武略
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道雪の武勇は誉れ高く、その噂を聞いた甲斐国の武田信玄が対面したいと希望したという逸話もある。「鎮西に戸次道雪という者がいて、戦に秀れているということを噂に聞くが、一度戦ってみたいが互いに遠く相離れているため、残念ながらその戦技を競うことができない」(旧柳川藩儒者・笠間益三)、「道雪樣へ武田信玄より名譽の御働を聞及ばれ御対面あり度しとの書状之あり、之は遍参僧持参なり」(『浅川聞書』)。また、信玄の枕屏風に道雪と家臣の由布惟信らと共に諸国勇士の名が記されてあった。 永禄元年(1558年)、第一次門司城の戦いで小早川隆景率いる毛利軍と戦った際、道雪は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜した。そして毛利軍との戦いの際、毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、この際に矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、毛利軍は撤退に追い込まれたという。 道雪は孫子兵法の「奇正相生」を引用して、家臣の由布惟信と小野鎮幸を招いて曰く。「軍勢を用いるには、先ず戦法を定め、勇武の勢と共に奇・正の変化をさせるがよい。お前達両名が替わる替わる奇・正の将となって自分を補佐せよ。凡そ戦というものは正法を以って引き分けとし、奇法を以って勝ちとする。それで、正法を行う者は江河のように渇れることがなく、奇法をよく行う者は天地にように無窮である。故に、奇・正両法を用いる者は戦って勝たないという事が無い。それで、今日から両名には正・奇の戦法を取って貰いたい。今日惟信が正軍の将であるなら、鎮幸が奇軍の将となり、明日はそれを替えるという様にせよ。副将には、薦野増時、米多比鎮久をそれぞれ当てよう」と、立花家の戦は常に奇襲と正攻法を連携して、九州において常勝不敗と伝わっている。こうして毛利軍との戦いで勝利を重ねた道雪は、毛利家の興亡を焦点にしている軍記物である『陰徳太平記』で「道雪は大友家に肩を比ぶる者なきのみか、隣国にも亦類少き士大将にて、智謀尭捷兼達し、堅を砕き、利を破り、奇正応変に過ちなく」と賞賛されている。現代語にするなら「道雪はいかなる状況でも的確な判断を行ない、臨機応変に対処できる、戦国屈指の名将だ」と褒め称えているのである。そして、戦歴は大戦37回、小戦百余回、その中に軍事総指揮は主君・大友宗麟であった状況を除いて、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績であり、軍神として誉めたたえられた。
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