日本に「ニュータウン」が誕生したのは、今から60年ほど前。大阪の吹田市と豊中市にわたる広大な丘陵地・千里丘陵に誕生した「千里ニュータウン」が始まりだ。
その中にある阪急南千里駅は、もっとも早く住民の入居が始まった佐竹台団地のすぐ近くにある。いわば、千里ニュータウンを昔から見続けてきた場所。そこに「千里ニュータウン情報館」がある。
吹田市が運営する施設で、千里ニュータウンに関するさまざまな情報を展示・アーカイブ・発信している。いわば「千里ニュータウンの博物館」。
連載「ニュータウン出口」の3回目となる今回は、そんな千里ニュータウンの過去・現在、そして未来について、「千里ニュータウン情報館」に勤務する曽谷博之さんにお話を伺った。
「ほとんど日本じゃない」
曽谷さんは、千里ニュータウンが「地元(ふるさと)」である。1962年に誕生したニュータウンに、初期から住み続けている。最初にそこへ足を踏み入れたのは、今から60年ほど前のこと。
「私は63歳なんですけど、2歳のとき、両親は大阪市内のアパート住まいで。お袋が千里ニュータウンの募集を見て申し込んだんです。そしたら超高倍率の抽選に当たった! 当たってしもた(笑)。できたてのまちですよ」
千里ニュータウンの中心にある「千里中央駅」
2歳だった曽谷さんは、できたばかりの千里ニュータウンで目にした光景は今でも忘れられないという。
「今でも覚えてるんです。鮮明に。当時は引越し屋さんに頼まずに、親戚の助っ人と2トントラックを借りて、親父が千里ニュータウンまで運転して行ったんです。大阪市内から車で30分ぐらい。ところが親父が道に迷って、高野台の近隣センター(千里ニュータウンの各地区に設けられた商業施設のこと)でとりあえず休憩となりました。
で、車から下ろされて周囲を見たら、目の前から道が、ずどーんとあって。両側は真っ白な団地。つい1時間ほど前、大阪市内の下町、アーケード街から来たんですよ。それと比べたら『ここはどこなん?』と。
見たことがない場所。人影も無く街がシーン(無音)としている。その向こうにはかまぼこみたいな屋根の建物があって、それが学校だった。将来、通うことになる高野台中学校」
1982年頃の千里ニュータウン。白くて、ぴかぴかしている(千里ニュータウン情報館の中の写真)
こうして、千里ニュータウンに住むことになった曽谷さん。1960年代初頭のことだった。そこから数年間かけて千里ニュータウンの開発は進んでいくが、その開発の先にあったのが1970年の大阪万博だった。
「団地からね、万博会場の方を見たら、手前には山田の森が見えるんです。ある日、そこから、にょきにょき建物が立ち上がっていった。それがエキスポタワー。あれなんやねん?と。未来ですよ、未来を見た。
それで次に立ち上がったのが『太陽の塔』。そのインパクトがとてつもなかった。夜になると、あの黄金の顔の両目から光線が出たんですよ。毎晩その光線がエキスポタワー目掛けて、びぃーんと出るんです。それを会期間中ずっと見ました。わくわくして、未来を感じました」
大阪モノレールの山田駅から「太陽の塔」を見る
「当時、阪急電鉄は臨時の駅として『万国博西口駅』を設置してました。半年間だけの駅。毎日、電車にパビリオンの関係者が乗るんです。南千里駅前にあるURの団地は、外国人の宿舎用を考慮して設計したんで、部屋の天井が高いんですよ。
楽しかったのは、遅い時間の電車にはいろんな国の方々が、民族衣装のまま電車に乗っていたことです。オランダ館の木靴を履いた踊り子チームは特に覚えています。みんなでホームから階段を一緒に降りて改札口を出た時の光景はまさに異国でした」
そんな鮮烈な経験を、曽谷さんは最近のことかのように話してくれた。
千里ニュータウンの魅力は「住みやすさ」
その後60年、曽谷さんは千里ニュータウンに住み続けることになる。
「この情報館は吹田市の施設なんですよ。縁あって吹田市に勤めることになったし、千里ニュータウンが好きなこともあって、60年ずっとここに住んでます。だから、他に住む気は全くないですね~」
しかし、そこまで千里ニュータウンに愛着を持つ理由はなんだろうか。
「やっぱり、住みやすさです。こんな狭いエリアに、鉄道が2つ、モノレールが1つ、それに素晴らしい道路があって、交通環境抜群。
