好学の名君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 02:02 UTC 版)
斉典は藩政改革に並行して家臣たちの教育にも力を注ぎ、藩校・博喩堂を、文政8年(1825年)江戸藩邸に、文政10年(1827年)には川越城内西大手門北側にも開講し、藩医・保岡嶺南(英碩)を教授職に迎え、退廃した藩気風の引き締めと藩財政振興を図った。 天保15年(1844年)には英碩に命じて、頼山陽の『日本外史』を校訂し出版させた。これは川越版と称されて、その版木も松平家に保管され歴史的価値も高かったが、昭和20年(1945年)の空襲で松平邸の所蔵庫が炎上し、他の宝物と共に失われた。
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