がっしょう‐れんこう〔‐レンカウ〕【合従連衡】
合従連衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/11 08:16 UTC 版)
合従連衡(がっしょうれんこう)は、中国の戦国時代の外交である合従策および連衡策を併せていうもの。転じて、状況に応じて各勢力が結び、また離れるさまを示す故事成語となった。
注釈
- ^ この蘇秦の活躍は、史実とは矛盾するものが多いとの指摘がある。それによると実際には秦以外の六国が連盟した事実は存在しないし、司馬遷は「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」として、乏しい情報の中から蘇秦の事績の復元を試みたのだが、それに失敗したとされる。史実としては、紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5か国が合従して秦を攻めたが、5か国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・秦のもう1つの5か国が合従して斉を攻撃している。蘇秦はこの時に活躍したというのが、この説である。この時代は秦・斉の二大強国時代であり、蘇秦は燕のために諸国を糾合し斉を攻撃すべく活動した外交官・間者であった[1]。
- ^ 小川他(1975)[要文献特定詳細情報]はこれを国連事務総長のようなものといっている。
出典
- 1 合従連衡とは
- 2 合従連衡の概要
合従連衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 16:40 UTC 版)
「反体制派 (シリア 2011-)」の記事における「合従連衡」の解説
反体制派の構成員は日和見的に有力な集団へと所属変更を繰り返してきた者が少なくない。反体制派組織同士も相互に連携することで政府軍に対抗しようとしてきた。結果的に、「穏健な反体制派」とイスラム過激派は合従連衡を繰り返しており、両者を厳密に区別することはできないとされている。
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