兵場)ヘ行幸鹿兒島縣廰ヘ御立寄ノ上鹿兒島港第一桟橋ヨリ御乗艇軍艦榛名ニ御乗艦同五時十五分鹿兒島港御出港アラセラレタリ』
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- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)p.48『昭和九、一一、一五(内令四七六)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊/第六戰隊/古鷹衣笠青葉/第二水雷戰隊 神通 第六 第十 第十九 第二十驅逐隊/第二潜水戰隊 由良 長鯨 第十八 第二十八 第二十九潜水隊/第二航空戰隊 赤城、第二驅逐隊』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.70『昭和九、一一、一五(内令四七七)|横須賀鎮守府|第六驅逐隊|雷、電、響/第十驅逐隊|狭霧、漣、暁|/呉鎮守府|第十九驅逐隊|浦波、敷波、磯波/第二十驅逐隊|東雲、吹雪、磯波|』
- ^ #狭霧敷波電疾風触衝p.2『一、昭和十年二月廿八日午前三時 第二水雷戰隊ハ本職指揮ノ下ニ第二艦隊第一回應用教練配備ニ就ク爲有明湾出港ノ際第十驅逐隊狭霧(駆逐艦長海軍中佐西岡茂泰)ト第十九駆逐隊敷波(駆逐艦長海軍少佐佐藤康夫)ト觸衝 第六駆逐隊電(駆逐艦長海軍少佐有賀幸作)ト第五駆逐隊旗風(第一航空戰隊)ト觸衝セリ』
- ^ #伊53触衝pp.49-50『本二十八日午前三時有明湾ニ於テ本職指揮ノモトニ第二水雷戰隊無燈出港ノ際左ノ通リ觸衝ヲ惹起セリ|一、敷波艦首ト狭霧左舷中部ト觸衝狭霧ハ左舷百十番ビームヨリ百十三番ニ互ヒ外鈑内方ニ若干灣曲補機質ニ僅ニ漏水アリ、後部魚雷出入用ダビットモギ取ラレ敷波ハ三番ビームヨリ前部右ニ屈曲水線上二米ニ經二米ノ破孔ヲ生ジ第一防水區劃ニ浸水約一尺其ノ他浸水ヲ認メズ|二、電ノ艦首ト旗風ノ右艦首ト觸衝 電ハ一番ビームヨリ前方露天甲板ノ下ニ約一米壓潰破口ヲ生ズ尚水線下三呎迄縦ニ亀裂ヲ生ジ僅ニ漏水アリ|三、人員、狭霧ニ大腿骨折一、輕傷者二、其ノ他ナシ|四、三艦共自力ヲ以テ呉ニ回航應急修理セシム入渠ヲ要スルモノト認ム|五、各所艦長ヨリノ報告ハ書類ヲ以テ提出セシム』
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- ^ 「海軍公報(部内限)第3185號 昭和14年4月17日(月)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070380300 pp.25-26『○四月十七日午前十時調【横須賀】春日▲、五十鈴▲、神威▲、鈴谷▲、高雄▲、山城、陸奥、嚴島、多摩、利根、(旗艦)八雲、(旗艦)沖島、駒橋 島風、灘風、漣、(司令)夏雲、峯雲、朝雲▲、山雲▲、汐風、澤風▲、(司令)電、雷 伊六▲ 富士▲、洲崎▲、鳴戸 (飛龍)、(高崎)▲|【横濱】木曾|【航海中】響(十六日長浦發―館山へ)/(司令)暁、狭霧(十七日館山發)』
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- ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 50–58正解のマレー沖海戦
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 101–102.
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- ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 276東雲(しののめ)
- ^ 高松宮日記3巻365頁『◎「東雲」』
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- ^ 潜水艦攻撃 2016, pp. 25a-26K16(オランダ)/一九四一年十二月二十五日<潜水艦伊一六六>による
- ^ a b 潜水艦攻撃 2016, p. 25a.
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- ^ 高松宮日記3巻393頁『十二月二十三日 ツヾキ』
- ^ 戦史叢書27 1969, p. 532(挿図第四十一)『クチン攻略要図』
- ^ a b 海軍兵科将校 1985, pp. 104–106.
