忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

労働時間の削減は「手段」ではなく「結果」でなければならない

 大した話ではない。

 

短いに越したことはない

 働き方改革や週休三日制の導入など、昨今では労働時間を削減する方向への改革が様々進みつつあります。

 まあ、人類の目的を鑑みればこれは妥当なベクトルです。大仰な言い回しではありますが人類の目指す方向とは生存の安定・労働からの解放・余暇の獲得に他なりませんので、実に正しい文明の進め方だと言えるでしょう。

そもそも人類が仕組みを作ったり装置を作ったりして文明を発展させてきた目的は効率的に必要物資を生産して余裕を作ること、つまり生存を安定させて余暇をたくさん作ることが目的です。なので「労働時間を減らそうぜ」というのは人類共通の願望と言えます。

 

鶏が先か、卵が先か

 ただ、労働時間の削減は目的かつ結果であるべきで、直接的な手段ではないことに注意が必要だと考えています。

 つまり、経験則的にある程度の人が理解していることでもありますが、手段として労働時間を削減すると色々と支障が出る場合があります。

 分かりやすい事例を挙げれば、労働量据え置きでの労働時間削減などです。同じ仕事量をいつもよりも短い時間でやるように強制すると単純に単位時間当たりの負荷が増加しますので、仕事がデキる人であればまだしも負荷上昇に耐えられない人は潰れてしまいます。社会格差を広げたいのであれば効果的な施策ではありますが、あまり人には優しくない方向だと言えるでしょう。

 

 要するに、労働時間の削減を施策として直接実施するのではなく、新たなシステムを導入して業務効率を向上させたり抜本的にビジネスモデルを変革してプロセスを圧縮したりと何らかの施策を打って生産性や効率が向上した結果として労働時間を削減するほうが望ましいです。

 そういった施策無しにただ労働時間を削減すると、持ち帰っての隠れ残業や違法な勤怠管理、果ては不正やコンプライアンス違反など現場の無理と根性と弥縫策と誤魔化しに頼る他なく、場合によってはビジネスの崩壊すら招くことになりかねません。

 

 なんとも当たり前の、まったくもってつまらない話です。

 

そこそこの危機感

 実際問題として、無理解な労働時間の単純削減は昨今多発している企業不正の一因ではないかと疑っています。

 「今までよりも短い時間で、今までよりも良い結果を出せ、その方法は後追いで考えろ」

 これはデキる人からすればなんとか創意工夫でこなせる範囲ではありますが、デキる人が世界の過半を占めているわけではない以上、デキない人からすれば無理筋となります。そういったデキない人がなんとか数値をでっちあげるにはもうズルや不正しかないわけで。

 構図としてはイジメとなんら変わりません。責めるべきはデキない人のズルや不正よりもデキない人に強要するシステムでしょう。

 

 つまるところ、

 「方法を考えた結果、今までよりも良い結果を出せるようになったので、今までよりも短い時間で終わらせよう」

 この順番のほうが適切です。

 

結言

 以上。なんとも当たり前の話でした。

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