改修と破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:42 UTC 版)
1870年に橋は国有化された。1877年のブダペスト工科大学の調査で、いくつかの点について改修の必要のあることが分かったが、実際の改修は1913年まで行われなかった。ブダペストではセーチェーニ鎖橋の後、マルギット橋(1876年)、フェレンツ・ヨージェフ橋(1896年)、エルジェーベト橋(1903年)が建造されたが、こうした橋の建造は都市人口の急増に対応するという側面もあった。言い換えると、セーチェーニ鎖橋に代わりうる橋が複数できたことが、橋を何年も閉鎖して抜本的な改修を行うことを可能にしたのである。 チェーン吊橋は19世紀半ばには広く用いられていたが、橋桁のみでなく、かなりの重量になるアイバーチェーン自体も支える必要があることから、より軽量なワイヤーケーブルがメインケーブルに使われるようになると、次第に使われなくなっていった。しかし、セーチェーニ鎖橋の改修を任された技師ベケとガリクは、外観の大幅な変更を禁じられていた。アイバーチェーン吊橋の外観を損ねないようにしつつ、交通量の増大にも対応できるように、チェーン自体の強化が図られた。従来の錬鉄製のアイバーの引張強さが3300 - 3400 kg / cm2 だったのに対し、新しい高張力鋼のアイバーの引張強さは4900 - 5600 kg / cm2 で、アイバーチェーンの長さも倍増した。アイバーチェーンの伸長に伴い、そこからぶら下がる、橋を吊り下げるハンガーの間隔も以前の2倍に当たる3.6 m になった。この工事は1915年11月に終わった。 ブダペストは第二次世界大戦中の1944年3月にドイツ軍によって占領されており、侵攻してきたソ連軍との間で激しい戦闘になった。ドイツ軍は戦略上の理由から、同年12月から市内に架かる橋を次々と破壊し、セーチェーニ鎖橋も1945年1月18日に中央径間が破壊された。
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