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都立横網町公園とその周辺での朝鮮人虐殺

レイシスト都知事の差別反対はポーズだけ

12月8日、小池都知事は都議会で「性別や人種、宗教などでの差別を認めないオリンピック憲章の理念を盛り込んだ都独自の条例の制定を目指す」と述べた。(NHK NEWS WEB)

“差別認めない” 東京都が独自の五輪憲章条例制定へ

東京都議会は、8日一般質問が行われ、小池知事は、3年後の東京オリンピック・パラリンピックの開催に向け、性別や人種、宗教などでの差別を認めないオリンピック憲章の理念を盛り込んだ都独自の条例の制定を目指す考えを示しました。

(略)

この中で、小池知事は、ヘイトスピーチと呼ばれる民族差別的な言動を繰り返す街宣活動などへの対応について、「東京大会の成功のためには、人権尊重の考え方を大人だけでなく、未来を担う子どもや企業などにも浸透させることが大切だ」と述べ、性別や人種、宗教などでの差別を認めないオリンピック憲章の理念を盛り込んだ都独自の条例の制定を目指す考えを示しました。

舛添前知事が決めていた韓国人学校への土地貸与を白紙撤回し、関東大震災時の朝鮮人虐殺被害者への追悼文送付を拒否し、希望の党への移籍希望者には「外国人の地方参政権に反対」という踏み絵を踏ませた差別主義者が、こういうときだけは差別反対のポーズを演じてみせる。どの口がそれを言うのか、としかコメントしようがない。

虐殺犠牲者を冒涜する極右レイシストの集会

小池都知事が追悼文送付を拒否した「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」は、毎年都立横網町公園で営まれている。ところが今年は、東京都が開催を許可したために、同じ公園内で同じ日に、朝鮮人虐殺の事実を否定する極右レイシストたちによる集会が公然と行われる事態となった。

東京都墨田区にある都立横網町公園は、かつて旧陸軍の被服廠があった場所だ。関東大震災時には被服廠は既に移転しており、その跡地が格好の避難場所と見なされて周辺住民が家財道具を持って詰めかけたところを火災旋風に襲われ、約3万8千名の犠牲者を出した。関東大震災による被害の中でも一箇所での死者数としては最多であり、これがこの公園が震災犠牲者を追悼する慰霊の地となってきた理由だ。

画像出典:[1]

そして、この都立横網町公園とその周辺でも、数多くの無辜の朝鮮人が虐殺されている。この場所でこのような集会を行うのは、「慰霊」どころか関東大震災時の朝鮮人虐殺被害者、さらにはすべての震災犠牲者の霊を冒涜する悪質な行為だ。

都立横網町公園(旧陸軍被服廠跡)とその周辺での朝鮮人虐殺

画像出典:[2]

篠原京子証言[3]:

 ちょうど女学校一年の二学期の始まる日で始業式に行って帰ったら地震になっちゃったんですよ。(略)

 一日の夜からそうそう朝鮮人のうわさがたちはじめましたね。二日の昼間は屈強な男の人が、すごい竹槍をヒューと切ったのをかついで、どこへ行くのか、行ったり来たりやっているのですよ。そして、夜になると、私たちは、あぶないから歩いちゃいけないって、大きな家の縁の下に、むりやり入れられました。小さい子供なんか泣くとひどくしかられてました。「泣き声出したら殺される」からと親も真顔でそういっているんですよ。「子供が泣いたら朝鮮人につかまって、皆殺しになるんだから子供に泣かせちゃいけない!!」ってどなってね。そのとき、うち合うんだか、おどかすんだか、パンパンというピストルのような音がしました。

 朝鮮の人が殺されるのをみたのは三日の日でした。父をさがして被服廠のとなりの安田公園という、いまは本所公会堂になっているのかしら、そこを斜めに通ったところに川があった。隅田川に流れ込んでいるその川に橋があるんです。おくら橋とかみくら橋とかいいましたね。その橋のたもとなんです。そこに来たとき「国に妻子がいて、私は何もしていないんだ。日本でこうやってまじめに働いているんだ」って下手な日本語でしきりにあやまっている朝鮮人の声をきいたんです。それでひょいと見たらテントの下に印半てんを着ている10人くらいの人が血を流しながら「うんうん」うなっているんですよ。印半てんは、労務者なんかほら、昔よく着ていたでしょう。日本の人も朝鮮の人でも働いている人はね。両親が「見るんじゃない」「見るんじゃない」といったんですけれど、目をはなせなかったですよ。私の考えでは、薪かなにかで相当ぶたれ、いためつけられていてもう半殺しになっていました。テントの中では「パピプペポといえ」とか、なにか調べていたらしいです。その半殺しの人を川べりにむりやりひきずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけれど、もう抵抗する力もなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から焼やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮ふが茶かっ色になるんです。だから焼かれている朝鮮人は悲鳴をあげるんですがもう弱っている悲鳴でした。そして殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです。

