80年以上を経て変色した日誌をめくると、赤や黒色のペンで書かれた「記事差し止め 特高」「掲載を禁止」などの文言が次々に現れる。京都新聞社に残る、1941(昭和16)年6~11月の「整理部日誌」。京都新聞の前身「京都日出新聞」の編集者の業務記録で、第2次世界大戦期としては社内に現存するただ1冊の日誌だ。当時、新聞に対して日常的な国家の検閲があったことを赤裸々に伝えている。
日誌には、太平洋戦争開戦(41年12月8日)直前の6月1日~11月14日の約5カ月半が、約190ページにわたってつづられている。ニュースの扱いや紙面のできばえなど日常の報告事項と並んで、京都府警察部特高課や内閣情報局から指示された記事の「差し止め」「掲載禁止」といった記述が計22回登場する。
7月7日には「特高」の文字とともに「鉄柵取り外しの写真(鉄回収)は今後遠慮願いたし」「陸軍関係並びに応召、部隊出発に関する記事(写真を含む)は当分の間一般新聞に掲載を禁止す」とある。
7月中旬(日付不明)には「一般の体育大会その他体育関係各種行事、学校関係の体育運動集団訓練、勤労作業その他の会合の延期または中止に関する記事は、当局発表以外新聞に掲載せざるよう」、特高から申し入れがあったことが記されている。理由は書かれていない。10月には、写真の検閲作業で締め切りが遅れたとの記述もある。
日本の近現代史に詳しい京都大大学文書館の西山伸教授は「当局が何を要求し、規制したかが赤裸々に記されており貴重」とする。国家総動員法(38年公布)などで国が言論統制を行ったことは広く知られているが、「編集の現場における検閲の実態は知られていない面が多い」という。
戦中に新聞社の統合や報道統制などのために存在した法人「日本新聞会」の43年10月19日発行の会報によると、京都新聞社は42年春から毎週、府警察部特高課と懇談会を開催していた。会報で、当時の京都新聞社編集局長は「新聞社と検閲という立場ではなく、一つになって新聞製作に当たっている」と書いている。
日誌は11月14日まで。その24日後、日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争に突入する。京都新聞は、勇ましい戦果や戦意高揚、そして事実を歪曲(わいきょく)した「大本営発表」を報道し、戦争遂行に加担していった。
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京都新聞社は、太平洋戦争開戦83年にあたる8日から、戦時中に発行された紙面を現代風に再編集する「京都戦時新聞」を発行する。戦時中の地方紙に、何がどう掲載されていたのか。来夏に迎える戦後80年を前に、当時の世相と、ペンが残した記録をたどる。