忘れん坊の外部記憶域

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ナラティブの活用とその行使への躊躇

 ナラティブ(narrative)は物語や話術という意味の英語で、主に心理学やマーケティング、政治の分野で用いられている言葉です。用途が多様なので簡潔に説明することは難しいのですが、大まかに言えば物語の力を活用することと言えます。

 

ナラティブとは何か

 ナラティブを説明するのは難しいので事例で述べましょう。

 例えばマーケティングにおいて

この製品はこれこれこういうスペックで、こういう機能がありますよ

というような従来的な販促ではなく、

この製品を使うとこんな素敵な体験をすることができますよ

というようにその製品と貴方の物語を語ることで販促するのがナラティブの活用です。

 全てがコモディティ化しつつある現代社会においてナラティブを活用した販促は極めて効果的です。スペックや機能はどこも似たり寄ったりであるのに対して、個人の体験というナラティブは唯一無二のもので、他社製品との絶対的な差別化を図ることができます。

 

 政治の世界でもナラティブの活用効果は絶大なものです。

 2000年代初頭の小泉旋風、そしてその後に成立した小泉内閣の支持率が高かったのは「自民党をぶっ壊す」「郵政民営化」と言った改革路線のナラティブに国民が共感したことが一因です。具体的な政策の中身や効果ではなく、停滞していた社会の空気を改革によって吹き飛ばすのだという物語がウケたということです。

 2009年の民主党による政権交代も同様です。自民党から変わることによって具体的な改善がどうなるかは人によって見解が異なるのでさておき、いつまでも政権の座に居座っている自民党を引きずり降ろして社会を変えるのだという物語が国民の支持を得た結果が政権交代へと至りました。

 さらに例を挙げれば2020年のコロナ禍における安倍首相とドイツのメルケル首相の対比が分かりやすいものでした。日本はコロナによる死者数がドイツに比べて桁違いに低かったにも関わらず、コロナ禍への対応で評価を得ていたのはドイツのメルケル首相でした。これはメルケル首相が国民に語り掛けた「苦難の共有と団結」「人々の努力への感謝」「愛」という物語が世界の人々の心を打ったためです。

 時事的な話であれば、ロシアによるウクライナ侵攻でもプロパガンダと言う名のナラティブが各所で飛び交っています。各国の思惑がどうの、ウクライナの過激派がどうの、過去の歴史がどうの、といったものです。

 とてもとても嫌な表現になってしまいますが、ウクライナ避難民の光景を撮影した映像などもナラティブの一種です。人々がこんな目に合っている、悪いロシアのせいだ、という物語です。もちろん映像は事実でありロシアによる暴力の結果であることは間違いないのですが、こういった映像の訴求力は大変に強く、堅牢なナラティブとなります。

 本質的な点でいえば「ロシアがウクライナに軍事侵攻した」のみがナラティブを排除したものであり、私はその一点のみでロシアを批難するに充分足ると考えています。しかしメディアはそういった本質よりもナラティブのほうが関心とページビューを集めるのに効果的であることを分かっているため、日々ナラティブを報道しています。

 

ナラティブに対する躊躇

 ここまで挙げてきたようにナラティブの力というのは明確かつ絶大です。人間は実数値や実態ではなく物語に熱中しやすいようにできています。そんなナラティブの力を活用するのはどのような業界業種であっても有効であり、ビジネスを考えればその力を活用しない手はありません。

 しかしながらその力の行使に躊躇いを感じるのもまた事実です。極論ではありますが、ナラティブに頼ることは実態を疎かにしかねないからです。事実ではなくアジテーションとナラティブが支配する世界になってしまっては現実が回らなくなってしまいます。

 そしてナラティブは強力な分、悪用が容易です。古今東西の様々な人災・戦争・テロリズムには事実関係のみでなくナラティブによって引き起こされたものがあります。

 例としてオウム真理教による殺人事件もナラティブと言えます。彼らの論理・物語において殺人は「魂の救済」として語られていました。地獄に落ちるのを防ぐために殺害してあげるのは殺人者・被害者ともに善であるというナラティブです。しかしナラティブの虚飾を剥ぎ取るまでもなく、その実態はただの殺人です。このようなナラティブによるモラルブレイクはテロリストや過激派の例をいちいち挙げる必要もないくらい無数にあります。

 

 悪用というわけではありませんが、ナラティブの力によって良くない方向に進んでしまった事例も紹介しましょう。

 誰しも地球環境が汚染されることを望んではいません。また人々が健康に長生きできるようになることも万人の望みと言えます。

 そんな人々の活動の一つがエコキャップ運動です。ペットボトルキャップを回収して、そのリサイクルで得た収益でワクチンを購入して途上国へ寄付しようという運動です。

 地球環境保全と人々の健康、これは強力なナラティブとして働くため、この活動を批判することは難しくなっています。実際はキャップを別途で回収することによって単純に焼却するよりも二酸化炭素発生量が増えていること、余分な金銭が掛かっていること、その金銭で直接ワクチンを購入したほうがよっぽどワクチンをたくさん購入できること、などがあるにも関わらず、ナラティブの暴走によって活動を止められない団体が多数あります。

 例として東京の武蔵村山市はこの活動を2020年に終了しました、費用面に関してはこちらの説明が丁寧で分かりやすいです。

◆ペットボトルキャップの回収をやめる理由 | 武蔵村山市ボランティア・市民活動センター

 2019年度の寄付額実績が11万円。1年間のキャップ回収活動に必要な車両の維持管理費用、ガソリン代、人件費はどう考えても寄付額より大きく、赤字で出費し続ける意味は無い、ということが武蔵村山市が回収をやめた理由の一つとなります。

 単純な合理性で言えばキャップの回収活動は不適切な行動となりますが、逆に言えば合理性を無視できるようになるほどナラティブの力は強力だということです。

 

強力な道具だからこそ慎重に

 ナラティブとは人の感情に作用する極めて強力な道具であり、道具だからこそ使う人によって成し得る善悪が変わるものです。

 つまるところナラティブは火や刃物と同じであるという認識が必要です。危険だからと禁止できるものではありません。しかし有用だからと安易に振り回すことは避けるべきです。必要な状況において必要な分量のみを慎重に取り扱わなければいけません。

 

 

余談1

 ナラティブの何が恐ろしいって、ナラティブは多くの物事に付随しているものであり実際に存在するのですが、表面上のナラティブで覆い隠されているだけで、本質的な事実はまた別にあるのです。前述した様々な例もナラティブで説明が付くものの、目につきやすいナラティブに囚われてしまいその先には様々な事実があるということを忘れがちになるのがナラティブの二重の罠なのかもしれません。

 

余談2

 まあこの話を後輩にした時は以前と同じように「感情を無視するなんて人として良くない」と言われましたが。別に無視をしろと言っているわけではないのですけども。理性と感情の優先度合いは未だ難しく考え続けなければいけないテーマだと感じます。