(略)

 わたしは終わりまでみていませんでしたが、知っている果物屋か、魚屋のおじさんかに行き会ったんです。その人は、そんなこと見るのは平気なんですね。あとで自慢しているのを、うちの母がいやがってたのを聞きました。そのおじさんが全部見てたら13人とか14人とかその場で殺したのを見たって、母にいったらしいですよ。

湊七良証言[4]:

 その日は九月四日頃だ。両国河岸の食料倉庫から避難民達が、ビール、缶詰などの食糧品を略奪している。吾々も三人で同調して担げるだけ持ったはよいが、パトロール中のお巡りに見付かって全部取り上げられてしまった。

 その食料品倉庫のところに来たところ 大変な惨虐が展開されているところであった。

 地点は安田邸の下流100メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パット血潮が吹きあがる。またたくうちに河水が朱に染って、血の河となった。

 罪なき者を!罪なき者!!と悲痛な叫び声が今でも耳朶に残っている。これをやっているのが、理性を失った在郷軍人団の連中であった。それから目と鼻の先きに安田邸の焼跡がある。川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、またこの物語りの残酷な光景が描き出されていた。五六人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。(略)映画ではジャンダークの火あぶりの刑を見たことがあるけれども、現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も五、六人と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人達は半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれた人々のようにひとことの叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!!といううめきの声が、来ただけだ。

浦辺政雄証言[5]:

(9月4日、被服廠跡)そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口ぐちに『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです。『お父さん、とてもじゃないけど見ていられない』って言って裏口から出ました。

 帰り道、三ツ目通りの角で、一人石責めにあっていました。体半分が石に埋まって死んでいるのを、『こいつ』『こいつ』って。

宮崎勝次証言[6]:

(2日朝まで被服廠に)2日に小松川まで私達ゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りてケガ人も集まりました。その夜には朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹槍を持ったり、寝ていられずそれは大変でした。その間に地震がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。
 どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまり言いたくありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』 江戸東京博物館、2000年)

斎藤静弘証言[7]:

〔略〕両国橋を渡り切った頃、〔略〕製氷会社の焼跡にまだ沢山の氷があるのを聞いた。それを頂いて出て来た所で、2人の朝鮮人が後手に縛られ、巡査に連行される後方から、朝鮮人騒ぎに興奮している弥次馬が、鉄棒で後頭部を滅多打ちにし、遂にその場に倒れたのを目撃した。ついていた巡査も手の施しようがない始末であった。
(斎藤静弘『真実を求めて――喜寿を迎えて』 私家版、1976年)

その上、朝鮮人虐殺の事実を隠蔽するため、政府は虐殺死体を焼却させ、被服廠跡などに運んで一般焼死者の死体に紛れさせてしまったとも言われている[8]。

事実と嘘を同列に扱ってはならない

小池都知事が口先だけの差別反対発言をした8日から公開されている『否定と肯定』は、ホロコースト否定論者デイビッド・アーヴィングから名誉毀損訴訟を仕掛けられたデボラ・E・リップシュタット教授の闘いを描いた映画だ。そのリップシュタット教授は最近のインタビューで次のように語っている。

関東大震災時に数千名の罪なき朝鮮人が日本人の手で虐殺されたのは紛れもない事実であり、あったかなかったかなどと議論する余地はどこにもない。事実を否定するレイシストが国際都市東京の知事を続けることなど許されない。小池は即刻辞任せよ。

[1] 清水幾多郎編 『手記・関東大震災』 新評論 1975年 P.117
[2] 西崎雅夫 『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』 現代書館 2016年 P.207
[3] 『民族の棘 ― 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』 日朝協会豊島支部 1973年 P.27-30
[4] 湊七良 『その日の江東地区』 労働運動史研究37号(1963年7月) P.32
[5] 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 『風よ 鳳仙花の花をはこべ』 教育史料出版会 1992年 P.165
[6] 西崎 P.239
[7] 西崎 P.258
[8] 姜徳相 『関東大震災』 中公新書 1975年 P.159-160

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