勝手な言葉

 ひどく自分勝手な言葉を目にしました。そのフレーズをちょっといじってみましょう。

 あと、万引きとかようするに店に迷惑かけているかどうかの問題でしょ?

 それは当事者間の問題でしょ。店の人でもない第三者が口を挟む問題ではない。

 これはさすがに(万引きする当人は)言ってはいけないことでしょう。

 あと、こいつは俺とこいつとの問題だ。

 俺が自分の女を殴ろうがどうしようが二人の問題だろ。余計な第三者が口を挟むな!

 これも、見逃すのは暴力行為の容認でさすがにできないことと思います。ただこの場合、何か介入しようとして、女性自身から「構わないで」とか言う言葉がでてきたりもするので微妙かもしれません。

 あと、タバコ吸おうがどうしようが俺の勝手だろ?

 自分の健康の問題だよな。余計な者が口を挟んでくるな。

 みたいに言われるのがいやで「見て見ぬ振り」の大人を駅舎などで見かけるときもあります。

 あと、車椅子マークのところに駐車するのは、障碍者の迷惑の問題でしょ?

 それは当事者間の問題でしょ。店の人でも障碍者の人でもない第三者が口を挟む問題ではない。

 これも私は口を挟むべきことだと判断しています。

 あと、このねえちゃんに酒を勧めて一緒に飲もうっていうのはおれの好意の問題やから。

 受けるか受けへんか二人の間の問題や。関係ないお前が口だすな。

 すごく嫌がっているように見えたならば(しかも本人がうまく断れないでいるようだったら)、これは当然周囲の誰かが口を出すべきと思います。そしてこれとかなり近いのが、

 あと、罵倒とかようするに誰かに対する礼儀の問題でしょ?


 それは当事者間の問題でしょ。第三者が口を挟む問題ではない。俺は友達のことを尊敬の念を込めて「キティガイ」と言うことがあるけど、当人が嬉しそうなら何の問題もない。

 ではないでしょうか?
 傍で見ている者が口を挟んではいけないという法は無いです。それが万一当事者間の合意があって、あるいはじゃれているだけならば口を挟んだ者が気まずい思いをするだけです。それは確かにきまりが悪く「痛い」でしょうが、見過ごしていやな思いをためるよりましではないかと思ったりもします。

「生理的に…」

 まだ私が小学校低学年ぐらいの時、母と街を歩いていてやけどで顔貌が変わってしまっている女の人とすれ違ったことがありました。通り過ぎた後で母に「あの人お面かぶってるみたいだったね」と話しかけた際、母から手ひどく叱られました。今から考えると、まだこちらの声が届くかもしれないタイミングで心無いことをしゃべってしまったものだと思います。あの方は(服装から女性と判断されました。決して年老いた方ではなかったはず)やけどの痕をそのままに普通に歩いておられました。何があったのか、どうお考えだったのかはわかりませんが、堂々とした態度を取られていたのに、お馬鹿なガキの声が聞えてしまっていたとしたら本当に申し訳ないです。
 その時自分は嫌な感じを受けたのではありませんでした。ただ「おかしな」感じを受けたことを「素直に」話しただけなのですが、そういう些細なことがもしかしたら無慈悲な攻撃になってしまっている(かもしれない)ということを学んでよかったと思います。率直さで正当化できるものではないのですから。


 少し大人になって、高校生の頃でしたか『エレファント・マン』の映画を見ました。デヴィッド・リンチが監督したモノクロ仕立ての映画です。たしかその前だったかにジョゼフ・メリックについての書籍も読んでいましたので、どういうものかは意識して見たと思います。
 メリックに対してあからさまに嫌悪の表情を見せ、酷い言葉を投げつける人びとがいるというのがとても悲しく思われたのを憶えています。


 さて、最近「生理的に受け付けない」とかいう言葉が人に向けてやたら軽く使われていると感じるんですがどうでしょう? そしてこの言葉を見聞きする時に、それについて周囲が異様に寛容なのは(そう見えるのは)どうしてなんでしょう。
 誰か人に対して「生理的に受け付けない」などという言葉を吐くのは、よほど酷い拒絶の言葉だと思います。取り付く島もない手酷い言葉です。単純に「嫌い」といえばいいような時でもこんなカゲキな言葉遣いをするのはやめるべきではないでしょうか。それは無意味に人を傷つけます。


 この言葉、聞くところによると好みではない人に言い寄られて勘違いされては困る時に使い始められたとかいう話もありますが、それだけにはとどまらない使われ方を散見します。そしてそれにしたって…と思うわけです。
 この言葉に対して私が一番嫌な感じを受けるのは、それが言い訳じみて聞えるからです。それは「生理的」なものだから仕方がない。自分の所為じゃない。嫌いという負の感情を持つ私は悪くない、なぜならそれは「生理的」なものだからとか…。さらには、そのまったく個人的な嫌悪感に他の人の同意を求めようとする人がいるのには唖然とするしかありません。
 「生理的」というのは「生得的・生まれながら」というのとは全く違います。生理的反応・感情でも後天的なものはいくらもあります。それで自分が免責されるなどという魔法の言葉ではありません。


 嫌いとはっきり言う自分。好みじゃないと拒絶する自分は見せたくないのかもしれませんが、この言葉に馴染まない者から見ると「生理的に受け付けない」などと人に向って平気で言葉を投げつける人間の方がよほど醜悪に見えるのですが…。そして何より、そういうのに鈍感になって平気な周囲ができてしまっているのがとても悲しいことに思われます。