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第276回: ホンダの苦境を救った“へんなヤツ”
『危機を乗り越える力』

2024.10.25 読んでますカー、観てますカー 鈴木 真人
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いきなりF1エンジンの設計責任者に

現在ホンダの屋台骨を支えているのが「N-BOX」であることは、衆目の一致するところだ。軽スーパーハイトワゴンのジャンルでライバルに圧倒的な差をつけ、登録車を含めても月間販売台数1位が当たり前になっている。たまに2位になるとニュースになるほどだ。2011年にデビューした初代N-BOXの開発を主導したのが浅木泰昭氏である。

彼がホンダでの日々を振り返り、エンジニアとして何をなしたのかをつづった本が『危機を乗り越える力』だ。広島に生まれて工業大学に学び、1981年にホンダに入社してからの奮闘が明かされている。広島では就職先としてマツダが一番人気だったが、成績が芳しくなかった浅木氏はホンダを志望。当時の採用担当者は“わけのわからないヤツ、へんなヤツ”を選ぶように指令されていたとのことで、首尾よく内定を獲得した。

この本の中で何度も繰り返されるのが、“へんなヤツ”の存在意義である。会社のシステムから外れていながら、独創的な発想を持つ人間が必要なのだと説く。浅木氏が入社した頃はまだホンダがベンチャー企業から大手メーカーの仲間入りをしたばかりで、進取の気風があった。今では“へんなヤツ”が減って無謀を許容する自由な雰囲気が消えかかっている。ホンダが普通の会社になっているのではないかと、浅木氏は危機感を持っているのだ。

入社の1年後、浅木氏はF1エンジンのテスト部門に配属される。第1期のF1挑戦は1968年に終了しており、社内での注目度は低かったという。そのおかげで、新米の浅木氏が手を挙げるとあっさり採用されたのだ。F1に限らずホンダでは技術者が足りておらず、いきなり設計の責任者になった。

『危機を乗り越える力』
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「ホンダN-BOX」
2011年にデビューしたホンダの軽スーパーハイトワゴン。発売直後から超人気者となり、2023年に3代目となってからもベストセラーカーであり続けている。2024年に派生モデルの「N-BOXジョイ」が発売された。(写真は初代モデル)
「ホンダN-BOX」
	2011年にデビューしたホンダの軽スーパーハイトワゴン。発売直後から超人気者となり、2023年に3代目となってからもベストセラーカーであり続けている。2024年に派生モデルの「N-BOXジョイ」が発売された。(写真は初代モデル)拡大

暴走から生まれたオデッセイ

第2期ホンダF1は大きな成功を遂げ、ウィリアムズ・ホンダは常勝チームとなってワールドチャンピオンに輝く。浅木氏は1985年にチームを離れるが、栄光の時代の礎をつくったのだ。量産車の部門に戻り、浅木氏はV6エンジンの開発に携わるようになる。世界最高峰のレースで自信をつけていたが、現場ではトラブルメーカーだった。

V6エンジンはアメリカ向けのミニバンに搭載する予定だったが、プロジェクトは頓挫。浅木氏は日本で小型のミニバンをつくろうとして直4エンジンの開発に関わるが、組織としては看過できない暴走だった。会社には機能別のグループがあり、勝手に枠を越えて仕事をすることは許されない。“へんなヤツ”のままだった浅木氏は、冷や飯を食わされることになる。

ただ、上司に激怒されながらも開発を続けたことが、結果としてホンダの苦境を救うことになった。直4エンジンを搭載した日本向けミニバンとは、「オデッセイ」のことである。RVブームに乗り遅れて販売成績が下降していたところに、起死回生の人気モデルが登場したのだ。後にホンダはミニバンメーカーに成り下がったと冷笑する風潮が広がるが、実際にはホンダらしい挑戦の結果だったことがわかる。

実績は評価されたものの、その後も組織のおきてと折り合いがつかず、メインストリームから外れた会社員生活を送ることになる。そして、またしても厄介な仕事を任されることになった。軽自動車の開発である。2003年に「ダイハツ・タント」が発売されて爆発的に売れていたが、ホンダには対抗モデルがなかった。今では想像もつかないが、当時のホンダは軽自動車の部門で業界第4位に低迷していたのだ。

初代「オデッセイ」
初代「オデッセイ」拡大

試乗会で聞いた熱い言葉

軽スーパーハイトワゴンの開発には、オデッセイでの経験が役に立った。子育てに寄り添って女性の視点を生かすことが、クルマの魅力を際立たせることを知っていたからだ。エンジンルームをコンパクトにして車内空間を広げ、安全装備を充実させて安心感をもたらす。明確な方針のもとで持てる技術を注ぎ込み、超人気車を誕生させた。

F1の経験も生かされている。レギュレーションの中で技術を競うという点ではレースと軽自動車開発は似ている、というのだ。この本に書かれているエピソードだが、実は浅木さん本人から同じ話を聞いたことがある。2012年に発売された「N-ONE」の試乗会でインタビューを行ったのだ(参照)。多くのエンジニアに取材してきたが、話を聞いていて胸が熱くなったのはこの時だけである。「負けちゃったら、日本の雇用を維持できない」「うかうかしていれば、家電メーカーみたいになっちゃう可能性があるじゃないですか」と語る浅木さんは、まさにホンダスピリットの体現者だと感じた。

定年を迎える半年前に、浅木氏は再びF1の戦場に戻る。マクラーレンと組んだ第4期F1はどん底で、勝利はおろか完走もままならない状態だった。ピンチにはこの人、と白羽の矢が立ったのは当然だろう。復活への道筋をつけた矢先にホンダはF1撤退を表明するが、2026年からアストンマーティンと組んでカムバックすることが決まった。F1がホンダにとって欠かせないと考える浅木氏は、復帰できるようにいろいろと種をまいていたらしい。

浅木氏は、何度も危機を乗り越えてきた。技術力とリーダーシップでホンダを救った立役者である。この本にはその軌跡が描き出されているわけだが、不満がないわけではない。「N-BOXスラッシュ」について言及されていないのだ。N-BOXをチョップトップ仕様にするというファンキーなクルマだったが、販売は振るわず短期で販売が終了した。言ってみれば失敗作なのだが、試乗会では浅木さんが満面の笑みを見せていた。会心の作だったのだ。時には危機を乗り越えられないことだってある。幸福な失敗について、浅木さんの言葉を聞いてみたかった。

(文=鈴木真人/写真=本田技研工業)

2013年の「N-ONE」の開発者インタビュー取材にて。(写真=峰 昌弘)
2013年の「N-ONE」の開発者インタビュー取材にて。(写真=峰 昌弘)拡大
「F1参戦第4期」のラストとなる2021年シーズン、ホンダはドライバーズタイトルを獲得。まさに有終の美を飾り、F1を去ることになった。写真は同年10月に、タイトル獲得のかかったシーズン終盤戦に向けて抱負を述べる、浅木泰昭 F1プロジェクトLPL(当時)。
「F1参戦第4期」のラストとなる2021年シーズン、ホンダはドライバーズタイトルを獲得。まさに有終の美を飾り、F1を去ることになった。写真は同年10月に、タイトル獲得のかかったシーズン終盤戦に向けて抱負を述べる、浅木泰昭 F1プロジェクトLPL(当時)。拡大
鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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