道路は特にそうです。車が頻繁に通るところには、だいたい歩道が付いている。それに、普通乗用車がどこでも対向して走れるんです。道路の幅員がゆとりを考えて設計されているんで。
だから、千里ニュータウンで育った子供は他の街の道路を見るとびっくりするんですよ。今でも、古くからの住宅地内の道を運転すると、幅員が狭いとこありますよね。電柱もたくさん立ってるし。だから、車の譲り合いがありますが、千里ニュータウンではまず無いですね。
60年前のまちづくりの設計がよくできてるんですよ。当時の大阪府の職員がメラメラ情熱を燃やして、未来を考えて理想のまちを造ったんです」
千里ニュータウンを走る「大阪モノレール」。ニュータウン内の重要な移動手段だ
さらに、千里ニュータウン内に連続・点在する緑の存在も大きいという。
「計画では、はじめから『緑はこれ以下には減らさない』という割合を決めて、それがずっとルールとして守られている。60年前はそれ以外にも緑があって、そこに色々な建物ができて、見た目としては緑が減っているように見えますが、そもそも緑の割合の計画数値がすごく高く設定されているんですよ」
巧みな建て替えによって進んだ世代交代
一方で、他のニュータウン同様、千里ニュータウンも人口減少や高齢化に悩まされた時期もあった。
「千里ニュータウンも、いっとき人口が減ったんです。ただ、一旦減ってから現在までは微増、微増で増え続けてるんですよ。高齢化が進んだといいつつ、団地の建て替えが計画的に進められたんです。
千里ニュータウンは人気のある土地だから、地価が高いんです。そこで、例えば府営団地を建て替えるとき、敷地の半分を民間事業者に売却します。その資金で、残り半分の敷地に新しい府営団地を建て替えることができたんです。しかも、元の団地よりも高層の団地を建てたんで。元々住んでいた人は戻れる、さらにまた新しく人が入れると。そうして若い世代の入居も増えて、高齢化率も徐々に下がってきました。
民間事業者も、高級マンションと若い世代が買えるマンションを区別して建てて、価格設定に工夫をしたんですよね。そういう具体現実的な取り組みが現在の千里ニュータウンの再生につながっているんでしょうね。若い世代の入居で高齢化率も低減し、街の活性化も進んでいます」
現在では、駅前でタワーマンションを見かけることもある
こうしたまちの再生のために作成されたのが「千里ニュータウン再生指針」。2007年に作られ、2018年には改訂版が作られた。
「再生指針の項目に『まちを担う人づくり』があることが重要やと思うんです。まちづくりに協力してくれるボランティアさんを支援したり、あるいは子どもたちが自分の住むまちを好きになって、誇りを持ってくれたりするような取り組みを情報館はしています。
小学校3年生を基準にして、『公園の池の名前の由来は?』みたいなことで、まちの歴史を知って、住んでいるまちに関心を持ってもらおうと思っています。千里ニュータウンから引っ越しても、あのまち良かったな、と想ってもらえれば素敵ですね」
流行りの言葉でいうなら「シビックプライド」というものかもしれない。千里ニュータウンはこうした取り組みをはじめる前から、シビックプライドを持つ人が多かったという。
「団地の間取りは二世帯が住めないから、子どもは一度出ていきますね。でもその後、ご両親の介護などで戻ってくる人も多いです。いつか千里ニュータウンに戻りたかったと。そんな声を聞くと、すごく嬉しいですよね」
曽谷さんの話によれば、今までの団地の建て替えの際、住民から「新しい団地内通路は自由に歩ける元のままの特長を継続して」という要望が強く出されたという。住みやすい現在の住環境に満足しているからこそ、このような言葉も出てくるのだろう。
アーカイブが豊富な「千里ニュータウン情報館」
こうして、ニュータウンが直面しがちな高齢化の波にも耐えている千里ニュータウン。URも千里ニュータウンをリブランディングして売り出し始めている。
「URが発行しているパンフレットにはね、千里ニュータウンの全部の団地が載ってるんですよ。それで『千里グリーンヒルズ』という風にブランド化を図っている。面白いのが、そのパンフレットにはちゃんと千里ニュータウンの歴史が載っていて、すてきなロゴマークも描かれています」
