市川房枝が迫られた「三択」 ひたむきな活動は戦争協力に変質した
デモクラシーと戦争⑪ 絡め取られた「自発性」
社会の大勢が戦争へ向かう1930年代初頭、市川房枝(1893~1981)は非戦を貫いていた。女性の選挙権獲得や政治教育をめざす「婦人参政権運動」で知られた人だ。
婦選獲得同盟の機関誌で反軍拡の主張を展開。32年の五・一五事件直後には、全日本婦選大会でファシズムに「断乎(だんこ)として反対」と決議した。
しかし37年に日中戦争が始まると、市川は選択を迫られた。
「正面から戦争に反対して監獄へ行くか、または運動から全く退却してしまうか、あるいは現状を一応肯定してある程度協力するか」
運動を率いてきた者として、戦時下の女性らの困難な生活を放置できない。生活維持のため女性の力を発揮させたい、実績を上げて婦選にもつなげたい。選んだのは「ある程度の協力」だった。「市川房枝自伝」でそう回想した。
100年をたどる旅―未来のための近現代史
世界と日本の100年を振り返り、私たちの未来を考えるシリーズ「100年をたどる旅―未来のための近現代史」。今回の「デモクラシーと戦争」編第11回では、女性たちの自発的な活動が、戦争協力に変質していった背景を考えます。
それまでの運動で重視した女性の自発性は、ここでも活動の鍵になった。女性団体の政府への協力は「上から下への強制的なものでなく、出来るだけ婦人の自主的運動たらしめる事が必要である」(「婦女新聞」への寄稿)と訴えた。
軍部は婦選活動家を嫌ったが、中堅官僚の中にその実力を知る人たちがいた。戦争が本格化する前、婦選運動を前進させるため、「純真」な女性のイメージとマッチした不正選挙の粛正、「台所」を担う主婦としての生活に身近なゴミ分別運動など、保守社会の女性観にそぐう市民活動をし、そこで人脈ができていた。市川を研究する進藤久美子・東洋英和女学院大名誉教授(ジェンダー論)は、「実際に戦時下の生活を回すために、傀儡(かいらい)的な団体ではなく、自主的に動ける市民組織の力が必要とされた」と解説する。
「戦時体制に絡め取られていた」
婦選活動家たちは、国民精神…
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- 【視点】
戦時下の女性の戦争協力については、これまででも専門家たちから指摘されてきました。「銃後の母」の言葉にあるように、戦場に駆り出される夫が安心して出征できるよう、不平不満を口にせず積極的に動員される割烹着姿の女性の姿は、これまでにも戦争を題材に
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- #100年をたどる旅
- 【視点】
戦時中の人口論、人口政策論について文献調査をしていたときによく見かけたのが“日本民族の母”という言葉だ。この記事を読んでいて市川房枝編『戦時婦人読本』(昭和書房、1943年)を思い出したが、同書のなかで市川房枝は戦時下の婦人には「民族の母と
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