忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

あんなに好きだったのに

 あんなに好きだったのに、今ではもう気持ちは冷めてしまった。

 とても好きで、一緒にいたくて、心底欲していて、そう、陳腐で庸劣でそして月並みな表現ではあるが、愛していたのだと今では思う。そんな高尚な表現は適切ではないかもしれないが、まだ精神的に未熟だった僕にとって、あれは愚かで稚拙ながらも愛着の萌芽だったのだ。

 

 あの恋慕は一方通行だった。あちらはこちらのことなど知りもしないだろう。それでも構わなかった。僕が求めていることが重要だった。答えてくれる必要なんて無い。相互で在りたいとすら思わない。それは強がりかと思うだろうが、あの頃はそれで充分だった。

 

 ふと気付けばいつでもその姿を探していた。存在を喜び、不存在を悲しんだ。常に近くにいることは当然叶わない夢だったが、だからこそ夢を追うことに夢中であった。

 

 遠くに行ってしまったわけではない。会おうと思えばいつだって会える。ただ、あの頃の燃え尽きんばかりの情熱が今では拡散してしまっただけなのだ。高鳴る心臓が喞筒になったかのように、その鼓動によって体外へと熱量が押し出されてしまった、ただそれだけなのだ。在りし日の思い出を頼りに必死にかき集めようとしても、もはや灯火にすらならない。冷たい世界に熱はもう奪われてしまった。

 

 いや、冷たくなったのは僕の方かもしれない。自らの熱を殺したのはきっと僕のせいなのだ。肉体は日に日に衰えるが心は衰えることはないと、そう誤解していたのだ。いつまでも変わらないものなんて本当は存在しないのに、自身の精神は永遠であると勘違いしていた、僕の落ち度なのだ。

 

 愚か者と嘲って欲しい。暗愚な莫迦野郎と罵って欲しい。貶された言葉の分だけ僕の褪せた心に熱を与えてくれるかもしれない。そうして積み上げた僕を、罵言に塗れ薄汚れた醜い僕を、あの頃とは違う変わり果てた僕を、それでも自信を持って提示したいのだ。哀れな身中の奥底に、あの頃の澄んだ瞳が持っていた眩い純情がまだ僅かばかり残留していることを、見つけてもらいたいのだ。

 

 

 ああ、甘味よ。

 あんなに子どもの頃は求めていたのに。今や板チョコ1枚すらしんどい。とても食べきれない。歳を取ったものである。今は辛味が好き。

 でも甘味も好きだから一口は食べたい。でも一口でいい。歳を取るとお菓子が個装されていることの有難みを知るのである。

 

 

思ったよりも書けなかった

 勢いで2000文字くらい書けるかと思ったのですが、思っていたよりも早めに書けなくなりました。うーん、悔しい。もう少し長く書きたかった。

 そんなわけで時々急にやりたくなる謎文章を書こうのコーナーでした。普段の記事の倍以上時間を掛けたのに全然書けないとか、私に恋文や小説のセンスは無いですね。知ってましたけど。

 

甘いものの思い出と今

 子どもの頃は板チョコ1枚くらい余裕でペロリと食べることができました。甘いものが嫌いになったわけではないのですよ、今でも好きです。ただ子どもの頃のように体が求めるようなことが無く、こう、なんていうか、「脳を使うから糖分補給しておくかー」的な義務感が勝つようになってしまいまして。大人になったんだなーと。大人とはいったいなんなんでしょうね。

 きのこの山たけのこの里のファミリーパックを母が買ってこようものならたけのこの里と取り合って姉と争ったものです。「きのこの山はお父さんお母さんが食べればいいじゃん!」というような、そして本当に食べると「ひどい!お菓子が減った!」と文句を垂れるというような。まあ、良い思い出です。

 いや、よく思い返せば姉がたけのこの里を時々は譲ってくれたような。良い姉です。多分記憶の中で美化されているだけですけど。

 まあ、記憶は綺麗なほうがいいじゃないですか。気楽に生きるためには積極的に過去の思い出を美化するのも一つだと思う次第です。姉からは結構ボコボコにとっちめられた思い出が無数にあるので記憶が飛んでいるだけかもしれません。ああ、急いで記憶に漂白剤をかけないと!

 気付けば大人になって、お菓子はあまり買わなくなりました。今お菓子のファミリーパックを買って一人で食べようものなら余裕で数週間は残ります。というか効率重視でチョコ系のお菓子ではなくブドウ糖を求めてラムネを買うくらいです。冷め切ってますね、ファミリーパックを独占しようと画策していたあの頃の私はどこに行ってしまったんでしょう。チョコのように溶けてしまったのかな。