海外領土の軍服
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ドイツ領南西アフリカなどの植民地に展開する保護軍(Schutztruppe)では主にカーキ色、のちフェルトグラウの軍服に防水帽(Südwester)が使用された。防水帽のパイピングの色は、南西アフリカは青、東アフリカは白、カメルーンは赤。 ドイツ領南西アフリカでは1889年、フランソワーズ部隊(Francois-Truppe)から詰襟6つボタンの簡素な野戦服が着用される。1891年6月4日に青の詰襟やポーランド式の袖に銀のパイピングを配したコーデュロイの被服が制定された。防水帽のほか、フランス風のケピ帽も使用した。襟、ボタン合わせ、袖に青のパイピングを配したカーキの防暑モデルもある。1894年6月11日にコーデュロイ、カーキともに折襟となる。 ドイツ領東アフリカ保護軍(ドイツ語版)およびカメルーン保護軍では前身のヴィスマン部隊が1889年よりカーキの野戦服、白の勤務服、プルシアンブルーのパレード礼装の3種類を使用。徽章は海軍型袖章あるいは陸軍型肩章のみの簡素なものであったが、保護軍への昇格をきっかけに1891年7月4日、新型被服を導入。袖口にブランデンブルク型のボタン、襟章などが追加される。 1896年11月19日に植民地統一被服が制定される。帽子が官帽となるほか、袖もポーランド式の山形袖から直線に変更、1897年3月11日にフェルトグラウとなる。 義和団の乱後の1900年7月より天津(中国語版)に派遣されていた東アジア遠征軍団(Ostasiatisches Expeditionskorps)では遠征用野戦服が導入され、夏はカーキ色、冬はM1893であったが、翌年2月9日より冬服でフェルトグラウの軍服が導入される。外観は後年の共通野戦服に似ている。1904年以降、夏もフェルトグラウとなった。 M1896コーデュロイ野戦服、外地派遣の前にスタジオ撮影された一葉(1904年) M1897着用のドイツ領南西アフリカ保護軍将兵。左は完全軍装の騎兵、右は礼装の将校。下段には、灰緑色のウール布地のほか、カーキ色のコットン布地も使用されているとの記載がある。(1901年) ドイツ領東アフリカ保護軍将兵。左より通常勤務服の軍曹、野戦服の少尉、アスカリ(1901年) カメルーン保護軍防水帽 カメルーン保護軍アスカリ(1910年) 東アジア遠征軍団M1900夏季野戦服(1900年9月)
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