東京の街を歩いていると、今でもあちこちで明治期に建てられた彫像を目にすることがある。上野公園の西郷隆盛像のように広く知られるものもあれば、あまり意識されない彫像もある。普段は通行人の注意を惹かないことが多いとはいえ、生活の一部として日常の景色の中に存在することで、彫像や石碑などの公共空間に設置されたモニュメントは称えられるべき人物や出来事の存在を知らせ、人々が共有する情報をつくりだしている。
今から約2000年前の古代ローマでは、特定の人物のモニュメントが広場などから意図的に撤去されることがあった。インターネットなどのメディアが存在しなかった古代において、彫像や石碑は情報を伝える重要な媒体であり、それらが破壊されることは讃えられた人物の評価の転換を周知することになった。このような事象は後世の研究者によって「ダムナティオ・メモリアエ(記憶の断罪)」と名付けられ、ネロやコンモドゥスといった悪名高い皇帝の「記憶」に対する攻撃として知られている。そしてこれは、情報伝達の媒体としてのモニュメントの重要性を示すものともなっている。
最近は権力者が彫像を建てることもめっきり少なくなったが、スターリンやムバラク大統領の失脚、Black Lives Matter運動などに際して、新聞やインターネットなどのメディアは彫像破壊の様子を写真とともに大々的に報じている。このような権力者の失脚や奴隷商人に対する評価の転換が彫像の破壊によって示されることからも、依然として公共空間に設置されたモニュメントが情報共有の役割を担っていることがわかる。
日常生活の中で目にするモニュメントだけでなく、教科書によって学ぶ歴史、伝統行事、幼少時に多くの子どもが愛読するものがたりなど、私たちは様々な過去の記憶を共有している。このように集団で共有される記憶は「集合的記憶」と呼ばれ、個々人の価値観やアイデンティティを形成のための一要素となっている。もし富士山が噴火などにより姿を変えてしまったら、日本に縁のある人はなんらかの喪失感を覚えると想像されるが、これは日本と富士山を結び付けるイメージを繰り返し見てきたことで、アイデンティティの一部になっていることのあらわれでもある。
このような「集合的記憶」が形成される上で、モニュメントはそのきっかけとなる存在ではあるが、時代や社会環境の変化はモニュメントのイメージを変容させる。例えば、東京タワーを高度経済成長の象徴として捉えることもできれば、古き昭和の時代をあらわすレトロなモニュメントと見ることもできる。このようなモニュメントに対するイメージの変化の背景を過去の史料からあきらかにすることは、時代ごとの社会の特徴を示すだけでなく、私たちが「あたりまえ」と思っている見方が、現代にいたるまでの変化の上になりたっているものであることを気づかせてくれる。
現在は古代ローマの繁栄を示す遺跡としてイメージされるコロッセウムも、そのイメージは時代・社会背景ごとに変化してきた。ルネサンス期には、魔術師ウェルギリウスが魔法を使って建てた建築物という話が流行したこともあれば、ある芸術家が自伝の中で怪しげな降霊術を行う場所としてコロッセウムをあげた例もある。現在からすると荒唐無稽な見方と思われるかもしれないが、当時の古代ローマに対する憧れと畏怖が相まって生まれたイメージを示すものであり、同時代の人々が古代ローマをどのようなものとして理解しようとしていたのかを伝える重要な手がかりとなっている。近代になると、教会が十字架や祠を設置し、殉教の場としてのコロッセウムのイメージを可視化することで、キリスト教が古代ローマの苦難の時代を乗り越えた強き存在であることを強調することも行われた。更にイタリア王国が誕生すると、古代ローマがイタリア国民としてのアイデンティティ形成に使われたこともあり、遺跡としての発掘事業が大々的に行われた。このような経緯の上で、私たちが持っているコロッセウムのイメージは成り立っているのである。そして、現在イタリアの文化省はコロッセウムの床を復元し、この施設にエンターテイメントの会場としての役割を蘇らせようとしつつある。近い将来、コロッセウムについて想起されるイメージは更に変化するかもしれない。
歴史を研究するというと、過去について考えるものとイメージされるかもしれない。しかし、富士山やコロッセウムのようにかたちがあるものであれ、クリスマスや初詣のようにかたちがないものであれ、歴史の流れの中で物事を考えると、現在の価値観が過去の上に成り立っていることがはっきりと感じられるようになる。そして、現在は一般的とされている捉え方も、これからの社会の変化を受けて変わっていくものであることを気づかせてくれるのである。
参考文献
木下直之『銅像時代:もうひとつの日本彫刻史』(岩波書店、2014年)
周藤芳幸(編)『古代地中海世界と文化的記憶』(山川出版社、2022年)
平山昇『初詣の社会史:鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』(東京大学出版会、2015年)
モーリス・アルヴァックス(小関藤一郎 訳)『集合的記憶』(行路社、1999年)
福山 佑子(ふくやま・ゆうこ)/早稲田大学国際学術院 准教授
早稲田大学第一文学部、大学院文学研究科を経て、2018年より現職。博士(文学)。
専門は古代ローマ史とその受容史。
著書に『ダムナティオ・メモリアエ:つくり変えられたローマ皇帝の記憶』(岩波書店、2020年)、共著に『古代地中海世界と文化的記憶』(山川出版社、2022年)、『論点・西洋史学』(ミネルヴァ書房、2020年)など。