千里ニュータウンを見ていて思うのは「アーカイブ」への強い意志だ。そもそも、ニュータウンに情報館があるのも、なかなか珍しい。
「千里ニュータウン情報館はまちづくりの歴史の展示だけでなく地域情報も発信して、人と人をつなげてまちづくりを進めるための施設です」
情報館には、簡易バスルームも置かれている。入居初期は府営B団地には風呂が無く、近隣センター内に設置された銭湯を利用していたが、やがて不便さから簡易バスルームの購入が広まった
情報館は、展示物を考慮した施設となっている。
「館内各エリアを良く考えて設計した施設なんです」と、曽谷さん。
情報館の様子。展示物がよく見えるよう、設計が工夫されている
「入口横の壁に取り付けている巨大な写真パネル(年代物)に合わせてエリアの高さが決められている」とも曽谷さんは教えてくれた。
「それに、この立体模型は唯一現存する千里ニュータウンの全体模型なんですよ。地味ですが開発前と後のコンター(等高線)がリアルに造り込まれています」
「この模型はかつて千里南地区センタービル(1964-2013)内に置かれてました。このビルは村野藤吾さんが設計した当時ハイカラな造りになっていて、役所、銀行の他、ナショナルの新製品が並ぶショールーム、プラモデル屋、レストラン、サントリーバーなどがあって。
お母さんが南センター専門店街や阪急オアシスで買い物をしている間、子どもたちはこのビルで遊んで待ち合わせてました。私もこの模型を小学生の頃から見てました。今、来館する子供たちに模型を説明しているのはそんな縁と感慨もあって楽しいですね。
あとは、大阪府が制作した開発記録映像があります。1961~1982まで21年間の貴重な映像(全6部:127分)を見ることができます。僕が入居当時に住んでた団地も動画で映っていて、いつ見ても思いっきり懐かしい気分ですわ(笑)」
千里ニュータウン情報館には、様々な人が訪れる。私が訪れたときも、何人かの人が展示を熱心に眺めていた。
「千里ニュータウンの小学校に転勤した先生が、自分自身が千里ニュータウンを知らんのはまずいなと。情報館に来てくれるパターンがあります」
多様な人をどのようにまとめていくのか
こうしてアーカイブを残しながら未来へとまちをつないでいく千里ニュータウン。ただ、もちろん問題がないわけではない。
「子どもの数も増えてるんですよ。でも、それで公園の使い方で問題が起こったりもしています。例えば、公園で子どもがキャッチボールをするにしても、キャッチボールぐらいいいじゃないかと思う人もいれば、危険だからダメだと思う人もいる。まちのルールづくりの線引きをどこに? そこが難しいですね。
まちのルールを守る人も守らない人もいて、それはさらに問題なので、どうやって解決するかはホンマに難儀ですが、住みやすいまちづくりのためには方法を何とか考えないとあきませんね。
まちの問題を解決していくためには、行政と住民とでどれぐらい話し合うかがポイントやと思います」
さまざまな問題を抱えつつ、それでも建て替えやリブランディングを経て、新しくなり続けている千里ニュータウン。曽谷さんの話からは、そんな変化を続けるまちと、ひとのつながり。そこへの「愛着」がとてもよく感じられたのだった。
千里ニュータウンは間違いなく、様々な人の「地元(ふるさと)」としてあり続けているのだ。
アイキャッチイラスト:かつしかけいた
この記事を書いたライター
チェーンストア研究家・ライター。1997年生まれ。一見平板に見える都市やそこでの事象について、消費者の目線から語る。 著作に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』 (集英社新書)、『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』(青弓社)など。執筆媒体として「東洋経済オンライン」「現代ビジネス」「Yahoo! JAPAN SDGs」ほか多数。テレビ・動画出演は『ABEMA Prime』『めざまし8』など。Podcastに、文芸評論家家・三宅香帆との『こんな本、どうですか?』など。