- ^ 戦史叢書27 1969, p. 531aクチンの攻略
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- ^ 高松宮日記3巻395頁『○二十四日〇六二〇、敵機五機来襲、第二図南丸ニ投弾(至近弾)』
- ^ 高松宮日記3巻407頁『○BK〔クチン〕作戦ハ二十四日夕刻、クチン市街。二十五日午後0時「ペンヂング」。同一六四〇飛行場占領ニ成功セリ』
- ^ 戦史叢書27 1969, p. 533a(沈没した駆逐艦狭霧)
- ^ 高松宮日記3巻406頁『○「狭霧」二十四日、移動哨戒中二〇四五「クチン」沖ニテ潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ、爆雷誘爆、二一〇〇沈没。乗員ノ半数以上救助セラレタリ』
- ^ #昭和16年12月三水戦日誌(1)p.35『25日0330第二護衛隊指揮官→南遣艦隊司令長官/戦闘概報第五号其ノ三|一.狭霧及所定ノ哨区ニ在リテ「ク」泊地対空対潜移動警戒中2045シパング岬354度27粁ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ爆雷ニ誘爆火災引続キ爆薬庫三番聯管予備魚雷爆発2100沈没セリ|二.護衛隊ハ第三号掃海艇及白雲短艇ヲ以テ狭霧乗員救助ニ當ラシム(以下略)』
- ^ a b 作戦経過概要15号pp.1-2『二五|〇三三〇|發 第二護衛部隊指揮官/着 7S 3Sd各司令官/機密第一六二番電其ノ一/戰闘概報第五號其ノ三(十二月二十四日)/一、狭霧ハ所定哨區ニ在リテ「ク」泊地對空對潜移動警戒中二〇四五「シパング」岬三五四度二七粁ニ於テ敵潜水艦ノ來襲ヲ受ケ爆雷誘爆火災引續キ爆藥庫誘發聯管豫備魚雷爆發シ二一〇〇沈没セリ/二、護衛隊ハ第三號掃海艇及白雲短艇ヲ以テ狭霧乗員救助ニ當ラシム 白雲ハ狭霧遭難附近海面叢雲第六號掃海艇ハ輸送船(日蘭丸 第二雲洋丸 第三圖南丸)泊地ノ敵潜水艦制壓ニ任ズ』
- ^ a b 戦史叢書27 1969, p. 533b.
- ^ a b 作戦経過概要16-17号pp.13-18『二八|二〇〇〇|發 南遣艦隊長官 着 總長、大臣、聯合艦隊長官、第二艦隊長官 馬來部隊戰闘概報第一五號其ノ一(十二月二十八日) B作戰状況報告(略)二十四日二〇四五泊地ヲ哨戒中ノ狭霧ハ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没同夜二一一五叢雲ハ泊地ノ敵潜水艦ヲ爆雷攻撃シ之ヲ撃沈セリ(中略)三、我ガ損失(イ)東雲、狭霧、第六號掃海艇ヲ喪フ 東雲戰死者艦長以下二二八名 狭霧戰死者一二一名(生存者一一九名) 第六號掃海艇生存者七三名其ノ他ハ戰死、陸戰隊員戰死四名/(ロ)海軍輸送船北海丸航行不能 第二雲洋丸沈没 陸軍輸送船日吉丸航行不能 香取丸沈没/四、所見 略』
- ^ #昭和16年12月三水戦日誌(1)p.55『12月24日(略)二.狭霧2100シパング岬ノ354°27kニテ哨戒中敵潜ノ雷撃ニ依リ沈没(イ)生存者艦長以下119名内重傷5名(ロ)戦死者121名』
- ^ a b 高松宮日記3巻413-414頁〔「東雲」戦死 艦長以下二二八/「狭霧」〃一二一(生存者一一九)/「六掃」(生存者七三ノミ)陸戦隊戦死四}英ボルネオ作戦中損害 〕
- ^ a b 戦史叢書27 1969, pp. 533–536.
- ^ #昭和17年1月〜二水戦日誌(4)p.1『海軍大臣15日0700/15日附 一.東雲、狭霧、疾風、如月ヲ駆逐艦籍ヨリ除カル|二.呂六〇潜、呂六六潜ヲ潜水艦籍ヨリ除カル|三.掃六、掃一〇ヲ掃海艇籍ヨリ除カル』
- ^ #内令昭和17年3月(2)、p.2〔 内令第五十號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦一等ノ部中神風型ノ項中「疾風、」ヲ、睦月型ノ項中「如月、」ヲ、吹雪型ノ項中「東雲、」「狭霧、」ヲ削ル|潜水艦二等ノ部中「呂六十型」ヲ「呂六十一型」ニ改メ、同項中「呂號第六十、」「呂號第六十六、」ヲ削ル|掃海艇ノ部中第一號型ノ項中「、第六號」ヲ、第七號型ノ項中「第十號、」ヲ削ル 〕
- ^ #内令昭和17年3月(2)、pp.15-19〔 内令第七十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル|第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル 〕
- ^ #内令昭和17年3月(2)、pp.21-22〔 内令第七十九號|呉鎮守府在籍 驅逐艦 東雲 驅逐艦 狭霧|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 疾風 驅逐艦 如月|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 呂號第六十潜水艦 呂號第六十一潜水艦|右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第六號掃海艇|佐世保鎮守府在籍 第十號掃海艇|右帝國掃海艇籍ヨリ除カル|昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 〕
- ^ a b c 「昭和17年1月15日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第794号 p.40杉岡免職、p.42諸石・小泉・田中免職、p.43河原崎免職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800
- ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 275白雲(しらくも)
- ^ #内令昭和17年3月(1)p.35『内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ』
- ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 316巻雲(まきぐも)
- ^ 「昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084600
- ^ 「昭和17年9月10日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第939号 pp.32-33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800
- ^ 「昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200
- ^ 「昭和18年10月28日(発令8月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1248号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094000
- ^ 「故海軍大佐杉岡幸七外二名位階追陞の件 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.A12090352500
- 1 狭霧 (駆逐艦)とは
- 2 狭霧 (駆逐艦)の概要
- 3 歴代艦長
- 4 参考文献
- 5 関連項目
狭霧(さぎり)
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