大同電力発足
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大戦景気の終わりを告げる1920年春の戦後恐慌発生を機に、福澤系の木曽電気興業・大阪送電に山本条太郎が社長を務める日本水力を加えた3社の合併案が浮上。交渉の末に1921年(大正10年)2月25日付で合併が成立、資本金1億円の大同電力株式会社が発足した。社長は大阪送電から引き続いて福澤桃介が務め、副社長には日本水力から宮崎敬介が就任、その下の常務取締役には増田や京阪電気鉄道の太田光凞、技術者の三根正亮・近藤茂・関口寿の計5人が選任された。1923年の役員録には企画課長を兼ねるとある。 大同電力発足後、木曽川には読書発電所や大井発電所などの水力発電所が相次いで完成した。発電所群のうち1921年に着工、翌年に竣工した長野県の須原発電所では、資材運搬のため発電所前に架橋された木曽川のつり橋が増田にちなんで「満寿太橋」と名づけられた。木曽川開発を進める大同電力にあって、増田は他の事業者や金融機関との間の対外交渉を担当する。関東大震災後の国内の金融逼迫に際して外債募集の話が浮上し、福澤がアメリカ合衆国へ渡った際には留守役を務めた。 1924年(大正13年)9月15日、大同電力の臨時株主総会にて代表取締役に選出され、常務取締役から代表取締役副社長に昇格した。この時点では宮崎敬介も副社長である(1928年10月在任のまま死去)が、代表権を持つ副社長は増田だけである。増田の副社長昇格は、福澤の渡米で成立した外債の本社債券を発行するに際して社長または副社長の署名が必要であるため、福澤の代役として増田が署名を任されたことによる。この経緯から増田は当時「署名副社長」とあだ名された。同年11月8日秘書を伴って横浜港を出港、ニューヨークで社債券への署名を済ませ第2回外債の準備をしたのち翌1925年(大正14年)2月1日に帰国した。同年発行の第2回外債は社長印を捺印した福澤の写刷署名と特命代表者の代理署名で済まされたため、秘書の師尾誠治が渡米しただけで福澤や増田は渡米していない。 常務・副社長時代には大同電力傍系会社の役員も数多く兼ねた。1921年11月、大同電力は兼業部門を独立させて大同肥料(後の大同化学工業)と大同製鋼(大同特殊鋼の前身)を設立する。増田は設立と同時に大同肥料の取締役に就任し、翌1922年(大正11年)7月に大同製鋼が電気製鋼所の事業を譲り受けて大同電気製鋼所となるにあたって同社でも監査役に就任した。1922年8月三井鉱山との共同出資による開発会社神岡水電が発足すると取締役に就任。1925年8月、大阪府内の事業を分割し大阪電力が設立されると初代社長となり、1927年(昭和2年)1月までこれを務めている。1926年(大正15年)3月設立の天竜川開発を目的とする天竜川電力では取締役に就任し、同年12月設立の北陸地方における電源開発を目的とする昭和電力では初代社長に収まった。同年には富山県にある傍系会社立山水力電気の社長にも就いている。 会社経営の傍ら、1926年12月に司法保護団体「帝国更新会」の副会長に就任した。同会は大審院検事の宮城長五郎を会長として設立された、起訴猶予者や執行猶予者を保護し更生を援助するための団体で、増田は人に誘われてこれに協力することとなった。
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